華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

トゥルー·ロマンスもしくは250曲目を迎えて (1996. 筋肉少女帯)



50曲目ごとに日本のアーティストの曲を取りあげるというのが、現在までに何となく確立しているこのブログのスタイルなのだけど、100曲目200曲目が女性アーティストの曲だった一方で、50曲目150曲目は男性アーティストの曲だった。順番から行くと250回目の今回は男性アーティストの曲ということになるのだろうけれど、誰のどんな曲を選んだものかといろいろ考えていたところで、見てしまったのが当サイトではお馴染み、正統派青春叙情ブログ絵日記文学作品「ミチコオノ日記」の第17話の予告記事の中に出てきた、下の画像である。



耳を地面につけて横たわっているのは東絛土(とうじょう·つち)さんという、いまだ物語の中では人物像がほとんど明らかにされていない謎のキーキャラクターなのだが、気になるその内容は「ミチコオノ日記」の本編を読んでもらうこととして、この絵を見た瞬間に、「土さんは地面の底から聞こえてくる歌に耳を傾けているのだ」という感じが、私はしたのである。キャプションにはそんなことは何も書かれていなかったのだけど。そして実際に絵の中の土さんに聞こえているであろうそのコーラスまでが、自分の耳に響いてくる感じがしたのである。

自分の耳に聞こえてきたその歌というのが、全くどうしてこんな歌のことを連想してしまったのだろうかと、自分自身でも理解に苦しむような代物だった。

らーーーーららーららー
ラブ·ゾンビ ラブ·ゾンビ
らーーーーららーららー
ラブ·ゾンビ ラブ·ゾンビ…

…という、筋肉少女帯のこの歌だったのだ。


トゥルー·ロマンス

昔の歌番組の常として(今の歌番組というのは実は10年以上見ていないのでどうなっているかはよく分からないのだけど)この動画では歌が最後まで歌われておらず、途中で終わっているのだが、一番筋少筋少らしい姿というのは、やっぱり大槻ケンヂがスキンヘッドにしたりしていなかったこの時代のものだろうと考え、あえてこの動画を選んだ。それにつけても、「ラブ·ゾンビ」って一体何なのだろうか。間に入ってる「·」まで含めて、こんな変テコな言葉が他にあるだろうか。いずれにせよ、「ミチコオノ日記」を読んだことのある人であれない人であれ、筋肉少女帯の音楽を聞いたことのある人であれない人であれ、今の私の頭の中にこの歌がぐるぐる回っていてどうしようもないことになってしまっている以上は、しばらく一緒にこの歌をめぐる話につき合っていただく他にない。

この歌をはじめ、90年代中期の筋肉少女帯の楽曲には、他のアーティストならおそらく誰も歌にしようとは考えないようなシチュエーションないし組み合わせの「愛」をテーマにした「ラブソング」が、たくさんある。そのハシリになっていたのが、94年に発表された「香菜、頭を良くしてあげよう」という曲だったのではないかと私は思っている。


香菜、頭を良くしてあげよう

歌の主人公は香菜さんという相手の女性のことを最初から「頭が悪い」と見下した上で、その頭を「良くしてやる」のが自分の「愛」なのだと言っている。その上で「頭を良くしてやる」と称して彼氏がやっていることは、香菜さんを図書館に連れて行って自分の選んだ本を読ませたり、名画座に連れて行ってカルトな映画を見せたり、要するに「自分の趣味を押しつけること」でしかない。そういうのを本当に「愛」と呼べるのだろうか。むしろそれって単なる「支配」なのではないだろうか。というのが私のみならずこの歌を聞いた多くの人の覚える感想なのではないかと思うのだけど、「本当の愛」とは何なのかという抽象的な問題は措くとして、実際問題この種の「愛」は世の中に横行している。親の子どもに対する「愛」や教師の生徒に対する「愛」(…と称するもの)の中には、こんな風に「愛していると言いながら支配する」という内容がいつも貫かれているのではないかと思う。この歌においては、そういうのを「愛」と呼んでいいのかということに、歌の主人公自身が「違和感」をおぼえているきらいがある。それでも彼氏がこんな風にしか歌えないのは、彼氏が「そういう愛」しか知らないからなのである。その意味で「頭を良くしてあげよう」と言いつつ、この歌の中ではむしろ歌の主人公の方が「香菜さん」に依存しているのだという関係性が成立している。それが「いいこと」なのか「悪いこと」なのかといったような「評価」は、私には簡単に下せない。「こんな風にしか愛せない」という切実性と「でもそんなことでいいのだろうか」という釈然としない気持ちとが相まって、とにかくこの歌は20年来、ずっと「心に引っかかる歌」であり続けている。

2年後の96年に発表された「そして人生は続く」という曲は、老人ホームを舞台とした、入所者のお爺さんとお婆さんが主人公の恋愛物語だった。これまた初めて聞いた時には、どう受けとめたらいいのか分からずに戸惑ったことを思い出す。決して「理解できない曲」というわけではないし、聞いた人間は私でなくても確実にいろんなことを感じるはずである。しかしそこからどういう「メッセージ」を受け取ればいいのかということについては、本当に聞く人次第としか言えない曲なんではないかと思う。ご老齢のお二人の純愛をオーケン自身がこの上なく美しいと感じ、それを讃えて歌っている歌であるようにも感じられるし、一方ではお年寄りの人たちを一番えげつないやりかたで「笑い者」にしている最低の歌であるようにも思われる。歌を作ったオーケン本人の中にもおそらく「正しい答え」はなかったのではないかというのが、久しぶりに改めて聞いてみた上での感想ではあるのだけれど、もう2〜30年たって自分自身が「老人」と呼ばれる年齢を迎える時分に聞き直してみたら、果たしてどんな感じがするのだろうか。YouTubeには上がっていなかったが一応動画は見つかったので、貼りつけておく。

ceron.jp

そして上記の曲と同じアルバムに入っている「ザジ、あんまり殺しちゃダメだよ」は、「人を簡単に殺してしまうクセのある女の子」に対する愛の歌である。「恋の歌」ではないかもしれないけれど間違いなく「愛の歌」なのである。この歌は、ものすごく聞き手を「試す」歌だ。この歌を耳にしてしまった人間は、自分が「人を殺すという行為」を一体どのように考えているのかということを、否応なく問われることになる。

「普通に生きている人」は、そういうことを正面から問われることに、慣れていない。だからそれを問われること自体に、すなわちこの曲そのものに嫌悪感をおぼえる人がいることは、不思議ではない。だがその「嫌悪感」だけでこの歌から距離を置くことのできる人は、人間が人間として生きて行く上でのものすごく重要な課題から単に「目をそらしているだけ」であるようにも思える。

だからといってこの歌は、そう簡単に「共感」の対象にできうる歌でもない。「人を簡単に殺してしまう人」のことを「好きになる」ことは、相手も自分も人間である以上「ありうる」ことなのだ。しかしそういう相手を「好きになる」ということは、その相手が背負っている「罪」を自分自身もまた背負うということを、必然的に意味することになる。

その「罪」って一体何なのだということを、この歌は最初から最後まで、一人一人の聞き手の胸に問い続ける。それは文字通りの「問い」でしかありえないのであって、歌い手自身もそのことに対する「答え」を持っているわけではない。ただ彼氏が知っているのは、自分はそういうザジさんのことを「愛している」ということだけだ。

「絶対殺しちゃいけない」でも「殺すなら俺がやる」でもなく、「あんまり」殺しちゃいけないという、主人公からのザジさんに対する距離の取り方が、ものすごくリアルに感じられる。それがこの主人公にとっての「愛し方」であるのかもしれない。

そしてこのスタンスの取り方は、主人公が「好きになった相手がたまたま人を殺してしまうクセのある人だった」ということではなく、「人を殺してしまうクセのある人だから好きになった」のだということを暗示しているのである。

…結局今の私にも、この歌に対しては何ら意味のあるコメントができそうにない。主人公はそういう相手を好きになった上で、「文句があるなら言ってみろ」と言っている。それがこの歌なのだ。そしてその問いを突きつけられた私自身、「あんまり殺しちゃダメだよ」としか言えないこの歌の主人公と同じように、「そういうのは世の中ではいけないことだとされている」ということは言えても、なぜそれを「いけない」と言えるのかという根拠は、自分の中をいくら探しても、見つけることができずにいる。とはいえこの歌に出会わなければ、私はそのことにすら気づくことができないままでいたことだろう。

でもそれに「気づいた」ことが果たして「いいこと」だったのか「悪いこと」だったのか。それは恐らく死ぬまで分からないことなのだろうとしか、私には言いようがない気がする。


ザジ、あんまり殺しちゃダメだよ

こうした「重いテーマ」を背負った歌を、ミディアムテンポの明るい曲調で徹底して陽気に歌いあげてしまうのが、筋肉少女帯の楽曲群の特徴をなしている。昔の私はこうした歌のひとつひとつから、

俺は人間というものを、全人類のすべてを、その「みにくい」と言われるような部分まで含めて、丸ごと愛しぬいてやる!

という、大槻ケンヂの魂の叫びのようなメッセージを受け取った気がしていたものだった。もとよりそこにあるのは決意ないし願望だけで、彼が実際にそういう風に全人類を愛せていたかと言えば愛せていたはずはないと思うし、今でもやっぱり愛せていないはずだと思う。本当に愛せていたなら、そもそもこうした歌なんて作ったり歌ったりする必要はどこにも存在しないはずだからである。

「決意がある」ということはその時点で「愛せている」のとイコールなのではないか、と考えたい気持ちを持っていた時期は、若い頃の私にもあった。でも結論だけ言うなら、それは間違いだった。どんな人間をも丸ごと愛してやりたいという「ココロザシ」それ自体は、決して悪いものではないと思う。ただしそれを中途半端な形で投げ出したりしたら、結果は最悪なことになる。大槻ケンヂ筋肉少女帯というバンドが20年前にやろうと試みたことは果たして「成功」だったのか「失敗」だったのか。20年経ったけど私にはいまだ「評価」の下しようがない。

とはいえそうしたかれらの曲が、当時の聞き手だった私を20年経ってもなお真剣に考え込ませてしまう力を持ち続けているという点において、少なくともかれらのやったことが「意味のあること」だったということは、言えると思う。そうでなければ。ねえ。それを真面目に考え続けてきた私の半生にもやっぱり「意味がなかった」ことになってしまうのだ。

そして発表された順番は前後するけど、そうしたかれらの楽曲群において、「トゥルー·ロマンス」というのは一番「行くところまで行ってしまった曲」だったのではないかという感じがする。この曲に描かれている「愛」は、生きた人間同士のものですらない。生きる人間と「死者」との間に交わされる愛という、本当にありえない形の恋愛が、あえて「トゥルー·ロマンス(真実の恋愛)」というタイトルのもとに歌いあげられている。

なぜそれが「真実の恋愛」だという話になるのだろうか。この曲に限らず、大槻ケンヂの楽曲の中では実にしばしば人が死ぬし、死人もたくさん登場する。何だかあの人自身が、「生きている状態の人間」をとても未完成なものだと考えていて、死ぬことによって初めてそれが「完成された何か」になるのではないかといったような感覚を持っている感じの印象を受ける。その伝で行くなら。死者との間に交わされる愛があの人にとって「恋愛の究極形態」になるということは、あながち不思議な話ではない。

しかし、死んだ人間との心の交流や、あえて言うなら「愛」を歌った曲というのは、別にこの曲以外にも世の中にはたくさん存在しているわけである。ところがこの曲に出てくる「死者」は、「心の交流」の主人公であるだけにとどまらず、「肉体」を備えている。それも「ラブ·ゾンビ」と言うぐらいだから、死人としての肉体、文字通り腐敗してグチャグチャになった肉体であるわけだ。その点が、この曲を他のあらゆる「ラブソング」から完全に区別している。

そういうのを恋愛さらには性愛の対象にできる感覚というのを私には本当に分からないので、少なくとも今のところ、この曲に関してはそれ以上のことを何も書きようがない。

ただ、この曲が頭の中を回り出してからのここ一週間ぐらいというもの、私はこんな風に「死人」や「死体」の出てくる歌というのがやたらと気になり出して、気がつけばそんな曲しか聞かないようなことになってしまっている。「死人」が出てくる歌それ自体は、探してみたら本当にいくらでも出てくるのである。そのうち特集記事を組むことがあるかもしれない。

この歌に出てくる「まるでノープロブレムなの」という彼女の台詞に、当時テレビで流れていたNOVAのCMの影を見て取ったりすることができるのは、今にして思えばこの歌と同時代を生きてきた人間だけが共有できる感覚なのだろう。まだ30代なのに、「この歌の心を知る人はもはや少なくなってしまった…」という古老のような感覚に、私はとらわれてしまっている。

いずれにしてもこうした人たちが登場してこれる余地というものをほとんど失ってしまったこの2010年代というのは、間違いなくあの頃に比べて「生きづらい時代」になっているのだなという気持ちを否めない。決してマイナーなバンドでもなかったのに、改めて紹介しようと思って調べてみたらあの頃の筋肉少女帯のアルバムはほとんど廃盤になってしまっているのだな。

何はともあれまたいずれ。ニルヴァーナ特集に戻りたいと思います。

==============================
はじめての方へ(総目次)
曲名索引(ABC順)
邦題索引(あいうえお順)
アーティスト名索引(ABC順)
アーティスト名索引(あいうえお順)