華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Love もしくは銀の腕時計 (1970. John Lennon)

Love

英語原詞はこちら


Love is real,
real is love

愛是真的 真的可愛
愛とは
たしかなもので
そのたしかさを
愛と言うんだ。


Love is feeling,
feeling love

愛是感受 感受到愛
愛を感じるということ。
それが愛なんだ。
愛とはその感覚の
名前にほかならない。


Love is wanting to be loved
愛 是希望被愛
愛されたいと思うこと。
それが愛だ。
愛は愛されたいと思っている。


Love is touch,
touch is love

愛是軽触 軽触即愛
触れること
それが愛で
触れるということは
愛しているということだ。


Love is reaching,
reaching love

愛是伸手 伸手去夠到愛
愛をつかもうと
手を伸ばす
そのこと自体を
愛と言うんだ。


Love is asking to be loved
愛 是索求被愛
愛を求めること
それが愛で
愛は愛されることを
求めている。


Love is you
You and me

愛是你 我与你
愛とはあなた。
あなたのこと。
あなたと私。
それが愛。


Love is knowing
We can be

愛是相知 我們可以如此
わたしたちは愛しあえる。
それがわかる気持ちを愛という。
わたしたちが愛しあえることを
愛は知っている。


Love is free,
free is love

愛是自由 自由即愛
愛は自由なものだ。
何にも束縛されず無償で無限だ。
愛するということは
自由であるということなんだ。


Love is living,
living love

愛是活着 活出愛
愛は生きている。
愛とは生きること。
愛とは愛を生きること。
生きている愛。


Love is needing to be loved
愛 是需要被愛
愛とは
愛を必要とする
その気持ちのこと。
愛は愛されることを必要としている。






中国語訳:阿詩 @上海


Love
























=翻訳をめぐって=

この曲の入ったアルバムジャケットの写真が、私には昔から「顔」に見える。木の幹と枝に切り取られた空間が作り出す「顔」。

だがそんなことは、どうでもいい。

本当ならこういうシンプルな曲に「翻訳をめぐって」など不要であることは、分かっているのである。見た目もその方が不敵で、しゅっとしていて、カッコがいいし、読む人だって何と言うか、ほわーんとして、一篇の映画を見終わったようなそんな気持ちになって、さあ改めて新しい一日を迎えるかとか、そういう印象を受け取ってくれるはずなのである。要はつまり、「翻訳した作品」はナマのまま放り出すことによって初めてこちらも「作品」として受け取ってもらうことが可能になるのであり、言い訳がましいゴテゴテした「解説」など、誰が読みたいと思うだろう。そういうのを読みたくてこのブログを探し当ててくれる人も、まあ、一定数はいるのかもしれないけれど、基本的にあらゆる芸術作品というものは、作品そのものが全てなのであって、「解説」などというものは、できれば無いにこしたことはないのである。

もっとも「翻訳」というのはそれ自体が「解説」を孕んでいる行為だから、全くゼロにするわけにはもちろん行かないのだけど、翻訳し終えた作品にさらに「解説」をつけるということは、やはり基本的に見苦しいことでしかない。だからそういう見苦しいことはなるたけしないで済ませられるように私は心がけているつもりだし、そのことは今までに取りあげてきた他の楽曲に関しても、同じことである。

だがこの曲の翻訳に関しては、そうした私の「日本語使い」としてのプライドみたいなものがズタズタにされるような出来事が発生してしまったため、どうあっても「翻訳をめぐって」の一項を設けないわけには、行かなくなった。

上記の試訳で中国語訳の担当者として名前をクレジットさせて頂いた阿詩@上海、日本語に直すと上海のシーちゃんという人は、いまだハタチになるかならないかの中国人留学生なのだけど、ハッキリ言ってめちゃめちゃアタマのいい人である。私は「アタマがいい」という言葉を悪口以外では絶対に使わない人間だし、この場合もそうなのだけど、この人みたいな年頃の人に対してはどうもそれが真っ直ぐ伝わらない傾向があり、結局ヨロコばせてしまうことになったりするので内心スッキリしないものがあるのだが、何しろアタマがいい人であることは事実なので、そこは素直にそう書くより他しかたがない。このシーちゃんさんは私の中国語の先生にあたる人であり、私が今までこのブログで取りあげてきた中国語のいろんな楽曲も、実はこの人の紹介によるところが極めて多い。全部というわけでは、ないのだけどね。

そして楽曲に話を戻すなら、私はこの曲の日本語訳を、一応自分の力で、完成させたのである。しかし原詞のシンプルさと比べた時、自分の日本語訳がどうしても説明くさくなってしまうことに、納得が行かなかった。Wikipediaの教えるところによるならば、ジョン・レノンはこの曲の歌詞を、松尾芭蕉の俳句からインスピレーションを得て書き上げたらしいのだ。俳句の手法で書かれた歌詞を、俳句を生み出した言語である日本語に直した時、その文字数が原文を上回ってしまうなどというのは、何ともけったくその悪い話ではないか。(ただし、俳句の影響について言及があるのは日本語版Wikipediaの記事だけであり、英語版だとどこにもそんなことは書かれていない。付け加えるなら「John Lennon Haiku」で検索してみても、ヒットするのは日本語のページばかりであり、海外サイトで見つかるのはせいぜい「最近俳句にハマってるんだ」というジョンのコメントの引用ぐらいなものである。何か、このことで大騒ぎしているのは日本語世界の人間だけなのだなという、みっとも恥ずかしい印象を私は受けた)。

それで私が思いついたのは、英語と言語構造の似ている中国語を使えば、もっとシンプルな言葉でこの歌を翻訳することが可能になるのではないかということだった。それを参考に漢文的な日本語に組み立て直せば、もうちょっとサマになる日本語訳ができあがるかもしれない。

そう考えて「百度」という中国の検索サイトでこの曲の中国語訳を探してみたところ、よくしたもので、「愛是真実 真実即愛」で始まる中文訳がたちまち見つかった。さすがは中国語だと私は思った。「愛ハコレ真実ナリ。真実スナハチ愛ナリ」。歯車のすり減った私の関西的日本語では、到底マネのできないシンプルさである。こういう感じが、ほしかったのだ。

「でもなー」と、ブラックマヨネーズの吉田さんのように私は思った。

Love is real」の「real」を「真実」という言葉で翻訳するのって、どうなんだろう。

実を言うと私が最初の日本語訳にあたって一番頭を悩ませたのも、この冒頭の「Love is real / Real is love」という部分だった。「real」という言葉は形容詞であり、名詞にすると「reality」になる。だから「Real is love」というこの後半部分の歌詞には、そもそも英語話者から見ても文法的に無理のある表現が使われているのであり、その「無理のある感じ」をそのまま再現しようとするなら、「リアルだそれが愛なんだ」みたいな「工夫した訳し方」をする必要が出てくるだろう。この事情は後段に出てくる「Love is free / Real is free」という歌詞に関しても、同様である。最終的にそういうややこしい訳し方は、しなかったのだけどね。

しかしここでの問題は、「real」という言葉の「内容」である。この言葉には、本当にたくさんの意味がある。「本物である」という意味、「真実である」という意味、「実在する」という意味、「現実的である」という意味…この中からどれかひとつだけを恣意的に選択するような翻訳の仕方をすれば、「他の意味」は全部消えてしまう。つまり、誤訳になる。外国語の歌の翻訳でいつも一番悩むのは、こういうケースである。

そして私が悩んだ挙句に最初に作った訳詞は、以下のようなものだった。

Love is real
Real is love

愛とは
たしかめることのできるもので
たしかめることのできるもののことを
愛と言うんだ。

…「どないや」と私は会心の笑みを浮かべた。むかし「国語」の教科書に載ってた「大蔵じいさんとガン」で覚えた笑い方だ。勘蔵じいさんも読んでることだろうから、覚えといてほしい。こういう書き方をすれば、ジョンレノンが「real」という言葉に込めようとしたであろうほとんどの内容は、こぼれまい。

だがそういう風に考えてみると、中国語訳を「愛是真実 真実即愛」とした場合、

愛とは真実のことだ。
真実のことを愛と言うのだ。

と訳するのと、何も変わらない。それでは、つまらぬ。

それで私は上海のシーさんにジョンの原詞と百度の中国語訳と私の日本語訳を全部送り、「シーさんだったらどう翻訳しますか?」と尋ンねてみた。関西弁です。たンねてみた。

そしたらシーさんからは、5分足らずで上記の中国語訳が送り返されてきた。その速さと正確さに、私は舌を巻いた。せっかく巻いた舌を使わないのもモッタイないので、その巻き舌のまま

雷鳥は寒かろラリルレロ
蓮華が咲いたら瑠璃の鳥

という「ガラスの仮面」で覚えた演劇の発声練習を5遍ほど繰り返した。ウソだけど。

ところがさらに5分と経たない間に、「ナギさんの訳を参考に私も作ってみました」というコメントつきで、シーさんが翻訳した日本語バージョンまでが送られてきた。それが、以下の訳詞である。

Love

Love is real,
愛は確かなものなんだ
real is love
その確かさが愛なんだ
Love is feeling,
愛は感じることなんだ
feeling love
その感じたものが愛なんだ
Love is wanting to be loved
愛は愛されたい気持ちのこと
その気持ちこそ愛なんだ

Love is touch,
愛は触ることなんだ
touch is love
その触り心地が愛なんだ
Love is reaching,
愛は手を伸ばして掴もうとすることなんだ
reaching love
手を伸ばすことを愛というんだ
Love is asking to be loved
愛は愛を求めること
求めて初めて愛を知るんだ

Love is you
愛はあなた
You and me
私とあなた
Love is knowing
私とあなたが知り合うこと
それが愛なんだ

We can be
私たちなら そうなれるんだ
Love is free,
愛は自由なものなんだ
free is love
その自由さが愛なんだ
Love is living,
愛は生きることなんだ
living love
愛を生きることだったんだ
Love is needing to be loved
結局愛とは
愛を必要とすることなんじゃないか

…私は絶句した。文句をつけてやろうとすれば、いくらでもつけられる。でも「シンプルな翻訳をめざす」という当初の目的から考えた場合、ハッキリ言って、この人の翻訳の方が、私より圧倒的にうまいのである。

「ナギさんの訳を参考にしました」などという言葉が添えてはあるものの、それがこういう若い世代の人に似つかわしくもない社交辞令にすぎないことは、私が一番よくわかる。だって、明らかに私のものでない解釈や読み込み方が、いっぱい含まれているのだもの。

付け加えて言うならば、この人は日本で育ったバイリンガルだとか、子どもの頃から日本語の英才教育を受けてきたとか、そういう人では全然ない。ただ物心ついた時から身近にネット環境があって、10代なかばでジャニーズの嵐にハマって、「ビリビリ動画」という向こうの動画サイトに「嵐にしやがれ」の中国語字幕バージョンを投稿するためのチームを友達と立ち上げ、そうやってつまりはほとんどネットだけの力で日本語を身につけたという、そういう人である。これからの世界にはこういうニュータイプみたいな若い人がどんどん増えてくるに違いないのだと思われ、それは間違いなく「いいこと」であるに決まっているのだけれど、私みたいに20世紀を引きずって生きている人間はそうなったらどこでどうやって暮らして行けばいいのだろう。マジで、考え込んでしまう。

白状するなら

愛とは
たしかなもので
そのたしかさを
愛と言うんだ。

という上記の私の翻訳は、完全にこのシーさんの日本語訳からパクらせて頂いたものである。だって、こっちの方が上手いもの。さらに心憎いことに「愛とは確かなものなんだ」というシーさんの原訳には、「七五調」までが使い込まれている。感心しつつもそれをそのまま使わなかったのは、他の部分の私の試訳との整合性がとれなくなってしまうからであり、他意はない。

「でもなー」とやっぱり私は思う。シンプルな訳詞にした方が絶対いいということを頭では理解しつつ、あえて私がこういうドタドタしい文体を採用したのには、それなりの理由もあるんだぜ。

2行の原詞を4行使って翻訳するという形態に私がこだわったのは、シンプルな原詞の中に圧縮されている多様な読み方を、ひとつも取りこぼすことなく再現したいと考えたからだった。

たとえば「Love is free,」というフレーズの中には、「愛は自由である」という意味の他に「愛は無料である」という意味も含まれており、英語話者はそれを「同じ言葉」で表現できるのだけど、日本語話者にはそれができない。だから、不細工にはなっても「二回翻訳すること」が必要になる。

でもって「愛は無料である」というこのメッセージは、子どもや若い人にはあまり響かなくても、私みたいに30を越えてしまった人間にとってみると、どうしても無視したりスルーしたりすることのできない内容であるように思えてくるのである。人間、年をとればとるほどに、「お金を出さなくても手に入るもの」は、どんどん少なくなる一方であるからだ。そんなわけで私の「Love is free」は、「何にも束縛されず無償で無限だ」という「最大限の翻訳の仕方」になっている。

また「Love is wanting to be loved」という各段の終わりに四回出てくるこの構文は、「愛」を擬人化した現在進行形の文章(=愛は愛されることを望んでいる)として解釈できるのと同時に、動名詞を目的語とした平叙文(=愛とは愛されたいと望むことである)として読める余地も、あるように思う。(その場合「Love is a wanting to be loved」となるのではないかという気もするが、歌詞みたいな文章の中では、そういう文法的な細かい制約は、あいまいにされる傾向が強い)。どちらの読み方をするかによって受け取る印象は全然違ったものになるから、こういうのも結局は両方訳出する以外にない。

しかし例えば上海のシーさんの「その自由さが愛なんだ」という訳し方は、シンプルな中に具体性が確保されていて立派なものだし、「求めて初めて愛を知るんだ」という思いきった意訳の仕方も、それはそれで捨てがたい。ここまで来るとどっちの訳詞を読者のみなさんが選ぶかは、完全に「好みの問題」なのではないかという感じがする。それにつけてもシーさん貴方はそんな歳で「愛」というものを本当に「わかった」上で書いてるのでしょうね。

…私?分かってるように見えます?思います?分かっていたらこんなブログは始めていなかったと思います。そんなことは、聞かないで下さい。

さてそんな風にいろいろな部分が違っているナギ訳とシー訳なのだけど、一番違っているのは

Love is you
You and me

Love is knowing
We can be

というフレーズの解釈の仕方なのではないかと思う。これは、必ずしも「みんな違って、みんないい」という話にはならない。どちらかが明らかに、間違っている可能性があるからである。ことによると両方とも間違っていることも、ありうるかもしれない。

わたしたちは愛しあえる。
それがわかる気持ちを愛という。
わたしたちが愛しあえることを
愛は知っている。

と私が翻訳した理由を書いておくなら、私は「Love is knowing we can be」を「Love is knowing (that) we can be (love)」というフレーズが省略された言い方として理解したのである。直訳すると「愛は知っている。私たちは愛そのものになれるということを」。これを上記のように、現在進行形の文章と動名詞を目的語とした文章の二通りに訳し分けたのが私の試訳である。

ちなみに他の和訳サイトでは「Love is knowing (that) we can be (knowing)」の省略であると解釈している例がけっこう見受けられ、この読み方に従うなら「愛とは知ること。私たちにはそれができる」といったような翻訳になる。しかしそれなら「We can know」と言えばいいのであって、「We can be」などという持って回った言い方をするだろうかという疑問が浮かぶ。「We can be」というのは「私たちはこれから生まれ変わります」というぐらい根本的なことを言いたい時に、使う表現なのではないだろうか。知らんのやけど。

一方、シー訳はかなり独創的である。

私とあなたが知り合うこと
それが愛なんだ
私たちなら そうなれるんだ。

…これは「Love is knowing we can be」を「Love is knowing (you and me) we can be (knowing)」の省略であると解釈することから生まれてくる読み方なのではないかと思う。文法的にはかなり無理があるように思われるけど、捨てがたいものを感じるのは、確かに「愛」は「お互いを知ること」から始まるものであり、「knowing」という言葉からそこを連想するのは、決して間違いではないような感じがするからである。私の試訳にその内容は、ない。しかしながら「we can be knowing」に関しては、やっぱり「そんな大げさな言い方、するか?」という感じが否めない。

それで私は、思ったのだが、シー訳の「Love is knowing (you and me) we can be (knowing)」という読み方はやはり無理のあるものであるかもしれないけれど、「Love is knowing (that) we can be (you and me)という読み方なら、あるいは可能なのではないだろうか。「you and me」という言葉はこのフレーズの中には直接出てこないものの、直前には出てきているわけだから、省略されていると考えても不自然ではない。そういう風に読んだ場合、私の訳し方だと

わたしたちが
わたしとあなたでいられる関係
それを知っていることを愛と言う。
愛はわたしたちが
わたしとあなたという存在になれることを
知っている。

…という感じになる。そしてこんな風に書いてみて初めて思い出したのだが、昔読んだみうらじゅんという人の「アイデン&ティティ」というマンガに出てきた翻訳の仕方も、確かこんな言い回しになっていたように思う。案外これが、「正解」に一番近いのかもしれない。

とはいえ、翻訳にはもともと「これが正解です」と言えるような「答え」が、あるわけではない。この曲に関して言うなら、小野洋子さんが自分で作った日本語訳がもしもどこかに存在しているのであれば、それが「正解」だということになるし、こんなブログ記事の存在は不要になるだろう。ヨーコさんの名前はれっきとしたこの曲の「共作者」として、クレジットされてるわけなのだからね。けれども幸か不幸か不幸か幸か、硬化福岡拭こうか高架、そういうのは今まで、見たことがない。だからいろいろな人たちが聞いてみた印象を通して練りあげられた解釈が、訳詞として定着してゆくような形になれば、それが一番望ましいあり方なのではないかと思う。このブログでの読み方にとらわれることなく、多くのみなさんが意見や感想を寄せてくださったなら、幸いに存じます。

それにつけても恐るべきは、そして同時に頼もしく心強くも感じられるのは、シーさん世代の若い人たちの台頭である。昔々に私がこのブログを始めた当初には、言っちゃあ何だけど、私はそこらへんの若い人よりもよっぽど若い感性を備えた人間であるつもりでいた。けれどもネットを通じてホンモノの若い人と触れ合う機会が増えたことで、そうした夜郎自大な慢心は吹き飛んだ。今はあの毛沢東が晩年に若い人たちに向けて語ったという有名な言葉を、私も厳粛な気持ちで口にしてみたい、そんな心境である。

世界是你們的,
世界はきみたちのものだ。
也是我們的,
同時にわれわれのものでもある。
但是帰根結底是你們的。
でも、最後には結局きみたちのものだ。
你們青年人朝気蓬勃,
きみたち若者は元気いっぱいで
正在興旺時期,
人生で一番旺盛な時期にある。
好像早晨八九點鐘的太陽。
まるで朝8時の太陽を見るようだ。
希望寄託在你們身上。
体を大切にしてください。


アンジー 銀の腕時計

CからE♭への劇的な転調。ジョンレノンと三戸さん以外にそれを自らのものとなしえた人を私は他に知らない。ではまたいずれ。



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