華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

カリント工場の煙突の上に もしくは350曲目を迎えて (1993. 玉置浩二)



「うたを翻訳すること」をテーマにしているこのブログ、50曲目ごとに日本語で書かれた曲のこともひとつずつ取りあげるスタイルを取りながら300曲目まで来たのだけど、1994年に東大寺で開催された「AONIYOSHI」コンサートに登場した楽曲をひとつひとつ順番に取りあげている現在の流れの中で、ちょうど通算350曲目の今回がこの日本語曲になったのは、予期せぬ偶然だった。とはいえ本当はそうなる予定ではなかったことは、前回の記事を読んでもらえたら明らかなわけで、正直言って、複雑な気持ちである。

ずっと誰かに話したかった思い出のことを私は今から話そうとしているのだけれど、世界の現実はどんどん、人に思い出話なんか許さないくらいに、シビアなものへと変わりつつある気がする。数百年後の人類が恥辱で顔を背けたくなるような新たな戦争と排外主義の時代が、目の前にまで迫りつつあるという予感が、私にはある。

アウシュヴィッツ以降の世界におけるあらゆる芸術は、切実なそれへの批判も含め、全てゴミクズだ」と、第二次大戦後に述懐したドイツの哲学者がいた。テオドール·アドルノという人で、その人自身、戦争中はナチスの迫害を逃れて英米に亡命していたユダヤ系の人だったのだけど、実は戦争が始まる前にはナチスの機関紙でナチスの価値観におもねるような内容の論評を書いていたという経歴もあったらしいことを私は最近知り、割とショックだった。しかしそのことの上でも、上記の述懐には、実感が込もっていると思う。アウシュヴィッツに加担してしまったその人たち、アウシュヴィッツを生み出してしまったその人たち、アウシュヴィッツを止められなかったその人たちにとって、以降の全ての人生は、恥辱と罪悪感の歴史でしかありえなかったに違いない。

「美」について語ったり、何かに共感したり、人間賛歌を綴ったりすることは、「イノセントな人たち」だけが、やっていいことなのだ。「戦争を知らない子どもたち」として生まれた団塊以降の世代の人たちや、そのまた子どもたちとして生まれてきた私たちの世代の人間には、自分のことを「イノセントな存在」であると思い込んで生きてきた感覚が、間違いなくあると思う。ロックやいわゆるポップスといった第二次大戦後の大衆音楽は、そうした世代のそうした自覚の上に形成されてきた文化であると言っていい。罪にまみれた旧世界に異議申し立てを叩きつけ、自分たち自身の手で希望にあふれた未来を創りあげて行こうという明るく戦闘的なメッセージで、20世紀後半の音楽は満たされていた。だが、我々の眼前に迫っている「新たな戦争と排外主義の時代」が、他ならぬその世代を担い手として準備されつつあるものなのだとしたら、過去半世紀にわたって高らかに歌いあげられてきた「平和の文化」というものは、本当に一体、何だったと言うのだろうか。

第二次大戦後、一貫して過去の世代の過ちを「問う側」に身を置いてきた人間たちが、歴史の必然として、そしておそらく初めて本当に、「問われる側」へと移行しつつある。まだ20代以下の人たちのことまでは、私には何とも言えない。けれども間もなく30代の終わりを迎えようとしている私自身を含め、今まで自分のことを「イノセント」であると信じ込んできた人間たちの大半は、もはや「イノセント」ではない。南京·広島·アウシュヴィッツのような出来事が、一度だけの過ちとして終わらされることなく、それを批判してきた世代の人間たちによってもう一度繰り返されるようなことがもし起こったら、我々がそこに希望や真実を見出してきたあらゆる音楽や文学やその他一切の芸術は、最も醜悪なウソの塊でしかなかったということになるだろう。そしてそんなものに感動したり夢中になったりしていた我々自身の歴史と言うか思い出も、最も醜悪な自己満足でしかなかったという話になるだろう。自分の手を血で汚してしまった人間に、「神」や法律の存在と関係なく与えられる「罰」というものがもしあるとすれば、それは「何を見ても美しいと思えなくなってしまうこと」であると私は思う。そしてこの数年来、他ならぬ自分自身がそういう人間になってしまいつつあるという感覚に、正直言って、震えている。

分かっているなら、「そうならないように」すればいいのだ。戦争はまだ起こっていない。無論それは「日本に生きる我々の大半にとって」ということであり、実際にはほとんど恒常的に戦争は行われてきたし、日本や沖縄の米軍基地からは人殺しの飛行機が世界のあらゆる場所に向けて何回となく飛び立っては、戻ってきている。しかし少なくともこの日本列島において、いまだ戦争は憲法上も「非合法」なものであるとされており、人殺しを歓呼の声で送り出すことが義務として強要されたり、さらには「国民の三大義務」とか何とかで徴兵制が敷かれて人殺しそのものが強要されたりといった事態にまでは、今のところ、至っていない。だったら「そうならないように」すればいいだけの話なのであって、それを止めようと必死で努力することもせずに「どうせ止められない」と今から泣き言をこぼすようなことは、それこそ一番醜悪な態度であるに違いない。

だから私は、やるべきことはやる。

でもその一方で、自分にとって特別な思い出に自分がひたり続けることが許されているような時間は、もはやほとんど残されていないのではないかとも感じている。だから語っておくなら今しかないと思う。

それで、こんなブログを書いている。

そんなことをしている場合なのかという声がずっと心の一方に響き続けてはいるのだけれど、あえて言うなら、私は自分自身の逃げ道を断ち切るために書いている。

だから私にとってはやはり、「必要な作業」なのである。


カリント工場の煙突の上に 'GME94

INXSの皆さんが退場し、例の鳥人間コンテストみたいなアナウンスのお姉さんの声が、「続いての登場は玉置浩二」と告げた。初めて「知ってる名前」が出てきたので、私も友人も「おおー」と声をあげたのを覚えている。他の観客の人たちも同様の気持ちであったらしく、ここに来て会場全体が「ホッとした」のを私は感じた。何せオープニング以降の30分間が、オーケストラと読経のコラボであったりオーストラリアのロックバンドとシルクロードの古楽器の合奏であったりと、迫力は圧倒的であるもののあまりに新奇なものを立て続けに見せつけられてきた印象が強かったため、かなりの人が我々同様、「戸惑っていた」のだと思う。読みあげられた「玉置浩二」という名前は、その響きだけでそうした緊張感を解きほぐす力を持っていた。そのことを私は素直にスゴいと感じた。

柿色の作務衣みたいな服を着てステージに出てきた玉置浩二さんは、まず頭上の窓から覗いている大仏の顔に向かって合掌し、それから観客席の我々に向かって合掌した。この人は仏教信者だったのだろうかと私は思った。

小学生の時にテレビでしょっちゅう見ていた安全地帯の玉置さんといえば、シュッとしていると言うかむしろ痩せこけた長身の人というぐらいのイメージがあったのだけれど、ゆるい服に身を包み、薄く色の入った田舎のおっさん風のサングラスをかけて登場したその人の姿は、えらくずんぐりむっくりした感じに見えた。直前までステージにいたマイケル·ハッチェンス氏が、後付けの情報ではあるものの何せ「世界で最高にセクシィな男」と呼ばれたぐらいの人物であったものだから、なおさらそう感じたのかもしれない。けれどもその印象はいっそう、我々に「安心感」を与えてくれるものだった。暖色系の服の色と、それに合わせた髪の毛の色と全く同じ肌合いの「あったかい空気」で、会場全体が満たされるのを私は感じていた。

「皆さん玉置ですよろしく」とだけ挨拶して、ギター一本でその人は歌い始めた。一度も聞いたことのなかった曲ではあったけれど、歌詞の一行目から鮮やかな風景が匂いつきで心の中に浮かんでくるような、そんな歌だった。

記憶の中でその曲は、始めから終わりまでギター一本だけで演奏されていたはずだという印象を、私は持っていた。けれども今になって動画を見てみると、途中からしっかりバックバンドの音も加わって、歌の世界を色づけている。とはいえオーケストラや和太鼓集団がステージ中にひしめいている空間にあって、あの歌が本当にシンプルなスタイルで演奏されたという印象には、やはり変わりはない。何より何十年たっても心の中に強く刻み込まれているのは、あの人の声であり、言葉だった。「歌の記憶」というのは本来それだけで充分なのであり、それが残っていることが一番大切なのだと思う。その印象がこんなにクッキリ残っている歌というのは、私の歴史の中でもそれほど多くない。

そして一曲だけ歌い終えると、その人は再び合掌して、圧倒的な拍手に送られてステージを後にした。鮮やかだった。風のようだと思った。それが私にとっての、文字通り今に至るまでOnce&Onlyの、玉置浩二体験だった。

市営住宅の広場で
リレーをしたんだ
みんなで

玉置浩二さんがステージから引っ込んでからしばらくの間、どうしてあの人はあの歌詞だけを、他のところとは違った調子で、そして一番力を込めて歌わなければならなかったのだろうということを、私は考え続けていた。市営住宅の広場でリレーをした。「それがどうした」と人からは言われてしまいそうな歌詞だし、すごく失礼な話ではあるけれど私自身、ちょっとだけそんな印象を受けた。でもだからこそ、あの人には「それでも」あの歌詞をあんな風に歌わなくてはならない切実な理由があったのだろうと思った。それで、考え続けていた。

歌詞の言葉は「リレーをしたよな」ではなく「リレーをしたんだ」だった。その思い出を分かちあうことのできる相手に向かってあの人は歌っていたわけではなく、「自分のことをどうしても信用しない相手を説得するための言葉」あるいは「自分自身に言い聞かせるための言葉」で、あの人は歌っていた。そのことの意味を、考えた。

何をそんなに力説していたのかは、分からない。でも例えば「リレーをしたよな」という言葉でその思い出を分かち合える昔の仲間たちが一人もいなくなってしまった時、あるいは「昔の仲間」だったはずのその「みんな」が今では誰もその出来事を覚えていないということに気づかされてしまった時、さらには自分にそんな時代があったことを自分自身にも信じられないような気持ちに陥ってしまった時に、それでも「リレーをしたんだ」と歌い続け叫び続ける人の気持ちというのは、どんな気持ちだろうと私は思った。それは想像を絶するぐらいに孤独で辛くてさびしくて悲しい気持ちに違いないと思った。けれども「したんだ」という語尾には一点、「誇り」が貫かれている。玉置浩二という人にとってそれは、自分がどんなにボロボロになってしまったとしても「それがあるから生きていける思い出」になっているのだろうなと、私は思った。

そしてその気持ちなら分かるような気がすると、高校生になったばかりだったけど、私は思った。すごく分かるとさえ、その時は思った。そんな思い出は、自分自身にもある。その気持ちはあの人みたいな年になっても変わらないものなのだなということを、「カリント工場の煙突の上に」という歌から私は学ばされたような気がしていた。だから、大切にしなければならないと思った。そのことをよく覚えている。

こんな日に限って
あいつを思い出す
何でも話せたから
言っちゃいけないことまで言った
いつかまた会える
そんな別れじゃなかった
どんな楽しい思い出も
最後の顔になる

という、SIONという人が歌っていた全然違う歌の歌詞の意味が「分かってしまう時」が自分に訪れたのは、それからほぼ正確に3年後のことだった。そしてその時に「カリント工場の煙突の上に」という歌のことをもう一度私は思い出し、あの時の自分には何も分かっていなかったのだということを、思い知らされた。


午前3時の街角で

思い出というのは自分のことを「守ってくれるもの」なのだと、自分の力で何をしてきたわけでもないくせに、その時までの私は、思い込んでいた。そしてその思い出を自分自身の「誇り」にしていた。けれどもその思い出を自分で裏切るようなことを一度でもやってしまうと、思い出は二度と自分のことを守ってくれなくなる。そして自分のことを死ぬまで告発し続けるような、耐えきれないほどの「重荷」に変わる。

あの時35歳だったはずの玉置浩二さんが、「市営住宅の広場でリレーをしたこと」を、あの歳になってあのステージで胸を張って歌うことができたのは、あの人がどんな形であれそれまでの人生を一貫して「闘い続けていたから」だったのだということが、今では分かる。10代の私にはそのことが何も分かっていなかったし、分かることができた時には、余りに多くのことが既に「手遅れ」になってしまっていた。

けれども、それを書いた人間が果たしてどれくらいの確信と根拠を持って書いたのかということが今の私にとっては疑問ではあるのだけれど、ちょうどその頃に連載されていた「金田一少年の事件簿」というマンガの主人公が力を込めて断言していたように、「やり直すことのできない人生なんてこの世にはない」のである。そして「やり直すための新たな出発点」は、いかに自分の手によって泥だらけにしてしまった思い出であろうとも、その「自分の中」に求める以外にない。

その「新たな出発点」をいまだに見出すことができないままここまで来てしまったという感覚が、あの時の玉置さんの年齢をも既にいくつか上回ってしまった現在の私には、正直言ってある。とはいえ、「無駄な日々」を送ってきたとは、思っていない。

最後にはもう一度すべてを「かけがえのない思い出」に変えることができるはずである。

そう思えるような人生を、今からでもいい。生きて行きたいものだと思う。


玉置浩二セレクション

...私が今まで「ずっと誰かに話したかった思い出」の話は大体以上なのだけど、映像を眺めているうちに他のいろんな記憶までが次々によみがえってきたもので、ちょっとだけ、書き足しておきたい。

「AONIYOSHI」が開催された1994年という年において、言っちゃあ何だけど玉置浩二という名前はとても「微妙な響き」を持っていた。東大寺ですごいコンサートがあるらしい。ディランが来る。おおすげえ。ボンジョビも来る。めっちゃすげえ。布袋もXも出る。すげえすげえ。あと、玉置浩二。...何で玉置浩二? そんな失礼きわまりない会話を、友人と交わしたことを覚えている。ライブの帰り道では、私も友人も一番夢中になって話していたのが、その玉置浩二の印象についてではあったのだけど。

ダウンタウンが東京に行き、天然素材が仕切っていた当時の心斎橋筋二丁目劇場では、「玉置浩二かお前は!」という突っ込み方がやたらと流行していた記憶もある。思うに「一昔前まではめちゃめちゃカッコ良かったけど、今でもそのマネをしている人を見たらめちゃめちゃカッコ悪く思えるような文化や風俗の代名詞」みたいな位置づけが、あの時代の玉置さんの名前には与えられていたような感じがする。まさかこの記事がご本人の目に止まるようなことはほぼないと思うから、好き勝手なことを私は書いているのだが。

ところがその玉置浩二さんの姿を、「AONIYOSHI」以降、突然再びテレビで目にすることが、多くなった。私もよく覚えているのが、1996年の大河ドラマ「秀吉」で足利義昭を演じてはった姿である。ズルくて小心者でそのくせ野心家でポリシーのカケラもないという、足利義昭にくっついたどうしようもない人間像を、カン高い声で完璧に再現していたあの演技には、笑うのを通り越して感動させられっぱなしだった記憶がある。

ちょうどその頃、生まれて初めて彼女と呼べるような存在の人が私にはできていて、2年目ぐらいに入っていた。そしてその人から、前夜のドラマで見た玉置浩二の姿がいかに素敵であったかということを熱い調子で語られたことがあった。

「玉置浩二むちゃむちゃカッコ良かってんで。浅野温子に向かってな。『海に降る雪をあなたに見せてあげたい』ちゅーてんで。海に降る雪やで。見てみたいて思うやん?」

「ふーん」と私は聞き流した。そういうドラマはほとんど見ていなかったし、自分には関係のない世界の話だと思っていた。

そしたらその人はポツリと付け加えた。

「あんたにもああいうこと、言われへんもんかね」

...ぎくりとしました。

そんなん言われたかてそんなドラマ、おれ見ーひんし、雪もあんまし見たことないし、そもそも海無し県の育ちやし、言えちゅーたかて言いようがあれへんがなどないせぇちゅーねん、等々と、心の中でブツブツ抗議することができただけでありました。

けれども問題は、同んなじように海無し県で育った少女であるところのその人の口からそういう言葉が出てきた時点で、事態はもはや自分にはどうすることもできない地点にまで進行してしまっていたのだということを、当時の私が全く理解していなかった点にあったのだと思う。そのことに私は、今回この記事を書くために「カリント工場の煙突の上に」の動画を見直してみるに至るまで、一度も気づいたことがなかった。

つくづく、情けないと思う。

言われへんなら言われへんで、それはしゃーないことやねんから、どうしてあの時の私には、せめて「堂々としていること」ができなかったのだろうと思う。「そんなんよー言わんよ」と、ひとこと言えば良かったのである。それでうまく行ったか行かなかったかは分からないけど、少なくともそう言えていれば、後になってからあんな情けない思いはしなくて済んだはずなのである。

それなのにその時の私は、「そういうことを言えるような男」になろうとしていた。そのことが、返す返すも情けないと思う。

まあ、時間は経ったけど、気づけて良かった。

ちなみに玉置浩二が浅野温子に向かって「海に降る雪を見せてあげたい」と言ったというそのドラマのことを、今に至るまで私は名前さえ知らずにいたのだけれど、今回調べてみて「コーチ」というドラマであったことを、初めて知った。こういうことは後になってからいつも「調べない方が良かった」という後悔ばかりが込み上げてくるものなのだけど、思い出してしまった以上、調べずにはいられなくなってしまった。インターネットは罪なやつである。

何が「サバカレー」じゃ。

今度、食てみたろ。

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生きて行くんだ。それでいいんだ。

しかし本当にそれでいいのだろうか。

子どもの頃に白い紙でクレヨンで描いていたのが「ゼロ戦や潜水艦の絵」だったということ。そのことがこれからの時代においても「美しい思い出」としてだけ語り続けられるということは、「あっていいこと」なのだろうか。

私のあらゆる思い出には、いつもそんな風にして何らかの「影」がくっついている。

ただ言えることとして、私は今まで「何かを忘れるために」音楽を聞いたことは、一度もない。

「忘れないこと」にある意味私は命をかけているし、いいことも悪いことも含めて全てを「忘れないでいること」が、取りも直さず「生きて行くということ」なのだと思う。

というわけでまたいずれ。


=楽曲データ=
Released: 1993.9.22.
Key: G

カリント工場の煙突の上に

カリント工場の煙突の上に