華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Tennessee Waltz もしくはフラクタルソング (1950. Patti Page)


Tennessee Waltz

Tennessee Waltz

英語原詞はこちら


I was dancin' with my darlin' to the Tennessee Waltz
When an old friend I happened to see
I introduced her to my loved one and while they were dancin'
My friend stole my sweetheart from me

私はいとしい人と踊っていた。
テネシーワルツの調べに乗せて。
古い友人と偶然会ったのは
その時だった。
私は彼女を
自分の愛していたその人に紹介し
そして二人が踊り出して
気がつけば私の恋人は
その友人に
盗られてしまっていたのだった。


I remember the night and the Tennessee Waltz
Now I know just how much I have lost
Yes, I lost my little darlin' the night they were playing
The beautiful Tennessee Waltz

あの夜を
そしてあのテネシーワルツを
私は忘れない。
いま私は自分が
どれだけ大きなものを
失ってしまったのかを
思い知らされている。
そう。
私はいとしい恋人を失ってしまった。
美しいテネシーワルツが
流れていたあの夜に。

=翻訳をめぐって=

至ってシンプルな言葉で書かれた歌なのだけど、文法に忠実に直訳するとややぎこちない日本語になる。そのぎこちなさにあれこれ工夫をこらして意訳したのが上の試訳なのだが、「加工前」の直訳は下のような感じである。

私が古い友人と偶然会った時
私はテネシーワルツで
彼氏と踊っていた。
私は彼女を
自分の愛していたその人に紹介し
そしてかれらが踊っている間に
私の友人は私の恋人を
盗んでしまった。

私はあの夜と
テネシーワルツを覚えている。
いま私は自分がどれだけのものを
失ってしまったかを知っている。
そう私は
自分のかわいい恋人を失ってしまった。
かれらがあの美しいテネシーワルツを
演奏していたその夜に。

…非常にささいな違いではあるのだけれど、この両者のあいだには日本語話者と英語話者とのあいだに横たわる「言葉に対する感覚の違い」みたいなものが如実にあらわれているように思う。具体的に言うと、直訳バージョンの日本語は「自分の身に起こっていることであるにも関わらずえらく客観的な感じがする」のである。日本語話者の感覚には「不自然」に思えてしまうぐらい、英語話者の感覚というのは時として「客観的」なのだということが分かる。言い換えるなら日本語というのは英語に比べてそれだけ「主観に重きを置いた言語」であるということが、言えると思う。

例えば「My friend stole my sweetheart from me」という部分。日本語話者の感覚だと「友だちが彼氏を奪った」という言い方ではなく絶対に「友だちに彼氏を奪われた」という「受け身の言い方」を使いたくなるところだと思う。また「I remember the night…」という部分も、「覚えている」などと言うとえらく「余裕のある言い方」だという感じがしないだろうか。歌詞にするとすれば多分「忘れない」とか「忘れたくても忘れられない」とかいう気持ちに重点を置いた言葉が選択されると思う。

日本語は「主観に重きを置いた言語」だと書いたわけだが、こうして見てみるとその一方で、「自分の意志を表明すること」は注意深く避けたがる傾向を持った言語だということが分かる。「自分が盗まれた」ということは言えても、「彼女が盗んだ」という風に彼女がとった行動の意味を「決めつける」のは、言い方としてかなりハードルが高いのである。また自分の意志ではどうにもならないこととして「忘れられない」とは言えるものの、自分の意志として「覚えている」と言うことは、やっぱり相当の「覚悟」がないと、難しいのである。

「主観に重きを置いた言語」と言うよりは「被害者意識の強い言語」だと言った方が、日本語の説明としては、当たっているのかもしれない。



一点だけ、文法的な問題として私が確信を持てずにいるのは、2行目に出てくる「When」を「関係副詞の制限用法」で解釈すればいいのか「非制限用法」で解釈すればいいのかという問題である。

I was dancin' with my darlin' to the Tennessee Waltz when an old friend I happened to see
私が旧友と偶然会った時、私は恋人とテネシーワルツで踊っていた。

I was dancin' with my darlin' to the Tennessee Waltz, when an old friend I happened to see
私は恋人とテネシーワルツで踊っていた。そしてその時、旧友に偶然出会った。

…このように英語では、「when」の後にコンマが入るか入らないかで、意味が微妙に変わってくる。コンマなしの上の文が「制限用法」で、コンマつきの下の文は「非制限用法」と呼ばれている。

通常、非制限用法は文語的な言い方であり、話し言葉の中で使われることはないと言われている。確かに、話し言葉の中にはコンマが出てこない。と言うか見えない。しかし同様にコンマが見えないとは言え、このフレーズは「歌詞」なのである。文語的な言い方がされていてもおかしくはない。さらに最初の一行目で聞き手に提示されるのは「恋人と踊っていたという情景」なのだから、旧友と出会ったという「二つ目の情報」はその「後」のこととして提示される方が、物事の順序として自然であるようにも思われる。

私はネイティブではないので、そのあたりのことが英語話者の人たちの耳にはどんな風に「聞こえて」いるのか、想像でしか窺い知ることができない。どなたか読者の方でそのことを鮮やかに解説できる方がいらっしゃったら、コメントを寄せて頂ければ幸いです。



翻訳に関してはそれぐらいなのだけど、この歌をめぐって私には、ずっと昔から気になっていることがある。

歌の中で彼氏を取られたこの女の人が聞いていた「テネシーワルツ」というのは、一体どんな音楽だったのだろうということである。

この歌自体のタイトルが「テネシーワルツ」と言うわけだが、テネシーワルツのメロディの中で彼女が彼氏を失ったのは当然この歌ができる「前」の話だということになる。だとすればこの歌ができる以前から、テネシーにはテネシーワルツと呼ばれる「別の」美しい音楽が存在していたのだと考えなければおかしな話になるではないか。にも関わらず調べてみると、1946年にピー·ウィー·キングという人が作曲したメロディに、テネシー生まれのレッド·スチュワートという人が詞をつけたこの歌以外には、アメリカに「テネシーワルツ」と呼ばれる曲はひとつも存在していないのである。

だとすれば、テネシーワルツの中で彼女が彼氏を奪われた時に流れていたテネシーワルツというのは、このテネシーワルツと「同じ歌」だったということになる。

つまり彼女が彼氏を取られた時、そこに流れていた歌の中では同じように彼女が彼氏を取られており、そこに流れていた歌の中でも同じように彼女が彼氏を取られており、そこに流れていた歌の中でも同じように彼女が彼氏を取られていたわけである。これって、なかなかシュールな話なのではないだろうか。

この手の歌というのは、実は世の中を探してみると、他にもけっこうある。このブログで取りあげてきた曲の中でも

わらの中の七面鳥
ほうほうほう
干し草の中の七面鳥
へいへいへい
引っ張り出して叩き起こして
何したってかにしたって
そんでもって歌おう
わらの中の七面鳥という歌

Turkey In The Straw

とか、

スパイダー·マーフィーがテナーサックス。
リトル·ジョーはスライド·トロンボーンを吹いていた。
イリノイ生まれのドラマーボーイはクラッシュしてドンブンバン。
リズムセクションは丸ごとパール·ギャングだ。
ロックしよう、みんな、ロックしよう。
刑務所中の囚人が
監獄ロックで踊っていた。

Jailhouse Rock

とか、いくらでも出てくる。「藁の中の七面鳥」という歌の世界ではどこまで行っても七面鳥が藁の中から引っ張り出される歌が歌われているわけだし、「監獄ロック」という歌の世界ではどこまで行ってもドラマーボーイがドンブンバンするのに合わせてみんなが踊り続けているわけである。こういう歌を聞くたびに、私は子どもの頃からとても不思議な気持ちを感じ続けてきた。

宇宙というものが有限なのか無限なのかという究極的な問題について、私は答えを持たないし、どんな天文学者に聞いても今のところハッキリした結論は出せないのが現状であるらしい。けれども明らかに言えることとして、一人一人の人間の存在というのは時間的にも肉体的にもハッキリと「有限」なものだし、その一人一人の人間の目に映る世界というものも、頭上に広がる正体不明の「空」という存在を除くなら、すべてはことごとく「有限」な存在であるわけである。

そんな風に有限な世界しか知らないはずの我々人間なのだけど、その有限なはずの世界の中に「無限」の存在が垣間見えてしまうことが、人生には時々ある。合わせ鏡を覗いた時や万華鏡を覗いた時などは一番即物的な例だけど、そういう「人工の力」に頼らなくても、注意深く観察すれば「無限」というものは自然界の中にあふれているし、ともすれば自分自身の内側にさえ、「無限」が存在しているのを感じることは決して難しいことではない。別に生まれつきの超能力者だとか修行を積んだヨガの行者とかでなくても、そういったことは誰もが子どもの頃から数えきれないくらい経験しているはずだと思う。

ただしその「無限」というのは、「感じる」ことはできても「そこに入って行く」ことはできない仕組みになっているらしく、それがもどかしくはあるのだけれど、一方では「魅力」の理由でもあるのだろう。いずれにしても人間が「不思議な気持ち」を感じる時には必ずそんな風に何らかの形で「無限」の存在が介在しているのではないかという感覚が、少なくとも私にはある。

「フラクタル構造」という言葉を私が初めて知ったのは、オトナになってかなり時間が過ぎてからのことだった。「フラクタル構造」というのは昔からある日本語で表現するなら「入れ子の構造」のことで、ロシアのお土産のマトリョーシカみたいなものを想像してもらえればいい。人形の中に人形の中に人形の中にまた人形が入っているというああいうのが、「フラクタル構造」である。




この「フラクタル構造」というのは自然界の中にさまざまな形で存在しており、たとえば大きい例だと三陸地方や三重の志摩半島に見られるリアス式海岸。地図で見ると分かるようにあの辺りの海岸は非常にギザギザしているのだが、よく見るとそのギザギザの中にまたギザギザがあり、そのギザギザの中にさらにギザギザがある。だから地図上の直線距離は数十キロか数百キロにすぎないにしても、あの手の海岸線の長さを「正確」に測ろうとしたら、どこかで妥協しない限り「無限」としか言いようがないことになってしまうのだという。




あるいは小さい例だと、人間の小腸の内壁に密集している柔突起というもの。腸に入ってきた食べ物から効率よく栄養分を取り込むために存在している構造らしいのだが、三千万本といわれる突起の一本一本がそれぞれ「枝分かれ」しており、その先に行ってもまた「枝分かれ」しているので、人間が体の中にしまい込むことのできるものの量などというのはたかが知れたものではあるわけだけど、この小腸の内側の表面積を「正確に」測ろうとするなら、「テニスコート2面分」ぐらいのところで「折り合い」をつけない限り、やはり「無限」としか言いようがないことになってしまうのだという。



スケールの大きな話では太陽系の構造と原子の構造がほとんど同じであるとかそういう話にまで行くらしいけど、考えてみれば「無限」をめぐる話に「大きい」も「小さい」もありはしないのである。いずれにしてもそんな風に我々は「無限のもの」に取り囲まれて生きているわけで、そういう風に考えてみるとこの世に「有限なもの」が存在しえているということの方がよっぽど不思議なことに思えてくる。




この言葉を知って以来、私は「テネシーワルツ」みたいな構造を持った歌を心の中で密かに「フラクタルソング」と呼ぶことにしている。ということが今回の記事では言いたかっただけなのだけど、それだけのためにえらく長ったらしい説明をしなければならないことになってしまったな。何でここに来てフラクタル構造のことなんか思い出してしまったのかといえば、結局前回の記事の中で紹介した、人の解釈をあくまで拒むこの歌のせいなのだということになる。

出航は 縦 横 奥行へ
いざ イヴとアダムのいるところ
胸はヒエラルキー
髪はフラクタル
CG CG CG OR NOT CG
Oh, Sweet
Oh, Sweeeet
2D 2D OR NOT 2D
2D 2D 2D OR NOT 2D


2D or not 2D

ところで、私の記憶に残っているこうした「フラクタルソング」との一番古い出会いは、遠い昔に大阪の城北公園というところの盆踊り大会で流れていた「ずんぼ音頭」という「音頭」の歌詞だったのだが、インターネットというものがかくも発達した21世紀において、この「音頭名」はいくら検索しても出てこない。こんなことってあるのだろうか。淀川の川風の匂いの中であれだけ沢山のオトナたちが楽しそうに踊っていた記憶は幻だったのだろうか。「ずんぼずんぼどっこドンドコヘイヘイ、ずんぼ音頭で踊ろう」というのがその歌詞で、そこしか覚えていないのだけど、もしも私の他にもこの「ずんぼ音頭」のことを覚えているという方がいらっしゃったら、コメントを残して行って頂ければ幸いです。


Tenessee Waltz (Tom Jones & The Chieftains)

私がこの「テネシーワルツ」という曲を初めて聞いたのは、アイルランドのバンドであるチーフテンズをバックにトム·ジョーンズが歌っていたバージョンを通じてのことでした。その動画を紹介して今回の記事は終わりにしたいと思います。歌と関係のない雑談の部分が今までで最長の記事になってしまったと思う。ではまたいずれ。



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=楽曲データ=
Released January 1948
Recorded December 2, 1947
Composer(s) Pee Wee King
Lyricist(s) Redd Stewart
The song became a multimillion seller via a 1950 recording – as "The Tennessee Waltz" – by Patti Page.
Key: E♭

テネシー・ワルツ

テネシー・ワルツ

  • パティ・ペイジ
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