華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Tears Of Rage もしくは怒りの涙 (1968. The Band)


Tears Of Rage

Tears Of Rage

英語原詞はこちら


We carried you in our arms
On Independence Day
And now you'd throw us all aside
And put us all away
Oh, what dear daughter 'neath the sun
Could treat a father so
To wait upon him hand and foot
Yet always tell him "No?"

われわれは独立記念日に
おまえを腕に抱いて歩いた。
そして今のおまえは
われわれを放ったらかしにし
われわれのことを避けている。
ああこの太陽の下のどこに
父親にそんな仕打ちをできる娘が
いるというのだろうか。
手となり足となって
仕えるべきその父親に
「ノー」という言葉しか
聞かせてくれないなんて。


Tears of rage, tears of grief,
Why must I always be the thief?
Come to me now, you know
We're so alone
And life is brief.

怒りの涙
かなしみの涙
なぜわたしはいつも
ぬすびとでなければならないのか。
こっちに来てほしい。
われわれはとてもさびしくて
そして人生は短いのだ。


It was all very painless
When you went out to receive
All that false instruction
Which we never could believe
And now the heart is filled with gold
As if it was a purse
But oh, what kind of love is this
Which goes from bad to worse ?

家を出ていって
われわれにはとても信じられないような
ことを覚えて帰ってくるのも
おまえにとっては何の痛みも伴わない
ことだったということなのだな。
今では人の心というものには
まるで財布と同じように
カネしか詰まっていないと
いうことなんだろう。
それにつけても
悪い方から悪い方にしか
向かわないだなんてそれは一体
どういう愛だというのだろうか。


Tears of rage, tears of grief
Why am I the one who must be the thief ?
Come to me now, you know
We're so alone
And life is brief.

怒りの涙
かなしみの涙
どうしてわたしがぬすびとでなければ
ならない人間だというのか。
こっちに来てほしい。
われわれはとてもさびしくて
そして人生は短いのだ。


We pointed you the way to go
And scratched your name in sand
Though you just thought that it was nothing more
Than a place for you to stand
Now I want you to know that while we watched
You discover no one would be true
And I myself was among the ones
Who thought it was just a childish thing to do

われわれは
おまえの行くべき道を指し示し
そして砂の上に
おまえの名前を刻んだ。
でもおまえはそれをただ
自分が立っているだけの場所だとしか
思っていなかったようだ。
おまえがわれわれの
目の届くところにいるあいだに
世の中には本当に正しい人間なんて
どこにもいないのだということに
気づいていてくれたならと思う。
わたしも昔は
周りのみんなと同じように
そんなのは子どもじみた考えだと
思っていたひとりだったものだった。


Tears of rage, tears of grief
Why am I the one who must be the thief ?
Come to me now, you know
We're so alone
And life is brief.

怒りの涙
かなしみの涙
どうしてわたしがぬすびとでなければ
ならない人間だというのか。
こっちに来てほしい。
われわれはとてもさびしくて
そして人生は短いのだ。



ザ·バンドのデビューアルバム「ミュージック·フロム·ビッグ·ピンク」は、ジミヘンやドアーズによる「サイケデリック」な音楽が全盛を迎えていた1968年の7月に、ニューヨーク近郊のウッドストックの森の中にあるピンク色に塗られた家の地下室から、文字通り「ひっそりと」発表された。エリック·クラプトンはこのアルバムから「人生が変わるほどの衝撃」を受け、自分がやってきた音楽は何だったんだというショックの中で、クリームの解散を決意したのだという。またアメリカでこのレコードと出会ったジョージ·ハリスンは、手に入るだけのLPをことごとく買い占めてイギリスに持ち帰り、友人たちに片っ端から配って回って、それがサイケデリック志向を強めていた当時のビートルズの音楽に新たな転換をもたらすきっかけになったと伝えられている。

中学生の時にザ·バンドを知った私は、それほど有名で歴史的に重要だと言われているこのアルバムを、かなり長い間、聞くことができずにいた。私の地元のCD屋には基本的に置いていなかったし、ましてレンタルで置いてあるような店はどこにもなかった。大阪まで行けば買えることは分かっていたけれど、親が気まぐれに与えてくれる小遣いで月に何枚かの中古盤を変えるのがせいぜいだった中高生の経済状況では、おのずと「優先順位」というものが生じてくる。ある街の図書館にこのアルバムが置いてあるのを見つけ、ようやく聞いてみることができた時、私は確か19歳になっていたと思う。

それほど長い歳月を経て巡り会えたアルバムだったにも関わらず、初めて聞いた時の私の印象は「何じゃこら」というものだった。

私が初めて買ったオリジナルアルバムである2作目の「ザ·バンド」には、1曲目の「Across The Great Devide」から、中学生の心をも鷲掴みにできるくらいの「華々しさ」というものが存在していた。しかしいろんなところで絶賛されているこのファーストアルバムには、そうした「華々しさ」が全然なかった。作りかけの試作音源と言うか、会場に客を入れる前のリハーサルと言うか、そういうのを聞かされた気がした。いつもおしゃれに決めている大好きな彼女が、いきなり寝ぼけまなこのすっぴんで自分の前に現れて、しかも「見られてやばい」とか思ってる雰囲気でも全然ない。なので自分ばかりがリアクションに困ってドギマギしている。そんな奇妙な第一印象だった。

バイトを始めるようになってからは、自分のレコード棚にも並ぶことになったこのアルバムではあるのだけれど、20代の頃にはほとんど聞き返す機会がなかったように思う。ようやくしみじみと「好っきゃわあ、これ…」という気持ちで聞けるようになったのは、ネット上で他の多くの人が述懐しているのと同じく、私も30代に入ってからのことである。

ザ·バンドというグループの「前史」については以前に駆け足で触れたことがあるが、このアルバムが発表されたいきさつについては、どこから話せばいいのだろう。あまり歴史に深入りすると、キリが無くなってしまいそうな気がする。ここは一番、Wikipediaから引用させてもらおう。

1959年、アメリカのロックンローラー、ロニー・ホーキンスは彼のバック・バンド、ザ・ホークスを連れロックンロールが落ち目になりつつあったアメリカを離れカナダへと活動の中心を移した。しかし、次第にドラムスのリヴォン・ヘルム以外のメンバーがホームシックにかかり脱退したため、現地カナダの若者をメンバーに加入させる。その際集まったメンバーが、ギターのロビー・ロバートソン、ベースのリック・ダンコ、ピアノのリチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、後のザ・バンドのメンバーである。1963年までロニー・ホーキンスのバックバンドとして活動していた。

1964年、ロニーと意見の相違から別れたザ・ホークスは、「リヴォン&ザ・ホークス」と名乗りカナダとアメリカで地道なライブ活動を続ける。やがて、ボブ・ディランのマネージャーのアルバート・グロスマンの目に留まり、ブルース・シンガーのジョン・ハモンド(ディランを世に出したプロデューサーのジョン・ハモンドの同名の息子)の推薦もあって、彼らはボブ・ディランのバックバンドとして抜擢されることとなった。折しも、ディランがアコースティックギターの弾き語りによるフォーク路線から、エレキギターを使用したフォークロック路線へと転換する時期であり、電気楽器を嫌う従来のフォークファンからは壮絶なブーイングを受けた。しかしこれが逆にバンドの知名度を高めることになる。

ディランとホークスとのコンサートツアーは全米、オーストラリア、ヨーロッパと続き、行く先々で賛否両論を巻き起こす。この様子はディランのライブ・アルバム『ロイヤル・アルバート・ホール(ブートレッグ・シリーズ第4集)』(1998年)に記録されている。ツアー半ばで、保守的な観客のブーイングに嫌気が差したリヴォン・ヘルムが脱退し、後任にはミッキー・ジョーンズが一時的に参加した。

ツアー終了直後の1966年7月29日、ディランは交通事故で負傷。仕事を失っていたメンバーはディランに誘われ、彼の隠遁地であるニューヨーク郊外のウッドストックに住みつく。このころリヴォンも復帰する。彼等の家はピンクのペンキで塗られており、「ビッグ・ピンク」と名付けられた。ここではディランとのセッションが行われ、その音源がロック史上初の海賊盤『Great White Wonder』として流出した。公式には長く未発表であったが、1975年に『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』としてリリースとなった。また2014年にはディランのブートレッグ・シリーズ第11集『The Basement Tapes Complete』として、その全容が公表された。

…長い引用になったなあ。そして下の写真がその「ビッグ·ピンクと呼ばれた家」である。この家はリック·ダンコがひと月125ドルの家賃で貸しに出されているのを見つけ出し、ガース、リチャードと共に「ファンキーな共同生活」を始めたところから、どんどん「にぎやかな場所」になっていった。この家から生まれた音楽ということで「ミュージック·フロム·ビッグ·ピンク」なのである。やっとここまでたどりついた。



今からちょうど半世紀前にあたる1968年は「世界史の転換点」となった年だと言われており、この年に起こった出来事をテーマにした本だけでも何冊も出版されていて、「ざっと解説する」ことなど、とてもできそうにない。とにかくこの年には、世界中で「革命の嵐」が巻き起こっていたのだという。アメリカで。フランスで。日本で。中国で。東欧諸国で。「空気はどことなくピリピリしていて、ちょっと力を入れて蹴飛ばしさえすれば、大抵のものはあっけなく崩れそうに思えた」というフレーズが、当時大学生だったという村上春樹の小説の中に出てきたのを覚えているけれど、何しろ「そんな時代」だったのだと思う。それなのにその時「何も変わらなかった」のはなぜだったのだろうということが、それから10年経って生まれた私には今でも不思議で仕方ないのだけれど。

何しろそんな時代だったから、当時の若者文化の核の部分には常に「叛逆の精神」というものが息づいていたと、そのころ若者だった人たちは誰もが口にしている。ザ·バンドのこのデビュー曲には「父親の言うことに『ノー』でしか答えない娘」が登場するが、当時の若者社会にあってはそういうスタイルと言うか生き方こそが、粋でおしゃれで朗らかなものであるとされていたのだと考えて、間違いないと思う。

ところがこの歌は、「娘のそんな仕打ちを嘆く父親」の立場から歌われている。それが当時の人たちには、逆の意味で「ショック」に感じられたらしい。しかもデビューアルバムの一曲目から、このスローテンポなタルみきった音である。「ミュージック·フロム·ビッグ·ピンク」は何もかもがそんな風に、「逆の意味で」型破りなアルバムだったのだ。それは一種の「Rebelling against the rebellion (叛逆に対する叛逆)」だったと、後にリヴォン·ヘルムは自伝の中で語っている。

だからと言ってザ·バンドの面々が「保守的」な人々だったのかといえば、私はそうは思わない。それというのもかれらの楽曲の歌詞の中には、「人を差別する言葉」がほとんど出てこないからである。

そういう人間と2〜3日、とは言わない。数時間でも仕事や生活を共にさせられる羽目に陥ってみれば、必ず身につまされて思い知らされることなのだが、保守的な人間というのは本当に差別的な話「しか」しない。あたかもそういう人たちにとってこの世界には「他人を差別すること」以外に「生きる喜び」が何も存在しないのだろうかと思いたくなってしまうぐらいに、差別的なこと「しか」言わない。アメリカやカナダでもそれは同様なはずだし、映画とか見ててもそれはそうである。そういうステレオタイプな「役柄」を作品の中に登場させること自体が「新たな差別の再生産」につながるのではないかという問題意識が私にはあるのだけれど、一方で映画やドラマの中に必ずと言っていいほど登場する「そういう保守的な人間のキャラクター」が、その社会の姿を一定リアルに切り取ったものであることは、疑いえない。そんな人間だらけの世界で生きてゆく中で、差別的な言葉を一切口にしないということは、それ自体が一種の「勇気」や「決意」を必要とすることだと私は思う。無論、それが「当たり前」だと思っている人は、その「勇気の要ること」を「当たり前」のようにやっている。しかしそうした人たちの数というのは、「アーティスト」を自称しているような人間たちの間でさえ、決して「多数派」になっているわけではない。

ザ·バンドの歌詞の中にも、差別的な表現が皆無であるとは言えない。本人たちが差別であると意識せずに行なってしまっている差別というのは、やはりあると思う。しかし基本的な姿勢として、人をさげすむような歌は絶対に歌わないというスタンスが、ザ・バンドの楽曲には貫かれていると私は思う。これは、ディランやストーンズ、さらにはビートルズの中にも、決して見出すことができない姿勢なのである。ロビー·ロバートソンの書く詩は「神話的」であるとよく言われるが、その登場人物は「ステレオタイプ」ではない。「なになに人」であるとか「どこそこの住人」であるとか「男性」であるとか「女性」であるとかいった「レッテル貼りの言葉」で、何かを象徴させようとかイメージさせようとかいう手法は全く取っていない。むしろそれはディランが好んで使うやり口なのだ。このことはしばしば「革命的なアーティスト」であると評されているディランが、地金の部分ではいかに「保守的」な人間であるかということを示している事実だと私は思う。

ザ·バンド唯一のアメリカ人メンバーであるリヴォン·ヘルムが生まれ育ったのは、アメリカで最も保守的な地域だと言われている深南部であり、白人至上主義団体のクー·クラックス·クランが公然とメンバー募集を行なっているようなところだったらしい。だがリヴォンのおじいさんにあたるウィーラー·ウィルソンという人は、KKK団を強く憎んでいた。

村でKKKが勧誘活動を行なっているのを見かけると、リヴォンのおじいさんはショットガンを持って出かけて行き、

おい、この辺でKKKがうろついてるのを見なかったか?

と声をかけていたのだという。KKKが恐怖で口もきけずにいるのを見てとると、

もし見かけたら、ウィーラー·ウィルソンが探してたって言っといてくれや。

と言い残して悠然と背中を見せ、帰って行く。そんな人だったらしい。

「そのことを俺は心から誇りに思う」と、リヴォンは自伝に書いている。ザ·バンドは必ずしも社会的な問題を正面から取りあげたり、「人類愛」を大上段からうたいあげたりするような、そういうアーティストではない。だがリヴォンの自伝の中の上記のエピソードに触れた時ほど「うれしい」と感じたことは、私には他になかったように思う。そういう人たちがやっている音楽なのだ、という「安心感」を持って耳を傾けられるということが、私がザ·バンドを聞き続けていることの一番大きな理由になっているのかもしれない。

そして決して「奇抜」でも「過激」でもなかったにも関わらず、ザ·バンドが1968年に世に送り出したのは間違いなく「新しい」音楽だった。だからクラプトンもジョージハリスンも、夢中になったのだ。ザ·バンドはあらゆる「古い価値観」が音を立てて崩壊しつつあるように見えたその時代にあって、その中から「本当に新しいもの」を「地に足のついた」やり方で築きあげることに成功した稀有なグループであると、私は感じている。そしてその「地に足のついたこと」が、出自のバラバラな4人のカナダ人と1人のアメリカ人で構成され、しかも結成以来レコードデビューまで一度も1ヶ所にとどまることなくずっと旅ばかりしていたグループによって成しとげられたということは、本当にドラマチックなことだと思う。

ロシア革命の指導者の1人で、レーニンの死後にスターリンとの政争に敗れ、暗殺されたトロツキーという人がいるのだけれど、この人が書いた「文学と革命」という著書の中に

我々マルクス主義者は、誰もがみな伝統の中に生きており、しかもそのことを理由にして「革命家であることをやめた者」は、我々のうちには一人もなかった。

という一節があって、私はザ·バンドの音楽を聞くたびに、なぜかいつもその言葉を思い出す。そして全っったくどうでもいいことではあるのだけれど、若い頃の眼鏡をかけていた時期のロビー·ロバートソンの写真は、笑けてくるぐらいにそのトロツキーとそっくりなのである。




…これはもう完全に「意識していた」と言えるレベルなのではないかと私は密かに思っているのだが、もしもロビロバ氏の目指したものがそんな風に「伝統を否定するのではなく踏まえた上に成しとげられる、地に足のついた音楽の革命」だったのだとしたら、この2人の間にはかなり「相通じるもの」があったのではないかという気がする。だからどうしたと言われたら、それまでの話ではあるのだけどね。

そんなザ·バンドの楽曲を、これからはしばらく、アルバム単位で集中的に取りあげてゆくことにしたいと思う。実はそれは私がこのブログを始めて以来ずっと「一番やりたかったこと」のひとつだったのだが、当初はやれる自信もなかったし、また「誰が読むのだ」という気持ちも正直言って、あった。だが300曲もの楽曲を今まで翻訳してきたのだし、そろそろ「趣味」に走ったとしても、読者の皆さんは許してくれるのではないかと考えている。

翻訳をめぐって

上にいろんなことを書いたけど、この曲に関しては、作詞者はディランである。ディランはこのザ·バンドのデビューアルバムのために三曲分の歌詞を提供しており、うち一曲に関しては「自分が歌おうか?」とも申し出たらしい。しかしディランの七光りで売れることを潔しとしなかったザ·バンドの面々は丁重にそれを断り、代わりにディランに「絵」を描いてもらった。それがこのアルバムのジャケットになっている。

そんなわけでこの歌は、今までに何度か触れてきたディランという人間の「保守的な地金」がにじみ出た作品であるという意地の悪い見方もできるのだが、この中に描かれている「人の親となった者の悲しみ」それ自体は「純粋」なものであり、普遍的なものでもあると思う。作曲者であるリチャード·マニュエルのメロディと声は、それをいっそうピュアなものにしていて、私自身は、キライではない。人の親となった経験もなる予定も、ない人間ではあるのですけどね。

We carried you in our arms
On Independence Day

「独立」という言葉はアメリカにおける伝統的な価値観の象徴でもあるというところに、この歌詞のアイロニーがある。「古き良き」思い出の中では、娘を抱いて誇らしい気持ちで独立記念日のパレードに参加していた父親が、今ではその娘の「独立心」の前で途方に暮れている。よくできた歌い出しだと感心する。

To wait upon him hand and foot
Yet always tell him "No?"

ここをどう翻訳すべきかが、よく分からない。片桐ユズルさんの訳詞では「手取り足取り父につくしながら/いつもノーと言うなんて」と翻訳されているのだが、娘が「手取り足取りつくしている」のだとしたら、父親に「嘆く理由」はないはずだと思うのである。上の試訳は意訳と言うよりやや恣意的な訳し方になっているのだが、誰か文法的に正確に説明できる人がいたら、教えてください。


子供達を責めないで 伊武雅刀

ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Released July 1, 1968
Recorded 1968
Richard Manuel: Lead Vocal & Piano
Rick Danko: Back Vocal & Bass
Robbie Robertson: Electric Guitar
Garth Hudson: Lowrey Organ & Soprano Sax
Levon Helm: Drums & Tamburine
John Simon: Tenor Sax
Key: C