華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Tell All The People もしくは史上最低のフォローミー ※ (1969 The Doors)


4枚目のアルバムのリハーサルのあいだ、グループ内の緊張は高まっていた。ジムはロビーの「テル·オール·ザ·ピープル」にてこずっていた。初めてリハーサルの場にあの曲をもってきたとき、ロビーはジムにぴったりの曲だと言って、たいへんな興奮ぶりだった。
おそらくジムは歌詞が気に入らなかったのだが、それを言い出せずにいたのだろう。だが、ついに彼は黙っていられなくなった。
「この歌詞をおれが書いたと思われたくないんだ、ロビー」。ジムは言った。そして、ふいにバスルームに入っていってしまった。
「どうしてさ。いい曲じゃないか!」ロビーは叫んだ。
「ああ。だが、銃をとっておれについて来いと、おれがそんなことを言ってるなんて、みんなに思われたくないのさ!」。バスルームからジムの声が響いてきた。
…ロビーがあんなに感情的になったところを見るのは初めてだった。ロビーは自分の曲を大切にしていたが、一方で表現者としてのジムにも一目置いていたのだ。

ジョン·デンズモア 「ドアーズ」 1990年


Tell All The People

Tell All The People

英語原詞はこちら


Tell all the people that you see
Follow me
Follow me down
Tell all the people that you see
Set them free
Follow me down

汝が行き合う凡ての人に告げよ。
ついてきなさい。
私についてくるのだ。
汝が行き合う凡ての人に告げよ。
かれらは自由になる。
私についてくるのだ。


You tell them they don't have to run
We're gonna pick up everyone
Come out and take me by my hand
Gonna bury all our troubles in the sand, oh yeah

走る必要はないと教えてやれ。
我々は全員を拾い上げる。
出てきて私の手をとりなさい。
すべての苦しみは
砂の中に埋めてしまおう。


Can't you see the wonder at your feet
Your life's complete
Follow me down
Can't you see me growing, get your guns
The time has come
To follow me down

足元の神秘に気がつかないのか。
汝の生は満たされている。
私についてくるのだ。
私がどんどん大きくなるのが分からないか。
銃をとれ。時は来た。
私についてくるのだ。


Follow me across the sea
Where milky babies seem to be
Molded, flowing revelry
With the one that set them free

海を越えて私についてきなさい。
型にはめられてしまったように見える
ミルキーな嬰児たちが
自由をもたらすものと共に
浮かれ騒いで漂う海を。


Tell all the people that you see
It's just me
Follow me down

汝が行き合う凡ての人に告げよ。
私だ。
ついてきなさい。


Tell all the people that you see
Follow me
Follow me down
Tell all the people that you see
We'll be free
Follow me down

汝が行き合う凡ての人に告げよ。
ついてきなさい。
私についてくるのだ。
汝が行き合う凡ての人に告げよ。
我々は自由になる。
私についてくるのだ。


Tell all the people that you see
It's just me
Follow me down
Tell all the people that you see
Follow me
Follow me down

汝が行き合う凡ての人に告げよ。
私だ。
ついてきなさい。
汝が行き合う凡ての人に告げよ。
ついてきなさい。
私についてくるのだ。


Follow me down You got to follow me down
Follow me down
Tell all the people that you see
We'll be free
Follow me down
Tell all the people you see
Follow me
You got to follow me down

私についてくるのだ。
ついてこなければならない。
私についてくるのだ。
汝が行き合う凡ての人に告げよ。
我々は自由になる。
私についてくるのだ。
汝の目に入る凡ての人に告げよ。
ついてきなさい。
ついてこなければならない。

=翻訳をめぐって=

…それなのに、歌うのである。ジム・モリソンという人は暴君だったとか自分勝手だったとかエレカシの宮本みたいだったとかいろんなイメージがあるけれど、最終的にこの歌を「歌ってしまった」というその事実からして、案外気の弱いところもある人だったのではないかという感じが、私はする。ギタリストのロビーとの友情を失いたくないとか、バンドをつぶすわけには行かないとか、いろんな事情が背景にはあったのだと思う。しかしそんなところで取ってつけたように「人間的」になるのなら、もっと他のところで「人間的」になれよと私は思う。

ジムのささやかな抵抗として、それまでずっと「作詞作曲 ドアーズ」とクレジットされてきたドアーズの楽曲は、この曲を境に「実際に作曲に携わった人間」の名前でリリースされることになったのだという。この歌詞を自分が書いたと思われるのが、ジムは本当にイヤだったのだろう。しかしそれなら「歌わない」という選択肢しかありえなかったはずだ。歌ってしまってからどんなことを言おうと、そんなのは泣き言でしかない。

何かと評判の悪いドアーズの4枚目「ソフト·パレード」ではあるのだけれど、そこで演奏されている他の楽曲に関しては、私は決してキライではない。しかしどうしてもアルバムとしての全体を「好きになれない」感じがしてしまうのは、そのA面の一曲目に入っているのが、よりにもよってこの曲だからである。なぜこの曲を好きになれないのか、言葉にして説明しなくちゃいけないですか?そういう人にはむしろ、どうしてこんな曲を「好きになれる」のか、逆に聞いてみたい。いや、取り消す。説明してくれなくていい。下手にそんなことを言って幸福実現党やらナントカファーストの会とかいった集団の構成員たちがコメント欄に押し寄せてきたりした日には、私には対応のしようがない。そういう人たちというのは自分たちの中にあるそうした選民思想みたいなものの存在を、人に伝えて回ることを何ら「恥」だと考えていないどころか、むしろ「義務」だと思っているらしいことは、私も一応新聞とか読むので、大体わかる。そういう人たちを相手に「言葉」というものが機能しうるとは、私には到底思えない。この歌を「好きになれる」ような感性を持った人間とは、私は口もききたくない。それがこの歌に関して私が言えることの、すべてである。

人間、場合によっては、銃をとらなくてはならない時もあるだろう。そのことを私は否定しない。しかし「人から言われて銃をとる」というのは、あらゆる人間のおこないの中でも最低最悪の行為だと私は思う。銃をとるなら自分の意志でとるべきだし、その銃が引き起こす結果に対しても自分が責任をとるべきだ。他人に銃をとることを促すならば、少なくとも自分がまずその責任を引き受けるという覚悟を示し、相手に対しても同じ決意を呼びかけるというのが、筋だと思う。

そういう決意や覚悟のカケラでも、この歌詞の中には存在しているだろうか。皆無である。あるのはひたすら、他の人間のことがロボットみたいな存在にしか見えない、ニヒリスティックな世界観だけだ。だから私はこの歌を大嫌いなのである。納得して頂けましたでしょうか。

…一応、翻訳に関することも、書いておかなければならないとは思う。

Tell all the people that you see…この歌詞には非常にキリスト教的なものを感じる。とりわけ「you」という「呼びかけ方」に対してである。聖書の中には「あなた」という言葉が至るところに出てくるけれど、日本の「神」は相手のことをこうした特定の二人称で呼ぶようなことは、ほぼ絶対にしない。「神」を自称していた前世紀の天皇が、逃げ場もないこの島国の住民たちのことを暴力で支配した上で、「汝臣民」と呼び捨てにしていたことを別にすればである。

ちなみに私は日本の宗教の中でも「一神教」の要素を強く持っている天理教の家で育ったのだが、そこでは「お神さん」の教えは一貫して「〜するのやで」といった母親的な言葉で語られ、「あんた」とか「おまはん」とかいったような二人称的な言葉は、私が知るかぎり、中山みきの言葉としては一言も残されていない。何度も書いてきたように私自身は神というものを一度も信じたことのない人間ではあるけれど、このことは少なくとも日本の土着文化においては、神というものが「他者」としては認識されてこなかったことを示しているのではないかという気がする。こういうことには、異文化の中の宗教観というものを突きつけられることを通して初めて気づかされるのである。そしてそれぞれの文化における「神観」の違いは、そのまま「人間観」の違いに反映されている。「神の秘密」は結局のところ、「人間の秘密」に他ならないからである。

やや脱線したけれど要するに何が言いたいかというと、この歌の「you」には日本語として「自然な訳語」が存在しないということなのだ。「きみ」でも「あなた」でもぶち壊しなのであって、この歌の中における「you」と「me」との関係というのは、そんなフレンドリーなものではありえない。仕方ないので前世紀の天皇が使っていたのと同じあの人工的な言葉を、ジムモリソンにも語らせるしかなかった。どおせそおゆう存在になりたかったのだろ。ふん。「歌ってしまった人間」からどんな文句が言われようと、私は聞く耳を持たない。そう思われたくないと思うのなら、歌うな。

Where milky babies seem to be
Molded, flowing revelry
With the one that set them free

…何を言いたかったんでしょうね。この文学的な表現ね。直訳するなら「鋳型にはめられたように見えるミルキーなベイビーたちが、かれらを自由にしてくれるひとつの存在と一緒にどんちゃん騒ぎをして、漂っているところ」となる。「ミルキー」というママの味がする言葉をどう訳するかということなのだけど、これは文字通り「乳臭い」という意味と共に、「霧がかかったように周囲の状態がよく見えずにいる状態」とのダブルミーニングなのだと思われる。私はこの歌のメッセージを噛み砕いた日本語にして人に伝えることにさほど情熱を感じているわけではないので、訳詞の中では音訳するだけにとどめておいた。それにつけても「babies」という言葉がそのまま「陛下の赤子」という言葉とダブっていることには、戦慄さえおぼえる。人間観が似てくると、たとえ言語は違っても、人というのは同んなじようなことを言い出すものなのだな。他の人間のことを「一人前の人間」として扱うことができないような人間は、自分自身もまた永遠に「一人前」にはなれないのだ。本当に、イヤな歌だと思う。

翻訳をめぐっては、以上だな。

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どうしてビリーブラッグ特集の途中で突然ドアーズの曲に切り替わったのかというと、「ちょっとした出会い」があったからである。昨日の真夜中に、唐突にジョンレノンの「Working Class Hero」の記事に星をつけてくれた人がいた。その人のブログを読みに行ってみたら、ものすごく面白かった。紹介していいものなのかな。させてもらう。まだ比較的始まったばかりみたいなので、他の人も読み始めるなら今が一番いい時期だと思う。

fukaumimixschool.hatenablog.com

途中まで読んだところで誤字(?)に気づき、こちらからコメントを書いたところ、

フォロー ミー

ジャンヌダルク ついてこい
ジョン 突き放す
わたし ありがとうございます

という返事が返ってきた。私の「Working Class Hero」の記事への感想なのだと思われた。確かに私はあそこで、ジョンが「follow me」という言葉を使ったのはリスナーを「突き放す」意図を持ってのことではなかっただろうかと、書いた。しかしそんなのは、私の解釈でしかない。私が書いた曲でもないのにお礼を言われるのは、こそばゆい。

同時に気になったのは、「follow me」という言葉がどうしてその人は「気になった」のだろうかということだった。世の中には、いろんな「follow me」がある。言われてうれしい「follow me」も、稀に存在する。しかし大抵の「follow me」に対しては、私はむかつきしか感じない。「follow me」という言葉から私が真っ先に思い出すのはこの曲で、それでこの曲についての記事を書くことにした。そして書きながら、「follow me」という言葉について私「も」いろいろ考えてみた。

オノさんが「ジャンヌダルク ついてこい」と書いたのは、「ジャンヌダルクは『ついてこい』と言った」という意味なのだろうかと私は思った。それはちょっと違うような気がした。それを出発点に「follow me」について考え始めると、間違いが起こるのではないかと思った。この曲の中のジムモリソンは明らかに「ついてこい」と言っていると思う。そして「誰が行くか」と私は思う。けれどもジャンヌダルクが人に向かって「ついてこい」と言うような人だったのかというと、どうも違う気がする。

あの人は森の中でいきなり「神」から「ついてこい」と言われ、ついて行っただけの人なのではないかと思う。そして言われた通りについて行ったら途中で「神」の声が聞こえなくなって、ウソつき呼ばわりされて殺されてしまった、とてもかわいそうな人だと思う。

そしてそのジャンヌダルクに「ついて行った」人たちは、ジャンヌダルクが「神」に「ついて行く」姿を見て、自分たちもついて行ったわけである。別にジャンヌダルクに言われたから「ついて行った」わけではないと思う。どっちかと言えばジャンヌダルクの「背中」に、その人たちを「ついてこさせる」力があったと考えるべきではないだろうか。

つまるところ、人間に向かって「ついてこい」などという言葉を吐いていい存在というのは、「神」だけなのである。そして「神」などいないと少なくとも私は思っているから、そういう言葉を使う権利がある存在というのは、結局この世のどこにも存在しないことになる。と思う。そんな中で1人の人間が他人に「ついてきてほしい」と思うなら、できることは「ついて行きたいと人が思うような背中」を見せることに限られてくるのではないか、という気がする。やや考えに飛躍があることは自覚しているのだけど。

ブログというものも、引いては表現活動一般についても、極限するならその「背中の見せ方」にかかっているのではないかと私は思う。

「ついてこい」などと人に命令するような人間には、私は死んでもついて行かない。しかし「ついて行きたくなる背中」を見つけたら、「ついてこい」とは一言も言われなくても、ついて行きたくなる。昨日読ませてもらったオノさんのブログみたいな文章には、「ついてこい」といったような言葉は一言も出てこない。しかしブログの存在そのものが、「ついて行きたくなる背中」を構成している。

私は、ついて行きます。

ではまたいずれ。

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