華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

We Can Talk もしくは そろそろ話し合ってもいい頃なんじゃないか (1968. The Band)


We Can Talk

We Can Talk

英語原詞はこちら


We can talk about it now
It's that same old riddle, only starts from the middle
I'd fix it but I don't know how
Well, we could try to reason, but you might think it's treason
One voice for all
Echoing (echoing) echoing along the hall
Don't give up on father's clock
We can talk about it now

そろそろ話し合っても
いい頃なんじゃないか。
いつもミドル(真ん中)から始まる
あのおなじみのリドル(難問)について。
何とかしたいとは思うけど
どうしたらいいか分からないんだよな。
リーズン(結論を出す)したっていいけれど
そしたらあんたはトリーズン(国家への反逆)だって言い出すと思うよ。
みんなのためのひとつの声が
それがホールの中に響き渡ってる。
時間を司る神っているだろ。
「親父の時計(ファーザーズ·クロック)」って言ったっけ。
「時の翁(ファーザー·タイム)」って言うのか。
何でもいいけど
それに愛想をつかすのは
もうちょっと考えた方がいい。
そろそろ話し合っても
いい頃なんじゃないか。


Come, let me show you how
To keep the wheels turnin' you got to keep the engine churnin'
Well, did ya ever milk a cow? (Milk a cow?)
Well, I had the chance one day but I was all dressed up for Sunday!
Everybody, everywhere:
Do you really care?
Well, then pick up your heads and walk
We can talk about it now

やり方を教えてやるから
来なよ。
タイヤを転がし続けるためには
エンジンを動かし続けなきゃいけないんだ。
えーと
牛の乳搾りをしたことはあるかな。
こないだやれるチャンスがあったんだけど
あいにくその日は日曜向けのおしゃれをしてたんだな。
いたるところのみなさん。
本当にちゃんと考えてる?
ならおまえたち
しっかり胸を張って歩いてみなよ。
そろそろ話し合っても
いい頃なんじゃないか。


It seems to me we've been holding something
Underneath our tongues
I'm afraid if you ever got a pat on the back
It would likely burst your lungs
Whoa, stop me, if I should sound kinda
Down in the mouth
But I'd rather be burned in Canada
Than to freeze here in the South!

おれたち
口の中のベロの下あたりに
ずーっとひっかかってるものが
ある感じがするんだよな。
おまえって
軽く背中を叩かれたら
それだけで肺が破けちゃうような
そういうとこ、あるよな。
あーあ。
辛気臭い話だと思ったら
そう言ってくれ。
でもおれは
この南部で凍りつく思いをするよりは
カナダで焼け死ぬ方がよっぽどましだな。


Pulling that eternal plough
We got to find a sharper blade, or have a new one made
Rest awhile and cool your brow
Don't ya see, there's no need to slave, the whip is in the grave
No salt, no trance
It's safe now (you know it's safe) to take a backward glance
Because the grains have turned to chow!
We can talk about it now,
We can talk about it now

鋤を引っ張って
永遠に地べたを耕し続ける人生だ。
もっと鋭い刃先か
丸ごと新しいやつを見つけなくちゃな。
ちょっと休んで
おでこを冷やせよ。
わかんないかな。
奴隷になる必要なんてないんだ。
鞭なんて墓場におさまるべきさ。
塩って言うか
刺激がなけりゃ
夢見心地にもなれやしない。
今なら後ろを振り返っても
平気だぜ。
刈り取った穀物は
みんなお食事になっちゃったんだから。
そろそろ話し合っても
いい頃なんじゃないか。

=翻訳をめぐって=

大曲「The Weight」でA面が終わり、「ミュージック·フロム·ビッグ·ピンク」のB面一曲目は打って変わって明るい曲。作ったのはリチャード·マニュエルである。リヴォン·ヘルムは自伝の中で、この曲についてこんな風にコメントしている。

It's a funny song that really captures the way we spoke to one another; lots of outrageous rhymes and corny puns. Richard just got up one morning - or afternoon - sat down at the piano, and started playing this gospel song with its famous line: "But I'd rather be burned up in Canada than to freeze here in the South."
おれたちが実際お互いにどんな風に喋りあってたかをリアルにとらえた愉快な歌だ。突拍子もない韻の踏ませ方や、デタラメなダジャレがいっぱい出てくる。リチャードがある朝...午後だったかもしれないけど...起き出してピアノの前に座り、演奏しはじめたのが、「南部で凍りつくよりカナダで焼け死ぬ方がよっぽどマシだ」というフレーズで有名になったこのゴスペル·ソングだったんだ。

この歌の中で繰り返される「We can talk about it now」というフレーズを直訳すると、「我々は今それについて話すことができる」となる。英語は日本語といろいろな面で「発想法」が違う言語だから、これをどんなニュアンスで日本語に移すかには、解釈によってかなりの「幅」が出てくると思う。「今こそ話し合おう」みたいな翻訳をみたこともあるのだが、そんな風に長年のタブーでもこじ開けるかのような悲壮な言葉を使うのは、この歌の翻訳にはそぐわないのではないか、というのが私の印象である。「そろそろ話し合ってもいい頃なんじゃないか」ぐらいでいいんではないだろうか。変な言い方だけどね。いいころなんじゃないかぐらいでいーんじゃないだろーかぐらいんだーいんでいんじゃー Grinder in danger...

前提として踏まえておくべきは、「怒りの涙」の記事で概括したごとく、この曲の収録されたデビューアルバムの録音に至るまで、ザ·バンドの前身だったホークスのメンバーたちは何年にもわたりずっと「先の見えない旅暮らし」を送っていたという事実だと思う。そんな毎日の中で「将来の不安」を笑い飛ばすために交わされていたメンバー間の与太話が、リヴォンの言うごとく「そのまま再現されている」のがこの歌なのだろうと私は感じる。ウッドストックという「落ち着き先」にたどりつくことができたことで、ようやくそのハチャメチャな日々が「何」だったのかということを振り返ることのできる余裕も、メンバーの間では生まれていたことだろう。だから「We can talk about it now」なのではないだろうか。いずれにしても私はこの曲を、デビューアルバムにふさわしい前向きな希望にあふれた歌だと感じてきたし、今も感じている。何よりも、リチャードの「こんなに楽しそうな歌声」を聞くだけで、うれしくなってくる。

「突拍子もない韻の踏ませ方や、デタラメなダジャレ」に満たされたこの歌の「解読」の試みが、長い歴史を持つザ·バンドのファンサイトでは20年くらい前から繰り広げられている。以下はそれを踏まえた上で私が作った、試訳の各フレーズをめぐる補足である。

One voice for all
Echoing along the hall

「for all」は「それにも関わらず」という意味を持つ熟語なので、最初私は「One voice for all」を「たったひとつの声ではあるけれど」と訳したのだったが、考えてみるとラグビーの世界では「One for all, all for one」とか言うわけだから、「みんなのためのひとつの声」と訳した方が自然であるように思う。しかし全く違った内容になるこの2つの訳文の意味を、英語圏の人たちがどう「聞き分ける」のかは、ネイティブでないのでよく分からない。

「ミュージック·フロム·ビッグ·ピンク」には歌詞カードがついていなかったので、「Echoing along the hall 」と書いた部分を「around (ホールを取り巻くように)」と歌っているかはたまた「across (ホールを横切って)」と歌っているかについてずいぶん論争があったようだが、現在ネットで確認できる歌詞はほとんどが「along (ホールに沿って)」と表記されている。「Echoing」のところでボーカルの3人の声が文字通り「エコー」してくるのは、感動的な部分である。

Don't give up on father's clock

直訳は「父親の時計を手放すな」もしくは「父親の時計をあきらめるな」。何のことやらさっぱり分からないのだが、上のサイトによるならばこの「father's clock」という言葉には「father time」と呼ばれる英語圏の昔話の主人公(?)のイメージが重ねられているらしい。「father time」は辞書では「時の翁 (ときのおきな)」と訳されており、「死の訪れを象徴する大鎌 (scythe) と時の経過を象徴する砂時計 (hourglass)を持つ前髪 (forelock) だけの頭のはげた長いひげの老人」の姿で表象されるとある。つまり「時間の流れが人格化されたキャラクター」であるわけで、イギリスやアメリカの大きな家の屋根には「風見鶏」の代わりにこの「時の翁」が取り付けられているのをしばしば目にするらしいのだが、「チャンスには前髪しかない」というあのわけの分からないコトワザの由来は、これだったのだな。



それが「Don't give up on father's clock」というフレーズになると、「時間の流れに見切りをつけるな」=「絶望するな」みたいな励ましの言葉にも聞こえるし、あるいは暮らしに困ったからと言って父の形見の時計を売るのはよくない、みたいな忠告にも聞こえるし、逆に「たとえ親とケンカ別れしてもいつか遺産は手に入る」みたいな親不孝な軽口であるようにも響く。けれど、どの意味にとっても「時が全てを解決する」=「絶望するな (Don't give up)」というメッセージであることは共通している。だから、そういうフレーズとして聞いておけばいいのではないかと思う。

I'd rather be burned in Canada
Than to freeze here in the South

カナダは北の国で寒いのが当たり前、アメリカ南部は暑いのが当たり前という「普通の感覚」をひっくり返すような歌詞で、この歌の中でも最も有名なフレーズなのだが、この歌詞に反映されているのは恐らく、ホークスが旅回りで南部で演奏していた頃の、聴衆の「冷たい反応」だったのではないかと思う。ホームグラウンドだったカナダではプロモーターからいいように搾取され、それがイヤで旅に出たわけだったが、聴衆の反応はアツかった。冷めた客を相手にするのはもうイヤだ。こんなことならカナダに帰りたい。メンバーの間で実際に交わされていたそんな言葉が、ここでは「なつかしさ」を込めてそのまま歌詞にされているのではないかという感じがする。上記サイトにも、大体同じような解釈が書かれていた。

Pulling that eternal plough

「eternal plough (永遠の鋤)」という言葉には、農家の生まれだったリヴォンとリックの生活に根ざした実感、そして「The Weight」における「重荷」のイメージがこだましているように思う。それがかれらの「人生観」だったのだろうなと感じる。

No salt, no trance
It's safe now to take a backward glance

「No music, no life」が「音楽がなければ人生もない」であることを踏まえるなら、「No salt, no trance」は「塩がなければトランスもない」という意味になる。さらに「salt」には「刺激」という意味もあるので、「刺激がなければ夢中になれることもない」という感じで訳すのが一番自然な日本語になると思う。この「塩」を「ドラッグ」のことであると解する向きもあるようだが、確かにそういうイメージも「含まれて」いるかもしれないにせよ、歌詞では「salt」としか言っていないのだから、「意訳のしすぎ」だと私は思う。

その上で「塩がない」という言葉の後に「It's safe now to take a backward glance (もう振り返っても大丈夫)」というフレーズが続いていることには、キリスト教文化を踏まえるなら、意味がある。旧約聖書の「創世記」で、「神」がソドムとゴモラの町を滅ぼそうと決意した時、ロトという人のところにその「神」の使いが現れてすぐに町から逃げるようにという忠告を受けるのだが、その際「絶対に後ろを振り返ってはならない」と念を押される。それにも関わらずロトの連れ合いだったサラという女性は、町から逃げる際に振り返ってしまい、その場で「塩の柱」に変わってしまう。英語圏の人たちがこの歌詞を聞いた時に連想するのは例外なくその物語のイメージなのだという。

それを踏まえるなら「trance (恍惚状態)」という言葉も、ソドムとゴモラの人々が「滅ぼされる」理由となった「肉欲の罪」と重なっているのを感じる。つまり「刺激がない」「夢中になれない」=つまらない、でも「振り返っても大丈夫」=危険はない、そろそろ昔の話でも始めてみようか、といった感じで、「塩」という言葉からいろんなイメージが導き出されて、「かけあい」になっている歌詞なのだと思う。私はね。

Because the grains have turned to chow!

「穀物はお食事になってしまった」というのは上の文の素直な直訳なのだが、上記ザ·バンドのファンサイトではこの部分の歌詞が「Because the leaves have turned to chalk (木の葉は灰に変わってしまった)」と記載されている。確かにその方が、「時間の経過」や「ソドムとゴモラの滅亡」のイメージとは符号する。とはいえ、両方の歌詞を見比べながら曲を聞いてみると私にはやっぱり大多数の歌詞サイトに記載されている通り、「grain」と聞こえる。

...つまるところ、「イキがったりビビったりしてここまで来た」若いかれらが越し方行く末を振り返っているのがこの曲である、というのが私の印象である。「ツアーがどこに行くのか誰も知らない」にしても、基本的に「元気いっぱい」であり、繰り返しになるけれど、「希望にあふれた歌」だと私は思うのだ。


ドカドカうるさいR&Rバンド

ところで。

ビートルズやディランの歌詞ならともかく、ザ·バンドの歌詞の日本語訳に本格的に取り組んでいるウェブサイトというのは、私がこのブログを始める前には私の知る限りほとんど存在していなかったのだが、そうした数少ない「同業サイト」に「阿部嘉昭ファンサイト」というのがあって、今もある。(わざわざリンクを貼るのもケンカを売るみたいでアレなので、あえて貼らない)。Wikipediaによると阿部嘉昭という人は「サブカルチャー評論家」で「詩人」で「北海道大学准教授」をやっている人なのだそうであり、ものすごい数の著書を書いている人なのだけど、そのサイトに載っているこの人の訳した「Old Dixie Down」の歌詞は、たとえばこんな感じである。

ヴァージル・ケインがわしの名
ダンヴィル鉄道でご厄介になった
嵐村の苦難がきて
鉄路をひきさいてしまうまでは。
1865年のことじゃった
わしらはみなひもじく
飢え死に寸前じゃった
5月10日までには
リッチモンドが陥落した
あのときのことは
何度でも憶いだす
旧き南部が舞台からひきずりおろされたあの夜
鐘が祝福を鳴らしつづけた
人びとも和して唄った
行進しつつ、ララララと

...繰り返しになるけれど、別に悪口を書こうというのではない。私は「ぼく」で訳したわけだけど、歌詞の原文には「I」と書いてあるだけである。「わし」と訳したって間違いではないし、そう聞きたい人には聞く自由があるだろう。しかし「翻訳という作業」に対するスタンスというものが、この人と私とでは出発点から異なっているのではないかという感じを受けてならない。「他人の言葉の中から、自分の聞きたいことだけを聞こうとしているのではないか」という印象を、どうしても感じてしまう。

私がこのブログを始めた動機のひとつには、日本語のネット世界ではザ·バンドの歌に関する翻訳記事をほとんどこの人のサイトでしか見つけることができなかったという当時の現状に、どうにも納得できなかったという気持ちがあった。このことは、ハッキリ書いておく他にない。

この人によるならば、「真のロック歌曲」の美点というものは「情報圧縮性(眩暈感)」「定型逸脱性(脱同定性)」「音楽的記憶」「肉体性」「外延性」「冥府性」「欠性」という概念語によって総括しうるものなのだという。そしてこの人がそうしたテーマで2006年に早稲田大学で講義を行った際、その講義を受けた学生さんがザ·バンドの「We Can Talk」を題材にして書いたレポートというものが、「阿部嘉昭ファンサイト」では「今期の講義をやってよかった、と正直おもった」というコメントつきで紹介されている。

以下に、その全文を転載させて頂きたい。そういうことを敢えてするのは、2006年に早稲田大学第二文学部の表現・芸術系専修3年生だったというこのレポートの作者の人に、個人的にどうしても言いたいことがあるからである。もうひとつは、今の日本語世界においてこの「We Can Talk」という歌のことを本当に知りたいという人が私の他にもいた場合、ネットで調べた時に参考にできるのは「阿部嘉昭ファンサイト」と「華氏65度の冬」の2つだけという現状があるわけで、それに対する自分の態度を明らかにしておかねばならないという気持ちにとらわれたからである。

南部で凍死、カナダで火刑
―ザ・バンド「ウィ・キャン・トーク」について

WE CAN TALK

今なら話し合える
途中から始まる
昔からよくある謎のこと
解決したいけれど、
どうするのかが分からない
考えようとは出来るけど
君は背信だと思っている
ある声が広間に響いているけど、
父の時計に見切りをつけるな
今なら話し合える

おいで、教えてあげよう
いかに車輪を回しつづけ
エンジンを回しつづけるのかを
牛の乳搾りをしたことがあるか?
ある日 その機会があったが
日曜だったから正装だったのさ
顔を上げて歩くように心がけて

俺たちは何かを言わずにいるみたいだ
君が背中を叩かれたら(ほめ言葉をもっていたら?)
君の肺が張りさけそうで怖いよ
俺が弱音を吐いたら止めてくれ
でも南部で(南極で?)彼女を凍死させるより
カナダで焼け死ぬ方がいい(火刑?)

永遠に鋤を手にとり
もっとするどい鋤の刀を探すか、新しい刀をつくろう
少し休んで腰を冷やせ
弁解の必要なんてない
鞭を打つヤツはもう墓穴の中
ヘロインなしじゃトランスもない
もう一度 後退することだって今は安全
木の葉が真っ白になった。

今なら話し合える
今なら話し合える

 今回、私が、ザ・バンドについて書こうと思ったきっかけは「ロンサム・スージー」という曲がとても気に入ったからだ。超憂鬱なラヴソングで、少し考え方が屈折していなくもない。しかし、それも共感し得るもので、なにより、音楽も歌詞も素晴しく美しい。

 ザ・バンドの音楽性としては、ボブ・ディランのような文字の多さによる情報圧縮性が強いわけではなく、ビートルズのように曲構成、コード進行、歌詞のナンセンスさにおいて定型逸脱性が強いわけでもない。

 ザ・バンドに関しては、「エイント・ノー・モア・ケイン」や「ベシー・スミス」でも分かるように、歴史的背景をその楽曲の中に非常にナラティヴに表現している。つまり、音楽的記憶が大変厚いことが特徴だといえる。また、音楽で表現した歴史的背景の中に情報が内在し、それを表現するために、表面的な歌詞が崩れている場合もあるので、ザ・バンドの音楽的記憶は合わせて情報圧縮性・定型逸脱性を包括しているともいえる。

 ザ・バンドの特徴としては、「ロンサム・スージー」「イン・ア・ステーション」のように、自分の心の中で自問自答し、語りかけるような、内向性の高いラヴソングと、先に述べた歴史性の強い「キング・ハーヴェスト」「ファディナンド・ザ・インポスター」のように何らかの自らの思想を外へ広めようという外延性の高い作品がはっきりと見てとれる点だ。さらに、この二つの性質に属していようがいまいが、ザ・バンドの作品はどれも非常にナラティヴである。そして、リトル・フィートやキャプテン・ビーフハートのような露骨でえげつない肉体性がなく、全体としてとても美しいことも特徴といえよう。

 さて、これらをふまえて、今回私が訳をつけた「ウィ・キャン・トーク」について考えてみようと思う。

 まず、歌詞に関しては脈絡なく突然話題が変わってしまう。ミドルテンポ、明るい調子で軽快なキーボードとエレキの音で歌われるのが不思議なほどだ。始めは宗教に関するタブーがテーマだと思う。だがこの曲の特徴として「but」を挟んだ前後の関係がどうもはっきりしない点がある。それゆえ、今まで日常から乖離したテーマだったものが急に日常の話題になってしまう。

 そのまま歌詞は一度意味を失くしたかのように「南極で凍死・カナダで火刑」となる。始めにあった、心ではわかっているタブー、おそらくキリストに関する何か(たぶん受胎かそれに伴う人性)を口に出してしまった場合、故郷に火あぶりになるか、世界の果てまで逃亡するかということを表しているのだろう。

 次はプランテーションを連想できる。whip、御者、鞭を打つ看守の存在も見えるが、労働の苦しみという点ではまた神話にもつながり得る。

 ところで、ここで一つ気になることがある。Pulling ploughのploughはplowとして「鋤を取る」と訳したが、ploughをplougherとしてPulling powerと訳すと、不意に性的魅力という、強い肉体性をもった言葉が浮かび上がってきた。これが、露骨な性表現は使わないザ・バンドの計算であるならば、まるでピカソの絵のように一見すると無意味であっても、実はしごく主知主義なのではないだろうか。

 そして、いよいよ曲の最後でヘロインとトランスが登場する。ロックの特性でもあるアンダーグラウンドの世界を匂わせ、自己同一性も崩壊させてゆく。そのまま曲は自己分裂状態のままフェイドアウト的に消えてしまう。このように見てくると、「ウィ・キャン・トーク」にも強い欠性があることがわかった。

 話題が変わって、ザ・バンドの歌心となる。ハスキーな声で、ミドルボイスは美しく、チェストは太く、ファルセットは細く透明感のある綺麗さで歌い上げている。ハスキーボイスの典型的な歌い方ではあるが、日本人はなかなか簡単に真似出来るものではない。

 またコーラスでは不思議な感覚をおぼえる。最初は和音のハーモニーになっていたように聴こえるのだが、コーラスのピッチが一方は下に、一方は上にとピッチが外延的に離れてゆくのだ。加えて、ボーカルがハスキーボイスで、声が安定していないように聴こえるので、コーラス部分は焦点がぼやけて消えてゆく感じがする。つまり、コーラス部分に亡霊性があり、それが曲に冥府性を生みだしている。

 元々、自殺する者の書いた歌なのだから、刹那的・破滅的な死へと向かうような冥府性があったのだろう。図らずも歌心がそれを引き立たせる結果となったのだ。

 このように、ザ・バンドの特徴であるナラティヴなストーリー性をもつ「ウィ・キャン・トーク」を通して、音楽的記憶・冥府性・歌心などについて私なりの考えを述べ、ロック性についての確信を得ることができた。

...2006年にこのレポートを書いたというあなたにとって、この「We Can Talk」という曲が今でも変わらずに「特別な曲」であり続けているとするならば、このブログ記事にもいつか必ず出会ってくれるに違いないということを信じて私は書くのだが、私はあなたの翻訳にケチをつけようとか自分の翻訳の方が正確だとか言いたくて上の文章を引用させてもらったわけではない。あなたは私より、ずっと頭のいい人だと思う。20代の頃の私には、あなたがこのレポートでやってみせたような形でザ·バンドの歌詞を翻訳できるような英語の力は全くなかったし、私自身、2000年代には、あなたが書いてくれたこの訳詞だけを頼りに「We Can Talk」を読み解こうとしていたものだった。

だが、このレポートを書いた時、あなたは本当に「自分の耳で」このザ·バンドの歌を聞こうとしていただろうか。「先生」である阿部嘉昭氏が、「真のロック歌曲」は「情報圧縮性」「定型逸脱性」「音楽的記憶」「肉体性」「外延性」「冥府性」「欠性」を備えていると言うものだから、何でもいいからこの曲の中からそうした要素を探し出して、当てはめてみた、というだけのレポートになってはいないだろうか。言い換えるなら「この曲でなければならない必然性」は、あなたにはあったのだろうか。

結びの部分の「ロック性についての確信を得ることができた」という言葉も、私にはよく分からない。あなたにとっての「ロック性の確信」というのは、どこから生まれてくるものなのだろうか。「先生の言った基準を全部満たしていること」が、あなたにとっての「ロック性の確信」になるのだろうか。あなた自身にとっての「ロック性」とは何なのか、ということを私は聞きたいと思う。

それ以前に「それがロックであるかどうか」ということは、あなたにとってそれほど重要なことなのだろうか。私に関して言うならば、音楽を聞く時に「それがロックであるかどうか」みたいなことが気になった経験は一度もない。好きなものは好きだし、キライなものはキライ。それだけである。「それがロックであるかどうか」は後回しにするとして、あなたは自分がレポート課題に選んだこの曲を「好きだ」という気持ちを、本当に持っていただろうか。それを私は、知りたいと思う。

元々、自殺する者の書いた歌なのだから、刹那的・破滅的な死へと向かうような冥府性があったのだ

というあなたのレポートの一節を読んだ時、「そんな言い方があるか」と私は思ったのだ。このことだけは、書いておかねばならないと思った。

リチャード·マニュエルは「元々、自殺する者」だったのだろうか。「元々、自殺する者」なんて、この世にいるのだろうか。あなたは自分が「絶対、自殺しない者」だと思ってるのだろうか。そうでなければ、他人に対して「元々、自殺する者」などという突き放した言い方は、絶対にできないと思う。

冗談ではないと私は思う。リチャード·マニュエルは確かに「自殺することになった人」ではあるけれど、「生きていたい」と思っていなかったはずはないと思う。それなのにどうして彼は死ななければならなかったのかということに、リヴォンもリックも死ぬまで悩み続けたし、「自分の責任」を感じ続けていた。存命のガースとロビーも、同じ痛みを抱え続けているはずだと思う。彼のことを愛していた人であればあるほど、そう思うのが当然なのである。私だって、同時代に生きることができたわけではないけれど、リチャードが死を選ばねばならなかったことを本当にくやしいと思うし、悲しいと思う。彼の作った歌や彼の歌う声が、本当に大好きだからである。

その彼のことを後付けの知識から「元々、自殺する者」だったと決めつけた上で、なおかつ彼の作った歌を「鑑賞」の対象にできるというその感覚が本当に分からない。そういうのを「鑑賞」と言いうるのだろうかとさえ思う。「自殺する人間の特徴探し」でもするつもりでレコードを聞いているのではないかと疑ってしまう。そしてそれならそういうことを書く人には、いま生きているミュージシャンの歌声から「冥府性」とかいうものを見つけ出して、「この歌手は近々自殺する」ということを予言することでもできるのだろうかということを、マジで問い質したくなってくる。

そもそも「We Can Talk」という歌のことを取りあげたこのレポートにおいて、「そんなこと」を書かなければならない必然性がどこにあるだろう。「先生」が「真のロック歌曲」の条件として挙げた「冥府性」の要素を、この曲の中から無理やり見つけ出そうとしたということ。それだけではないのだろうか。そんな「当てはめごっこ」のためにそこまでするか、と私は思う。死んだ人間のことを二度殺すような、どれだけひどいことを自分が言っているのかということを、本当にこの人は分かっているのだろうかと思う。

そして自分の講義内容を「真面目に」受け取った学生がこんなレポートを書いてきたことに対し、責任感をおぼえるどころか、ベタ褒めでネットに公開して「自慢」することのできる阿部嘉昭という人の感覚を、私は本当に疑ってしまう。大学講師というのはそんなデタラメなことを平気でやってなおかつ給料までもらえる稼業なのかということを、全然うらやましいとは思わないけれど、ひたすら恐ろしいと思う。

それにも関わらず、今日に至るまで、「We Can Talk」という歌に関してまとまった分量で書かれた日本語のネット記事は、この人のサイト以外にどこでも見つけることができなかった。そのことが私は、ずっと歯がゆくてならなかった。

自分の翻訳を上に掲載した上で改めてこの曲に対する私の感想を書くけれど、「We Can Talk」は不安を笑い飛ばす明るい希望に満ちた歌であり、何よりも「仲間たちへの愛情」がそこには溢れている。そういう歌として聞き続けることに何の問題があるのかと思う。

無理やりこの歌の中に「冥府性」や「欠性」を探し求めねばならない理由など、どこにもない。

言いたかったことは大体言った。

読んで頂けただろうか。

ではまたいずれ


=楽曲データ=
We Can Talk
Richard Manuel: Lead Vocal & Piano
Levon Helm: Lead Vocal & Drums
Rick Danko: Back Vocal & Bass
Robbie Robertson: Electric Guitar
Garth Hudson: Lowrey Organ
Key: D

We Can Talk (2000 Digital Remaster)

We Can Talk (2000 Digital Remaster)