華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Blowin’ In The Wind もしくは「川辺の二人」 (1963. Bob Dylan)



1960年代に多感な10代の季節を送った私の母親は、その頃の人にふさわしくギターに手を出し、その頃の人にふさわしくFのコードが押さえられなくて挫折した。らしい。その夢の残骸のガットギターと、何冊かのフォークギターの教則本を、私が家の納戸で発見したのは、小学生の時だった。いらい私は来る日も来る日もギターをいじったり教則本を眺めたりして時を過ごし、中学生になる頃には、何となくだけど、大体弾けるようになっていた。

教則本は60年代〜70年代のものだったから、そこに載っていた曲はどれもおそろしく古かった。ピーター·ポール&マリーやサイモン&ガーファンクル、ジョーン·バエズ、ブラザーズ·フォア、載っていたのは大体そんな名前だったように思う。そしてその中でも別格扱いでひときわ目立つ場所を与えられていたのが、「追憶のハイウェイ61」のジャケットのディランのあの「エラそーな写真」と、「風に吹かれて」という曲の楽譜だった。この恐ろしげな髪の毛をした男性がフォークの世界ではさしづめ「王様」で、「風に吹かれて」というのはその世界でも一番特別な歌だということになっているのだろうな、ということが、子どもだった私にも、おぼろげながら理解できた。



しかし「風に吹かれて」が入っているレコードは家になく、私が初めて実際にその曲を耳にすることができたのは、中学生になってからのことだった。今までに何度も書いてきた1992年のディランの30周年トリビュートコンサートで、スティービー·ワンダーがこの曲を歌っていたのである。「こぉら、かっこええわ」と、関西の中学生だった私は関西弁で思った。私が初めて買った「洋楽」のCDがディラン&ザ·バンドの「偉大なる復活」というライブアルバムだったことは、このブログの第一回目で触れたが、2枚目に買うのは絶対「風に吹かれて」が入っているディランのアルバムにしようと、私は心に決めていた。

しかし、それからしばらくのあいだ買い食いもガマンして古本屋めぐりもガマンしてようやく手にしたディランのセカンドアルバム「フリーホイーリン」と、その冒頭に収録されていた「風に吹かれて」のオリジナルバージョンに、私はえらくガッカリさせられることになった。

なんちゅーか、めちゃめちゃ、しょぼく聞こえたのである。

スティービーワンダーはものすごく伸びやかにこの歌を歌っていたのだったが、ディランの歌い方は極めてガサツで乱暴だった。メロディなんてあって無きがごとしで、地声でブツブツつぶやいているのと大して変わらないように聞こえた。何でこんな「やっつけ仕事」みたいな歌が、「名曲」として後世に語り継がれることになったのだろうということが、私には理解できなかった。

ギターも大して上手いとは思わなかったし、ハーモニカの吹き方もスティービーワンダーの方が圧倒的に素晴らしいと思った。スティービーワンダーは一つ一つの音をそれこそいつくしむように大切に吹いていたけれど、ディランの吹き方は本当に「テキトー」である。しかも行儀が悪い。ひとつの音を吹く時に、隣の穴の音まで一緒に吹いている。私が小学校一年の最初のハーモニカのテストで、のっけから教師に怒られた、まさにそのやり方だ。何でこんなことをしていて、プロのミュージシャンとしてレコードが出せるのだ。今にして思えばディランという人は「和音」を出すためにわざと複数の音を出していたわけなのだけど、当時の私は真剣に「自分の方がうまい」と思い、そして自分よりヘタな男が演奏しているCDを1800円も出して買わされたことに、詐欺にあったような気持ちを感じていた。

付け加えて言うなら、最初に買った「偉大なる復活」のラストにも、「風に吹かれて」は収録されていたのである。しかしそれを聞いた時の感想も、「何かいまいち」というのが正直なところだった。ライブだからなのか知らないけれどえらくヒネった歌い方をしていたし、要らないところに余計な力が入っているような感じがした。その割に演奏は単調だった。決してオリジナルを知っているわけではないけれど、「これは本当の『風に吹かれて』ではない」感が強かったのだ。それだけに、オリジナルに期待する気持ちはいっそう大きかった。それを裏切られたもので、あの時の私は、本当にガックリ来たのである。

その後、ピーターポール&マリーの「風に吹かれて」なんかも聞く機会があったけれど、やっぱり私にはいいと思えなかった。この曲はもともと美しい曲でも叙情的な曲でもなかったのだということを、「失敗して買ったアルバム」のおかげで、私は既に思い知らされていた。それを無理やり美しくて叙情的な曲に仕立てあげようとしているアザトさが感じられて、いっぺん聞いたらもういいや、と思った。他にもいろんな人がカバーしているけれど、大体はその路線で、私が心から「いい」と思えたのは、結局一番最初に聞いたスティービーワンダーのバージョンだけだった。今にして思えば、自分が生まれた時から既に「伝説」として語り継がれていたこの曲に対し、10代の頃の私はあまりに多くを求めすぎていたのだと思う。それで「本当の『風に吹かれて』」を長いこと長いこと探し求めていたのだけれど、つまるところは私が「しょぼい」としか思えなかった1963年のディランによるあの録音が、「本当の『風に吹かれて』」だったということなのだ。私はもっと早く素直にその事実を受け入れていれば良かったのだと今では思う。

他の曲に関しては「最初は分からなかったけどオトナになって良さが分かった」みたいなパターンがこのブログでも割と多いのだけど、この曲に対する私の評価は今でも変わらない。本当に聞く値打ちのある「風に吹かれて」があるとすればそれは1992年10月16日にスティービーワンダーがマディソン·スクエア·ガーデンで歌ったあの「風に吹かれて」だけであり、あとの「風に吹かれて」は一回聞いたらそれでいい。だからこのブログにおける「風に吹かれて」の翻訳記事は、ディランの演奏ではなくそのスティービーワンダーによる演奏の動画で、紹介させてもらうことにする。


Stevie Wonder "Blowin’ In The Wind" 1992

Blowin’ In The Wind

英語原詞はこちら


How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
Yes, ’n’ how many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
Yes, ’n’ how many times must the cannonballs fly
Before they’re forever banned?

あんたらがそいつのことを
人間あつかいするようになるまでに
一人の男はどれだけ沢山の道を
歩かなくちゃならないというのだろうか。
そうだよそんでもって
一羽の白い鳩は
砂の上で眠りにつくことができるまでに
どれだけ沢山の海を越えてゆかなくちゃ
ならないというのだろうか。
そうだよそんでもって
大砲の弾丸というやつは
いったい何回飛んだら
永久に禁止されることに
なってるのだろうか。


The answer, my friend, is blowin’ in the wind
The answer is blowin’ in the wind

その答えはだな。
風の中でくるくる踊っている。
答えは風の中でくるくる踊っている。


How many years can a mountain exist
Before it’s washed to the sea?
Yes, ’n’ how many years can some people exist
Before they’re allowed to be free?
Yes, ’n’ how many times can a man turn his head
Pretending he just doesn’t see?

海へと洗い流されてしまうまでに
山というやつは一体何年ぐらい
存在していることが
できるものなんだろう。
そうだよそんでもって
自由でない人々というのは
自由になってもいいよと
認められるまでに
何年ぐらい存在していることが
できるものなんだろう。
そうだよそんでもって
ある男がいたとしてそいつは一体
何回顔をそむけて見て見ぬふりを
続けられるものなんだろう。


The answer, my friend, is blowin’ in the wind
The answer is blowin’ in the wind

その答えはだな。
風の中でくるくる踊っている。
答えは風の中でくるくる踊っている。


How many times must a man look up
Before he can see the sky?
Yes, ’n’ how many ears must one man have
Before he can hear people cry?
Yes, ’n’ how many deaths will it take till he knows
That too many people have died?

ある男が
空を見ることができるようになるまでに
そいつはいったい何回上を見あげなきゃ
ならないことになってるのだろうか。
そうだよそんでもって
どれだけ沢山の耳をくっつけたら
ある男には人々の泣き声が
聞こえるようになるのだろうか。
そうだよそんでもって
あまりに多くの人が
死にすぎたってことを
そいつが理解するまでには
どれだけの死が
必要になるんだろうか。


The answer, my friend, is blowin’ in the wind
The answer is blowin’ in the wind

その答えはだな。
風の中でくるくる踊っている。
答えは風の中でくるくる踊っている。


Blowin’ In The Wind (B.Dylan)

Blowin’ In The Wind (PP&M)

=翻訳をめぐって=

「Blowin’ In The Wind」を「風に吹かれて」と翻訳したのは片桐ユズルさんであり、けだし名訳だと思う。思うけれども、この有名な邦題にはかなり「誤解」を招く要素が含まれているのではないかと思う。

そもそも「風に吹かれて」という日本語タイトルから我々日本語話者が思い描くのはどんな「風景」だろうか。ディランという人が、サングラスとかかけて、プヒーとか言わしてハーモニカとか吹きながら、風の中に立っている。そんなイメージなのではないかと思う。私もそうだった。サングラスとか細かい擬音とかに関しては、みうらじゅんという人のマンガに出てきたディランのイメージによるところが極めて大きいのだけど。

DYLANがROCK

DYLANがROCK




付け加えるなら、「blow」という単語には「(ハーモニカなどの吹奏楽器を)演奏する」という意味もある。だから「Blowin’ In The Wind」というタイトルは、それだけ取り出すなら、「風の中でハーモニカを吹いている」と翻訳することもできる。事実英語圏の人にはそのように聞こえている余地もあるわけであり、このタイトルから「風の中にたたずむ主人公」の姿を連想することは、英語的にもあながち間違いではないのかもしれない。「風に吹かれて」という日本語タイトルはこのイメージを明らかに補強しており、従って日本語世界でこの歌が翻案される時には、必ずと言っていいほど下のようなナルシスティックな作品になる。ナルシスティックなガキだった昔の私は、割と気持ちよくこういう右翼チックな歌を歌っていたのだけれど、そうした恥ずかしい過去への悔恨を込めて、一応言及しておきたい。


エレカシ 風に吹かれて

しかしディランの原詞を読めば分かるように、この歌において「風に吹かれて」いるのは「答え」であって「主人公」ではない。さらに「blowing」は自動詞の現在進行形であり、決して「受け身」の表現ではない。「風に吹かれて」ではなくむしろ「自らが風となって吹いている」という能動態のイメージで翻訳した方が、正確になる。

一応、辞書の説明を転載するなら、この歌における「blow」は「2-a」の意味の「blow」であることが分かる。

1[しばしば it を主語として]
a〔動詞(+副詞(句))〕〈風が〉吹く
.
It's blowing hard.
風がひどく吹いている.
There was a cold wind blowing in from the sea.
海から冷たい風が吹き込んでいた.


b〔+補語〕〈風が〉〈…の状態で〉吹く.
It was blowing a gale [a storm].
疾風が吹いていた.


2a〔動詞(+副詞(句))〕〈ものが〉(風に)吹かれて動く[飛ぶ,散る].
The papers blew away in [on] the wind.
書類が風に吹き飛ばされた.
Dust blew in through the cracks.
砂ぼこりがすき間から舞い込んだ.
Her long hair was blowing (in the wind).
彼女の長い髪の毛が風になびいていた.

b〔+補語〕〈ものが〉風に吹かれて〈…と〉なる.
The door has blown open [shut].
ドアが風に吹かれてあいた[閉まった].
The tent blew down.
テントは風に吹き倒された.

「風に吹かれて動く」という「動き方」を一言で表現できる動詞が日本語の中に存在していない以上、「風に吹かれて」という説明的な言葉が訳語の中に使われるのは、致し方のないところなのかもしれない。しかしそれが「受け身の表現」になっていることが、どうしても私には引っかかるのである。原詞の言葉には「受け身」の要素が、全く含まれていないからだ。

さらに日本語には「迷惑の受け身」という、他の言語には見られない独特の受け身表現が存在している。「親に死なれる」とか「娘に泣かれる」とか「雨に降られる」とか「会社を休まれる」とか、要するに話し手にとって「迷惑」であると感じられる事態が自分の意志と無関係に発生した場合、日本語話者はその事態を「受け身」の言葉で表現するのである。英語や中国語ではこうした表現は絶対受け身にならないし、無理に受け身にしようとすれば意味不明の表現になってしまう。

そしてややこしいのは、原詞の中に「迷惑の要素」は全く含まれていないにも関わらず、「風に吹かれて」という受け身の表現を目にすると、我々日本語話者の感性はそこに自動的に「迷惑の要素」を感じ取ってしまうということなのだ。主人公は(←ここからして間違いなのだが)風に吹かれている。辛いだろう。冷たいだろう。歩きにくいだろう。といったような情景を、自動的にイメージしてしまう。主語が「答え」であると分かってみても、同じことである。「風に吹かれて」と言われると我々日本語話者はどうしても、その「答え」が、あたかも「逆境に耐えてそこにしっかり存在している」かのようなイメージを受け取ってしまう。そこが、決定的に違うのだ。この歌はむしろ「答えというものが全然しっかり存在していない世の中の現実」に対して、毒づいている歌なのである。「答え」はあたかも風の一部になってしまったかのように、フワフワフワフワしていて、つかまえどころがない。むかつくことだ。というのがこの歌のメッセージであると言っていい。その「風の中でフワフワフワフワしている答え」に対して、「逆境に耐えている」などという感情移入は不要なのだ。そういう感情移入をしたらこの歌はあたかも「希望の歌」であるかのようなことになってしまうが、この歌はむしろ「希望は当てにならない」ということを歌っている歌なのである。

そういう風に「風に吹かれている主体」への不要な感情移入を避けようとしたならば、結局「風に吹かれて」という「受け身表現」を何とかする以外にないということなのだと思う。私だったらこの曲のタイトルをどう翻訳するだろうということを考えてみたら、やはりけっこう難しかった。

「Blowin’ In The Wind」というタイトルには、主語がない。従ってこの文字列からは、上述したように「何かが風の中で吹き飛ばされている」というイメージから「ディランが風の中でハーモニカを吹いている」というイメージまで、いろいろな情景を想像できるようになっている。

  • (答えが)風の中にくるくる舞い踊っている。
  • (ディランが)風の中でハーモニカを吹いている。
  • 風の中の演奏 (←blowingを動名詞だと解釈した場合の訳語)

「風の中に」とするとフワフワしたイメージが生まれるし、「風の中で」とすると比較的ドッシリしたイメージになる。さらに「風の中の」と訳せる余地まである。しかし重要なのは、このタイトルの文字列だけからは「そのどれとも決められない」ということである。

だから私が邦題をつけるとしたら、「風の中」というタイトルにすることになるんだろうな。

以下は、細かい点をめぐって。

How many roads must a man walk down

…「man」という言葉には周知の如く「人間」という意味があるのだが、この歌における「man」は全て「he」という男性の代名詞に置き換えられている。英語文化がそもそもそうなっているということがあるのだろうが、ディランにとって「人間」というのは結局「男」のことしか意味していないのかよという、むかつきを感じる。いろんな歌を聞いてきたけれど、ちゃんと考えている人は、こういう言葉遣いはしていない。

Yes, ’n’

…この「’n’」というのは一体どういう暗号なのだと思って、中学生の頃の私は図書館に通いつめることまでしていたものだけど、何のことはない。「and」という言葉の前後が省略されただけの口語表現であるようです。「Yes, ’n’」というのは、してみると「そうだよそんでもって」という合いの手的なフレーズだということになるわけであり、ディランが伝統的なフォークソング(=民謡)のスタイルにのっとってこの歌を歌っていることの証拠であると言えるだろう。だから、翻訳を省略したくなかった。

The answer, my friend,

…直訳は「その答えは、友よ」。だが以前にも書いたように、こういう言葉でリアルな「友」に向かって語りかけることのできる日本語話者が実在するとは私にはとても思えない。原詞が「friends」になっていたら、「その答えはだ友人諸君」と翻訳したと思う。「諸君」なら、成立する。でも一対一の関係において、「友よ」という言葉の緊張感に耐えられるだけの「友情」というものが日本語世界に果たして成立しうるのだろうかと思うと、どうしても思えない。するとしたらそれは既に「フツーの友人関係」ではなくなっていると思う。

我々日本語世界の人間が、「外の世界」の人たちと本当に共に生きてゆく未来を創造するためには、我々はむしろそうした「緊張感を孕んだ友情」を意識的に自らの文化の中に育んで行かなければならないのではないかといったようなことも、一方では思う。しかし言葉の上でだけ背伸びをしたって、仕方がない。この訳詞では「答えはだな」の「な」という語りかけの語尾に、「friend」の要素を残すだけにとどめた。

how many years can some people exist

…片桐ユズルさんの翻訳ではこの「some people」が「ある種のひとびと」と訳されているのだが、それだとあたかも「いかがわしい人たち」みたいなイメージになってしまうので、好きではない。「何年たったら自由を認められるのか」と言われているのだから、この「some people」は「自由を認められていない人たち」なのであり、公民権運動の時代だから、黒人の人たちがイメージされていると思って間違いないと思う。そしてその人たちが「何年存在できるのか」ということが「山は何年存在できるのか」というフレーズとの対比において語られていることには、山には何万年の命があるが一人一人の人間には限られた命しか与えられていない、というメッセージが込められているのだと思う。「その限られた命しか持たない人間に、山が削られるような気の遠くなる歳月の間、じっと黙って待っていろということなのか」という告発が、ここには込められていると一応善意に解釈したい。しかし「some people」という言い方には、片桐さんの翻訳の仕方のせいだけではなく、どうしても「悪意」めいたものを感じてしまう。ディランの中に「同情」はあるかもしれないけれど、その人たちのことを本音の部分で「他人事」と思っている感が、否めない。

How many times must a man look up
Before he can see the sky?
Yes, ’n’ how many ears must one man have
Before he can hear people cry?

…この歌には「a man (ある男)」とか「one man (一人の男)」という言い方が何回も出てきて、いちいち日本語に翻訳しにくいのだが、少なくともこの3番に出てくる「a man」と「one man」は、同一人物ではないと思う。「上を向いても空が見えない」男性は、おそらく「自由を探している人」である。一方で「いくつ耳をつけても人々の泣き声が聞こえない」のは、極めて具体的な為政者のイメージである。でもって私にとって重要なのはディランという人間が「どちらの立場にも立っていない」ということであり、だからそういう全く違った立場の人のことを「同じ言葉」で表現できるのである。ホメているのではない。そこがむかつく、と言っているのだ。




そんでもって私自身のこの歌に対する感想なのだけど、お察しの通り、全然いい歌だとは思っていない。実に無責任な、その意味では極めてディラン的な歌だと思う。それ以上のことは、あまり言いたい気持ちになれない。

言うべきことがあるとすれば、「イマジン」と並び称される「反戦歌」だとされているこの歌にも、結局「戦争を止める力」はなかったし、これから先の時代にそういう新たな「力」を持ちうることは、さらにないだろうということだけである。付け加えるなら私自身はこの歌のことを全然「反戦歌」だとは思っていない。

本当に戦争に反対しようという気持ちを持っている人たちは、たとえ「答え」が明らかになっていようといまいと、必死でそれを「つかもうとする」はずだ。この歌が歌われていたその時代にあっても、アメリカの若者たちは「そんなことやって何になる」という冷笑を浴びながら公衆の面前で徴兵カードを燃やして刑務所に連行されていたのだし、黒人の人たちは冷笑にとどまらぬ暴力の直撃にさらされながら「白人専用」のバスやレストランに命がけで座り込んでいたはずなのである。そういう人たちを目の前にして俳句でも詠むように「答えは風の中にヒラヒラしている」と客観的なごたくを並べることの、どこが「反戦」なのだと私は思う。「海は死にますか」「山は死にますか」みたいなどーしよーもない右翼チックな感傷と、何が違うというのだろう。て言っかここにおいては右翼の方が明らかにこの歌から「影響」を受けているわけだけど、右翼に影響を与えて何をどうしようというのだろう。60年代にこの歌を心を込めて歌っていた人たちの言葉というものを、私はリアルではほとんど聞いたことがない。しかしこの歌のメッセージが「響く」人がもしいたとするなら、それは「挫折した人」に限られていたのではないかという気が、昔からしている。

トランプが大統領になり、日本では憲法が変えられようとしており、ファシズムの時代の再来のような差別と排外主義が世界中で吹き荒れているその一方において、ディランという無責任な人にはその無責任さゆえにノーベル賞という「栄誉」が与えられ、授賞式には出席しなかったらしいけど、伝え聞くところによると、割かしうれしそうにしているそうである。つくづく我々は、おぞましい時代の目撃者になったものだと思う。

「戦争に反対する歌」に私は囲まれて育ってきたし、どんな時にも戦争に反対するのは正しいことで、当たり前のことだと信じて暮らしてきた。世界からいずれ戦争はなくなるに違いないと思っていたし、何なら既に戦争というものは昔話で、これからはもう起こらないのだとすら思っていた。そしてそれもひとえに、戦争というものの恐ろしさを身をもって知っていた自分が生まれる前の世代の人たちが、世界中で命がけになって戦争に反対してくれたおかげなのだと思っていた。

だが21世紀に入り、私がオトナになってからのこの20年近くというものは、そんな風に自分を「支えて」いてくれたはずの歌や音楽というものが、実はいかに無力なものだったかということを思い知らされる、経験の連続でしかなかったように思う。

現実の戦争に対抗する力を持たない「反戦歌」などというものは、「インチキ」なのである。だったらそれがどうインチキだったのかということを自分自身の手で暴き出さなければ、戦争が現実のものになろうとしているこれからの時代、「戦争に反対する新たな力」を生み出すことは、絶対にできないと思う。

「うたを翻訳すること」が私にとって「自分の青春に決着をつける作業」であるというのは、そのことによっている。自分が正しいと信じてきた誰かの力に頼るのではなく、自分自身の力で現実に立ち向かうことをしない限り、これからの時代、「戦争に反対すること」を生き方として貫くことは絶対にできないのだということを、私はもう何年も前から感じ続けている。そして「先」はほとんど残されていないのである。

もしも戦争が現実のものとなるようなことが起こったら、その時には私はもうブログなんかやっていないし、歌だって歌っていないと思う。書くことだって歌うことだって「戦争に反対すること」の一環ではあるだろう。しかし「その前にやらなければならないこと」が、明らかに沢山あるのだ。

そのことの上でもしそういう時代が始まった時に、あたかも半世紀前から戦争に反対してきましたみたいな顔して「答えは風の中でヒラヒラフワフワしている」みたいな歌を私の前で歌い出す人間が現れたなら、その時は思いっきり

おちょくっとんのかあ!
と言ってやるつもりである。

ヒラヒラフワフワしているかもしれないけれど少なくともその答えが「見えて」いるのであれば、せめて自分の手でそれをつかもうとする努力ぐらいしてみせろ。

あんたもあんたもあんたもだ。

ということは、ブログの上ではその時には言えなくなってしまうので、今のうちに言っておくことにする。




このブログを始めた早い段階で、私は「ディランの歌は取りあげない」ということを何回か宣言してきたし、今でもやはり積極的に取りあげたいという気はしていない。書けばこういう記事にしかならないし、こういう記事というのはあまり書きたくない。基本的には自分の胸にだけしまっておけばそれでいいことなのだと思っている。直截的な言葉を使わなくたって、伝えたい人の胸には伝わるものだし、逆に伝わらない人の胸にはどんな直截的な言葉を使ったって伝わらないものなのだ。だったらこうした公共の場に掲示する文章には、攻撃的な言葉はなるたけ少ない方がいい。ディランは私を攻撃的にさせてしまうアーティストなのである。それは私と「イヤな部分が似ている」からなのだろうな。

そんなディランの、よりによって一番取りあげるつもりのなかったこの曲を今回こうして取りあげることになったのは、ブログを通じて出会った友人である(id:natsubatesaurus)の夏バテオさんという人が、このたびこの「Blowin' in the wind」の替え歌という但し書き付きで、「川辺の二人」という新曲を発表されたからだった。それについて私が何かコメントしようとしたならば、結局私がこのディランの原曲に対してどういう感情を持っているかということを明らかにする他なくなり、明らかにしようとするならば、こういうブログをやっている関係上、それ自体をテーマにした記事を一本書く以外になかったからである。

natsubatesaurus.hatenablog.com
そして書き終えた今、私はやはり書いてよかったと思っているし、書ける機会を与えてくれたバテオさんに感謝したい気持ちになっている。言葉にしないで溜め込んだままにしていたら、やはりこの歌に対する「決着」はつけられなかっただろうと思うからである。とはいえそれを言葉にできるタイミングというものには、なかなか自分の意志だけでは、巡り会えるものではない。何だかんだと言ってこのブログを始めて以降、私はそうした「出逢い」というものに、本当にいろいろ助けられている。

というわけで今回以降、記事の下の方に「出逢いのサイコロ」と称したリンクを作ってみました。振ればランダムに、今までに書いてきた過去記事のどれかにジャンプします。願わくは皆さん、出逢いを満喫して下さい。

それとバテオさんの歌に関しては、「替え歌」とは言い条、確かにコード進行は「Blowin' in the wind」と同じではあるものの、メロディや印象は全然変わっているし、言われなければ誰にも「Blowin' in the wind」の影響は見て取れないのではないかと思いました。「替え歌」なんてそこまで奥ゆかしくならなくても、充分オリジナルで通用する作品なんではないかと思いましたよ。

それにディランの「Blowin' in the wind」だって、そもそもは古い有名な黒人霊歌の「替え歌」だったのです。

というわけで次回の記事では今回の続編として、この曲の「元歌」になった曲を取りあげてみたいと思います。ではまたいずれ。


RCサクセション 風に吹かれて

…「世界がまだ平和だった頃の歌」だな。やっぱり。そんな「頃」なんて、世界のどこにもなかったわけではあるのだけれど。

=楽曲データ=
Released May 27, 1963
Recorded July 9, 1962
Key: D

Blowin' In the Wind

Blowin' In the Wind

  • ボブ・ディラン
  • ロック
  • ¥200
  • provided courtesy of iTunes
Blowin' in the Wind

Blowin' in the Wind

  • スティーヴィー・ワンダー
  • R&B/ソウル
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes