華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Brown Sugar もしくは ふう (1971. The Rolling Stones) ※



「ブラウンシュガー」というのは直訳すれば「精製前の砂糖」のことなのだそうで、黒砂糖から三温糖まで、英語では全部ひっくるめて「ブラウンシュガー」と言うらしい。だがそんなのは、今回の記事とはほとんど関係ないと言っていいレベルの話である。

この歌における「ブラウンシュガー」という言葉が「黒人女性の生殖器」のことをさす隠語であるらしいということは、CDの歌詞カードにもしっかり書いてあった。だから私はそのことを、中学生の頃から知っていた。

だもんで当時、スヌーピーの絵の描かれた「チャーリーブラウンのブラウンシュガー」という朝食シリアルのCMがテレビで流れるのを見るたびに、妙な気持ちになっていたりとかしたものだったが、そんなことはまあどうでもいい。

「ブラウンシュガー」というタイトルの意味にとどまらず、この曲に歌われているのがおおよそどういう内容のことなのかということも、歌詞カードを読んで私は知っていた。CDのタイトルを言うならば「Jump Back」という長靴の絵の描いてあるベスト盤だったのだけれど、それに添付してあった訳詞の内容は、いま読み直してもほぼ正確なものだった。別に誤解があったわけではない。そしてその内容を知っていた上で、私はこの歌を聞き続けていたし、自分で編集したカセットテープのお気に入りの曲の中にも、含めていた。

1997年にストーンズが来日した時には、この曲のラストの「いぇー、いぇー、いぇー、ふー!」というのがどうしてもやりたくて、大阪ドームまで見に行った。そして、やってきた。はずだと思う。あのコンサートではキース·リチャーズが阪神の猛虎ハチマキを巻いて登場して、しかもその「猛虎」の文字が上下さかさまだったとか、別なことばっかり覚えていて、問題のその瞬間については、なぜか記憶に残っていないのだけど。

そしてきっかり20年がたった今、私は本当に、わからなくなっている。

どうしてあの頃の私は、こんな最低の歌を、平気で聞き続けることが、できていたのだろう。単に「聞き続けて」いただけではない。当時の私はハッキリとこの曲が「好きだ」という意識を持っていた。どうして好きになれたりとか、したのだろう。

この歌は差別的な歌だし、暴力的な歌だ。しかもそうした差別や暴力に「快楽」を求めることを、これは決してホメ言葉ではない。「開けっぴろげに」肯定している歌である。それは誰がどう聞いても誤解しようがないくらいに、「開けっぴろげに」歌われている。

それなのにどうしてこの歌は、今でもこんなに「人気がある」のだろうか。そして今でも「平気で」歌われているのだろうか。「ストーンズだったら許される」のだろうか。いや、とりあえず、他人のことはいい。「みんな大好きだから」とか「ライブではお約束だから」とか「ストーンズの看板だから」とかいうのは、私自身が「いいのだろうか」という気持ちを抱えながら長年この歌を聞いたり弾いたりし続けていたことの「言い訳」にしてきた理屈であるにすぎない。その言い訳の影に隠れて「自分から」この歌を聞き続けていたのは、私自身なのである。なぜそんな言い訳を用意してまで、自分はこの歌を聞くことをやめることができずにいたのかということをこそ、私はまず真剣に、反省しなければならないのだと思う。

「純粋に」リズムとメロディが持つ魔力だったのだろうか。あんまりそうは思えない。およそ音楽を語る際に「音の部分」と「言葉の部分」を「分けて」語ろうとするタイプの人間の言うことは、私自身が信用する気になれたためしがない。両者が完全に一体化していてこその、「歌」なのである。そしてたとえそれが「意味もわからない外国の言葉」であったとしても、言葉というものには人間を突き動かす何らかの力が、間違いなく、ある。自分はこの歌の「言葉の力」に、突き動かされていたのだろうか。だとしたらそのとき突き動かされていたのは、私という人間の最も邪悪な部分だったに違いない。

数日前に取りあげたディランの「風に吹かれて」の原曲が、「競売の台に立たされるのはもういやだ」という古い黒人霊歌だった関係から、このかん数回にわたって奴隷制にまつわる歌や公民権運動の中で歌われてきた歌を取りあげたことで、アフリカ系アメリカ人の人たちがどんな思いをしながら闘い続けてきたのかというその400年の歴史を、私自身、改めて学ばされることになった。そしてそのことの上で、「奴隷制」というキーワードからこの歌のことを思い出し、検索して出てきた歌詞を読み直してみた私は、その場でスマホを叩き割りたくなった。何なのだ。この歌は。何で私にはこんなふざけた歌を「平気で」聞き続けることができていたのだ。

今まで、意識することはあったにしても、このブログでこの曲を取りあげることには、ずっと踏み切れずにいた。しかしこんな曲を「好きだった」自分の過去には、それこそストーンズがこの曲を歌い続ける限り彼らの歌は二度と聞かないぐらいの決意を込めて、本気で決着をつけなければならないと思った。「何だかんだ言ってもカッコいい」みたいなテキトーな言葉でこの歌のことを簡単に肯定してしまえる感性を持った人間は、かつての私を含め、あえて言うけど、カスだと思う。私は、戻り橋を断ち切る決意を持って言っている。

何度も書いてきたことだが、訳詞を書いたりその歌を歌ったりという行為は、多かれ少なかれその歌の世界の人間に「なりきる」ことを必要とする作業である。こんな歌を気持ちよく歌える人間の気持ちになりきって、それを代弁してやる言葉で訳詞を書くことなど、地球が裂けても私はイヤだと思う。だからこの曲の翻訳については、今までの同様のケースにならい、以前にベルベット·アンダーグラウンドの楽曲を取りあげた時に試みた「Venus In Furs方式」で、訳詞を作ることなくひとつひとつのフレーズの内容だけを再現するという形をとることにしたい。

Brown Sugar

英語原詞はこちら


Gold coast slave ship bound for cotton fields
Sold in a market down in New Orleans
Scarred old slaver knows he's doing alright
Hear him whip the women just around midnight

Brown sugar
how come you taste so good?
Brown sugar
just like a young girl should

Drums beating, cold English blood runs hot
Lady of the house wonderin' where it's gonna stop
House boy knows that he's doing alright
You shoulda heard him just around midnight

Brown sugar
how come you taste so good, now?
Brown sugar
just like a young girl should, now

Ah, get along, brown sugar
how come you taste so good, baby?
Ah, got me feelin' now, brown sugar
just like a black girl should

I bet your mama was a tent show queen
And all her boyfriends were sweet sixteen
I'm no schoolboy but I know what I like
You shoulda heard me just around midnight

Brown sugar how come you taste so good, baby?
Ah, brown sugar just like a young girl should, yeah

I said yeah, yeah, yeah, woo
How come you... how come you taste so good?
Yeah, yeah, yeah, woo
Just like a... just like a black girl should
Yeah, yeah, yeah, woo

=翻訳をめぐって=

タイトルの「ブラウン·シュガー」という言葉について改めて触れると、冒頭にあげた「女性器」の隠語としての意味の他に、「シュガー」はそもそも英語圏の男性が恋人の女性に向かって上から目線で呼びかける時の言い方でもあり、「褐色の肌を持つ恋人」的な意味で解釈できる余地もある。また「ブラウン」が文字通り「茶色」である一方で「シュガー」は基本的に白いものだから、「ブラウン·シュガー」はそれ自体が「異人種間のセックス」をイメージ的に表現した言葉であるという解釈もあるらしい。さらに「ブラウン·シュガー」は、精製前のヘロインのことを指す隠語でもある。

別にセックスの歌やドラッグの歌が、あったってかまわない。大好きだ、とすら言わせてもらおう。個人的には。

だがこの歌の世界における「異人種間のセックス」は、決して「対等なセックス」でもなければ「合意の上のセックス」ですらない。完全に、レイプなのである。それもこの歌が背景としている時代にあって、イギリス人にとってはそれが「合法的に」行われていたという、いっそう正視に耐えないような現実がここでは歌われているのである。それをウキウキしながら歌ったり聞いたりできる人間の感性というのは、絶対にどこか大切なところが、恐ろしい形で麻痺しているのだとしか考えられない。

以下、歌詞の内容に移る。

Gold coast slave ship bound for cotton fields

「Gold coast」とはかつて「黄金海岸」と呼ばれた、アフリカ西岸のガーナのあたりの地名。そこで奴隷船(slave ship)に詰め込まれたアフリカの人たちが、大西洋を越えて、アメリカ南部の綿花地帯(cotton fields)へと送られてゆく。この1行目の歌詞には動詞がないので、全体が情景描写になっている。

Sold in a market down in New Orleans

直訳は「ニューオーリンズの市場で売られる(た)」。何が「売られた」のかという主語が省略されているが、「奴隷にされた人たち」が売られたのである。奴隷貿易が盛んだった17~8世紀、ニューオーリンズは全米最大の「奴隷の集積地」だった。一行目の歌詞からは場面も時間も、移り替わっている。

Scarred old slaver knows he's doing alright

直訳は「顔に傷のある老獪な奴隷商人は、自分がうまくやっているということを、わかっている」。奴隷商人だからこの男は当然、白人である。「old」という言葉は「年老いた」と訳すよりも、ここでは「狡猾な」とか「ずる賢い」というニュアンスで訳した方が、ふさわしいのではないかと思う。人に暴力を振るうには相応の「体力」も必要なわけだから、それが「老人」であるというのはどうもいまいち、この歌の風景に合致していないように思われる。場面はここから、ニューオーリンズにあるとおぼしきこの男の邸宅に切り替わっている。

全くどうでもいいレベルの話だが、この「Scarred old (顔に傷のある老齢の)」という歌詞を、ミック·ジャガーは実際には「sky dog」と歌っているらしい。「空の犬」って何のことかよく分からないけれど、オールマン·ブラザーズ·バンドに在籍していたデュアン·オールマンという人のアダ名だったとのこと。彼氏みたいな奴隷商人をイメージして歌っている、ということなのだろうか。私はその人のことを知らないので何とも言えない。

Hear him whip the women just around midnight

直訳は「そいつが女性たちのことを一晩中ムチで叩いている音が聞こえるだろう」。「そいつ(him)」は前段の奴隷商人。「hear(聞け)」という命令形の言葉が挟まれることで、上3行の歴史的な風景は突如として「聞き手の目の前の風景」に切り替わる。

Brown sugar
how come you taste so good?

直訳は「ブラウンシュガーよ、おまえはどうしてそんなにいい味をしているのか」。奴隷商人の言葉として解釈するのがふさわしい。

just like a young girl should

直訳すると「あたかも若い女性がするように」となるが、「若い女というのはこうでなくっちゃな」的なニュアンスで訳するのが「正しい」らしい。実に、えぐい。

Drums beating, cold English blood runs hot

直訳は「ドラムが鳴り響き、イギリス人の冷たい血液が熱くたぎりだす」。ここまで淡々と訳してきたけれど、そろそろ黙っていられなくなってきたので、書く。

「お前もイギリス人だろう?」と私は言いたくなる。ミック·ジャガーに対してである。「同じイギリス人として、自分たちがかつて手を染めてきた奴隷貿易の歴史や、かつこの歌の中でイギリス人の奴隷商人がアフリカから連れてきた女性たちに対して振るっている暴力について、あんた自身は一体どういう考えを持っているのか」ということを、詰問してやりたくなる。

だが、ここで彼氏に「問う」のは、もはやナンセンスなことである。それに対する彼氏の「答え」が、まさにこの歌詞に示されているのだ。こっちは「話し合い」を求めているにも関わらず、向こうはそれを嘲弄している。だったらこっちにとっても、「対話の段階」は終わりである。ここから先は「戦う」以外にない。

こんな邪悪な歌詞というものを、私は他に見たことがない。

ミック·ジャガーはこの歌において、自分とルーツを同じくする男性が肌の色の違う女性たちを力づくで「自分のもの」にし、かつ暴力を振るうその「気持ち」というものに対して、何ら「怒り」を表明していない。感情移入を拒んでいない。「違和感」さえ、感じているとは思えない。戯画化しているとか「風刺」しているとかいった言い訳も、およそここでは通用しない。それどころかむしろ彼氏は、この邪悪なイギリス人の奴隷商人の「気持ち」になりきって、この歌を歌っている。

つまりミック·ジャガーは、そいつの気持ちが「わかる」と言っているのである。肌の色の違う女性たちを力づくで「自分のもの」にして暴力を振るう時に、「自分」の中にどんな興奮や快感が湧き上がってくるかということを、「同じイギリス人として」理解できるという気持ちを持っているからこそ、「ためらいもなく」こういう歌詞が書けるのである。2~300年前の奴隷商人に仮託した表現技法がとられてはいるものの、ここで吐き出されているのはミック·ジャガー自身の「気持ち」であり、感情であり、欲望なのだ。私にはそうとしか受け取れない。

そしてこんな巨大な邪悪さを前にしてしまっては、言葉なんて本当に何の役にも立たない。よくまあこんな歌詞を、「開けっぴろげに」歌ってみせることができたものだと思う。

もし私がこの歌に歌われているような現場に出くわして、この歌に歌われているような言葉で「快楽」を謳歌しているような男と向き合うことになったなら、殺す。

このブログを始めてから一度も使ったことのない言葉ではあるけれど、そんなやつに「言葉の代わり」に与えてやれるものがあるとしたら、それしかない。殺す。

しかしよしんばそいつひとりを殺したところで、レコードを買ったりライブハウスで歌ったりしてこの歌に「共感」を示している人間の数は、世界で何百万人を下らないのである。しかもその中には私にとって身近な人や親しい人も多く含まれており、そればかりか、かつての私自身まで含まれている。そんな中で私は一体「何」と戦えばいいのだろうか。身悶えしたいような気持ちにとらわれてしまう。

だが、このさい「私」のことは後にしよう。この歌の中で暴力を振るわれているその人たちの気持ちになって、考えよう。「いい味をしている」ということの他には「どんな人か」を知ることのできる情報が何も語られていない、つまりそれ以外の側面は歌い手から完全に「人間扱い」されていない存在として描き出されているところの、その人たちの気持ちになって考えよう。そしたら、単純に「許せない」という言葉しか出てこないはずである。

大体、この歌を歌ったり聞いたりしている人間たちは、「単純に」それを楽しんでいるのだ。だったらそれを「単純に」許せないと言ってやることに、何の問題があるだろう。これから私は、それで行くことにする。たとえそのことで「世界」を敵に回すことになったとしても、その「世界」の住人たちが絶対に直視しようとしない「もうひとつの世界」の側の人間として、私は生きなければならないし、生きたいと思う。

たとえばの話だ。

日本がかつてアジアの各地を侵略し蹂躙していた頃の、その現場の情景を、こんな風に「開けっぴろげ」に歌ってみせる日本人の歌手が現れたら、我々はそいつのことをどう思うだろうか。国のためにどうのとか愛する人のためにどうのとかいった欺瞞の大義名分でオブラートにくるむことさえせず、「悪いのは分かってるけど楽しいからやめられない」的なノリでもって、大っぴらにその「楽しさ」を称揚するような歌手が現れたらの話である。ろくでもない歌ばかり溢れている、ろくでもない今の日本の現状ではあっても、そこまで厚顔無恥な連中というのは、いまだ私の知る限り、少なくとも公然とは、活動していない。

しかもその歌手がそうした暴行や略奪の一部始終をノリノリのリズムでもってつぶさに情景描写してみせた上で、「日本男児の血がたぎる」みたいな歌詞で観客の興奮を煽りにかかり出したとしたならば、本当にそんなやつらは、どうしてやればいいのだろう。煽る方も煽られる方も、まとめて吹っ飛ばされてしまえばいいのである。それ以外の言葉を私は持たない。

侵略を受けた側のアジアの人たちが、そういう「日本男児の血がたぎる」的な言葉を歌詞の中に盛り込んで、日本の軍国主義を告発するということの方が、まだあり得る話だと思う。「お前ら、そういう気持ちでやってやがったんだろ」ということを正面から突きつけられたら、例え図星であったとしても、「そうですよ」と言える日本人は、まずいないだろう。認めないのは認めないので邪悪なことだが、悪の自覚や罪の意識があればこそ「そうだ」とは言えないのが「普通」の感覚であるとも思うわけで、その問いに「そうですけど何か?」と返せるほど極悪な人間には、さすがに私も今のところ出会ったことがない。

ところがストーンズはそれと全く同じことを、「イギリス人として」平然と行なっているのである。このことに私は、本当に何と言えばいいのだろう。ヨーロッパの白人が「それ以外の人間」に対して歴史的におこなってきた数々の邪悪な行為に対する「居直り」の、底知れぬ根深さを感じてしまう。

世界の歴史というものが、それぞれの「国の歴史」のバラバラな寄せ集めとしてではなく、「ひとつの人類の歴史」として語られることが当たり前になるような時代が、いつかは必ず訪れるはずだと私は信じている。その時代において、奴隷貿易や植民地支配の歴史は、「南京·広島·アウシュヴィッツ」と一緒に、繰り返されることなどもはや起こりえない「人類前史」の汚点として、世界中の人々の合意のもとに採択された「共通の歴史教科書」の最初の方のページに、小さく書かれているだけになっているはずだと思う。大きく書かれている間は、まだ「同じようなこと」が起こりうる余地があるということだ。今の教科書の「先史時代」の記述と同じくらいのページ数で「気楽に」すっ飛ばせてしまうような時代がさっさと訪れてくれたら、どんなにいいだろうかと思う。しかし20世紀が終わり21世紀を迎えてもなお、このストーンズの歌みたいなのが「反省」もなしに世界のあちこちで「愛されている」現状を考えたなら、そんな時代はやはりまだまだ遠いのだという気持ちに、落ち込まざるを得ない。

「南京·広島·アウシュヴィッツ」を「ネタ」にして、「明るくノリノリのロックンロール」を作ろうとする人間は、いないはずである。数年前の大阪の在特会デモで「鶴橋大虐殺」を扇動する10代の女性が現れた時には、「それがやれる人間」と「それがやれる時代」の台頭と到来を感じて、私は心底、うすら寒い気持ちになった。だが少なくとも「世界」が絶対にそれを許さないだろうということは、確信を持って言えることだ。

それなのにどうして、奴隷制度や奴隷貿易のことは「ネタ」にできるのだろう。そしてそういうのが「大らかに」肯定されたりできるのだろう。明らかな悪事が「大らかに」肯定される時には、絶対にそのかげで「我慢すること」を強いられる人たちが存在しているのだ。そしてその「強いられる我慢」の内容は、「我慢」という言葉ではとても追いつかないぐらいの、人間の尊厳に関わるような屈辱である場合が、むしろほとんどだったりしているのである。自分の「快楽」のために他人にそんな屈辱を味あわせていい権利が、誰にあるだろうか。

この歌について書かれている他のサイトに目を通してみると、それを書いた人間が「何だかんだ言ってもカッコいい」この歌を聞き続けることを自己合理化するためなのか何なのか知らないが、時々とんでもない「擁護論」が展開されているのに出くわして、開いた口がふさがらなくなる。

いわく、「ブラウン·シュガー」というこの曲のタイトルには、自分たちのやっている音楽が白人文化と黒人文化の混淆から生まれたものだという事実に対する、ストーンズとしての「誇り」が込められているのだという。「太鼓の響きがイギリス人の血を熱くする」というフレーズに出てくる「太鼓」はアフリカ文化の象徴であり、この歌詞は黒人文化に対するミック·ジャガーの「オマージュ」なのだという。こういうデタラメなことをスマートな言葉でサラサラ書ける人たちというのは、自分が何を言っているのかを、本当に分かっているのだろうかと思う。

その解釈がもし「当たってる」のだとしたら、白人メンバーで構成されているストーンズというバンドは、まさにこの歌に歌われているようなやり方で、アフリカ系の人たちからその文化を奪い、「自分のもの」にした、という話にしかならないじゃないか。それを「オマージュ」と言うのであれば、世の中のレイプ事件は全部「女性へのオマージュ」という言葉で正当化されることになるだろう。

彼らの「ロック」がそういうものでしかないのだとしたら、滅びるべきだと私は思う。そして実際にそういう言葉で白人のミュージシャンを批判しているアフリカ系の人たちは、本当にたくさんいる。ストーンズの面々が、「黒人文化へのリスペクト」というものを、あちこちで語っているように本当に持ち合わせているのであれば、少なくともそうした批判に対して、真摯に向き合うことから始めるべきなのではないだろうか。こんな歌でそれに「こたえる」なんて、論外もいいところだ。

YouTubeで検索してみると、ティナ·ターナーみたいな黒人の女性歌手がこの曲をストーンズと一緒に歌っている動画が出てきたりして、とても複雑な気持ちになる。だがそういう人たちのそういう振る舞いについては、黒人社会の側からしっかり批判がなされている。私が成り代わってあれこれ言うことではない。とにかく私はこんな歌はもう二度と聞かない。言うべきことは大体言いつくしたので、後は残りの歌詞の内容を確認して、さっさと終わりにしたい。どこまで行ったんだっけ。

ミック·ジャガーの血は冷たいんだって話だ。それが人に暴力を振るう時にだけ、熱くなるんだって話だ。私は同じ人間として彼氏のことをそんな風に思いたくないけれど、本人がそう言ってるのだから、その言葉は文字通りに受け止めておくしかない。

先へ進もう。

Lady of the house wonderin' where it's gonna stop

直訳は「家のレディはそれがどこまで行ったら終わるんだろうかと思っている」…「レディ」は奴隷商人の配偶者。海外サイトによれば、このフレーズは二通りの解釈が可能なのだという。ひとつは、自分の夫が「奴隷」の女性たちと関係を持っていることを知りながら、立場が弱いのでどうすることもできずにいるという解釈。もうひとつは、彼女は彼女で次の歌詞に出てくる「ハウスボーイ」との関係に夢中になって止まらなくなっているのだという解釈。どちらの解釈をとるにしても、この歌に描かれているあらゆる関係性の中には、いちいち「権力関係」がつらぬかれている。

House boy knows that he's doing alright
You shoulda heard him just around midnight

直訳は「ハウスボーイは自分がうまくやっているということを分かっている。おまえ(←そのハウスボーイをさす)も一晩中あの奴隷商人が立てる音を聞いていたことだろう」…「ハウスボーイ」とは、奴隷主の家族の身の回りの世話を担当させられていたアフリカ系の人の呼び名で、必ずしも「少年」ではなかったらしいが、「boy」なので明らかに男性である。外で畑仕事などをさせられていた他の「奴隷」と比べて待遇は「良かった」らしいが、このことから黒人解放運動の指導者だったマルコムXは後に「ハウスボーイ」という言葉を「裏切者」の代名詞として使っている。この「ハウスボーイ」が「自分はうまくやっている」というその中味が、女主人との関係のことを言っているのか、男主人の性暴力に見て見ぬふりをしていることを言っているのか、ここでも二通りの解釈が成立する。しかしどちらにせよ、他者を「奴隷」扱いしてきたイギリス人の一人であるミックに、その「奴隷」の気持ちを代弁していい資格なんて、ないはずである。

…そして再びコーラスがあり、三番の歌詞に移る。ここでは時間が一気に「現在」に飛び、ミック·ジャガーが「俺」という一人称で歌っている。

I bet your mama was a tent show queen
And all her boyfriends were sweet sixteen

直訳は「賭けてもいい。お前の母親はテントショーのクイーンだろう。そしてお前の母親のボーイフレンドは、みんなぴちぴちの16歳なのだろう」。…20世紀に戻ってきたミックは、自分自身の「褐色の肌の恋人」に向かって、上の歌詞をささやいている。もっとも本当にその相手のことを「恋人」だと思ってるのかどうかは、かなり疑問だと思う。

「テントショー」というのはイギリス版の旅芸人一座で、この歌詞から英語圏の人が連想する彼女の母親像は「女性の曲芸師」みたいなイメージであるらしい。そしてこの母親が若いボーイフレンドを何人もはべらせているという描写からは、その母親が性的に奔放な人であるというイメージと同時に、セックスそのものを職業にしている人であるというイメージまで、英語圏の人は、受け取るらしい。

ビートルズの「ヘルター·スケルター」にも同じような歌詞が出てきたことを思い出すが、別にその人がどんな性格をしていようがどんな仕事についていようが、それは構わないし、関係ない。だがミックの言い方は明らかに、「ほめて」いない。むしろ自分のパートナーの母親のことを侮辱しているとしか思えないし、そのことを通してパートナーのことをも侮辱しているとしか受け取れない。何でそんな、相手が言われて絶対うれしくないようなことを敢えて言うのかといえば、ミック自身が「楽しいから」であり、「興奮するから」である。そのことの上でミックは相手のことを「恋人」だと思ってるのかもしれないが、客観的に見てその関係性というのは絶対「対等」であるとは、言えないと思う。

I'm no schoolboy but I know what I like
You shoulda heard me just around midnight

直訳は「おれはスクールボーイではない。だが自分が何が好きであるかを知っている。おまえも一晩中おれの声を聞いたことだろう」。…「スクールボーイ」とは小中学生にあたる年齢層の男子生徒の総称。これが高校生まで含むような言葉だったとしたら「おれは学校には行ってないけど」みたいな訳し方の方がふさわしいのだと思うが、ここではおそらく「おれは子どもじゃない」という意味で言われている。しかしそれなら次の接続詞がなぜ「but」なのかということが、気にはなる。別に大したことじゃないのだけど。

そして以下、歌い手は、一番と二番で昔の時代の奴隷商人に仮託して叫んできたコーラスの言葉を、最後は「自分自身がセックスしている相手」に向かって、ひたすら絶叫している。

Brown sugar how come you taste so good, baby?
Ah, brown sugar just like a young girl should, yeah

ある海外サイトの評論では、ミック·ジャガーには「肌の色の違う女性」とのセックスに励んでいた際に、自分のやっている行為が数世紀前の奴隷商人の所業と「重なって感じられる瞬間」があったのではないかということが、書かれていた。その時まさに彼氏の脳裏に浮かんでいた情景が、一番と二番の歌詞になっているというのである。

他人のセックスの内容についてあれこれ評論することが「いいこと」だとは全く思わないが、この歌の場合、「ネタ」を提供しているのはミック自身である。上の指摘は非常に的を得ていると、私自身も思わずにいられない。しかし行為の最中で「そういう情景」が頭をよぎったとしたなら、「立たなくなる」のが「まともな反応」というものなのではないだろうか。

ところが彼氏はそのことで「いっそう興奮する」と言っているのであり、その興奮の内容を「開けっぴろげに」歌にまでして、悪びれるところが全くないのである。この歌の邪悪な部分は、結局その一点に凝縮されていると私は思う。

Yeah, yeah, yeah, woo
Just like a... just like a black girl should
Yeah, yeah, yeah, woo

「Yeah, yeah, yeah, woo」は歌い手が絶頂を迎えたことの表現であり、上段の「若い女ってのはこうでなくっちゃな」というえぐいフレーズが、最後に「黒人の女ってのはこうでなくっちゃな」といういっそう露骨なフレーズとなって、もう一度繰り返されている。終わった終わった。後はこんなどうしようもない歌の話なんて、二度としたいとは思わない。

昔の私はその「いぇー、いぇー、いぇー、ふー!」に「憧れ」を感じて大阪ドームにまで足を運んだりしたものだったのだけど、今、同じことをやってみたいかという問いを自分自身に対して発するならば、全くやりたいとは思わない。むしろ、嫌悪感をおぼえる。それが一番「大切なこと」なのだと思う。もしも「いぇー、いぇー、いぇー、ふー!」はやっぱり「楽しい」という気持ちが私の中に1ミリでも残っていたなら、今回この歌に「決着をつける」ことは、できなかっただろう。

だがこの歌のイントロが流れてくるとそれだけで反射的に「気持ちがたかぶって」きてしまう感覚というものを、私の身体は、いまだに覚えている。それを忘れられることは、ないのだと思う。だからこの歌を今でも大好きな人たちの気持ちと言うのは、語弊を恐れずに言うならば、とてもよくわかる。

しかしわかるからこそ、私はムキになってでもこの歌を否定しないわけには行かないのである。そうしなければ最も「戦わなければならない瞬間」において、私自身が邪悪さの側に押し流されてしまうに違いないということを、自分が一番よく分かっているからだ。

私が決して「楽しくて」こんな記事を書いているわけではないことは、分かってくれる人には、分かってもらえていることだと思う。音楽は世界をひとつにする的なことがよく言われたりするけれど、そのじつ音楽の世界というのは極めて狭いムラ社会である。「ロックの世界」はもっと狭い。その狭い世界においてこの歌に反旗を翻すことがどれだけ「大変な」ことであるかということを、一応その中にいたことはあるので、私は知っている。「自分はブラウンシュガーは絶対にやらない」などということを「宣言」してしまったら、どんなイベントでも声をかけてくれる人がいなくなるくらいの反発は、覚悟しなければならないと思う。

それでも私は、一人でも多くの人に、この歌と訣別することを呼びかけたいと思う。そうしなければ「音楽は世界をひとつにする」的な合言葉は、永遠に欺瞞のまま終わってしまうからである。

ふう。

ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Released 16 April 1971
Recorded 2–4 December 1969

Personnel
The Rolling Stones
Mick Jagger – vocals, percussion
Keith Richards – electric guitar, acoustic guitar, backing vocals
Mick Taylor - guitar
Bill Wyman – bass guitar
Charlie Watts – drums

Additional personnel
Ian Stewart – piano
Bobby Keys – saxophone

Key: C