華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

There Is Power In A Union もしくは権利とただしさの歌 (1986. Billy Bragg)

「権利」ちゅーのんは、「なになにしてもいいこと」とは、違うんです。「なになにするのは人間として正しいことや」ちゅーことが、「権利」なんです。せやから英語では「right」ちゅーんです。「right」ちゅーのんは、「正しいこと」ちゅー意味です。みなさんに「基本的人権」があるちゅーことは、「人間として生きてもかまへんよ」ちゅーよーなこととは、違うんです。「人間が人間として生きるのは正しいことや」ちゅー意味なんです。せやから人間にとっていちばん大切なんは、「胸張って生きる」ちゅーことや思うんです。

…中学の時に好きだった先生が、「人権学習」の時間に言っていたことだった。熱く語るというのでもなく、その先生自身が一生懸命考えながら、一言一言を探すようにして話していた姿をよく覚えている。

「権利」という言葉が、20世紀の感覚だとありえないぐらいに、攻撃される時代を迎えている。「所有権」や「財産権」や「抵当権」に文句をつける人はほとんど見当たらないにも関わらず、こと「人権」に関することは、マスコミを先頭に寄ってたかって全面否定の対象にされている。

思うに「人権」という言葉に難癖をつけたがる人間たちというのは、「権利」というものを「なになにしてもいいということ」という意味でしか、「理解」していないのだろうと思う。その上で自分たちのことを、他の人間に「なになにしてもいいよ」と「許可を与える立場の人間」ででもあるかのように、カン違いしている節があるのではないかと思う。だから「自分たちの許可も受けずに勝手になになにしている人間」の存在が、むかついてたまらないのだろう。

自分のことを何様だと思ったらそういうむかつきかたができるのだ、と私は思う。もっと率直な言い方をさせてもらうなら、むかつくのはお前らだ。と思っている。

人間が人間として生きて行くことには、誰の「許可」も要らないのだ。それがあらゆる「権利」の一番はじめに存在している「right=正しさ」というものではないのだろうか。

「不輸の権」「不入の権」という言葉が日本史の授業に出てくるように、「権利」という言葉自体はかなり古い時代から存在した日本語なのかもしれない。だがそうした時代における「権利」とは文字通り「権力」の「権」であり、何であれほしいものを力づくで奪い取った者に正当性と言うか優先権が発生するという、そういう「思想」にもとづいた概念だった。「right」を「正しさ」と解釈するなら、少なくとも私の「正しさ」の基準からすれば、真逆の代物だとしか思えない。

いわゆる「明治の知識人」たちが「right」を「権利」と翻訳してしまったところからいろんな間違いが始まったのだ、ということになるのだろうが、もっとも彼らにそうした「良心」を期待すること自体が、ムダなことであるようにも思える。当時の彼らにとっては「国権」と「天皇大権」こそが「right=正しさ」であり、彼らはそれを「説明」できる言葉を探していただけであって、「人間は平等である」という思想は最初から危険思想としか見なされていなかったのが、あの時代の「趨勢」だったわけだからである。もちろん「民権」という言葉も同時に生まれてはいるわけなのだけど、それが「古い言葉」になって生命力を失ってしまったのは、やはり「権力」の「権」が日本においては一貫して「力」を持っていたからなのだろうな、という気がしてならない。

もとより、「right」という言葉が違った形で翻訳されていたらそれだけで日本の歴史は変わっていただろうとかいった類の、観念的な話をするつもりはない。「right」の本場であるはずのイギリスやアメリカにおいても、「不正な権力」はいまだに存在し続けている。けれども、かなり多くの人の「生き方」が、それによって変化することはあり得たのではないかと思う。

「私にはなになにの権利があります」といったような言葉を、胸を張って言えるような人というのは、なかなかいない。とりわけ自分が「弱い」人間であることを自覚している人は、まず口に出せない。「権利」というのは「強い」人間のために存在している言葉なのだということを、日本語世界に生きている人間は、心のどこかで分かっているからである。そしてそれは実際に、その通りだったのだ。

けれども「私には私の正しさがあります」という言葉なら、「強い」「弱い」に関わりなく、言えるはずである。それを本当に「正しい」と思う信念さえあれば、誰にだって言えるはずである。

頭脳警察というバンドの歌に「君達にベトナムの仲間を好き勝手に殺す権利があるのなら、我々にも君達を好き勝手に殺す権利がある」というフレーズがあり、「弱い立場にある人間」にもそんな形で「権利」を主張することができるのだということは、昔の私にとってとても衝撃だった。けれどももしこのフレーズが「君達にベトナムの仲間を好き勝手に殺す正しさがあるのなら、我々にも君達を好き勝手に殺す正しさがある」となっていたならば、この歌はもっと多くの人の耳に届いていたのではないか、と思わずにいられない。

「あなたには権利がある」と言われても、日本語世界では(と言うかそういうことを言われること自体、日本語世界でしか起こらないことなのだが)「ピンと来ない人」の方が多いのではないかと思う。だが「正しいと信じること」なら、誰の心の中にだって、あえて言うけど「必ず」あるはずなのだ。

しかしながら「正しさ」が「正しさ」である以上、言葉や行動に移されることがなければ「形」にはならない。その意味で、「自分の中にだけ存在する、自分にしか通用しない正しさ」みたいなものは、基本的にはありえないし、あったとしたらそれは既に「正しい」ものではない。「正しさ」というのは飽くまでも人間と人間の「関係」の中にだけ、成立しうるものなのだ。誰とも分かち合えないような「正しさ」を、人は「正しさ」とは呼ばない。

だがもしもその「正しさ」を、立場を同じくする他の誰かと分かち合うことができたなら、その「正しさ」は本当に「間違ったこと」を「ただす」ことのできる、具体的な「力」となる。そして分かち合える相手が多ければ多いほど、その「力」はより一層、大きなものとなる。

そのことの上で、現代の世界において、様々な人間の集団が掲げる「正しさ」の数は、決して「ひとつ」ではない。自分たちに他人の「生きる権利」を奪ったり制限したりできる「権利」があると考えている人間たちにとっての「正しさ」と、それを奪われる側の人間にとっての「正しさ」が、同じ「正しさ」でありうるはずはない。だからどちらの「正しさ」が「勝利」をおさめるかを賭けて、「戦う」ことが必要になる場面も、人間には存在すると私は考えている。

けれども同時に、世界中のどんな人たちとも分かち合うことのできるひとつの普遍的な「正しさ」というものは、必ず存在すると私は確信している。

だから私が「戦う」ことがあるとすれば、飽くまでその「正しさ」を守るためである。自分と立場を同じくする外国の人たちと殺し合いをさせられるぐらいなら、「自分の国」と戦うことを私は選ぶ。この立場だけは、今後時代がどんな風に動こうとも、最後まで貫き通そうと決意している。それが私の「権利」であり「正しさ」なのだ。

ビリー・ブラッグ特集、「Talking With The Taxman About Poetry」のB面一曲目、奇しくも翻訳のタイミングが衆院選の投票日と重なってしまうことになりました。2015年公開のイギリス映画「Pride」(邦題「パレードへようこそ」)の主題歌となった、「There Is Power In A Union」という曲です。映画の方も本当にいい作品だったので、まだ見たことのない方はぜひ併せて観てみてほしいと思います。ではまたいずれ。


There Is Power In A Union ("Pride" 2014. Last Scene)

There Is Power In A Union

英語原詞はこちら


There is power in a factory, power in the land
Power in the hands of a worker
But it all amounts to nothing if together we don't stand
There is power in a Union

工場にはものを作り出す力があり
大地にはものを生み出す力があり
そしてひとりのはたらくひとの手にも
何かを作り出す力がある。
けれどもわれわれが
力を合わせて立ち上がらない限り
すべてはゼロになる。
力は労働組合から生まれる。


Now the lessons of the past were all learned with workers' blood
The mistakes of the bosses we must pay for
From the cities and the farmlands to trenches full of mud
War has always been the bosses' way, sir

すべての歴史の教訓は
労働者の血に染まっている。
われわれがつぐなってやらねばならない
ボスたちのあやまちを通して
われわれは学ぶのだ。
都市や農村から
泥だらけの塹壕の中に至るまで
戦争はいつでも
ボスたちのやりくちで
おこなわれてきたんですよ
だんな。


The Union forever defending our rights
Down with the blackleg, all workers unite
With our brothers and out sisters from many far off lands
There is power in a Union

われわれの正しさと権利を守る
労働組合
とこしえに。
スト破りはくたばれ。
すべての労働者は団結しよう。
遠いはるかな国々の
兄弟たちや姉妹たちと共に。
労働組合には力がある。


Now I long for the morning that they realise
Brutality and unjust laws can not defeat us
But who'll defend the workers who cannot organise
When the bosses send their lackies out to cheat us?

ある朝やつらは気づくだろう。
その日が待ち遠しくてたまらない。
残虐さや不正な法律で
われわれを打ち負かすことはできないのだ。
でも自らを組織できない者に
どうやって労働者を守ることができるだろう。
ボスたちはわれわれをだますために
自分らの手下を送り込み続けているというのに。


Money speaks for money, the Devil for his own
Who comes to speak for the skin and the bone
What a comfort to the widow, a light to the child
There is power in a Union

カネについて語る者は大勢いる。
悪魔は自分自身について語る。
骨身の底から出てくるような言葉を
語ってくれる者はいないものだろうか。
連れ合いを失くした女の人をなぐさめ
子どもたちを照らす光になる
労働組合にはその力がある。


The Union forever defending our rights
Down with the blackleg, all workers unite
With our brothers and out sisters from many far off lands
There is power in a Union.

われわれの正しさと権利を守る
労働組合
とこしえに。
スト破りはくたばれ。
すべての労働者は団結しよう。
遠いはるかな国々の
兄弟たちや姉妹たちと共に。
労働組合には力がある。

=翻訳をめぐって=

中川敬というミュージシャンがこの曲に日本語歌詞をつけて「団結は力なり」というタイトルで歌っており、当初は私もその線で訳そうと考えていたのだったが、調べてみると確かに「union」という言葉には「結合」「団結」という意味があるものの、その場合には不可算名詞となる言葉であり、この歌詞のようにaやtheがついて可算名詞として使われている際には、「労働組合」もしくは「組合」としか訳せないのだということが分かった。この歌はもともとサッチャー政権による首切り合理化に抗議する炭鉱労働者のストライキの応援歌として作られた歌であり、それで抽象的な「団結」「連帯」といった言葉ではなく、具体的な「労働組合」という言葉が使われているということなのだと思う。中川敬のカバーは言わば彼による「改作」であり、「団結は力なり」というタイトルが「誤訳」であるとまでは私も思わない。ただ、私の方が「誤訳」をしていると感じる人がいても困るので、一応付記しておくことにした。改めましてまたいずれ。

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