華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

閑話休題#1. 「HINOMARU」という「ヘンな歌」について

20世紀の終わり頃までは、情けない話、今みたいな時代がもう一度来ることになろうとは、全然思っていなかった。「今みたいな時代」というのは、「戦前みたいな時代」ということである。

だからその頃の私は音楽のことしか考えていなかったし、音楽だけを信じていた。音楽さえ信じていれば、今は昔と違うのだから、そのうち戦争もなくなるだろう。そんな風に思っていた。

けれどもいざ今みたいな時代がめぐってきた時、フタを開けてみれば音楽というものは本当に「無力」だった。「弱い者の味方」だったはずのロックンロールが、「人間を支配する国家」ではなく「それに反逆するテロリスト」の方を平気で攻撃し始めるようになった。(その意味では「無力」ではないのだ。「強い存在」に付き従うことでそこから「力」をもらっているのだ。私は人間の弱さを否定しないけど、そういうことを臆面もなくやれる人間こそ「一番弱い」のだということだけは、思い知らせてやりたい気がする)。

今まで自分が信じていた音楽、自分を支えてくれていたはずの音楽というものは、一体何だったのだろうかと私は思った。その意味を本当に「分かって」聞いていたのだろうかと不安になった。それが直接には、こうしたブログを始めたことの理由になっている。そうやって「自分の青春に決着をつける作業」を終わらせなければ、もはや一歩も先に進めない時代に入ってしまったことを痛感しているからである。辛くなったらいつでもそこに逃げ帰ることのできる「過去」などというものは、もはや存在しないのだ。その「過去」がデタラメだったおかげで「今」みたいな時代になってしまったのだということを本気で反省できないなら、歴史というものは「あっても無意味」なのである。

それでこんな風に古今東西のいろんな歌の「歌詞」と向き合うことが私の生活の多くの時間を占めるようになったのだけれど、そんな中でこのかん話題になっているRADWIMPSというグループの「HINOMARU」なる歌の歌詞が、こんな時代なもので、イヤでも目に飛び込んでくることになった。

一読して私は、何なのだこれは、と思った。

こういう時事ネタで歌詞を直接転載すると絶対JASRACが襲撃してくるので、リンクを貼るに止めるが、歌い出しからして、何なのだろう。

(いにしえ)よりはためく旗に

というのは、タイトルが「ヒノマル」である以上、そのことを言ってるのだろうけど、あれが「日本という国家」の旗になったのはたかだか150年前くらいのことである。少なくとも前前前世ぐらいにさかのぼれる大昔のことでなければ、「いにしえ」などという大げさな言葉は、普通、使わない。と言うか、「いにしえ」という言葉に値するような大昔には、「日本という国家」それ自体が、存在していなかった。

「ヒノマル」が「国家の旗」になる以前は、太陽を象った旗というものはたかだか「天皇家」という「家の旗」にすぎなかった。(あの家の紋章は周知の通り「菊」だが、天皇家が自らの支配を正当化するために作りあげた「神話」において、「太陽」はあの一族に「占有」されるべきものとされている。「日の丸」が「国家の旗」とされたのは、その文脈においてである)。

「人の家の旗」を見上げて「意味もなく懐かしくなる」感覚というものには、本当に「意味がない」と思う。付け加えて言うなら、戦時中に本当に「意味もなく(などと軽々しくは言えないと思うが、それにしてもあまりに不条理に)」犠牲になった朝鮮半島や中国やアジアの人たちはもとより、「日本人」であるあなたや私の祖先たちも、「いにしえ」から遡るなら、その「家」の利害のために殺されたり迫害されたり搾取されたりしてきた人間の方が、圧倒的に多かったはずなのである。

ひと時とて忘れやしない
帰るべきあなたのことを

という歌詞が唐突に出てくるのは何なのだろうと思ったけれど、これはおそらく「拉致被害者」の人たちがイメージされたフレーズなのだな。

鬼子母神の話って、知ってるだろうか。

仏教説話なのだけど、昔インドに訶梨帝母と呼ばれる夜叉の女がいた。訶梨帝母には500人の子どもがいたのだけれど、それだけの子どもを育てるための栄養をつけるために、人間の子どもを次々にさらってきては、食べていた。それで近隣の人々から、恐れられていた。

これを見かねたお釈迦さまは、500人いる訶梨帝母の子どもを1人だけさらって、隠してしまった。訶梨帝母は泣き叫んで世界中を探して回り、最後にはお釈迦さまにすがりついてきた。

お釈迦さまは「お前は多くの子を持ちながら、一人を失っただけでそれだけ嘆き悲しんでいる。それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみはいかほどであろうか」と訶梨帝母を諭した。反省して改心した訶梨帝母はそれ以来、鬼子母神という名前で仏法の守護者となり、愛されるようになった。

...という話があった上で、日本という国家は20世紀の初頭、何万人もの人々を朝鮮半島や台湾から「拉致」してきて、強制労働につかせていたことを、RADWIMPSの人たちは、知っているだろうか。それで帰れなくなったり、帰ることをあきらめざるを得なくなったりして、今でもこの列島にとどまっている人たちやその子孫の人たちのことが、RADWIMPSの人たちにはどんな風に見えてるのだろうか。

家族を奪われた人たちが「返せ」と主張するのは当然のことだけど、「日本という国家」が「返せ」と主張するのは少しも「当然のこと」ではない。まず、自分のやったことを反省して謝罪することから始めるのが筋というものだろうと、「日本人として」私は思っている。それを

さぁいざゆかん

…って、お前ら何をしに行くつもりなのだ。

とはいえ、そういうことは、言い出したら本当にキリがない。

「歌詞の分析」ということに役割を特化させているこのブログにおいて、どうしてもこの曲を取りあげざるを得ないと私が判断したのは、この歌に使われている日本語が、あまりにもメチャメチャだからである。

「知識や教養」をひけらかして他人より優位に立とうとするようなことは、およそ真面目な議論をしようとする人間のやることではない。しかしこの歌を作った人間が歌詞の中に「ヘンな言葉」をあえて散りばめているのは、自分をカッコよく見せたいとか、あるいは「自分の好きな日本」というものをカッコよく見せたいとか、そういう理由にもとづいてのことなのだと思われる。

だったらその文脈にもとづいてそれがいかに「カッコ悪いこと」であるかを指摘することは、「忠告」にはなっても「マウンティング」にはならないだろう。私はハッキリ言って、この人たちには「コリて」ほしいと思っている。これにコリて、二度とこんな恥ずかしい歌を作ろうなんて気を起こしてもらいたくないものだと思っている。

文語体と口語体の不自然な混合、「僕」という一人称の選択の仕方の欺瞞性など、この歌の日本語の「おかしな部分」は挙げていけばキリがないのだが、私が一番「何だこりゃ」と思ったのはこの部分である。

僕らの燃ゆる御霊は 挫けなどしない

...「僕らの御霊」って、何なのだろうか。「自分の霊魂」に対して「敬語」を使う人間というものを、私は初めて見た。ということはやっぱりこの人たちは、「自分」に対しても「敬語」を使うのだろうか。それこそ自分のことを、何様だと思っているのだろうか。

私自身は、「敬語」全廃論者である。けれどもその私自身、「敬語」という日本独特の差別文化からは全く「自由」になれていない。日本社会が差別社会であり、かつ他者との「上下関係」を常に「敬語」によって確認することを強制される社会である限り、そこで生きる人間は「敬語」の使い方を正確に身につけることができなければ、自分の身を守ることができない。だから人を差別することなど知らずに生まれてくる子どもたちや、そんな差別の存在しない外国からやってきた人たちに日本語を教える際には、それが「差別の仕方」を教えることにしかならないということが分かっていても、我々は「敬語の使い方を教えること」を、避けて通ることができないのである。そのことに私は、いつも歯がゆさと口惜しさと情けなさを感じ続けている。

なので、「日本文化の美しさ」みたいなことを口にする人間が無造作に「間違った敬語の使い方」をしているのを目にすると、私は腹が立つのだ。そういう「間違い方」ができるのは、普段のかれらが敬語なんて使わなくても済む世界で生活しているからだろう。つまりは「敬語を使われる側」で生きているからだろう。

「敬語を使わされる立場」の人間は、どんな思いをさせられながらそれを学んでゆくのかということを、考えたことがあるのかと言いたくなる。と言うより、大部分の人間はそれを知っているはずなのだ。でも、自分が敬語を使われる立場になったらそれが気持ちよくなるから、「使わされる屈辱」は簡単に忘れることができるのだ。

偽善であることは明らかだし、結局は権力者が気持ちいいか良くないかで決まってしまうことだとはいえ、敬語の使い方というものにも「それなりのルール」は存在する。「自分を低めて、相手を高める」のが敬語の基本だということである。

だから自分の会社は「弊社」って言うし、相手の会社は「御社」って言いますよね。自分の会社を「御社」って言ったらおかしいことぐらい、分かりますよね。

だったら自分の霊魂を「御霊」と呼ぶことが「おかしい」ことも、分かるはずですよね。「ごりょう」と読ませてるのか「みたま」と読ませてるのかは、歌自体は聞く気がしなかったので、知りませんけれど。

そしてその伝で行くならば、「自分が所属している国家」である「日本国」のことを「御国」と呼ぶのも、原則的には「おかしなこと」になる。にも関わらず戦前の学校教育においては、「日本人」は「日本国」のことを「御国」と呼ぶことを強制されていた。このことには、理由がある。

当時の制度において「日本という国家」は「人民のもの」ではなく「天皇のもの」だったからである。

だから、その制度が改められた現在においても「御国」という言葉を使い続けている人間は、少なくともこの日本という国家のことを「自分の国」だとは思っていないことになる。RADWIMPSの人たちがそれを「誰のもの」だと思っているのかは、知らないのだけど。

それにも関わらずRADWIMPSの野田という人は、この曲について、こんな風に語っているらしい。

(前略)世界の中で、日本は自分達の国のことを声を大にして歌ったりすることが少ない国に感じます。歴史的、政治的な背景もあるのかもしれません。色んな人がいて、色んな考え方があります。誰の意思や考え方も排除したくありません。

僕はだからこそ純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたいと思いました。自分が生まれた国をちゃんと好きでいたいと思っています。好きと言える自分でいたいし、言える国であってほしいと思っています。
まっすぐに皆さんに届きますように。

...日本という国家を「自分達の国」だと思っているのであれば、「御国」という歌詞も「御名」という歌詞も、差し替えなければ大変なことになるだろう。あと、「右も左もなく」みたいなことを言っているけれど、そういう風に「自分が生まれた国」のことを「自分が生まれたから」という理由だけで特別扱いして何をやっても許されると考えているような思想傾向のことを世の中では一般的に「右」と言うのだということは、覚えておいた方がいいだろう。私だって昔は「右も左もない」と思っていたけれど、そういう自分の考え方が「左」であると言われるようになって、「だったら左でいい」と決めたのだ。少なくとも「右」にだけは、絶対なりたくなかった。恥知らずのエゴイストになんて、死んでもなりたくはなかった。

こういう歌をあくまで歌い続けたいというのであれば、まずはそのことをハッキリさせるべきなのだ。「僕たちは恥を知らずに生きていきたいエゴイストなんです」と。その方がこっちだって、ケンカがしやすくなる。

彼らがどうせ「自分たちは誤解されている」といったような気持ちでいるだろうことは想像に難くないのだが、言葉というものが常に「本人の表現しようとした以上のこと」を表現してしまうものなのだということは、言葉を商売にしようとしている人間であるならば、覚えておいた方がいい。私が「HINOMARU」の歌詞を一読して「彼らは敬語の使い方を知らない」という「情報」を読み取ったのは、彼らの自覚していないことではあるだろうが、別に「誤解」ではない。そういうものとして私は彼らのことを「理解」したのである。「ジョハリの窓」の③の部分に表現される「自分」というものは、「自分では自覚できない自分」ではあるものの、そこまで含めて人間は「自分の言葉に責任を取らねばならない」のであって、これは当たり前のことなのだ。諸君の言葉に「怒っている」人たちは、諸君にそれに「気づいて」ほしいからこそ怒っているのである。それに気づこうともしないで「誤解する人間が悪い」みたいな態度を取り続けていたならば、諸君は早晩、誰からも相手にされないことになるだろう。まして、私が上に書いたようなことはほとんど「揚げ足取り」のレベルに過ぎないことではあるものの、自分にとって大切な人たちを「ヒノマル」の旗によって殺されてきた歴史を持つ人たちは、私なんかより遥かに深く的確に諸君の歌に込められた「メッセージ」を「理解」し、その上で「許せない」と感じているのだということは、絶対に忘れないでもらいたい。

「まっすぐに皆さんに届きますように」とか言ってるけれど、「まっすぐに届いた」からこそ、「君の名は。」の主題歌に本気で感動したアジアの若い人たちは、今は「裏切られた」と感じて本気で怒っているのだよ。

その怒りを「まっすぐに」受け止められない人間に、「まっすぐ」などという言葉は死ぬまで使ってほしくないと思う。そのまま死なれたって、それはそれで困るのだけど。

とはいえ、自分自身に対して平気で敬語を使ってみせることに何ら違和感を感じない彼らの楽曲というのは、少なくとも「今までの日本文化」の中から生まれてきたものではない。何かそれと全く異質な、選民思想的な質を孕んだ新しい「文化」を背景に生まれてきたものだとしか思えない。

私は左翼なので、それを理由にかれらのことを排撃しようなどとは決して思わない。かれらが自分のことを何様だと思っているのであれ、それがかれらの内側での自己満足にとどまっている限りにおいては、勝手にすればいい。

しかし自分自身に対して敬語を使っても恥じないような人間のことを、日本語世界では「オレ様」と呼ぶのである。自分のことを「オレ様」と呼ぶ人間が、放っておけば他人に対しても自分のことを敬ったり卑屈に振る舞ったりすることを強要し始めることは、火を見るよりも明らかだ。

そういう人間たちが好き勝手をやり始めることに対しては、私にも戦う準備がある。

ということは「今」書いておかねばならないと思った6月半ばの昼下がりだった。

ではまたいずれ。トム·ウェイツの「Closing Time」は、全訳モードで行きたいと思います。





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