華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Nothing Rhymed もしくは間違う権利 (1970. Gilbert O'sullivan) ※好きな曲ではありません

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ライミング(韻を踏むこと)は英語や中国語で詩を書く時には絶対に欠かせない要素であるらしいけど、日本文学では歴史的にそれほど重要視はされていない。575とか77とかそういう音数に関しては割とやかましいのだけど。しかし考えてみれば英語や中国語と日本語は語順が違うのだから、ライミングが発達しなかったのも当然だと言える。普通に文章を書こうとする限り、各センテンスの最後の言葉は全部「〜でした」にしかならないのである。これでは工夫のしようがない。

日本語でラップをやっている人たちなんかは、体言止めを多用するなどしていろいろ頑張っているみたいだけど、私は体言止めというものをそもそも好きになれないので (だって、キザじゃん) あんまり聞く気にならない。結局、日本語で遊ぼうと思ったら、「ないないづくし」とかオノマトペの多用とか、そういう「趣向」に頼るしかないのかもしれない。という気がしてやまない、今日このごろでございます (枝雀散歩道)。


Nothing rhymed ( with lyrics ) - Gilbert O' Sullivan

Nothing Rhymed

If I give up the seat I've been saving
To some elderly lady or man
Am I being a good boy
Am I your pride and joy
Mother please if your pleased say I am
もしもぼくが自分のとっておいた席を
誰かおばあさんやおじいさんにゆずってあげたら
ぼくはいい子かな
母さんの誇りであり喜びであるのかな
そうだって言ってよね
もしうれしいと思ってくれたなら

And if while in the course of my duty
I perform an unfortunate take
Would you punish me so, unbelievably so
Never again will I make that mistake
それでもしぼくが大切なおトイレの時間に
不幸せなことをやらかしてしまったら
やっぱりぼくを叩くのかな
信じられないぐらい叩くのかな
二度と同じ失敗をしないように

This feeling inside me could never deny me
The right to be wrong if I choose
And this pleasure I get
From say winning a bet
Is to lose
もし自分で選んだことなら
間違いをおかすことだってひとつの権利だ
心の中にあるこの気持ちは
ぼくのことを決して裏切らない
「ギャンブルに勝つことは失うことだ」って言うだろう
それはそれで幸せなことだって
それを聞いたときに思ったんだ

When I'm drinking my Bonaparte Shandy
Eating more than enough apple pies
Will I glance at my screen and see real human beings starve to death
Right in front of my eyes
食べきれないぐらいのアップルパイを頬張りながら
ボナパルト・シャンディを飲んでるその時に
ぼくの目の前のテレビの画面で本当の人間が
飢えて死んで行く姿が映し出されているのを
ちらっとでも見ることが
できるだろうか できないと思う

Nothing old, nothing new, nothing ventured
Nothing gained, nothing still-born or lost,
Nothing further than proof nothing wilder than youth
Nothing older than time, nothing sweeter than wine
Nothing physically, recklessly, hopelessly blind
Nothing I couldn't say
Nothing why 'cause today
Nothing rhymed
いいことなんてないし
悪いことだってない
冒険なしには何も手に入らないし
生まれつきの敗者もいなければ 失敗もない
証拠ほど端的なものはないし
若さほどワイルドなものはないし
時間より古くからあるものはなく
ワインよりも甘いものはなく
物理的に自棄的に絶望的に視界を奪うものは何もない
ぼくに言葉にできなかったことなんてない
何でもへちまもない
だって今日は
何も歌にならなかったんだから

 

This feeling inside me could never deny me
The right to be wrong if I choose,
And this pleasure I get
From say winning a bet
Is to lose

 

Nothing good, nothing bad, nothing ventured
Nothing gained, nothing still-born or lost,
Nothing further than proof nothing wilder than youth
Nothing older than time, nothing sweeter than wine
Nothing physically, recklessly, hopelessly blind
Nothing I couldn't say
Nothing why 'cause today
Nothing rhymed

 

つくづく、アイルランドの人ばかり取りあげているような気がするのだけれど、このギルバート・オサリバンという人の曲も、私は昔から大好きだ。しかし私はこの人が何を歌っているのかを「分かった」上でCDを聞いていたためしが、今までに一度もない。たぶん、今でも「分からないまま」聞いているのだと思う。間違った理解や勘違いだらけの思い入れで頭をいっぱいにしながら、丸っきり独りよがりな聞き方しかできていないのが、客観的に見た時の私の姿なのだと思う。

実際、この人の歌詞からそこに歌われている内容を正確に思い浮かべようとする試みに、私はことごとく失敗してきた。別の機会に取り上げることがあるかもしれないけど、恋人との別れの歌だとばかり思っていた有名な "Alone Again" は母親との死別を歌った歌だったし、恋人への愛を歌った曲だと思っていた "Clair" は3歳ぐらいの女の子と遊んでいる曲だった。(さらにこの記事を書くためにいろいろ調べている中で、"Alone Again"は结婚式の直前に婚约者に逃げられた男の歌だという私にとって完全に新しい解釈を見つけてしまい、私は現在大混乱に陥っている)。この"Nothing Rhymed"についても、例外ではない。

ちゃんと歌詞のある歌を意味もわからずに聞かされ続けているということは、ハッキリ言おう。屈辱なのである。だから私は自分が好きで聞いているにも関わらず「聞かされる」という受身の動詞をあえてここで使うのである。そしてこの人の歌の場合は何十年聞き続けたとしても、聞く人間が自ら立ち上がって調べてみようとしない限り、「正しい」ことは何んにも分からないのである。

できることなら、ちゃんといろいろ調べて確認をとった上で「正解」だと保証できるような訳詞を、ここには掲載したかった。しかしこの人の歌は英語話者の人たちにとってもやっぱり難解であるらしく、調べれば調べるほどどんな解釈が「正しい」のかは、わけが分からなくなってくるばかりだった。こうなったらもう、見切り発車で行くしかない。まずはこの曲からである。付き合って頂きたい。

=翻訳について=

Mother please if your pleased say I am

中学生の頃にどうしても分からなかった箇所だが、年と共にクレバーになったので今では分かる。pleaseの後とpleasedの後にコンマを入れれば良かっただけの話だったのである。この方法を覚えると、口語で書かれたいろんな歌詞の解読に応用できる。もし中学生が読んでいたら、覚えておいてほしい。

in the course of my duty

ほとんどの洋楽和訳サイトがこの箇所を「教会のお祈りの時間」あるいは「儀式」のことだと解釈しているけれど、本当にそうなのだろうかと思っていた。それならもっと具体的な書き方をすると思うし、第一「教会」をイメージさせるような単語はどこにも出てこない。それで調べてみたら、duty (義務) という単語には口語で「子どもの便通/ 排便」という意味があることが分かった。これしかないと思った。これなら後段の "perform an unfortunate take" (不幸な試みを演じる) という不自然きわまる言葉遣いにも、説明がつくというものだ。

This feeling inside me could never deny me
The right to be wrong if I choose

この歌をここで取り上げた最大の理由が、この箇所である。初めてこの歌を聞いた時、"The right to be wrong" という言葉は「間違いをおかす権利」という日本語としてズキュウウンと私の胸に突き刺さった。ああ。まだ思春期だったさ。そんな権利がこの世界にはあったのだという新鮮な驚きは、その後の私の人生を大きく変えたと言っても過言ではない。それでいろいろ大変な思いもしたけれど、この歌詞を信じて生きてきたことに悔いはない。そう思いたい。

ところが世の中にインターネットというものが普及して、洋楽の和訳を専門にしているようなサイトがぼちぼち出始めた頃、私が調べてみたらどのサイトでもこの部分が「僕が選ぶと、正しいことも間違いになってしまう」と訳されていたのである。そんな話が、あるだろうか。

結論から言って、文法的な見地だけからだと、どちらの解釈が「正しい」のかを判断するのは、難しいらしい。これまでに紹介してきたいろんな歌と同じく、韻を踏むためにあえてメチャメチャな文法を使っているのが、この歌の中では特にこの部分であるらしいからである。しかしそんな風に言われてしまうと、1人の中学生の生き方に根本的な影響を及ぼしてしまうような箇所でそんな言葉遊びは慎んでくれないかと、心から思ってしまう。

残された方法は英語話者の人たちに、「あなたにはどう聞こえましたか」とアンケートをとって回ることぐらいである。私と同じように「間違う権利」という意味で聞いていたネイティヴが1人でもいたなら、私の青春は少なくとも喜劇ではなかったと言えるだろう。実際に、やってみた。しかし、なかなかうまく行かない。誰もストレートに答えてくれないのである。「この歌詞はそもそも韻を踏むためのものだから…」とか何とか「説明」したがる人ばっかり現れる。あんたらにとって韻ってそんなに大切なものなのかよと、地団駄踏みたくなってくる。そういうことではなく、「私もこの歌のメッセージに魂を撃ち抜かれた」という感想を語ってくれる人が1人ぐらい現れないものなのだろうか。海外のサイトを見てもこの歌の「歌詞の美しさ」を語った文章はゴマンとあるが、歌詞の内容に触れた文章はほとんど見つからないのである。

そんなわけで10代の私の胸を震わせた「間違いをおかす権利」という歌詞が「華氏65度の冬」だったのかそれとも私の胸にだけ届いた真実の言葉だったのか、ここで結論を出すことは今のところ、保留にせざるを得ない。多くの人の意見や感想をお待ちしています。

…ちなみに前段の "This feeling inside me could never deny me" という箇所。ここはここで解釈が難しい。初めて聞いた時の私の理解は「ぼくは自分の中にこの感情があることを否定できない」というものだったが、それなら"I could never deny this feeling"と語順が逆になるはずである。だから一旦は捨てた解釈だったのだけど、これぐらい文法的に怪しい歌詞だということを強調されてみると、この最初の解釈も「ありうる」のではないかという気がしてきてしまう。分からないのは"This feeling (この感覚)"という言葉が何をさしているかである。私の最初の理解なら、文句なく「人間には間違いをおかす権利もあるという感覚」である。しかしそうでないというのなら、「僕が選ぶと、正しいことも間違いになってしまうという感覚」になるのだろうか。それが "could never deny me (僕のことを否定しない)" となると、どういう意味になるのだろう。私の試訳もまだ、多くの面で曖昧さを残したものになっている。

And this pleasure I get
From say winning a bet
Is to lose

ここがまた難しいのである。多くのサイトがここで「悪銭身につかず」という日本のことわざを援用した意訳を行なっている。しかしオサリバン氏はこの言葉から"this pleasure (この楽しみ/喜び)" を見出したと語っているのである。

"this pleasure"とは何なのだろうか。私はやはり「人間には間違う権利もあるという信念を心の中で密かに抱き続けていること」が「楽しいこと」なのだと言っているようにしか思えない。またこの歌詞は私の解釈を裏付けてくれているようにも思える。「僕が選ぶと、正しいことも間違いになってしまうという感覚」なんて、pleasure であるわけがないと思うもの。

"With or without you" の「針のむしろ」のところでも書いたけれど、日本語で同じような表現があるからといっていつでもそれを使うことが歌詞の意味を「正しく」伝えることになるとは限らないし、むしろ原詩の意味を大きくねじ曲げてしまうことが、往々にしてある。だから "winning a bet is to lose"は「ギャンブルに勝つことは失うことだ」と直訳した。その上で他の歌詞との整合性を考えて上記のような訳詞にしたのだけれど、この部分は私がブログを始めてから今までの中で最大の「意訳」になっているかもしれない。とまれ、大目に見てほしいと思う。思い入れが強いから、こうなってしまうのである。もしその思い入れを粉砕してくれるような批判者があらわれたら、私は喜んで自説を撤回したい。心から、そう思っている。

Bonaparte Shandy

こういうことは、調べるとすぐ分かる。オサリバン氏は当初この部分で高級ブランデーのナポレオン・カミュを登場させたかったのだけど、それだと商標登録の問題とかでややこしいことになるので、それっぽい名前の架空の飲み物をでっち上げたのがこの「ボナパルト・シャンディ」なのだそうである。シャンディとはラガービールをレモンライムソーダで割ったものだそうで、何となく「名前負け」しているような安っぽさが、この造語の「面白さ」でもあるらしい。面白くねーよ。

 Will I glance at my screen and see real 

黙殺している和訳サイトもあるのだけれど、この部分は疑問文になっている。妙なところに疑問文を使う人である。自分が自分の意思でやることなのに、誰に確認をとっているのだろう。だから試訳も、漢文の現代語訳みたいな妙な日本語になった。私のせいではない。

nothing ventured, nothing gained,

nothing still-born or lost

上段は日本語的には「虎穴に入らずんば虎子を得ず」に相当することわざ。しかし例によって直訳した。still-bornは「死産児」というドキッとするような単語で、loseは「負ける」の他に「道に迷う/迷子になる」という意味もある。ギルバート・オサリバンがこの部分を作詞する時にどんなイメージがその頭にあったかは想像するしかないが、ここではかなり意訳した。文字通り「死産児」という意味でstill-bornが使われているのなら、言葉遊びで使っていいような言葉だとは思わないし、まして放送に乗せるなんて以ての外だと思う。

physically, recklessly, hopelessly blind

 blindは「視覚障害者」に対する、明らかな差別語である。原文に差別語が使われているのだから、どう訳したってそれは差別的な翻訳になる。原文の差別性を覆い隠すような翻訳を試みるなら、その態度自体が何より差別的なものだと思う。この一語が入っているから、私がこの歌を口ずさむことは、今ではもうない。本来ならこの曲をこうした形でブログに取り上げること自体、やるべきではないことなのではないかとも考えた。「間違いをおかす権利」という歌詞への解釈が正しいのか間違っているのかだけは確認しておきたかったので最終的に掲載したが、既にこの歌は私の好きな歌ではない。しかもこの差別語をこの部分に使ったのが「韻を踏むため」だけだったのだとしたら、なおさら許しがたいことだと思う。

Nothing why 'cause today
Nothing rhymed

"Nothing rhymed"は正確には「何も韻文として成立しなかった」という意味になるのだろうが、冒頭に書いた通り「韻」というものへの感じ方は日本人と西洋人とでは、違う。だから「何も歌にならなかった」と意訳した。"Nothing why"では「何でもへちまもない」とついにヘチマを登場させてしまった。他の部分がどんなに良くても、差別語が1ヶ所出てくると、本当に全てがどうでもいい作品にしか思えなくなってしまう。

…ブログの第一回目で宣言した通り、このブログは自分が出会ってきたいろいろな音楽と向き合い直し、そこに私自身がくっつけてきたいろんな間違った解釈や思い入れを洗い直すことを通して「青春に決着をつける」ために始めたものである。その意味では極めて個人的なブログなのであって、ただ純粋に歌の意味が知りたくて訪ねて来てくださった皆さんに対しては、そうした私の怨念めいた気持ちにまで付き合わせる形になってしまい、申し訳なさも感じている。ただ私には、今までの人生で自分が何に感動し何を信じて生きてきたかということを振り返るに際し、この歌のように今ではもう好きでなくなってしまった歌に対しても「ハッキリさせておきたいこと」はまだ山のように残っている。だから今回のように「後味の悪い気持ち」で文章を締めくくらねばならないケースは、これからも起こるのだと思う。つきあい続けてくれる方が1人でもいたなら、私はそれで幸いです。ではまたいずれ。