華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

With A Little Help From My Friendsもしくは いん·めもりぃ·おゔ·じょん·べるーし (1969. Joe Cocker)



どうしてリンゴの、と言うかビートルズの曲として紹介しないんだと思われる方がいるかもしれないが、それはブルースブラザーズ特集を終えるにあたって私なりのやり方でジョン・ベルーシを追悼したいという気持ちがあるからである。ジョン・ベルーシという人は、ジョー・コッカーのモノマネがめちゃめちゃ上手かったのだ。


With A Little Help Of My Friends Joe Cocker

With A Little Help From My Friends

What would you think if I sang out of tune
Would you stand up and walk out on me?
Lend me your ears and I'll sing you a song
And I'll try not to sing out of key

ぼくが調子っぱずれに歌いはじめたら
きみはどうするのかな。
立ちあがってぼくのいないところに
歩いて行っちゃうのかな。
きみに歌ってあげたいから
耳を貸してほしい。
できるだけ音を外さないように
がんばってみるから。


Oh I get by with a little help from my friends
Mm I get high with a little help from my friends
Mm gonna try with a little help from my friends

友だちからのちょっとした助けがあれば
うまくやれるんだ。
友だちからのちょっとした助けがあれば
ハイになれるんだ。
友だちからのちょっとした助けがあれば
やってみようと思うんだ。


What do I do when my love is away?
(Does it worry you to be alone?)
How do I feel by the end of the day?
(Are you sad because you're on your own?)

愛がどこかに行ってしまったら
ぼくはどうしたらいいんだろう。
(ひとりぼっちはやっぱりつらいですか?)
1日の終わりを
どんな気持ちで迎えたらいいんだろう。
(ひとりでいるから悲しくなるんですか?)


No I get by with a little help from my friends
Mm I get high with a little help from my friends
Mm gonna try with a little help from my friends

そうじゃない。
友だちからのちょっとした助けがあれば
うまくやれるんだ。
友だちからのちょっとした助けがあれば
ハイになれるんだ。
友だちからのちょっとした助けがあれば
やってみようと思うんだ。


(Do you need anybody?)
I need somebody to love
(Could it be anybody?)
I want somebody to love

(誰でもいいから助けてほしいと?)
愛する誰かが必要なんだ。
(それは誰でもかまわないんですか?)
愛せる誰かがほしいんだ。


(Would you believe in a love at first sight?)
Yes I'm certain that it happens all the time
(What do you see when you turn out the light?)
I can't tell you, but I know it's mine

(ひとめぼれってものを信じますか?)
うん。ぼくの場合は
いつもしょっちゅう起こることだよ。
(明かりを消したらあなたはそこに何を見ますか?)
ちょっと言えないな。でも
それがぼくのものだってことぐらいは分かるよ。


Oh I get by with a little help from my friends
Mm I get high with a little help from my friends
Oh I'm gonna try with a little help from my friends

友だちからのちょっとした助けがあれば
うまくやれるんだ。
友だちからのちょっとした助けがあれば
ハイになれるんだ。
友だちからのちょっとした助けがあれば
やってみようと思うんだ。


(Do you need anybody?)
I just need someone to love
(Could it be anybody?)
I want somebody to love

(誰でもいいから助けてほしいと?)
愛する誰かが必要なんだ。
(それは誰でもかまわないんですか?)
愛せる誰かがほしいんだ。


Oh I get by with a little help from my friends
Mm gonna try with a little help from my friends
Oh I get high with a little help from my friends
Yes I get by with a little help from my friends
With a little help from my friends

友だちからのちょっとした助けがあれば
うまくやれるんだ。
友だちからのちょっとした助けがあれば
ハイになれるんだ。
友だちからのちょっとした助けがあれば
やってみようと思うんだ。


…ベルーシです。

私がこの歌を「この歌い方」で初めて聞いたのは、90年代の忌野清志郎のコンサートでのことだった。完全に、違う曲みたいに思えた。こんなアレンジができるなんて、天才なんじゃないだろうかと思った。

それからしばらくして、どういう番組だったのかは忘れたけど、ジョン・ベルーシジョー・コッカーのモノマネでこの歌を歌う「サタデーナイトライブ」の映像が、ちょっとだけテレビで流れたのである。「なんだ、パクりだったのか」と私は拍子抜けしたような気持ちになったが、同時に清志郎のあの歌い方、それも「With A Little Help From My Friends」にとどまらず、「ヒッピーに捧ぐ」での地面に突っ伏すステージングみたいな細かいことのひとつひとつに至るまで、あれにはちゃんと「モデル」が存在していたのだという事実には、自分の知っていた世界の狭さを思い知らされた気がした。そして「ジョー・コッカー」という名前は、私の脳裏に深く刻み込まれた。

けれどもその名前が「ウッドストック」という歴史的なコンサートの名前と結びつくにはさらにいくつかの出会いが必要だったし、その映像を実際に目にすることができるまでにはさらにいくつもの偶然を待たなければならなかった。インターネットのなかった時代には、何もかもそんな風にして手さぐりで探し求めることを通してしか、世界は広がってゆかなかったのである。

言葉を入力して検索するだけでどんな情報でも出てくるようになった今になってみると、自分はあの頃ずっとダマされていたのではないか、といったような気持ちになってくる。もっともあの時代に比べて、人間の心は遥かにダマされやすくなっているのではないか、といったようなことも一方では感じる。自分の目で見ない限り、検索しただけでは分からない情報も世の中にはあるのだという当たり前の事実を、想像する力さえ奪われてしまった人が、明らかに増えているからである。

ところでジョー・コッカーの歌うこの「With A Little Help From My Friends」は、本家のビートルズが解散と同時に出したアルバムに収録されている「Dig A Pony」というジョンの曲に、ものすごくよく似ている。アルバム「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」でビートルズがこの曲を発表したのが1967年。ジョー・コッカーがそれをカバーしたのが1968年。そしてビートルズがアップルの屋上で「Dig A Pony」を歌ったのが1969年1月。ジョンは絶対に、ジョー・コッカーから逆影響を受ける形であの曲を書いたのではないかという気が、何となく私はしている。


Dig a Pony (ROOFTOP SHOW), Them Beatles

=翻訳をめぐって=

とても平易に書かれた歌ではあるのだけれど、歌の中での (What do you see when you turn out the light?) I can't tell you, but I know it's mine というやりとりだけが、何のことだか分かりにくい。こういう「謎めいた歌詞」が出てくるたびにすぐにセックスやドラッグと結びつけて「解説」したがる半可通の人々が世の中には多いけど、21世紀にもなってそういう人がいまだに跡を絶たないことはとても嘆かわしいことだと私は思う。例えば友部正人という人の「地球の一番はげた場所」という歌には

君のバスケットボールのゴールの中に
ぼくは春の花を差し込んだ

というとても奥ゆかしい歌詞があるのだけど、このバスケットのゴールというのはなになにのことで春の花というのはなになにのことなのだよ、といったようなことをいちいち口に出して「解説」したがるような人と、あなたは友だちになりたいと思うだろうか。「教えてくれてありがとう」と思う人がどこにいるだろうか。「秘すれば花」と世阿弥は言ったし「言わぬが花でしょう」と町田康は言ったのだ。このことは洋の東西を問わず、すべての芸術表現に対してわれわれが求められている基本的な態度と言うべきものではないのだろうか。この歌が「美しい」のは飽くまでそれがバスケットのゴールと春の花の歌だからなのであって、下着の中にあるものの名称など出されても大抵の人はおぞましさしか感じないのである。美しさを感じる場合もあるかもしれないけどそれはそれが好きな人のそれである場合に限られているわけであって、基本的にそれはおぞましいものでありそれを美しいと思えと強制されねばならないいわれなど誰にもないのである。だから基本的におぞましいそれを普遍的に美しいものとして表現するために「春の花」みたいな言葉がわざわざ選択されているにも関わらず、歌を作った人のそういう工夫を無にするようなことを敢えて言うのは芸術というものへの向き合い方として根本的に間違った態度だと言わねばならない。「包帯のような嘘を見破ることで学者は世間を見たような気になる」とはよく言ったものだ。「気持ちはわかるとわかるな学者」なのである。


3年B組金八先生 2 第24話
21:45〜

この歌に関しても話は同じなのだ。この歌の歌詞はそもそも「とんちんかん問答」みたいなことになっているのだけれど、それはジョンとポールが「リンゴ用の歌」を作るために「リンゴだったらこんな質問にどう答えるか」ということをいろいろ具体的に想像しあった結果、ああなったらしいのである。作曲風景を見ていた人の証言が残っている。そして"What do you see when you turn out the light?"というのは原来是、もともとはとても奥深い質問なはずなのである。答えようによってはロマンチックな答え方もできるし、哲学的な答え方もできるし、質問自体には全然罪はなかったはずなのである。ところが「リンゴだったら」その質問を「自分に恋人がいないことを当てこすっているのだな」と曲解し、「恋人なんていなくても平気さ」とヘソを曲げ、「恋人がいなくたって1人でやらあ」と途中経過を3つぐらいすっ飛ばした「ああいう答え方」をするのではないかという結論に、ジョンとポールは達したらしいのである。そして自分たちのそうした勝手な想像で、ぎゃはぎゃは笑い合っていたらしいのである。何が面白いのか私にはさっぱり分からないし、リンゴさんに対してこんな失礼な話もないのではないかと思う。罪深いのは飽くまでジョンとポールの根性であって、それを素直に歌わされたリンゴさんは立場としては被害者なのだ。て言っか完全に「説明」してしまったではないか。何をやっているのだ私は。

けれどもそれにも関わらずこの歌は「子どもにも歌えること」を想定して作られた歌であり、だからこそ"I know it's mine"のitの内容は具体的な言葉にはされていないのである。秘して「花」にされているのである。だからこそ「ビートルズ全詩集」での「それは内緒…僕の大事なものだよ」という内田久美子さんみたいな訳し方も可能になるのであって、それ自体は決して「誤訳」ではないのである。だから上に書いたようなこの歌詞の「背景」を敢えてあなたに「説明」したがるような最低の知ったかぶり野郎が現れたら、「先手を打って」あなた自身の「it」の解釈を堂々と相手に伝えてやることだ。そして相手が具体的なことを言い出す前に「抽象的な言葉で書かれているからこの歌は味わい深いんですよね」とピシャリ釘を刺してやることだ。それでもなおかつ具体的な話を始めようとするやつがいたらそいつは本物の最低野郎なのだと考えて間違いない。私がそういうことを敢えてここに書くのは飽くまでそうした知ったかぶり被害からの身の守り方を世の中の人に提案するためなのであって、私自身は決して最低な人間ではない。はずである。て言っか、最低でありたくないとだけは、少なくとも思っている。それは、本当なのである。

啓蒙かまぼこ新聞

啓蒙かまぼこ新聞

カマトト(かまとと) - 日本語俗語辞書

なお、"with a little help from my friends" というタイトルの歌詞についても、ローリングストーンズの"Mother's Little Helper" という曲が60年代当時に子育てに疲れていたロンドン中のお母さんたちを蝕んでいたドラッグ被害を扱った曲であったのと同様、ドラッグそのものをさした言葉なのではないかという解釈が、昔から存在する。しかし「だったらどうなのだ」という気持ちが、正直言って私にはある。そんな言葉でこの歌を「切り捨てる」なら、ドラッグで命を落とすことになってしまったジョン・ベルーシは、それこそ浮かばれないことになってしまうではないかと思う。彼にだって「助けてくれる友だち」がいっぱいいたはずだけど、彼の場合はその「友だち」も含めて、みんながドラッグ漬けだったのである。そしてその中で「彼だけが」死んでしまったのである。ダン・エイクロイドキャリー・フィッシャーも、その彼を「助けられなかった」ことに、「A little help from my friends」になれなかったことに対して、ずっと「傷」を背負い続けてきたはずだし、今でも背負い続けているはずなのだ。(キャリー·フィッシャーさんに関してはその後、結局ご自身もドラッグのために、命を落とされている)。そういうことも含めて、引き受けた上であるのが「友だち」という言葉なのだと思う。ドラッグというものは「非合法」であるがゆえに、なおのこと「人間関係」を通してしか入手できないという側面を持っている。だからこの歌がドラッグを含意している面もあるのだとすれば、なおのことそれを「友だちの歌」として聞かねばならないはずだと私は思う。使うにしてもやめるにしても「友だちの力」を借りなければ決して思うように行かないのがドラッグというものだし、それは人生全般について言えることであるはずなのだ。だからその事実はこの歌を聞いた時のせつなさを一層たかめるものではあれ、無価値にするものでは決してないと思っている。

その意味でも、ジョン・ベルーシを追悼するのにこの歌ほどふさわしい曲はないように私には思える。ジョー・コッカーが歌うこの歌を聞くたびに私の脳裏に蘇るのは、初めてテレビで見た時の、いつも人を喜ばせることに対して真剣だった、ジョン・ベルーシの姿である。

その思い出は、これからも大切にしてゆきたいと思う。


forever friends 竹内まりや(カバー)