華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Minnie the Moocher もしくはオリオンへの道 (1931. Cab Calloway)


「りんだまどぅだまだ」と「おぶらでぃおぶらだ」を続けざまに取りあげた余波と言うべきか。頭の中がすっかりスキャットづいてしまっている。それで、あの歌を取りあげてみたくなった。映画「ブルース・ブラザーズ」のあのシーンで、あの人が歌っていたあの歌だ。

…今回の記事を書き始める前には本当にそれだけの情報しか私の中にはなかったのに、ネットで調べたらそれだけの情報であの人もあの歌も特定できた。キャブ・キャロウェイという人の、ミニー・ザ・ムーチャーという曲だった。えらい時代になったものだ。そして私は数分前には名前も知らなかったその人の歌について今からいろんなことを書こうとしてるのだけど、いいのだろうか。そんなことで。

とはいえ「曲は知ってるけど名前は知らなかった」というのは割とよくある話だし、そういうのをいっこいっこ確定させてゆくのも「青春に決着をつける作業」の重要な一環であると思う。実際、名前は知らなかったけど、私はこの歌を何べん聞いたか分からないくらい聞いている。ブルースブラザーズのサントラを、カセットテープで持っていたからである。人からダビングしてもらったやつで、曲名も何も書いていなかったけど、当時の私はどれほど歌詞を知りたかったか分からない。そしてこの歌には「因縁」があるのである。知らなかった人は聞いてみてほしい。こんな歌だ。

CAB CALLOWAY - Minnie the moocher (The Blues Brothers 1980)

…聞いていただいた上で今回のテーマは、「スキャットに誤訳はあるのだろうか」という話である。「誤植」ではない。「誤訳」である。

むかし真島昌利という人がブルーハーツにいた時分に出したソロアルバム「人にはそれぞれ事情がある」に入っていた「Mr.スピード」という曲の中で (…何で私にはこういう読みにくい文章しか書けないのだろう) この曲のコール&レスポンスがそのまま再現されている部分があった。「おれおれおー!(おれおれおー!)」で曲が始まった時には、ああマーシーもあの映画のあの歌が好きだったんだなと、私は素直にうれしくなった。

ところが次の瞬間、マーシー「ハラヒレホー!」と叫んだのである。

私は「…えっ?」と思った。

その「…えっ?」の中味をどう表現すればいいのだろうと、今までずっと思ってきた。思ってきたのにしなかったのは、単にする機会がなかったからにすぎない。先月ブログを始めたことで、期せずして私にはその機会ができたわけだ。だから、してみようと思う。

私にはある意味、マーシー「ハイディ・ハイディ・ホー」「ハラヒレホー」と「訳」したくなった気持ちは、すごくよく分かったのである。分かった上で、しかしそれは「越えてはならない一線を越えてしまう行為」なのではないか、と感じたのだ。

「おれおれおー」に関しては、何も問題は感じなかった。そりゃ、確かにナビスコのラベルがちょっと頭にちらつく感じはする。しかし「確かにそういう風にも聞こえるな」で済まされる話である。しかし「ハラヒレホー」は看過できない。なぜなら「ハラヒレホー」という言葉には「意味」があるからだ。

今にして思えば私はあの時、マーシーの「ハラヒレホー」に「誤訳」を感じていたのだと思う。

「空耳」とか「替え歌」として「ハラヒレホー」を採用する分には、許される話だと思うのだ。しかしマーシーの「ハラヒレホー」は、それとは明らかに違っていた。キャブ・キャロウェイスキャットを日本語的に表現するなら「さしづめ」ハラヒレホーだろう、という意図が見てとれた。この「さしづめ」が問題なのだ。

ここで改めて、根本的な問いを発しなければならない。「ハラヒレホー」という言葉に、果たして「意味」はあるのだろうか?

私は、あると思う。

「ハラヒレホー」の「原型」というべきフレーズは、植木等ハナ肇といった人達が世に送り出した「ハラホロヒレハレ」という「言葉」であると判断してまず間違いはないだろう。この人達は、ジャズマンだった。だから、ジャズのスキャットと同じように「意味のない言葉」を作り出したくて、「ハラホロヒレハレ」という言葉を「考案」したのだと思う。しかし言葉というものは、いったん音声として世界に送り出されると、「作った人間」の手には二度と戻ってこないものなのである。

「作った人」の手を離れて、「ハラホロヒレハレ」は使われれば使われるほどに、「意味」を獲得していった。具体的には、「ハラホロヒレハレ」は「あきれた場面」では使われるが、「驚いた場面」では使われない。これだけでも充分、意味を持った言葉だと言える。そして現在では、植木等ハナ肇の顔も知らない若い世代の人たちの間でも、立派に「日本語」として通用する言葉になっている。

そして同じように考えるなら、「英語」の "Hi-dee hi-dee hi" という「言葉」にも、やはり具体的な「意味と歴史」が存在していると考えるのが当然なのである。われわれ日本語話者は、"Hi-dee hi-dee hi" がアメリカのどんな人たちにどんな場面で使われてきた言葉なのかということを、果たしてどれだけ知っているだろうか?映画で一回見ただけというのがせいぜいなのではないだろうか?

それなのに「同じ意味のない言葉」なのだから「さしづめ」ハラヒレホーだろう、という感覚で「訳語」を選択してしまえる態度に、私はものすごく危なっかしいものを感じてしまうのである。それで相手のことを「分かったつもり」になってしまったら、むしろそのために永遠に「勘違いしたまま」になってしまうのではないだろうか。

…真島さん私はあなたが好きだからこういう話をするのです。言えずに溜め込んでいる間に少年から中年になってしまいましたが。

言葉を翻訳しようとすること自体が間違いだというようなことを言っているわけでは、ない。dogを犬と翻訳することは間違いではないし、United States Atlantic Fleet Carrier Strike Group 9 をアメリカ大西洋艦隊第9空母打撃群と翻訳しても何も誤解は起こらない。どちらも「かたち」をそなえたもので、お互いがお互いの目で見て「ああ、これのことを言ってるのか。同じだ」と確認することができるからである。しかし「ハラホロヒレハレ」も"Hi-dee hi-dee hi"も、明らかに「かたちのないもの」だ。「かたちのないもの」をどうしてそんな風に簡単に「同じだ」と断言することが、できるのだろうか。

…だったらLOVEはどうなるのだ、という疑問が頭に浮かんだ人がいると思う。いい質問だ。でもそれは別の機会にさせてもらいたい。

とりあえず「うたを翻訳すること」をテーマにしているこのブログの立場としてこだわりたいのは、「意味がないように見える言葉」だからといってテキトーに扱うことはしない、ということである。スキャットにも誤訳はありうるし、むしろスキャットだからこそ、そこに込められた「意味」と真面目に向き合わねばならないのだと思う。そこにはそれこそ、「言葉にならない思い」がいっぱい詰まっているからだ。そしてそんな風に「スキャットに込められた心」までをも自分の言語で再現することは、ある意味で「歌を翻訳すること」の究極形態なのではないかと思う。

…それで "Minnie the Moocher" なのだけど、歌詞を読んで訳してみたら、こんな歌だった。

Cab Calloway - Minnie the Moocher

Minnie the Moocher

Folks, here's a story 'bout Minnie the Moocher
She was a red-hot hoochie-coocher
She was the roughest, toughest frail
But Minnie had a heart as big as a whale

みなさん これはミニー・ザ・ムーチャーの物語
彼女は真っ赤に熟れたフーチー・クーチャーだった
がさつでタフな女だったけど
クジラみたいに大きな心を持っていた

Hi-dee hi-dee hi-dee hi (hi-dee hi-dee hi-dee hi)
Whoa-a-a-a-ah (whoa-a-a-a-ah)
Hee-dee-hee-dee-hee-dee-hee (hee-dee-hee-dee-hee-dee-hee)
He-e-e-e-e-e-e-y (he-e-e-e-e-e-e-y)

ハイディ ハイディ ハイディ ハイ!
うぉおおおおあっ!
ヒーディ ヒーディ ヒーディヒィ!
へぇえええええい!

She messed around with a bloke named Smokey
She loved him though was cokey
He took her down to Chinatown
And he showed her how to kick the gong around

ミニーはスモーキーという男に夢中になった
愛していたけどそいつはコカイン中毒だった
スモーキーはミニーをチャイナタウンに連れて行って
「ゴングの蹴飛ばし方」を教えてやった

Hi-dee hi-dee hi-dee hi (hi-dee hi-dee hi-dee hi)
Whoa-a-a-a-ah (whoa-a-a-a-ah)
He-e-e-e-e-e-e-y (he-e-e-e-e-e-e-y)
Oh-oh-oh-oh (oh-oh-oh-oh)

She had a dream about the King of Sweden
He gave her things that she was needin'
He gave her a home built of gold and steel
A diamond car with a p-la-ti-num wheel

ミニーはスウェーデンの王様の夢を見た
王様はミニーがほしいものを何でもくれるのだった
金と鋼鉄でできた家も
プラチナのタイヤがついたダイヤモンドの車も

Hi-dee hi-dee hi-dee hi (hi-dee hi-dee hi-dee hi)
Ho-dee-ho-dee-ho-dee ho (ho-dee-ho-dee-ho-dee ho)
Skip-de-diddly-skip-de-diddly-diddly-oh (skip-de-diddly-skip-de-diddly-diddly-oh)
Bour'rrigy-bour'rrigy-bour'rrigy-oh (bour'rrigy-bour'rrigy-bour'rrigy-oh)


He gave her his townhouse and his racing horses
Each meal she ate was a dozen courses
She had a million dollars worth of nickels and dimes
She sat around and counted them all a million times

王様はミニーに街の別荘と自分の競走馬をくれた
出てくる食事は毎回1ダースのコース料理
彼女には100万ドル分の小銭があって
座り込んではそれを10億回も数えるのだった

Hi-dee hi-dee hi-dee hi (hi-dee hi-dee hi-dee hi)
Whoa-a-a-a-ah (whoa-a-a-a-ah)
He-e-e-e-e-e-e-y (he-e-e-e-e-e-e-y)
Whoa-a-a-a-ah (whoa-a-a-a-ah)


Poor Min, poor Min, poor Min
かわいそうなミン かわいそうなミン かわいそうなミン!

…こんなに重たい内容の歌だとは思わなかった。歌詞には1920年代のスラングが至るところに使われていて、とてもそのままには訳せない。とりわけカタカナで表記したところにはミニーさんの仕事や生き方をあからさまにさげすむような言葉が使われていて、原詞を転載すること自体もためらわれた。しかしこういう歌の場合、同じ境遇にある人同士が慰めあったり励ましあったりするためにそういう言葉が使われているケースもあるわけで、インテリの歌手が韻を踏むために差別語を振り回したりするのとは、わけが違う。こんな歌だと知った以上、私にはもう面白半分に口ずさんだりはできないけれど、歌そのものは厳粛に聞かねばならない。そんな気持ちにさせられた。

あえて「説明」する必要があるのは、「ゴング(銅鑼)を蹴る」というのは「アヘンを吸う」という意味のスラングだったということだろうか。3番以降の歌詞はすべて、ミニーさんがアヘンを吸った幻覚の中で見ている「夢」なのである。そして夢の中でミニーさんは大金持ちなのに、お札や金貨なんて見たことがないから、目の前にあるのは全部「小銭」なのである。本当に悲しい歌詞だと思う。「クジラみたいに大きな心」という素朴な比喩にも、それだけでじわっとさせられるものがある。

なぜか「嫌われ松子の一生」という映画を思い出してしまった。そういえばあの映画の主題歌を歌っていた人は、ボニーさんと言ったのだったな。


BONNIE PINK - LOVE IS BUBBLE


最後に「オリオンへの道」について。これはヒートウェイヴの「1995」というアルバムに入っている曲の名前なのだけど、"Minnie the Moocher" のスキャットが「オリオリオリオン」と聞こえていた私の中では、ずっとそれが"Minnie the Moocher" の「仮名」になっていた。今回その動画を紹介しようと思っていたけど見つからなかったので、Amazonのリンクを貼っておきます。いい曲なのでぜひ聞いてみてほしいです。ではまたいずれ。

1995

1995