華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Really Rosie もしくはマジであのロージー (1975. Carol King)

「リアリー·ロージー」というそのアルバムは、ロージーという名の、ブルックリン育ちの、すこぶる元気のいい少女をめぐる物語の歌だ。ジャケットの絵を画き、歌の詩を書いたのは、子どもの本のピカソこと、ブルックリン育ちの絵本作家のモーリス·センダックで、そして歌を作曲し、みずから弾き語りでうたっているのが、キングという名のクイーンこと、ブルックリン育ちのキャロル·キングだ。

「かいじゅうたちのいるところ」という絵本を手にすれば、きっとセンダックに魅せられる。「タペストリー」というアルバムを聞けば、きっとキャロル·キングに魅せられる。だが、一人は絵本、一人は歌と、畑が全くちがう。その二人の、およそ思いがけない組み合わせから生まれた贈りものが、それこそあっというような絵本としてのロックン·ロールの「リアリー·ロージー」だった。

-長田弘「アメリカの心の歌」1996年-

Wild Thing」の回でモーリス·センダックの名前が出てきたものだから、この曲、と言うかこの映像作品についても、取りあげないわけには行かない気持ちになった。私がこの楽しそうなアルバムのことを初めて知ったのは、上に引用した長田弘さんの文章を通じてなのだけど、もともと「Really Rosie」は1975年に公開された30分のテレビアニメのサウンドトラックとして制作された「絵本としてのロックン·ロール」なのだそうで、CDにもなっているが、LPとして発売された時のそれは絵本そのものとしてもそれはそれはゴージャスなものだったのだという。それはそうだろうと思う(それは×4)。幼稚園ぐらいの子どもにとって、LPというものは持ったら顔が隠れてしまうぐらいに巨大なものだった。あの巨大な正方形がさらに「開いて」、そこに楽しそうなことがいっぱい書かれているのだとしたら、私が子どもだったら夢中にならなかったはずはなかっただろうと思う。

そんなわけでそれ以来このアルバムのことはずっと気になり続けていたのだけど、あれだけ「LPの方がいい」と言われているものをCDで聞くのも何かスッキリしないし、そもそものアニメ映画の内容を知らずに聞いても意味が分からないのではないかという気もするしで、長いこと実際に触れてみるに至らなかった。ようやく私がこの作品と「出会う」ことができたのは、ネットの時代になり、75年にテレビで1回放送されただけのその作品をいつでも好きな時に見られるようになって以降のことである。本当だったら永遠に見られないまま終わってしまっていたかもしれないその映画は、実際に見てみると私が長いあいだ想像していた通り、素敵なものだった。YouTubeには英語のオリジナル版が上がっているけれど、ニコニコ動画には日本語字幕版も上がっていたので、そちらへのリンクを貼っておくことにする。うまく見られるといいのだけれど。
www.nicozon.net
この映画にはセンダックとキャロルキングが作った「子どもの歌」が全部で7曲使われており、今回翻訳するのはその中で最初に出てくる、主人公のロージーという女の子の自己紹介にあたる歌である。他の歌については、どうしようかな。とりあえず今のところ全部を翻訳しなければとまでは思っていないのだけど、この記事への反応を見て決めることにしたいと思います。まあ、図書館に行けば、大体の歌が翻訳されて別々の絵本になってるのを見つけることができると思うんですけどね。


Really Rosie

Really Rosie

英語原詞はこちら


I'm really Rosie
And I'm Rosie Real
You better believe me
I'm a great big deal!

わたしがあのロージーです。
そして本物のロージーなのです。
わたしを信じた方がよろしくてよ。
わたしって大物なんですのよ。


BELIEVE ME!
わたしをしんじなさい!

I'm a star from afar
Off the golden coast
Beat the drum! Make that toast!
To Rosie the Most!

わたしは「ゴールデン·コースト」こと
ロングアイランド島の北海岸
をも
はるかにしのいで輝く星。
たいこを鳴らせ!
グラスをあげろ!
世界で一番のロージーのために!


BELIEVE ME!
わたしをしんじなさい!

I can sing
Tea for Two and Two for Tea
I can act
To be or not to be
I can tap
Across the Tappan Zee
Hey, can't you see?
I'm terrific at everything!
No star shines so bright as me - Rosie!

歌だって歌えるよ。
♪ Tea for Two and Two for Tea…
お芝居だってできるよ。
「To be or not to be…」
ハドソン川のタッパン·ジーをまたいで
タップダンスだって踊れるよ。
ねえ、わからない?
わたしって何でもスゴいんだから!
どんな星だってこのわたし
ロージーの輝きにはかなわない!


BELIEVE ME!
わたしをしんじなさい!

I'm Really Rosie
I'm Rosie Real
I'm Really Rosie

わたしがあのロージーです。
正真正銘のロージーです。
本当にあのロージーなのです。


BELIEVE ME!
しんじなさい!

=翻訳をめぐって=

この歌の邦題は「おしゃまなロージー」と言うらしいことを今回初めて知ったのだが、「おしゃま」ってどおゆうことなのだろうか。関西、だけではないのかもしれないけれど少なくとも私が育った文化の中には、主に女性が使う表現として、「モノの最初の二文字に『お』をつけて略称にする」言い方が存在した。「おざぶ」と言えば「座布団」。「おみや」と言えば「土産」。「おこた」と言えば「炬燵」。こんな感じである。この伝で行くなら「おしゃま」というのは「しゃま」で始まる何らかの言葉の略称ではないかということがまず想像されるのだが、「しゃま」で始まる日本語なんて、何も思いつかない。

ネットの辞書には、以下のようなことが書いてあったが、私は何か釈然としなかった。

おしゃまとは、少女が年齢の割りに大人びた格好や感覚を身につけていること。

=『おしゃま』の解説 =
おしゃまとは少女が年の割りに大人びた知恵や感覚を身につけたり、格好をすること、またはそういった少女のことをいう(少女の場合、おしゃまさんとも)。由来は江戸時代に流行った「猫じゃ猫じゃとおしゃます(=おっしゃいます)が、猫が下駄はいて杖ついて、絞りの浴衣で来るものか」という歌のくだりで、当初、おしゃまは猫のことをいった。ここから、ませた少女の生意気な振る舞いや態度を平気で人前を横切る猫に例えておしゃまというようになる。2000年を過ぎるとモーニング娘。などアイドルの低年齢化からか、ファッションや美容にお金をかける小中学生が増え、こういった少女の消費をおしゃま消費と呼んだ。

おしゃま・おしゃまさん - 日本語俗語辞書

…上方発信の言葉かと思いきや江戸発信の言葉だったということがまず意外だったのだが、私が釈然としなかったのは、そこではない。これを読む限り、「おしゃまなロージー」というのは明らかに「他人がロージーさんのことを評価している言葉」である。しかし原題の「Really Rosie」は、ロージーさん自身が「自分について語っている言葉」なのだ。翻訳として、そんないいかげんなことでいいのだろうか。という気持ちが、私を釈然としなくさせたのである(←うむ。英語の影響を受けた言い方である)

この邦題を作った人は、「子どもの歌だから分かりやすくしないといけない」と思ったのかもしれない。しかし「子どもの歌だからこそ」そういうことって「ちゃんと」しなくてはいけないのではないだろうか。さもないと子どもは「大好きな絵本」から一生「間違ったメッセージ」を受け取り続けることになるのである。第一「Really Rosie」を「おしゃまなロージー」にすると、どこがどう「分かりやすくなる」と言うのだろう。言っちゃあ何だけど翻訳した人自身にとって「分かりやすく感じられる」というだけの話なのではないだろうか。だとしたら、翻訳した人自身がこの絵本のことを、本当は何も「分かっていない」ことになってしまう。

それではいけない。というわけで、最初は他の楽曲と比べて軽い気持ちで取りあげたこの歌の翻訳も、結局私は「ガチで」やらざるをえないことになってしまったのだった。以下、内容をめぐる考察である。

I'm really Rosie
And I'm Rosie Real

遠い昔、大阪には「わてが雁之助だす」と言うだけで客席の爆笑が巻き起こる役者さんがいたのだが、このフレーズのおかしさは「が」という助辞の使い方に由来していたのではないかと思う。「私は」ではなく「私が」という言い方を使うためには、「その場にいる全員があらかじめ雁之助さんのことを知っていること」が必要になる。つまり、「エラソーな言い方」になるのである。「私がロージーです」というフレーズの「エラソーでない使い方」がありうるとしたら、病院の受付か何かで「ロージーさんはどなたですか?」と聞かれて「私がロージーです」と答えるケースぐらいしか、思いつかない。しかしこの場合でも、受付の人がマイクで「ロージーさん」という名前をその場にいる全員に知らせた後だから、「私が」という言い方が可能になっているのである。もしくは、ロージーさんは「私が」と言わざるをえないことになっているのである。

I'm really Rosie」を直訳すると「私は本当にロージーです」となる。いきなり「本当に」なのだ。つまりこの女の子は、歌を聞いている人間がみんな自分のことを知っており、かつ自分のことを見たくて仕方ないと思っているはずだ、と初めから決めてかかっている。だから「あなたがいま見ているものは夢ではないのよ」とばかりに、「本当にロージーなのよ」という言葉が冒頭から出てくる。このエラソーな感覚というのは、初対面の人に向かっていきなり「私がロージーです」と言ってみせるような日本語の感覚に、極めて近いものだと思う。試訳ではそこに「really」の語感をより鮮明に付け加えるために、「あの」という言葉を補ってみた。「私こそがロージーよ」みたいな訳し方も考えられるのだが、「こそ」は絶対「話し言葉」にはならない日本語だと思うのだな。

まあ、子どもなんだから、エラソーでもいい。いやしかし、本当にいいのだろうか。私にはそのあたりのことが、本当によく分からない。子どものうちはエラソーにしていても「許される」のだとしたら、それが「許されないこと」に変わるのは人生のどの時点の話なのだろう。と言うかそれを「許し」たり「許さな」かったりする資格なんて、一体誰にあるのだろう。自分のことを抜きにして言える話ではないけれど、世の中の多くの人にとってそれが「許せる」のは、相手の存在が自分のことを脅かさない限りにおいてのことでしかなかったりするのである。

そしてそうしたあらゆる「関係」は、オトナになってからも「エラソーなまま」の人間が常に一定程度世の中に存在している現実があることを通して、初めてオトナにも子どもにも「等しく」押しつけられることになっているわけだ。

そういうことって、時代がどんな風に変わっても、変わらないことなのだろうか。私はあんまりそういう風には、思いたくない。

I'm a star from afar
Off the golden coast

「golden coast」は「黄金の海岸」という意味だけど、具体的に何のことを言っているのかを想像するのが、難しかった。「ゴールドコースト」というのはオーストラリアの地名だし、かつて「奴隷貿易」で栄えたことから名付けられたという「黄金海岸」はアフリカ西海岸の地名である。このアニメ映画の舞台であるニューヨークの下町とは、どうもつながってこない。

詳しく調べたところ、ニューヨーク·シティの東に位置するロングアイランド島の北岸地域が、昔から大金持ちの住む地域として、「gold coast」と呼ばれていることが分かった。下の地図で言うとオレンジ色の部分の下の方がロージーたちの住むブルックリンの下町で、同じ島の右側の上方が「gold coast」にあたることになる。「golden coast」と「gold coast」の違いはあれ、歌詞で言及されているのはまずこの地域のことだと考えて間違いないと思う。Wikipediaにはこの「gold coast」の空撮画像が載っていたけれど、なかなかに、むかつく写真だった。




ロージーは自分のことを、こうした豪邸が立ち並ぶ「隣の世界」よりも遥かに高い場所で輝いている「星=スター」であると、歌の中で宣言していることになる。toast, mostと、この後に出てくる言葉は全部「coast」と韻を踏んでいる。

I can sing
Tea for Two and Two for Tea

ロージーが歌っているのは「二人でお茶を」というタイトルで日本でも有名な曲なのだけど、この歌詞の解釈をめぐって私は釈然としないものを抱え続けている。直訳すると「二人のためのお茶、そしてお茶のための二人」となるのだが、「二人のためのお茶」はともかく「お茶のための二人」って、何なのだろうか。そんな二人で、いいのだろうか。この歌詞の和訳は探せばネットにいくらでも見つかるが、全部この部分を「勝手に」意訳してくれているもので、私の疑問にストレートに答えてくれる解説には、いまだ出会えたことがない。だから自分で翻訳を確定させられる時が来るまで、この部分の翻訳は保留にしておくしかないと思う。何か、私、自分でどんどん仕事を増やして首が回らなくなりつつある。

I can act
To be or not to be

「To be or not to be」はシェイクスピアのハムレットに出てくる有名な台詞なわけだが、日本ではこれが昔から「生か死か、それが問題だ」と翻訳されている。しかしこれも完全に「意訳のしすぎ」だと思う。「To be or not to be, that is the question」は「体制に従って生きるのか、それとも体制に逆らって生きるのか、それが問題だ」みたいなニュアンスで解釈されるべき言葉であって、別に体制に逆らって生きる道を選んだからと言って必ず死ぬことになるとは限らない。しかし日本語世界では「生か死か」の翻訳があまりに有名になりすぎてしまっているため、そう訳さなければこの部分が「ハムレット」の台詞であるということすら分からない。だから上と同様、英文のままにした。ちなみに平沢進という人が作った下の曲の歌詞を、私はずっとこの「ハムレット」の台詞だと思い込んでいたのだけれど、ネットの時代になってタイトルを知ってみれば、「2D or not 2D (二次元かそれとも非二次元か)」と歌っていたのだった。つくづく、解釈を拒む人だと思う。


2D or not 2D

I can tap
Across the Tappan Zee

「タッパン·ジー」というのは、上のニューヨークの周辺図でオレンジの部分に沿って流れているハドソン川が、市街地の北方でいくぶん広くなっている部分の地名。「タッパン」とはかつてその地にいた先住民の首長の名前で、「ジー」とはオランダ語で「海」という意味なのだとのこと。そのくびれた部分には「タッパンジー大橋」という有名な橋がかかっており、ロージーはそこをいっぱいに使ってタップを踊ることをイメージしながら歌っているのだと思われる。つくづく、ニューヨークローカルな歌なのだった。




学生節
「わたしをしんじなさい」というのは、とても大胆不敵な歌詞だと思う。日本語でこんな言葉を歌詞になしえた歌は、植木等が昔メドレー曲の中で歌っていたこの歌以外には私はひとつも知らなかった。だから最初は「Really Rosie」とこの歌との関連について考察してみる予定を立てていたのだったが、考察してみた結果、関連は「ない」としか言いようがないという結論に達した。ブログというのは、難しいものである。ではまたいずれ。



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=楽曲データ=
Released February 1975
Carole King - vocals, piano
Charles Larkey - bass
Andy Newmark - drums
Louise Goffin, Sherry Goffin - backing vocals
Hank Cicalo, Milt Calice - engineers
Maurice Sendak - lyrics, story, artwork
Key: G

Really Rosie

Really Rosie

  • キャロル・キング
  • チルドレン・ミュージック
  • ¥200
  • provided courtesy of iTunes