華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

My back pages もしくは彼氏の裏面 (1964. Bob Dylan)



神が味方」を10年ぶりぐらいに聞いてみて、改めて気づかされたのは、ディランによる「メロディの使い回し」だった。そしてあの曲のメロディが使い回されたこの曲を、久しぶりに映像つきで聞いてみずにはいられなくなった。このブログに何回も出てきた私の原点である、92年のディランの30周年コンサート。その最後から2番目の曲として演奏された「My Back Pages」である。

YouTubeでは案のじょう消されていたけど、Dailymotionで見つけることができた。そして何度見てもやはり、初めて見た時と同じ気持ちになるのを感じた。バーズでこの曲をカバーしていたロジャー・マッギン、つい先日他界したトム・ペティ、そしてニール・ヤングエリック・クラプトン、ディラン、ジョージ・ハリスンが順番にボーカルをとりながら歌い継いでゆく、本当に夢のようなステージだった。

人間技とは思えないようなフレーズを面白くも何ともなさそうな顔して弾きこなすクラプトンより、難しくも何ともないフレーズを全身の筋肉を使って一生懸命演奏するニールヤングのギターの方が好きだと感じたあの瞬間に、自分の人生はある意味決定されていたのだなと、そんなことも時間を飛び越えて実感することができた。25年たって初めて気づくような出会いの意味、そしてこれから何年もかけないとまだ気づけないような意味が、あのコンサートにはいっぱいに詰まっていたのだと思う。そういう出会いを14歳で経験できた私の人生は、おそらく幸せなまま終わるのだろう。

今回の記事のタイトルは「My Back Pages もしくは My Back Pages」にしようかと、ギリギリの瞬間まで考えていた。この曲に関してばかりは、My Back Pages は My Back Pages なんだとしか言いようのないものを感じていたからである。

ただ、歌詞の意味については今までにも何回となく調べてきたものの、そういえばタイトルの意味は調べたことがなかったことに、直前になって気がついた。それで調べてみたら、「back page」は「新聞の裏面」「本の裏ページ」という意味だったので、少し意外に感じた。25年間私はこのタイトルを「私の履歴書」みたいな意味だと、何となく思い込んでいたのである。

My Back Pages= 私の裏面。そういう意味だと分かった時に、ディランがこの曲に込めた気持ちが初めて理解できた気がした。この曲はデビューしてからわずか2年の間に巨大に膨れあがってしまった「社会派シンガー」としてのディランのイメージに対し、ディラン自身が「自分はそういう人間じゃなかったんです」ということを「告白」する歌だったのだ。

この曲が入っているディランの4枚目のアルバムは「Another Side of Bob Dylan (ボブ·ディランの別の一面)」と言う。最後に収録されている曲は「It ain't me, babe (おれはそんな人間じゃないんだベイビー)」というフレーズで有名な「悲しきベイブ」という曲である。そしてその中に収まった一曲としての「私の裏面」。ひとつひとつがつながった意味をもっていたのだということに、今になってようやく気づく。そしてこの次のアルバムから、ディランは「裏切り者」という世界中のブーイングを浴びながら「ロックへの転向」の道を歩み出すのである。

そしてそのことが呑み込めた今、私は非常にスッキリしている。「My Back Pages」は私の中でずっと「My Back Pages」であり続けてきた。これからもあり続けてゆくことだろう。けれども「ボブ·ディランの裏面」は「私の裏面」ではない。それは飽くまで「彼氏の裏面」である。

最初の出会いから25年を経て、ようやく私はこの曲との関係に「決着」をつけることができた気がしている。

Bob Dylan performs My Back Pages from 30th Anniversary Concert - Video Dailymotionwww.dailymotion.com

My Back Pages

英語原詞はこちら


Crimson flames tied through my ears
Rollin' high and mighty traps
Pounced with fire on flaming roads
Using ideas as my maps
"We'll meet on edges, soon," said I
Proud 'neath heated brow
Ah, but I was so much older then
I'm younger than that now.

両耳を貫通して結ばれた
紅蓮の炎が高く舞い上がり
巨大な罠を縛りあげた。
わたしは火を手にして
燃えあがる道に挑みかかった。
心の中にあるものを
自分の地図としながら。
「われわれはすぐにギリギリの気持ちで
ギリギリのところで会うことになるだろう」
とわたしは言った。
額を熱くしながら誇らしく。
ああしかし
その時のわたしはえらく老けていて
今のわたしはその時よりずっと若い。


Half-cracked prejudice leaped forth
"Rip down all hate," I screamed
Lies that life is black and white
Spoke from my skull, I dreamed
Romantic facts of musketeers
Foundationed deep, somehow
Ah, but I was so much older then
I'm younger than that now.

半分ひびの入った偏見が躍りだし
「すべての憎しみを切り裂け」と
わたしは叫んだ。
人生は白か黒だというウソが
自分の頭蓋骨から言葉になって出てくる
そんな夢を見ていた。
マスケット銃兵たちのロマンティックな真実は
いずれにしても深く基礎られている。
ああしかし
その時のわたしはえらく老けていて
今のわたしはその時よりずっと若い。


Girls' faces formed the forward path
From phony jealousy
To memorizing politics
Of ancient history
Flung down by corpse evangelists
Unthought of, thought, somehow
Ah, but I was so much older then
I'm younger than that now.

少女たちの顔が
目の前の道を形づくった。
くだらないジェラシーから始まり
伝道者たちの死体によって投げ落とされた
古い歴史の中の政治の手口の暗記に至る
そうした道として。
無意識にであろうと意識的にであろうと
それは同じことだ。
ああけれども
その時のわたしはえらく老けていて
今のわたしはその時よりずっと若い。


A self-ordained professor's tongue
Too serious to fool
Spouted out that liberty
Is just equality in school
"Equality," I spoke the word
As if a wedding vow
Ah, but I was so much older then
I'm younger than that now.

自分で自分に学位を授けた大学教授の
真面目すぎてからかえないような舌から
ほとばしった言葉は
学校において自由とは
平等と同義なのだということ。
「平等」
わたしはその言葉を口にしてみた。
結婚式の誓いみたいに。
ああしかし
その時のわたしはえらく老けていて
今のわたしはその時よりずっと若い。


In a soldier's stance, I aimed my hand
At the mongrel dogs who teach
Fearing not that I'd become my enemy
In the instant that I preach
My existence led by confusion boats
Mutiny from stern to bow
Ah, but I was so much older then
I'm younger than that now.

兵士の姿勢でわたしは自分の手を構え
人を教育したがる雑種の犬どもに狙いをつけた。
自分が自分の敵になってしまうのではないか
とまで思ったわけではないけれど
自分が人に説教していることに気づく瞬間ごとに
わたしは恐怖を感じていたのだ。
わたしの存在が
混乱したボートの群れを先導していた。
船尾から舳先まで乗組員の反乱で満ち溢れた船団。
ああけれども
その時のわたしはえらく老けていて
今のわたしはその時よりずっと若い。


Yes, my guard stood hard when abstract threats
Too noble to neglect
Deceived me into thinking
I had something to protect
Good and bad, I define these terms
Quite clear, no doubt, somehow
Ah, but I was so much older then
I'm younger than that now.

そう。無視するにはあまりに高貴な抽象的脅威が
わたしをだまして
自分には何か守るべきものがあるのではないかと
考え込ませた時にも
わたしはしっかりガードを固くしていた。
善と悪という述語。
私はそれを定義する。
ハッキリとと言うか間違いなくと言うか
何にしてもだ。
ああしかし
あの時のわたしはえらく老けていて
今のわたしはその時よりずっと若い。

=翻訳をめぐって=

あえて、他の人の翻訳を一切参照することなく翻訳してみた。そして25年間ずっとよく見えずにいたこの歌の「風景」が、100%ではないけれど、ようやく少しはハッキリと見えてきた気がした。たぶん、タイトルの意味を知った効果がいちばん大きいのだろう。

自分で訳してみてつくづく、この歌はディランの「政治的転向」としての歌だったのだということがよく分かる。一面ではこの曲がディランの「新しい出発点」なのであり、この歌の延長線上に「われわれの知っているディラン」があるのである。けれども「転向」という言葉は「敗北」とひとつの言葉でもある。それまでのディランが「戦っていた」のだとすれば、この曲を境にしてディランは明らかに「戦うことをやめた」のだ。

それは、ホメられたことではないし、ホメていいことでもないと私は思う。ホメたらその分、ディランは輝くかもしれない。けれどもホメる方の人間は、ホメるというその行為を通して自分自身が確実に腐ってゆくのである。言い換えるなら、「二度と戦えない人間」に変わってしまうのだ。

「世の中は白か黒かで割り切れるものではない」という美しい言葉は、ある意味で20世紀という時代が生み出した最も退廃的な思想なのではないか。と私は感じることがある。確かに世の中というのは、それほど単純なものではない。そして物事を単純に「割り切る」ことは、常に戒められなければならないと私も思う。

けれども「割り切れるものではない」という諦念を含んだ言葉は、「割り切るな」と叫ぶことのできる鋭さを持ち得ない。言い換えるなら「白か黒かで割り切ろうとする人間」が本当に現れた時、「割り切れるものではない」というつぶやきは、口に出すことすらできない無力な言葉に変わってしまう。

「世の中は白か黒かで割り切れるものではない」というのは、20世紀という時代に変革を求めて戦い、挫折したり人を傷つけてしまったりしてきた経験を持つ人たちの、反省を含んだ言葉なのだとも思う。しかしそれを「逃げるための言い訳」にしてしまったら、世の中は本当に「白か黒かで割り切られてしまう」ことだろう。21世紀はそういう時代なのだと私は感じている。

何十万人ともしれない人たちに「逃げるための言い訳」を提供してしまったこの歌は、罪深い歌だ。今では素直にそう思う。

そして私はそのことに、非常にスッキリしている。自分は「逃げたくない気持ち」を持っているのだということを、自分自身にもハッキリ理解することができたからである。

今の私は間違いなくディランよりずっと若い。

そう言ってやれる気がする。

…以上をこの歌に対する私の感想とした上で、試訳の検討に移りたい。

Crimson flames tied through my ears
Rollin' high and mighty traps
Pounced with fire on flaming roads
Using ideas as my maps

…長い間、ずっとわけの分からなかった歌詞だった。片桐ユズルさんの名訳でさえ、この部分に関してはまるでグーグル翻訳の文章みたいである。

耳のなかで縛られた真紅の焔が
高くころがり大きなワナ
焔の道に火とともに跳ねる
思想をわたしの地図としながら。

…当時はもちろんグーグル翻訳なんてなかったわけだが、中学生だった私はこの意味不明さこそが「詩」というものなのだろうと思い、必死で上記の文字列とにらめっこしていたものだった。まあ、「真紅の焔」という強烈な言葉があるので、絵的にそれほどかけ離れたものが頭の中にできあがったわけでもなかったのだけど、もう少し文法的にスッキリした読み方があるのではないかと思い、分析してみた。

Crimson flames tied through my ears
Rollin' high and mighty traps

赤が主語、青が動詞、そして緑を目的語と仮定して赤、青、緑の順番で読んでみると、「紅蓮の炎が巨大な罠を縛りあげる」という意味の文章になる。この場合、動詞のtieは他動詞である。

一方、赤、青、黒の順で読んでみると「紅蓮の炎が両耳を貫通して結ばれ、ローリングしながら噴き上げる」という、意訳すればそういう意味になる別の文章ができあがる。この場合、tiedは自動詞として機能している。

つまりこの2行は、tiedという言葉が自動詞と他動詞の二重の働きをしながら、二つの文章を結びつけているフレーズとして理解するしかないのではないだろうか。andという言葉の文法的な意味だけがよく分からないが、「rolling high」までの部分と「mighty trap」という言葉を区別するための「つなぎ」として使われているのではないかと思う。そうやってできたのが

両耳を貫通して結ばれた
紅蓮の炎が高く舞い上がり
巨大な罠を縛りあげた。

というフレーズである。「巨大な罠」とは何か。おそらく「社会の欺瞞」みたいなことではないかと私は思う。次に

Pounced with fire on flaming roads
Using ideas as my maps

…このフレーズには主語がない。片桐ユズルさんの解釈は、この2行においても「真紅の焔」が主語としての役割を継続しているという読み方だが、私はPouncedの前に「I」が省略されているのだと思う。「焔」が「思想を地図にする」というのは、いくら考えてもおかしい。

主語をディランだと考えた場合、このフレーズから浮かび上がってくるのは、武器を手にして戦場に躍り出るような彼のイメージである。それを彼は「あの頃は老けていた」という後のフレーズで、否定的に振り返っているのだと思う。

なお片桐さんは「ideas」という言葉を「思想」と訳しているが、「知識」や「考え」といった別の意味もあるから、私はもうちょっと抽象的な形で訳してみた。意味を限定すると、訳詞が逆の意味でイデオロギッシュになってしまうと思う。

"We'll meet on edges, soon," said I
Proud 'neath heated brow

「on edge」は「イライラして」とか「極限状態で」を意味する熟語だが、単純に「エッジのところで会うだろう」とも訳せる。ダブルミーニングの好きな人だからダブルミーニングなのだろうと思い、試訳では両方の意味を併記した。「エッジな場所」がどういう場所なのかはこれまたイメージするしかないが、このフレーズから浮かび上がってくるのは自らを予言者的に演出することを楽しんでいたディランの姿である。けれども、繰り返すけど、「あの頃は老けていた」でそのことは否定されているわけである。

…コーラス部分は、説明不要だと思う。

Half-cracked prejudice leaped forth

この2番の冒頭の歌詞で分からないのは、「飛び出した」のがディランの偏見なのか他人の偏見だったのかということである。ディランの偏見だったとした場合、「すべての憎しみを切り裂け」という言葉は「偏見から出てきた言葉」だったとも読みうる。保留。

Romantic facts of musketeers
Foundationed deep, somehow

マスケット銃は近世初期に主流となっていた銃で、フランス革命アメリカ独立革命の時代に使われていた武器。Foundationという言葉にはいくら調べても「基礎」という名詞の意味しかないのだが、それが Foundationed と動詞化されている。「基礎られる」とでも訳すしかないだろう。基礎る。基礎れば。基礎る時。ラ変動詞になるのだな。この2行の意味するところは「旧体制のイデオロギーは根深い」みたいなことなのだと思う。somehowという単語のニュアンスを私自身がどれだけ理解しているかは心もとないのだけど、「とはいえそんなことはどうでもいい」といった語感に思える。

Girls' faces formed the forward path

…少女たちの顔面が前方にのびる道を作る。「誰にとっての道なのか」ということが問題だと思う。少女たちの道という読み方も可能だが、「ディランにとっての道」なのではないだろうか。ファンの女の子が喜ぶようなことばかり考えて歌っていたら、意識的であれ無意識的であれのっぴきならないことになってしまった、という歌詞だと思う。

A self-ordained professor's tongue
Too serious to fool

第一に、foolは「精神病者」に対する差別語である。ここでは原文をそのまま転載している。その上でfoolが動詞として使われる場合には、「ふざける」という自動詞的な意味と「からかう」という他動詞的な意味がある。シリアスに見える教授の内心は他人に窺いしれない以上、「まじめすぎてからかえない」という他動詞の意味で訳すのが「自然」だと思う。

Spouted out that liberty
Is just equality in school

「自由·平等·博愛」は、時を同じくして起こったフランス革命アメリカ独立革命を支えた理念であるわけだが、社会主義的な思想を持つ知識人が「平等」を「個人の自由」より重視しようとする姿勢に対するディランの違和感が、ここでは表明されているのではないか。という解釈が海外サイトには書かれていた。「平等」。私はいい言葉だと思うよ。それにこの21世紀には、「個人的なことは政治的なこと」という、1964年にはまだ生まれていなかった言葉がある。それはその時代にディランと違って「逃げなかった人たち」が、戦いを続ける中でつかみとっていった言葉である。これからの時代、「自由」という言葉と向き合うことはその言葉と向き合うことを意味すると私は考えている。海外サイトの解釈を受け入れるなら、ディランという人の考えていた「自由」の中身はあまりに軽薄なものだと思う。

In a soldier's stance, I aimed my hand…

…この4番の歌詞は全体のなかでも一番平易に解釈できると思う。親だとか教師だとか古い考え方だとか、「人に説教したがる人間たち」に対して突っ張ってきたはずなのに、いつの間にか自分が説教する側に回っているのではないか、という戸惑いが歌われている。それは割と同情できることであるようにも思えるが、同時にディランという人の大衆蔑視もさらけ出されているように思う。ディラン自身に「人間が人間に見えなくなっていた」のだ。それを「大衆のせい」にするのは間違いだと思う。

Good and bad, I define these terms
Quite clear, no doubt, somehow

…実はこの曲の中で私が今でも分からないのがこの部分である。前の部分で「人生が白と黒で割り切れるというのはウソだ」とハッキリ言っているにも関わらず、どうして最後の部分で真逆の言葉が出てくるのだろう。ちなみに片桐さんの訳では「(私は善と悪を) きわめて明確に定義する。疑いもなく」と颯爽とした訳語が使われているが、実際に辞書を引いてみたら「quite clear」=「かなり明らかに」、「no doubt」=「きっと/たぶん」という感じで、いささか歯切れが悪い。そして最後が「somehow」である。この「なげやりさ」に、読解のカギがある気がする。あくまで推測だけど、「これからは何が正しいことで何が悪いことかは、自分が好き勝手に決めることにする」といったようなことを、この最後のフレーズでディランは言っているのではないだろうか。それは一種の「不真面目宣言」である。それを極めて「真面目に見える言葉」で表現しているところに、当時の彼の精一杯の「ふざけかた」があるのではないかという気がする。しかしそうだとすればこのふざけかたはあまりに「苦しげ」である。何てこったろう。私もとうとうディランに「同情」するような年齢になってしまったのだな。

そんなわけで、私がこの先この歌を「なつメロ」以上の曲としてげんしゅくな気持ちで聞くことは、もはや二度とないだろうと思う。

こころおきなく、ビリー・ブラッグ特集に戻りたいと思います。ドアーズへの寄り道に始まっていろんなことに気づかせてもらえるきっかけを作ってくれたid:fukaumimixschoolさんはじめ他何人かの新しい読者のみなさん、どうもありがとうございました。


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