華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

With or Without You もしくはもしくは君なしで (1987. U2)

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どうして「君がいようといまいと」と訳さないのだろう?何か訳せない理由でもあるのだろうか。初めてU2を聞いたときに歌詞カードに書いてあった「君と一緒に あるいは君なしで」という変テコな和訳を見た瞬間から、私はずっとそう思い続けてきた。"I wait/ with or without you"「僕は待つ 君と一緒に あるいは君なしで」と訳す分には、ぎこちない日本語ではあっても、それなりに意味が通っている。しかし"I can't live/ with or without you"「僕は生きられない 君と一緒に あるいは君なしで」と訳すことに、どんな意味があるのだろうか?と言うよりこの訳文はそもそも意味をなしているのだろうか?ここはどうしても「君がいようといまいと、僕は生きられない」と訳さなければならないところなのではないだろうか。誰も私に答えを教えてはくれなかったけれど、それが私のずっと感じてきた疑問だった。

しかしそれから何年も経つ中で、私にもわかるようになったことがあった。この歌は「君がいようといまいと」と訳しては、いけない歌なのだ。もしそう訳したら、これは「自分だけの歌」になってしまう。歌い手と"you"との関係を、歌い手がぶった切るための歌になってしまう。そうではない。少なくともその解釈だけは、違うのだ。

ボノは、誰か知らないけれど、この歌に歌われているその相手のことを、間違いなく大切に思っていた。でも同時に、そのことがその相手を傷つけずにはおかないことを、自覚していた。この歌を歌にすること自体が何よりもその相手を傷つけることを、ボノはわかっていてそれなのに、やっぱり歌にせずにはいられなかった。それがボノにとってはその相手を大切にするやり方だったし、それ以外のやり方でその相手を大切に扱うことを自分にはできないということを、ボノはわかっていたからだ。だからこの歌は相手のことを傷つける歌であると同時に、相手への無限の敬意が込められた歌でもある。そしてそんな風にしか関係しつづけることができないことをわかっていながら、その関係を失うことだけはしたくない、とボノは願っている。祈るようにしながら、願っている。だからこの歌は「関係性への執着」を歌った歌であり、関係性を求め続けるための歌なのだ。と言うより、関係性を求め続けることが、彼にとっては、歌なのだ。だからこの歌を訳する時には、そのことをハッキリわかるような形で、日本語に移さなければならない。私が自分勝手な聴き方しかしてこなかったから気づかなかっただけで、原詩にはそのことがハッキリ表現されていると、今では思う。

とはいえそのことは私にとって、とても難しいことだった。


U2 - With Or Without You (Live Rattle And Hum)

With Or Without You

See the stone set in your eyes
See the thorn twist in your side
I wait for you
あなたの瞳に嵌め込まれた石をごらん
あなたに絡みつくイバラの棘をごらん
わたしはあなたを待つ

Sleight of hand and twist of fate
On a bed of nails she makes me wait
And I wait, without you
卑劣なごまかしと ねじ曲げられた運命
釘の生えた寝台の上で そのひとはわたしを待たせる
そしてわたしは待つ あなたなしで

With or without you
With or without you
あなたと共に生きるのか
それともあなたなしで生きるのか

Through the storm we reach the shore
You give it all but I want more
And I'm waiting for you
嵐をくぐりぬけてあの岸辺へ
あなたがすべてをささげても
それより多くを私は求める
そしてわたしはあなたを待っている

With or without you
With or without you
I can't live
With or without you
あなたと共に それともあなたなしで
あなたと共に それともあなたなしで
わたしにはできない
あなたと共に生きることも
あなたなしで生きることも

And you give yourself away
And you give yourself away
And you give
And you give
And you give yourself away
そして あなたはすべてをさらけ出す
そして あなたはすべてをさらけ出す
そしてあなたは そしてあなたは
あなたはすべてをさらけ出す

My hands are tied
My body bruised, she's got me with
Nothing left to win
And nothing else to lose
わたしの両手は縛られ
わたしの身体はきずつけられあのひとはわたしを
自分のものにするけれどそのことによって
何をかちとるでもなく何を失うでもなく
どちらも勝利者にはなれないし
どちらが敗北者になるわけでもない

With or without you
With or without you
I can't live
With or without you
あなたと共に それともあなたなしで
あなたと共に それともあなたなしで
わたしにはできない
あなたと共に生きることも
あなたなしで生きることも

…二人称に「あなた」を選んだのは、直接にはこの歌が神とイエスの関係を寓意しているという解釈をどこかで読んだのがきっかけである。聖書の中での神とイエスとは、それもまた誰かの解釈を経て日本語にされた言葉ではあれ、互いに「あなた」という二人称で相手のことを呼び合っている。どちらかが「君」や「お前」を二人称に使えば、その関係性はその瞬間に崩壊する。今までこの歌の"you"が「あなた」という言葉として自分の耳に聞こえたことは、一度もなかった。しかし英語を自分の言葉にしている人たちは、確実にその響きを感じながら、この歌を聞いているのではないだろうか。そう思って試しに二人称を「あなた」に変えてみると、この歌はまるっきりその印象を変えてしまうことに気づいた。

とはいえ、私は神を信じた経験など一度も持たない人間である。

私は神を信じたことなど一度もない。それは事実なのだから、「そう言うしかないこと」だ。しかしカトリックの信仰を守って生きているボノたちを含め、神を信じている人たちからすれば、私にそう言われることは、「私にはあんたらの気持ちは理解できないし、理解する気持ちもない」と言われるのと同じ意味を持つ。「そうではない私は皆さんの気持ちを理解したいと思っている」と口で言うことは、私にもできる。ともすれば本気でそう思っているかのように、自分で思い込むことさえできる。しかし私が本当にその人たちの気持ちを「理解する」ことは、結論から言うなら「私自身が神を信じる人間になること」を通してしか不可能なことである。そして私自身はそのことをハッキリ「イヤだ」と思っている。

だから神を信じて生きている人たちと私(あるいは私たち)との間には、初めから「壁」が築かれている。その壁は、その人たちによって築かれたものではない。その人たちとは違う世界で生きていたいという利害を持った私自身が、自分の手で築きあげた壁なのだ。

そんな風に自ら選択した生き方として、その人たちとの間に壁を築いている私が、"With or without you"には神とイエスとの関係が寓意されているといったような「情報」をちょこっと聞きかじったぐらいで「それならこんな風に翻訳するのがふさわしい」とか何とか簡単に言えてしまう姿勢とは、何なのだろう。その人たちからしてみれば、

「あいつらの考えることなんて、こんなもんだ」

と私に言われているようにしか、思えないと思う。それはその人たちに対する最大の侮辱である。こうした「一知半解」は、翻訳において一番つつしまなければならないことだと思う。

"Strawberry Fields Forever" について書いた記事でも触れたことだが、「歌の意味を正しく知る」ということは、その歌の背景に隠された作者自身のいろんなスキャンダラスな事実について「詳しくなる」こととは違うと思う。それは歌というものをいちばん侮辱する行為だと思う。ボノ自身、この歌を作ったとき、"you give yourself away"という歌詞が何を意味しているかは、他のU2のメンバーに対してさえ決して明らかにしなかったという。それはボノにとって「知ってほしくないこと」なのだ。

しかし一方でボノは「聞いてほしいから」「わかってほしいから」この歌を作ったわけである。一度レコードになった曲が「自分のもの」でなくなってしまうことは、彼だって知っている。その意味で私たちが「自由に」扱っていいのは飽くまで"With or without you"という作品だけだし、それをどう解釈するかは完全に私たちに委ねられている。

にも関わらず英語のわからない私たちには、「誰かの解釈」を通してしかそれを「感じる」ことさえできない。だから、英語で書かれた歌詞を日本語に直そうとすること自体がそもそも無理な試みだということを承知した上で、私たちはそれを「翻訳」しようとせずにはいられないのである。そして、自分の力で翻訳することができない人たちは、「誰かの翻訳」に頼る以外、どうすることもできないのである。

かつて私はそれで、ひどい目にあった。だから、このブログを作った。そのことを踏まえるなら歌を翻訳しようとする人間にとって一番大切なのは「勝手な解釈を付け加えない」ことであり、かつその訳詞を通して歌を知ろうとする人に無限の新たな解釈を可能にするような、そういう翻訳を心がけることだろう。だから私は、それぞれの歌についてもちろん「自分の解釈」を持っているけれど、それをここで書こうとは思わない。書く必要があるのは文法的なことと、その歌の翻訳になぜその言葉を選んだかの根拠を示す説明。それだけだと思う。

日本語は、話し手が一人称と二人称にどんな言葉を選択するかによって、話し相手との関係性が決定されてしまう言語である。だから日本では、二人の人間が「同じ二人称」で相手のことを呼び合う関係性が成立するのは、極めて稀なことになる。「〇〇さん」と「XXさん」、「あんた」と「お前」、上司が部下に向かって言う「君」と、部下が上司のことを呼ぶその役職名、どんな二人称で互いを呼び合うかの時点で、互いの関係性は既に決定づけられている。同じ言葉で相手のことを呼べない世界に私たちが住んでいるということは、私たちが「対等でない世界」に生きているということである。日本語世界に生きる私たちは自分の話す言葉そのものによって、何重にもその「対等でない世界」に縛りつけられている。

その中にあって「あなた」という言葉は、性別や年齢の違いをこえて二人の日本人が「対等に」使い合うことのできる稀有な二人称である。ただし、お互いを「あなた」と呼び合う二人の人間の関係には、同時に強烈な緊張感が存在していることを、私たちは感じる。それは「対等にない世界」にあって「対等に生きようとする努力」は、緊張感に満ちたものとならざるを得ないからである。

だからこそ"With or Without You"の訳詞に使われるべき二人称は、「あなた」以外にありえないのではないかと私は思った。「君」や「お前」を選んだら、その瞬間にその緊張感は消えてしまう。「あなた」はもちろん、ぎこちない言葉である。しかし"With or Without You"に表現されているのは、日本語的に表現するならお互いが相手のことをどう呼べばいいか分からなくなってしまうような関係ー呼び捨てにすることもサンづけにすることも「不自然」になってしまうような関係ーであり、それにも関わらずその関係を失いたくないと抗う片方の人間の気持ちである。(と思う。やはり解釈になってしまうのは避けられないのだけど)。だったらやはり「あなた」しかありえない。

二人称を「あなた」にした上で、一人称には他の訳詞にも使われている「僕」を残すことができないかとも考えたのだったが、やはり「わたし」にしかならなかった。日本語を話す男は「僕」と「俺」と「私」を、相手によって必ず使い分けている。「僕」や「俺」を疑問なく使えている時点で、彼氏にとってその関係性はある意味「安定」しているのであり、しょせんは制御可能な関係性なのである。

なので私が翻訳した"With or Without You"は、「あなたとわたしの歌」になった。いずれにせよこの歌の日本語への翻訳は、二人称にどんな言葉を選択するかに全てがかかっていると言っても、過言ではないと思う。

以下は、文法的なことのみ。

See the stone set in your eyes

 自分の瞳の中の石を「見ろ」というのは、そもそも無理な相談である。最初はよほど「あなたの瞳に嵌め込まれた石」と、体言止めにしようかと思った。(包丁で指を切りそうな人に「手元!」と叫んだら、それは「手元を見ろ」ということである)。命令形を使う場合、日本語ではそこにも「関係性」が表現されてしまうというのも、そう考えた理由だった。(「見ろ」「ごらん」「見てよ」「ごらんなさい」「見てください」…命令形は絶対「対等」な言葉づかいにならないのである)。しかし自分の目の中を見るのは西洋人にとってもやはり無理な話だし、体言止めにするとここの歌詞はあまりに抽象的になる。だから「見下し」のニュアンスはどうしても残るけど、「ごらん」という言葉をここでは選んだ。

bed of nails

「針のむしろ」というよく似た言葉が日本語にもあり、それが使われている訳詞も多いけど、「針のむしろ」は他人から強制されてそこに座らされる(言わば)責め具であるのに対し、英語のbed of nailsは、昔の苦行者が自分の意志でその上に横たわったという「釘の生えた寝台」である。「針のむしろ」という訳語をbed of nails に使ったら、そこに座らされる苦しみが歌い手にとってどういう意味を持っているかということの中身が、ねじ曲げられて伝わってしまう可能性があると思う。具体的には、「針のむしろ」という言葉を使うとどうしてもボノが相手のことを非難しているような語感になるのである。しかしbed of nails という言葉を字義通りに受けとめるなら、そこに座らせたのが「彼女」であれ、ボノは飽くまで自分の意思でそこに座っているのだとも読める。だからここでは「釘の生えた寝台」と直訳した。

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Through the storm we reach the shore

直訳するなら「嵐を抜けて我々は岸辺にたどりつく」である。しかし、まだたどりついていないことは明らかだと思う。そういう場合、日本語で動詞の原型をあえて使って「たどりつく」と言うと、どうしても何らかの「決意」めいた意味合いが表現されてしまう。ここに書かれているのは、どうもそんなカッコいいことではないように思える。後に続く文を見ても二人の関係は明らかにうまく行っていないし、行きそうな見込みもない。「岸辺」にたどりつくことができたとしても、そこに何らかの「解決」が保証されている状態ではないと思う。「岸辺につけば何とかなる」のではなく、「どうにもならないかもしれないけどそれでも岸辺をめざしている」のである。だからここに「言い切り」は使えないと思った。それで、「岸辺へ」で止めた。(「手をのばす」という訳語なら使えるかもしれないが、その場合だと reach out になりそうな気がする)。

And you give yourself away
そして あなたはすべてをさらけ出す

give away=真相を明かす/正体を暴露する/馬脚を現す、などの意味だが、「正体を明かす」などと訳するのは論外だろう。最初は「あなたは私にすべてを見せる」あるいは「示す」と訳そうかと思った。しかし「私に(me)」という目的語は、原文には書かれていない。書かれていないことには書かれていないだけの、意味がある。だからこの訳語しかないと思った。

She's got me with
Nothing left to win
And nothing else to lose

この She's got meのgotが、あるサイトでは「(me)を〜の状態にする」のget だと説明されていた。この場合「彼女は私を、何もかちとれず何もうしなうことのない、そんな状態にする」という意味になる。しかしそうだとするとの箇所はshe's got me being〜という形になっていなければならない気がする。だからここではShe's got me= she has got meを、文字通り「所有する/持っている」を意味するhaveが強調された形である、口語のhave gotの意味で解釈した。しかし、そのあたりのニュアンスはネイティヴの人に確認しないと本当にわからない。もしも両方の意味で解釈できる余地があるのだとしたら、この歌は私が思っていたよりさらにスゴい歌だったということになる。

そして後の部分だが、英語では「win=勝利する=手に入れる」と「lose=敗北する=失う」が完全に「ひとつの言葉」として認識されているらしい。しかし日本語は、必ずしもそうなっていない。だからここでは、それが原則に反することを自覚した上で、同じ言葉を「2回翻訳する」形をとった。

…アルバム "The Joshua Tree"と同じくらい有名なドキュメンタリー映画"Rattles and Hum"(邦題「魂の叫び」)に収録された"With or Without You"の演奏には、おそらくアドリブで、以下の歌詞が付け加えられている。この和訳をめぐっては、特に補足すべきことはない。

We’ll shine like stars in the summer night
We’ll shine like stars in the winter light
One heart
One hope
One love
With or without you
With or without you
I can't live
With or without you
夏の夜の星のようにわたしたちは輝く
冬の明かりの中でわたしたちは星のように輝く
ひとつのこころ
ひとつの希望
ひとつの愛
あなたと共に それともあなたなしで
わたしにはできない
あなたと共に生きることも
あなたなしで生きることも

 …ブログ記事は今回で10個(?)になりました。ではまたいずれ。