華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Keeblin' もしくはキーブりながら (1993. Dinosaur Jr)



協賛ブログ「ミチコオノ日記」とそのファンサイトを通じて知り合ったナマけものさん(id:flightsloth)という方から、翻訳のリクエストを頂いた。今まで、数回にわたって翻訳リクエストにお応えしてきた当ブログではあるのだけれど、男性からの依頼は今回が初めてである。と、書き始めてみて気づいたのだが、今までの翻訳リクエストに対しては日頃の文体もかなぐり捨てて卑屈なまでの「ですます体」で記事を書くのがパターンになっていたにも関わらず、今回は相手が男性だからだろうか。最初からフツーの文体になっている。とはいえ、別にわざとやっているわけではない。

だが待てよ。

わざとやっているわけではないのだとしたら、私は「本当にイヤなやつ」だということになってしまう。日頃から相手によってコロコロ態度を使い分けて、しかも自分自身でそのことに気がついてさえいない、どうしようもないやつだという話になるではないか。

わざとやっているのだと書いた方がよかったかしら。

…いや、自分が本当にイヤなやつになりたくないと思うのであれば、一番大切なのはまず「そういうのをやめること」だろう。人間、本当に何かを始めようとするならば、「ウソをつくのをやめて素直になること」から始めるしかない。分かっている人は子どもの頃から当たり前のように「分かっていること」なのだろうけど、私にとってこのことは30代も後半になってようやくたどり着いたひとつの真理なのである。

イヤなやつでいいです。(←そういうのがよくない。て言っかカッコを使ったこういう言い訳もやめよう)

さて、リクエストを受けたのは「Dinosaur Jr」というバンドの「Keeblin'」という曲だった。ニルヴァーナと同時期に人気があったらしいのだが、私は今までに一度も聞いたことのなかったバンドである。調べてみると「Keeblin'」というのは1993年に発表された「Where You Been」というアルバムの、かつボーナストラックとして収録されている曲だったことが分かった。初めて聞くアーティストの初めて聞く曲がボーナストラックの曲というのは、どうなのだろうか。いきなりそんな渋いところから入って、いいものなのだろうか。

とまれ、出会いというのはいつもそんな風に順番も根回しもすっ飛ばして時間の流れと垂直に訪れるものである。こういう形でダイナソーJrというバンドと出会うことになった以上、素直にそこから入るのが「縁」というものなのかもしれない。そう考えた私はまずYouTubeで「Keeblin'」をじっくりと聞き、それから改めて月額1000円でいろんな曲が聴き放題のAppleミュージックというやつで「Where You Been」を丸ごと、虚心坦懐に聞いてみた。

これが20年前であれば、「Where You Been」の置いてあるツタヤを探して自転車で奈良盆地を一周し、結局見つからずに電車賃を払って大阪まで行くという手間ひまが確実に必要になっていた場面だと思うし、見つかったら見つかったでボーナストラックなものだから歌詞が記載されておらず、学校で英語教師を捕まえて無理やり聞かせてみても「何を言ってるか全然わからない」と言われ、結局どのみちインターネットの登場を待つ他なかったところだと思うから、それを考えれば本当に「便利な時代」になったのだとは思う。けれどそれにも関わらず、自分の生きている21世紀のこの時代が「いい時代」だと思えたことは私には一度もない。だがそんなことは誰も聞いていない。ダイナソーJrの話に戻ろう。

いいバンドだと私は思った。

まず、ボーカルのJ.マスキスという人の声がいいと思った。しぼり出すようなその歌い方からは、「ああ、この人は本当に歌う必要があって歌っているのだな」という切実さみたいなものが伝わってくる。

耳をつんざくようなギターの音が「売り」になっているバンドなのだろうけれど、その一方でメロディや歌の感じにはすごく叙情的なものがあって、もう一昔も前の例えになってしまうのだけど、ハナレグミとかフィッシュマンズとか、そういう人たちの歌を聴いている感覚に近いものをおぼえた。

聞いただけでは歌詞はほとんどよく分からないけれど、「not fair (ズルい)」という言葉がやけに耳に入ってくる。あと、女性に向けて歌っている曲はほとんどないように感じられる。つまり、「男友達」に向けた曲が多い気がする。

とはいえ、私はこの人たちのことをまだ何も知らない。とりわけ歌っているJ.マスキスという人がどんな人なのかというイメージが何もない状態では、なかなか訳詞を作るなどという大それたことはできない。

20年間このバンドを聞き続けてきたナマけものさんに、ひとつだけ質問をさせてもらった。このボーカルの人、自分のことを「おれ」と言う人だと思います?それとも「ぼく」って言う人だと思います?それによって翻訳は全然違ってくるんです。すると、「『ぼく』でお願いします」、というのがナマけものさんの答えだった。

「Keeblin'」を「ぼく」で。

「砂ずりをシオで」とかそういう話をしているみたいで、何だかおかしい。おかしいけれど、これだと私はまるで何かの「職人」にでもなってしまったかのような感じである。そう考えると、妙な気持ちがした。

私は「職人」などというものには、死んでもなりたくないと思う。

プロだとか職人だとかいう言葉で呼ばれている人たちがみんな「悪い人」であるとか言う気は、全然ない。けれども「自分が職人であること」に「誇り」を感じているタイプの人を、私が好きになれたためしというのは、一度もない。そういう「誇り」というのは例外なく、「職人でない人たち」に対する強烈な見下しの上に成立しているものだからである。

そういう人たちは大抵とても真面目な人たちだし、人に誇れる技術を身につけるために並々ならぬ「苦労」を積んできている人たちでもある。だがそういう「付加価値」みたいなところに「人間の値打ち」を求めようとする態度というものは、そういうのを持たない人たちに対して「生きる値打ちを認めない」というところにまで直結している態度ではないかと私は思うのだ。

「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という夏目漱石の小説の言葉に象徴される日本的な近代精神みたいなものを、基本的に私は憎悪している。「馬鹿」というのはもとより「精神病者」に対する究極的な差別語であるわけだが、「馬鹿」だったら何だと言うのだろうか。「生きる資格がない」とでも言いたいのだろうか。本当にそんな言葉をまともに口にできる人間というのは真性のファシストに限られてると私は思うけど(そしてそういう真性のファシストさえ決して少なくないのが昨今の現状でもあるわけなのだけど)、そういう「近代精神の持ち主」たちが、たとえ口にはしなくても心の中に例外なくそうした選民思想のようなものを隠し持っていたことは、歴史がはっきりと示している。

いったい「技術」というものは、人を幸せにするために存在しているものではないのだろうか。それなのに自分の「技術」を「売り」にしているタイプの人たちというのは、その「技術」を基本的に「競争」のためにしか使わないし、そうでない時には「苦労して高度な技術を身につけた自分たち」が世の中においてさほど優遇されず「普通の人並み」の生活を送っていることへの不平不満ばかりを口にしている。一方で、自分たちのように「苦労して高度な技術を身につけた人間」でない人たちが「普通の人並み」に扱われることを求めようとしたならば、憎悪をもってこれを叩きつぶそうとする。「10年早い」とか何とか言ってね。それで10年たったら、結局「そういう人間」が再生産されるだけなのである。そういう思想に支配された世界で、誰が本当に幸せになれるだろうか。この手の人たちは基本的に、自分以外の人間が幸せになることがうれしくないのだと思う。

日本という近代国家がその成立以来本当に「当たり前」のように他国への侵略と植民地支配を繰り返してきたことの根底には、そうした価値観が横たわっている気が私はする。そういうメチャメチャなことを心から「正しい」と信じてやれる人間の核の部分には、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」「生きるに値しない」という他者に対する決定的な見下しが存在しているのであり、その見下している相手が「人並みに生きる権利」を主張した場合には、叩き殺してでも自分に服従させないと気が済まないというところにまで、その手の人間は簡単に暴力的になれるのである。

だから私は「馬鹿」という差別語で他人のことを平気で切り捨てることができる人間を心底恐ろしいと感じるし、そういう人間が一方で尊敬や崇拝の対象にしている「できる人」「職人」「頼れるリーダー」みたいな人間像に対しては、むしろ醜悪さしか感じない。「職人」と呼ばれる人のもとで「しごき」を受けた経験を何度か私は持っているのだけど、それこそ毎日人格を否定されるために家と職場を往復しているような感じで、それに文句のひとつも言えない屈辱を噛みしめるたびに、日本の軍国主義は何も「終わって」いないのだという気持ちを味あわされたものだった。その人たちはその人たちで「自分も同じ思いをしてきた」という気持ちを持っているのかもしれないが、人間というのは「そんな思い」をしなければ生きて行けないように作られている生き物なのだろうか。絶対にそんなことはないと思う。「そんな思いをしなければ生きられない世界」を再生産し続けているのは、あくまでその人たち自身なのである。そしてそういう人たちは他人に「そういう思い」をさせることに対しては、明らかに「よろこび」を見出している。

私が「ミチコオノ日記」という作品を好きなのは、あの作者の人が「職人」だからではない。あの人の描く絵は、それに触れた一人一人の人々が、「競争」とは違った形で自由にお互いを発展させてゆくことができるような、そういう「力」を持っているのを感じるからである。それは恐らくあの人自身が「他の人の幸せ」を自分の幸せと同じように感受することのできる人だからであり、他人に勝ちたいとか他人に認められたいとかそういうことをエネルギーに絵を描いている人ではないからなのだと思う。そして「そういうのと違うエネルギー」からは「そういうのと違う技術」も必然的に育まれてゆくものなのだ。それを形にしてくれているのがあの人の描く絵だと私は思うし、だからあの人の描く絵には夢がある。

…などということも誰も聞いていない話ではあるのだけれど、どこかで書いておかないと私のことを「職人」扱いしようとする人が現れてしまうかもしれませんからですね。いい機会なので日頃思っていることを書かせてもらった次第です。

「Keeblin'」に話を戻すなら、不思議なもので、ナマけものさんから「『ぼく』でお願いします」と言われた瞬間に、私の耳にもこの歌が「ぼく」から「きみ」への歌にしか、聞こえなくなった。「私」から「あなた」にでも「おれ」から「おまえ」にでもなく、「ぼく」から「きみ」への歌である。その「絵」が頭の中で形になってしまえば、後は大してややこしい言葉で書かれた歌詞ではない。翻訳はあっという間に終わってしまった。

歌詞の内容についてはそんな風にスラスラ進んだ一方で、難しかったのは「Keeblin'」というタイトルが何を意味しているのかという問題である。「Keebling」という単語はもとより、「Keeble」という言葉も英和辞典には載っていない。それでいろいろ調べてみたところ、「Keebler Company」というアメリカ最大のクッキー&クラッカー製造会社の名前に行き当たった。



Keeblin'」というのはこの「キーブラーのクッキー(もしくはクラッカー)を食べながら」という意味を持つ、マスキス氏の考えた造語なのだろうというのが私の想像である。こういうのは別に文学的なややこしい話とかでは全然なく、私が子どもの頃にも「ケンタッキーに行こうよ」という意味で「ケンタろーやー」みたいな言葉はアドリブで使っていたし、それに対して親は親で「ケンタらへん(ケンタッキーには連れて行ってあげません)」みたいな返し方をしていたものだった。もとよりこういう言葉は辞書には載っていないが、それでも言葉としてフツーに「通じる」ものである。「Keeblin'」もそれぐらいのカジュアルなタイトルなのだと考えておけば、間違いはないのではないかと思う。

そしてこの歌の主人公はそんな風に「キーブりながら」目の前の友人に向かってどんな言葉を送っているのか。以下、試訳です。


Keeblin'

Keeblin'

英語原詞はこちら


Come on over
I just wanna be the same friend
Need it slower
I just wanna get it smooth then
Wonderin' why you need these things you show
Do you have to be it
Grabbin' at you from those years ago
Well I don't like to see it

こっちに来てよ。
今までどおりの
友だちでいたいだけだから。
あせっちゃいけないんだと思う。
そうすることで
うまく行けばいいのにって思ってる。
どうしてきみはそう
見せびらかそうとするかね。
そうならなくちゃいけないんだろうか。
何年も前からきみがこうならなくちゃと
思い続けてきたようなそういう人間に。
ぼくはそういうの見たくないな。


I don't wanna turn it out like that
I don't like to see it
All right, just tell me
That's where you're at

そんな風にはなってほしくないと思う。
そういうのを見るのは好きじゃない。
わかったよ言えばいい。
そこがいまのきみが
立ってる場所なんだろ。

=翻訳をめぐって=

私が決して本題と無関係に「職人にはなりたくない」という話をダラダラ展開していたわけではないということは、分かって頂けたと思う。この歌の主人公の「ぼく」も、明らかに「そういう人」なのだ。だからカート·コベインという人と同様、このJ.マスキスという人もすごく自分と気が合いそうな気が私はした。ナマけものさん。ステキな出会いをありがとうございます。

以下は蛇足ながら、原詞と試訳の対応関係についてです。

Come on over

直訳は「(ここから少し離れたその場所から=over)こっちに来て下さい」。だが日本語ではこの単純なフレーズが、相手と自分との「関係性」の違いによって何通りにも変化する。「こっちに来て下さい」はおよそ「親しい相手」に対して使う言い方ではない。「こっちにおいで」というのは、身もフタもなく言ってしまえば「自分の支配下にある相手」に対する言い方である。「こっちに来いよ」は敵対関係にある相手への言い方だ。「こっちに来なよ」と言うと、まあこれは私が生きてきた関西弁の世界には存在しない語彙ではあるのだけれど、相手に対して基本的にむかつく何かを抱えているのだがそれはまあ我慢してやるからお前も妥協して言うことを聞け、みたいなニュアンスが生じる。のだと思う。

外国語で書かれた歌の日本語への翻訳は、極論するなら歌の登場人物たちの間のそうした「関係性」を正確に再現できているかどうかということに全てがかかっていると言っていい。その「関係性」を捕らえそこなっている翻訳は、文法的な部分でどんなに「正確」であろうとも「誤訳」であると私は感じる。

今回この「Come on over」というフレーズが「こっちに来てよ」という日本語として私の耳に聞こえたのは、ナマけものさんがヒントをくれたからだった。この主人公は自分のことを「ぼく」と言っている。つまり相手に対して尊大な態度はとっていない。さらに次のフレーズでは「今までと同じ友だちでいたいんだ」と言っている。つまりこの主人公は、相手が「今まで通りの友だちではなくなってしまっている」ことを感じつつ(だから二人称はやや緊張感を伴った「きみ」になる)、その距離感から相手に対して歩み寄ろうとしている。「こっちに来てほしい」と「頼んで」いるのである。

だったら訳語は「こっちに来てよ」以外にありえない。そして一行目のこの「言葉づかい」で、残る部分の翻訳の文体は全部決定される。以前にも少し書いたことがあるのだけど、こういうのがこのブログにおける「翻訳の手順」であり、かつ翻訳する人間にとっては一番「やりがい」が感じられる作業でもある。

なお、こうした「来てください」「おいで」「来い」「来な」「来て」という「いろんな言い方」に対し、学校文法では「命令形」という乱暴な「定義」しか与えられていないわけなのだけど、これは現在の日本語文法が西欧の言語学における文法用語を機械的に当てはめただけの極めて不完全なものであることの表れであり、この中で「命令形」と呼びうるものは「来い」だけだと私は思う。(ちなみに「国語」「国文法」という用語を私は認めていない。「日本語」と「日本という国家」にはもともと何の関係もないし、これからもあるべきではない。にも関わらず「日本語」を無理やり「国家」の統制下におこうという邪悪な願望を持った人間だけが、「国」という文字を使いたがるのである。ということをどこかで私は明読斎さんに伝えたいと思っていたのだけれど、機会を逸していたのだった)。後の「来てください」「おいで」「来な」「来て」については、例え仮称的なものであってもそれぞれ「要請形」「授恵形」「譲歩形」「哀願形」といったような「名前」がつけられて然るべきなのだ。これは学者の自己満足のためではなく、日本語を知らない人たちに日本語と日本文化の構造を正確に伝えるためにこそ、必要なことなのである。(もとよりその前に我々自身が「自分を知る」ためにも、こうした作業は欠かせない)。その上でこうした「いろんな言い方」のいくつか(例えば「授恵形」)は「人間が人間を差別する文化」の上に成立している言い方ではないのか、といったようなことが、徹底的に論議される必要があると思う。言葉は変わってゆくものだが、そういう風に意識的に「変えてゆく努力」をしなければ、変わるものだって変わらない。

この機会に明らかにしておくならば、私は「敬語」全廃論者である。けれどもその私自身、「敬語」という日本独特の差別文化からは全く「自由」になれていない。いつも歯がゆさと口惜しさと情けなさを感じ続けている。

I just wanna be the same friend

直訳は「私はただ同じ友だちになりたいだけなのです」。何と「同じ」なのかといえば「今までと同じ」という意味だと解釈する他ない。だから原文にはないけど「今までと」という日本語を補った。

Need it slower

直訳は「それをもっとゆっくりにすることが必要です」。試訳は意訳になっている。英語だとどうしてポジティブな表現が「自然」になり、日本語だとネガティブな表現が「自然」に感じられるのかといったことも、考え始めるとキリがないのだが、キる。

普通の英文だと「I need it slower」という形になるのだが、このフレーズでは「I」という主語が省略されている。こうしたところに、カート·コベインの文体と似ているところを感じるけれど、省略することによってどういうニュアンスが生じるのかは、私はネイティブでないのでよく分からない。

I just wanna get it smooth then

直訳は「私はただそうすることで(=then)それをスムーズにすることを望みます」。…スムーズに「する(get)」から「なる」への意訳の大ジャンプについては、今回は触れない。今回の私はちょっとあまりにも、喋りすぎている。

ここで主人公は「ゆっくりなやり方」を採用することを通して「物事」がスムーズに運ぶことを希望しているのであり、「友だちのやろうとしていること」がスムーズに運ぶことを希望しているわけではない。だが私の試訳はそのあたりに誤解の生じる余地がある。あまり、うまくない。もうちょっと工夫できないか考えてみます。

Grabbin' at you from those years ago

「Grab at」は「しがみつく」という意味の熟語。「何か」が何年も前から、主人公の友人にしがみついて離れずにいるのである。その「何か」を彼氏はことあるごとに見せびらかし、かつ自分がその「何か」にならねばならないという強迫観念のようなものにかられている。二行上の歌詞に「these things (それらのもの)」という言葉でほのめかされているその「何か」とは何か。「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という憎むべき価値観の影を、私は感じる。

I don't wanna turn it out like that

主人公は「そういう風になってほしくない」と言っているわけだが、「きみ(you)」にそうなってほしくないと言っているわけではなく、ここでもやはり「物事(it)」にそういう風になってほしくないと言っているのであって、試訳ではそれを正確に再現できていない。

All right, just tell me
That's where you're at

直訳は「わかりました。私に言ってください。そこがあなたのいる場所なのだと」。これをどういうニュアンスで翻訳するかということがこの歌の翻訳の一番難しいところなのだろうけれど、私には「自然に」上記のような言い方に聞こえた。ここまで見てきたような歌の中の「ぼく」と「きみ」との関係性から考え合わせるならば、必然的にああした訳詞になると思う。相手が誇りを持って主張している「きみの立場」というものを、「ぼく」は積極的に否定しているわけではないけれど、やはり全然認めていないのである。

…以上、長々とつきあって下さいまして、ありがとうございました。私は「職人」ではないので、自分と「気の合う曲」への翻訳リクエストにしか応じることができませんが、今回は本当に「気の合う曲」に出会わせて頂いたことを、幸せに感じています。今回の記事はこうした偏屈な私の「自己紹介」であると受け止めて頂ければ、幸いです。

ではまたいずれ。



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=楽曲データ=
Release: Feb.1993.
Key: C

Keeblin'

Keeblin'

  • Dinosaur Jr.
  • アダルト・アルタナティブ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes