華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Give Me Up もしくは きみは (1986. Michael Fortunati)

1987年、ということは小学校3年の時だ。BaBeというものすごく派手な振り付けで踊る二人組のお姉さんたちが歌っていたこの歌の日本語カバーをダイエーの2階の文房具売り場で初めて聞いて、何と言うか、ハッとさせられたことがある。

「きみは!」と聞こえたのである。

「なんやのん?」と私は思った。

自分のことを言われているような気がしたのだ。

しかし歌はそれに答えてくれず、「をーをををー」という原初の祈りのようなコーラスが後に続いて、もういっぺん「きみは!」と言われた。

「せやから、なんやのん?」と思った。

「なんやねん」ではなく「なんやのん」である。この使い分けは、他地域のみなさんにも覚えて帰ってほしい。

けれども答えはやっぱり「をーをををー」だった。

際限なく繰り返される「きみは!」を聞いているうちに、私は言いようもなくせつない気持ちになってきた。どうしてこの歌を歌っている人は「きみは!」の続きを言葉にすることができないのか。それは「きみ」に対するその人の気持ちが強すぎるからなんだということが、歌のメッセージとして「伝わってきた」ような気がしたのである。

「きみは!」とこれだけ絶叫しているからには、歌い手の人にはその「きみ」に対して伝えたいことがきっと山ほどあるはずなのだ。ところがそれが言葉にならないのである。「私にとってのすべて」みたいな言葉で済ませてしまえるなら簡単だし、間違いにもならないのだろうが、そんな抽象的/一般的な言葉で済ませることができないくらいに「きみ」の存在は具体的で、瞬間ごとに変化するいろんな色彩や手触りや匂いにあふれていて、その人から受け取ってきた言葉のひとつひとつがまたいちいちかけがえのないもので、どんな小さな思い出も切り捨てることができないくらいいとおしくてたまらないから、「きみ」の存在を一言で要約することなんてできるわけがなく、結果、言葉にならないのである。言葉にできるのは「きみは」という、歌い手の人にとっての「テーマ」だけだ。けれどもその後にあえてどんな言葉も続けないことを通して、「それが自分のテーマなのだという事実」だけは、「きみ」に伝えることが可能になるのである。

…当時小学生だった私にそんなややこしい言葉でモノを考えることができたはずはなく、あくまでオトナになった今の私の言葉に翻訳しての話ではあるけれど、その時の私はそんな風に感じ、「せつなく」なったのだった。そしてそのせつなさの中身を自分の言葉で説明することができないものだから、当時の私は余計にせつなく感じて、文房具売り場に立ちつくす以外になかったのだった。

最後の「きみは!」が叫ばれて唐突に歌が終わった時、私の中の「なんやのん?」は「自分の存在って、なんやのん?」という巨大な問いにまで、膨れあがっていた。今週のはてなブログの「特別お題」は「『選択』と『年齢』」なのだという話だけど、私が現在のように「言葉」というものに深入りしてゆく生き方を選択することになったきっかけは、小学校3年のこの時の体験だったと、言って言えないことはない。「感じる」ことに言葉は不要だけれど、ひとたび「考える」ことを始めてしまったら、人間は一生「言葉」から逃げることができないのである。

ところで「選択」という言葉にはあたかも「自分の意志で決めたこと」といったようなホコらしげな語感がついて回るけど、そこにはウソがあるといつも私は感じている。「選択」というのは誰にとっても周りの状況から「強いられる」ものであるにすぎず、そこに一切「自由」は存在しない。周りからの強制に屈服して、それを受け入れたというだけのことを、「自分の自由意志で選択した」と思い込んだり、あるいはそう思うことで現実と折り合いをつけようとしている人の姿ほど、見ていてカタハらイタくなるものはない。「探す」という言葉にはまだ自由があると言えるだろうが、「選ぶ」という言葉のどこに自由があるだろう。「選択肢」として自分の前に突きつけられるものはいつも、「他の誰かがすでに完成させてしまったもの」にすぎないのである。そして「選ぶ」という行為を「受け入れた」その瞬間に、人はそれまで何となく属していることのできた大きな「全体」から切り離されて、限りなく小さなその「一部分」としてしか、生きることができなくなってしまうのだ。

その意味で言うなら「自由」というものは、私が初めて聞いた時のこの歌の印象のように、「きみは!」とだけ言ってその後にどんな言葉も続けないことが許容されている、そうした状態の中にしか存在しないものなのではないか、という気がする。「きみは」恋人、「きみは」ともだち、「きみは」他人、「きみは」敵…「きみは」の後にどんな述語を「選択」しても、「きみ」の存在はたちまちちっぽけで散文的なものに変わってしまい、その「かけがえのなさ」は失われてしまうことになる。「きみ」が自分にとって大切な存在であればあるほど、そうした言葉で「きみ」のことを定義の対象にすることは、「きみ」に対する最大の冒瀆であるように感じられることだろう。「きみは」の後に続くのが最上級のホメ言葉であったとしても、それはやはり、冒瀆である。無限の存在を無理やり有限な言葉に切り縮めようとしているのだから、どうしようもなくそれは冒瀆である。そして他者の存在をそんな風に冒瀆するということは、実は自分の存在を冒瀆するということと同じ行為なのである。他者も自分も引っくるめて存在しているのが「人間」というひとつの「全体性」だからである。それにも関わらず我々は日々の暮らしの中でどんな言葉を発するかを「選択」するたびごとに、自分のことも相手のこともそうやって冒瀆する行為を繰り返し、それに慣れるしかなくなってしまっている。言葉というのが本質的に「むなしい」ものだということは、そんな風に考えてみれば、当たり前のことなのだ。

けれども「きみは」で言葉を止めてしまっている限り、「きみ」と自分との間にはどんな関係も作り出すことができない。それはどうしようもなく、「せつない」ことである。だから我々は現実の生活の中では、それがどんなに「むなしい」ことであるかを承知した上で、「きみは」の後に続く述語を「選択」する他にない。自由はせつなく、選択はむなしい。人生のよろこびや楽しさや幸せというものは、そうしたせつなさとむなしさの合間合間に瞬間的にしか成立しないものなのではないかという気が、私はしている。ただ、それはそんなに「不幸」なことではないはずだとも、一方では、思っている。

しかしこのブログのテーマからして、そんなことは全然大切な問題ではない。

重要なのは私がずーっと「きみは」だと思っていたBaBeの歌のサビの歌詞は、実は「Give me up」という英語だった、ということである。「きみは」もへったくれもありゃしない話だったのだ。最初から。

…歌に関するこうした悲しい勘違いを、当ブログでは「華氏65度の冬」という名前で呼んでおり、そうした勘違いの中身を検証することを通して、私自身はもとより世の中のすべての皆さんの青春に「決着」をつけて行こうというのが、このブログの一貫したテーマです。興味を持って下さった皆さんにおかれましては、第1回目の記事から順番に読み直してみて頂ければ、幸いに存じます。

「きみは」が実は「give me up」だったのだと言われてみても、それで「なるほど」と思うことは、私には、できなかった。「give me up」なんて言葉は、それまでに一度も聞いたことがなかったからである。

「ギブミー」は、わかる。「アップ」もまあ、何となくなら、わかる。でもそれが組み合わさったら、一体どういう意味になるのだろう。「私にアップを下さい」? とりあえずそういう風にしか解釈できない気がするけど、どういう意味なのだろう。「私を高いところに引きあげてほしい」とか、「元気づけてほしい」とか、そういう意味なのだろうか。長いこと私は、そんな風に考え続けていた。BaBeのお姉さんたちも、「アップ」のところで思い切り片手を天に突きあげていたではないか。

「ギブアップ」という聞きなれた言葉に「ミー」が挟まれているのだから、「give me up」は「私をあきらめてください」という意味ではないのだろうかということにようやく私が気づいたのは、オトナになってさらに10年以上もの時間が流れてからのことだった。

そのことに気づいたら気づいたで、なおさら私にはわけが分からなくなった。元気いっぱいのこの歌が実は「私をあきらめてください」という歌だったと言われても、どこをどう聞けばそういう風に聞こえるのか、まったく理解することができなかったからである。ここで改めてBaBeの歌を聞きながら、もういちど歌詞をよく読み込んでみることにしよう。


BaBe Give Me Up

Give me up!woo woo woo woo
Give me up!woo woo woo

もっとシッカリしてよ
ロマンティックへ 逃げ込まないで
もしHeart Breakしても
情けない瞳で 甘えちゃだめよ

君が強くなくちゃ私
キュートな娘になれないでしょ?
「意気地なし」を直さないと
ハート蹴とばしちゃうぞ

Give me up!woo woo woo woo
Give me up!woo woo woo
Give me up!woo woo woo woo
Give me up!woo woo woo

もっとハッキリしてよ
私 フレンド? 恋人? どっち?
また哀愁してさ
すぐに抱きしめなきゃ 消えちゃうぞ

ラグビーボール抱え走る
君は輝いて見えるわ
そんな時の 熱い瞳
忘れないで 恋して

Give me up!woo woo woo woo
Give me up!woo woo woo…



…やっぱりどこをどう聞いても、「私をあきらめてください」という歌には聞こえない。どう考えても、幸せいっぱいの恋する少女の歌である。唯一「私をあきらめてください」の「気配」を感じさせる言葉は、「消えちゃうぞ」というさりげない二番の歌詞だけだ。だとすれば、思いつく仮説はひとつしかない。

この歌詞の主人公の女の子は、病気か何かで自分に残された人生がもはや長くはないことを、悟っているのである。でも自分の好きな人には絶対そのことを気づかせたくないから、思いきり元気に振る舞ってみせているだけなのである。そして「give me up」というのは実際には絶対に口に出されることがない、その女の子の心の中でだけ、叫ばれている言葉なのである。

…そんな風に考えてみるとこれはこれで、せつなくなってくる。「きみは!」を初めて聞いた時のせつなさに、勝るとも劣らないせつなさである。これから私はこの歌をそういう歌だったのだと思うことに決めた。誰が何と言おうとこの歌はそういう歌だったのだ。最初から。

BaBeの二階堂さんと近藤さんがもし今後インタビューか何かでこの曲の歌詞について聞かれることがあったとして、「当時は別に深く考えずに歌ってました」なんて答えだけは、間違っても口にしないでほしいと思う。ウソでもいいから「余生の短さを知りながら健気に振る舞う女の子の気持ちになりきって、私たちはいつも涙をこらえながら元気いっぱい踊ってました」的なコメントを聞いてみたいものだと思う。その時のためにBaBeのお二人があらかじめこのブログを読んでおいてくれたら、いろんなことがうまく行きそうな気がするのだけど、どんなもんだろうか。

BaBeの前年に出されたこの歌の英語の原曲は、今回はじめて聞いたのだけど、極めてしょーもない曲だった。歌っていたのはイタリア出身のマイケル・フォーチュナティという人らしいけど、英語版のWikipediaにはその名前すら載っていない。Give me upという曲に関しては、しっかりした記事が書かれているのだけどね。日本とフランス以外では完全に忘れ去られた歌手になっているみたいである。わざわざ英語で歌っているのに。名前まで「フォーチュナティ」と縁起が良さそうな英語名に改名してたのに。そう考えるとこのイタリア人のお兄さんのことがとても不憫に思えてきたので、最後にこの人が歌っていた原曲の翻訳も、あわせて掲載しておくことにしたい。もともとこのブログは、それがメインテーマなのである。ではまたいずれ。


Michael Fortunati - Give Me Up (audio remastered by italoco)

Give me up!

Is it the first time in your life
Or is it just another one-night stand
Do you wanna make a fool of me
Just like you do it to all those other guys

これってきみの人生で初めてのことなのかい。
それとも一夜限りのお遊びなのかい。
ぼくのことを笑い者にしたいだけなんじゃないのか。
きみが他の男たちみんなにやってきたのと同じように。


Now I'm leading your life on my own on these days
And I don't want to mess with no woman
Get me out on your skin
No, that's hard. I can see
But you're back to save your love, but you can't

ここ何日かぼくはきみと寝起きを共にしてきたけど
これ以上どんな女ともゴタゴタを起こす気にはなれない。
きみの肌で楽しむってだけの関係にさせてほしい。
簡単なことじゃない。それはわかってる。
でもきみが自分の愛のためにぼくのところに戻ってこようとしても
それは無理な話だね。


Give me up, oh, give me up
Oh, give me up, oh, give me up

ぼくのことはあきらめてくれないか。
ぼくのことはあきらめてくれないか。


You got this on your mind
For love isn't sin, I just don't have no time
I'm telling you again and again
You'd better stop this playing on my mind

おぼえておいてほしい。
愛は罪じゃない。ただぼくには時間がないんだ。
なんべんも言ってきただろう。
ぼくの心をおもちゃにするのはやめてくれないか。


Take an intermit stand cause you don't have a clue
Now I'm reading off time before you
Shout it out on the roof as you must understand
I got somebody else on my mind

ひと休みした方がいいんじゃないか。
考えるヒントも見つからないみたいだから。
屋根を突き抜けるような大声で
きみがいつ叫び出すことになるか
ぼくにはだいたいわかる。
きみは理解しなくちゃならない。
ぼくの心には他の人がいるんだ。


Give me up...
ぼくのことはあきらめてくれないか…

  • make a fool of 〜(〜を笑い者にする) の foolは、「精神病者」に対する明らかな差別表現です。ここでは批判を込めて原文をそのまま転載しました。
  • lead 〜’s life :〜と寝起きを共にする。
  • Get me out on your skin:get out on the townが「街に遊びに出掛ける」という意味なので、こういう意味なのだろうと推測しました。
  • 二番の歌詞の後半の翻訳は、全体的にあまり自信が持てません。「意訳」になっています。

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特別お題「『選択』と『年齢』」

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