華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

The Marriage もしくは何て言ったらいいんだ (1986. Billy Bragg)



The Marriage

英語原詞はこちら


I understand you needing
And wanting is no crime
But I can't help feeling
That you and your mother are just wasting your time

きみにとって必要なんだろうってことは
分かってるよ。
そうしたいと思うのは
別に悪いことだとも思わない。
でもきみもきみのお母さんも
自分の時間をむだにしてるだけなんじゃないかって
おれには思えて仕方ないんだよな。


Choosing Saturdays in Summer
I dare you to wear white
Love is just a moment of giving
And marriage is when we admit our parents were right

真夏の土曜日から日取りを選んで
あつかましくもきみに
白無垢を着てもらうことになるわけだ。
(無垢じゃないのに。て言っかおれがそうしたのに)。
愛ってのは
与え合う瞬間の中にあるものだろ。
そんでもって結婚てのは
自分たちの親は正しかったんだってことを
認めさせられるためにあるようなもんだ。


I just don't understand it
What makes our love a sin
How can it make that difference
If you and I are wearing that bloody, bloody ring

おれにはわからないよ。
何でおれたちの愛が罪だなんてことになるのか。
あの血の色をした
本当に血の色にしか見えない指輪を
おれときみが指にはめることで
何が変わるのかなんて
本当にわからない。


If I share my bed with you
Must I also share my life ?
Love is just a moment of giving
And marriage is when we admit our parents were right

きみとベッドを分かちあったら
人生まで分かちあわなきゃいけないって話になるわけ?
愛ってのは
与え合う瞬間の中にあるものだろ。
そんでもって結婚てのは
自分たちの親は正しかったんだってことを
認めさせられるためにあるようなもんだ。


You just don't understnd it
This tender trap we're in
Those glossy catalogues of couples
Are cashing in on happiness again and again

わかんないかなあ。
すごくやさしい顔をしたワナの中に
おれたちはいるんだと思うよ。
カップル向けのてらてらしたカタログは
人の幸せから繰り返し繰り返し
利益をむしり取って行くんだよ。


So drag me to the altar
And I'll make my sacrifice
Love is just a moment of giving
And marriage is when we admit our parents were right
And marriage is when we admit our parents were probably right

わかったよ。
おれを祭壇に引っ張って行きゃいいじゃないか。
そんでもっておれは自分をイケニエにしてやるよ。
愛ってのは
与え合う瞬間の中にあるものだろ。
そんでもって結婚てのは
自分たちの親は正しかったんだってことを
認めさせられるためにあるようなもんだ。
結婚なんてのは
自分たちの親の方が正しかったらしいってことを
認めさせられるためにあるようなもんだ。


Marriage

=翻訳をめぐって=

…は、特にない。しかし、すごく考えさせられる歌である。どこまでが「もっともな正論」で、どこからが「オトコのワガママ」なのか。私自身男性なもので、全然客観的なことが言えない。

ちなみに私に結婚経験はないし、結婚したいと思った経験もない。理由はそれこそ、この歌の主人公と完全に一致している。結婚制度や家族制度というものは、本当に数え切れないぐらいの人を不幸にしてきた制度だと思う。そういう制度を再生産する側に自分が回ることは、イヤなのである。そして自分に子どもができたとして、そういう制度を子どもの世代に押しつけなければならない立場に立たされることは、なおさらイヤなのである。

しかし、じゃあ、どうしたらいいのか。本当に分からないとしか言いようがないのが、30代後半の正直な気持ちである。

そして自分のそうした「思想信条」のおかげで、自分が今まで誰一人「幸せ」にすることができずにきたことはハッキリしているわけであり、だったら何のための「思想信条」なのか、と自分でも思わざるを得ない。

そんでもって、そんな言い方だって、実は卑怯なのである。私の「思想信条」は、人を「幸せにできずにきた」ということにはとどまらない。もっとハッキリ言うなら、傷つけてきた。傷つけた人(…たち)は今も傷ついたまま生きている。場合によってはこの記事を、読んでいるかもしれない。

だからと言って今さら「制度」を受け入れたとして、「幸せ」にできる相手は、いたとして1人だけである。「傷ついたまま」の人はどうしようもなく生み出されるし、その人は「私という人間が幸せになること」を通して、「もっと」傷つかなければならないことになる。

とはいえ人間が自分の人生で本当に「幸せ」にすることのできる相手というのは、「制度」があろうとなかろうと、いたとして本当に「ひとり」しかいないのだなということに、いろんな人たちを傷つけてしまったことを通して、ようやく私は気づかされている。自分という人間も「ひとり」しかいないからである。せめてそのことには、人を傷つけることになる前に、私は自分の力で気づいておくべきだったのだ。

ハッキリ言うなら私はそのことに気づこうとさえしていなかった。と言うか気づくことを拒否していた。ということは「気づいていた」ということなのだ。つまりは「思想信条」を「言い訳」にしていたということだと思う。

そういう「腐った生き方」を、自分は反省しなければならないということなのだと思う。私みたいな人は、いると思う。だから私が取り返しのつかないぐらいに人を傷つけてやっと気づいたそのことをここに書いておくことは、意味のないことではないと思う。

ビリー・ブラッグという人は本当に真面目な人だから、自分の欲望に対しても「真面目」にならずにいられなかったのだろうなということが、私にはとてもよく分かる。「If I share my bed with you/ Must I also share my life ?」という一節などについては「よく言ってくれた」とさえ、心のどこかで感じている。いまだにそれが、私という人間の本音だということなのだろう。

でもその言葉をぶつけられた側の相手がどれだけ傷ついたか、そしてそういうことを平気で言うビリーブラッグや私みたいな人間の姿がどれだけ「エラそー」に見えていたかということも、今ではそれと同じくらいよく分かる。

この歌にはどこかに「言い訳」と「居直り」が隠されているのだと思う。反論できないくらい「正しい」思想信条にくるまれた、邪悪な居直りである。それをビシッと指摘してくれる人が現れることを、あるいは私もビリーブラッグも「待って」いるのかもしれない。それは、自分の力で気づくことが本当に難しいことだからである。

でも、人を傷つけた人間が人に甘えてちゃいけないよな。

ではまたいずれ。

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