華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Love Minus Zero /No Limit もしくは岬めぐりのエピローグ (1965. Bob Dylan) ※


Love Minus Zero /No Limit

Love Minus Zero /No Limit

英語原詞はこちら


My love she speaks like silence
Without ideals or violence
She doesn’t have to say she’s faithful
Yet she’s true, like ice, like fire

おれの恋人。
物言う静けさって感じの子。
理想も暴力も振り回さない。
自分の誠実さをアピールする必要なんて
彼女にはない。
氷や炎が正しいように
彼女はそのままで正しいのだ。


People carry roses
Make promises by the hours
My love she laughs like the flowers
Valentines can’t buy her

人びとはバラを抱えて集まり
一時間ごとに新しい約束をしてみせる。
おれの恋人は
花のように笑いさざめいている。
バレンタインデーがいくつ来たって
彼女の心は買えやしないんだ。


In the dime stores and bus stations
People talk of situations
Read books, repeat quotations
Draw conclusions on the wall

100円ショップでバス停で
人びとは状況について語る。
本を読み引用を繰り返し
結論を壁に描いてみせる。


Some speak of the future
My love she speaks softly
She knows there’s no success like failure
And that failure’s no success at all

未来について語るやつもいる。
おれの恋人彼女は物静かに語る。
失敗みたいな成功なんて
ありはしないことを彼女は知っている。
それに失敗というのは
全然成功ではないのだということも。


The cloak and dagger dangles
Madams light the candles
In ceremonies of the horsemen
Even the pawn must hold a grudge

ぶら下がっているのは
外套と短剣の陰謀譚。
ご婦人方はロウソクに火をともす。
騎兵のための儀式では
歩兵だって恨むに違いない。


Statues made of matchsticks
Crumble into one another
My love winks, she does not bother
She knows too much to argue or to judge

マッチ棒で作られた群像は
粉々になって
バラバラのマッチ棒に戻る。
おれの恋人はウインクする。
彼女は気にしたりしない。
言い争ったり決めつけたりするには
物事を知りすぎてるんだな。


The bridge at midnight trembles
The country doctor rambles
Bankers’ nieces seek perfection
Expecting all the gifts that wise men bring

夜の橋が身震いをして
田舎の医者は当てもなく歩く。
銀行家の姪は完全さを求め
賢者たちが運んでくるすべての贈り物を
自分のものにしたいと思っている。


The wind howls like a hammer
The night blows cold and rainy
My love she’s like some raven
At my window with a broken wing

風はハンマーのように叩きつけ
夜は冷たい雨音を響かせる。
おれの恋人彼女はワタリガラスのように
おれの窓辺にいる。
その羽根は傷んでいる。



旅行というわけでもないのですが、たまたま訪れた場所の海があまりに綺麗だったもので、眺めたり写真を撮ったりしているうちに、ずっと昔に好きだった歌がいくつも頭の中を回り始めるのを感じました。それと同時に、「その歌を好きだった頃の気持ち」もよみがえってきて、走り出したいような気持ちになりました。オトナになって以降の私にとっては、久しくなかったことでした。

頭の中に音楽を鳴り響かせて海を眺めていた時、自分の中によみがえってきたのは、つくづくこっぱずかしい話ではあるのですが、「若い頃の全能感」だったように思います。そしてすっかり忘れていたけれど、10代の頃の自分にとって音楽というのはいつもこんな風に「全能になったような気持ち」を味あわせてくれるものだったではないかということを唐突に思い出し、それで走り出したいような気持ちになったのだと思います。

とはいえ生憎その時は走り出せるような格好をしていなかったもので、代わりに私は喫茶店に飛び込んで、頭の中に回り出したいろんな曲の歌詞を片っ端から検索してみました。そして昔は意味などさっぱり分からずに聞いていたそれらの歌の内容が、今では「大体わかる」ようになっていることを確認し、すっかり嬉しくなりました。(とりわけビートルズの「In My Life」を「自分の人生にかけて」と訳しても文法的に無理は生じないことに自分の力で気づけたことには、思い切り自分をホメてやりたくなったぐらいでした)

そのとき思い出した歌はどれもこれも自分の歴史の中で特別な位置を持っていた歌でしたから、海の風景と出会えたおかげでそうしたいろんな青春に「ごそっ」と決着をつけられる時が来たんだな、と私は感じました。特別すぎて今までどんな風に取りあげていいかキッカケをつかめずにいた曲ばかりだったので、この際、言い方は変ですけど「プライベートな翻訳」として、コメントや注釈は一切つけずに自分のためのアルバムみたいな感じでブログに上げておこうと思いました。それがこのかん「岬めぐり」というカテゴリーで連続的に投稿させてもらった記事をめぐる顛末です。

そしてそうした楽曲群の中で、そのとき一番最初に頭の中を回り始めたのが、実はディランのこの曲でした。私のディランに対する「複雑な感情」については今まで何度も書いてきた通りなのですが、鳴り出したこの曲が私の中に連れてきたのは、そうした複雑な感情を「持つようになる前の気持ち」でした。つまり、今にして思えば不覚にも、その時の私は単純にディランのことを「無邪気な憧れの対象」としてだけ見ていた頃の自分が、なつかしくなってしまっていたのだと思います。

しかし、私が一年前に最初の回でこのブログのテーマに掲げた「青春に決着をつける作業」というのは、とらえ返してみるならば、一見そんな風に「無邪気」で「純粋」な憧れにばかり彩られていたように思える自分自身の青春時代が、実はいかに「邪気」だらけだったのかということを自分の手で解き明かしてゆくための作業だったはずでした。そうしなければ自分が生きている「今の時代」に立ち向かうことができなくなってしまうという問題意識については、最近書いたこの記事の中でも触れさせてもらった通りです。

それにも関わらずその出発点を忘れ、抒情の中に溺れかかってしまったことは、返す返すも不覚なことだったと思います。ブログを始めた当初の私が「ディランの曲は取りあげない」という姿勢をとっていたのは、ディランの曲と共にあった頃の自分の思い出があまりに「甘くて美しい」ものであったため、下手に扱えば「対決」することができず、そうした抒情に流されることになってしまうという緊張感を持っていたからでした。

その後、ブログを通じて多くの人と出会い、ディランの曲についても取りあげる機会が増えていったことは、それまで対決を避けてきた相手と正面から向き合えるようになったという意味では、間違いなく「いいこと」だったと思います。けれどもその中で「ディラン恐るるに足らず」という気持ちが生まれ、何となく「和解」してもいいような気持ちになってしまったことは、とらえ返すなら自分の「慢心」そのものでした。そしてその「和解」でもって「青春に決着をつけることができた」という気持ちにまでおちいりかかってしまったことは、一番タチの悪い「まやかし」だったと思います。

そのことに気づかせてくれたのも、ブログを通じて出会うことのできた大切な読者の方からのコメントでした。私はその人に心から感謝したいと思います。

当初、コメントも注釈もなしに投稿したこの「Love Minus Zero /No Limit」の翻訳記事に対し、その人から寄せられたブックマークコメントは

このディランの歌詞ですが、頭の良い人に見下されている感じがするので、受け入れられません。

というものでした。それを見た瞬間、私はドキイッッとしました。コメントの主語は「このディランの歌詞」でしたが、「見下されている感じがする」というのは私自身に向けられた言葉であるように感じられたからでした。

そう感じたのは、私自身に「思い当たるところ」があるからです。決して、コメントをくれた人の気持ちを曲解しているわけではありません。

このブログで「自分語り」をするのはできるだけ避けたいというのが私の気持ちなのですが(「どこがだ」と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、自分の歴史の中の「一番大事な部分」については私は一切書いていません)、このディランの曲は私にとって今まで、初めて恋人と呼べる人が自分にできた時の思い出と、分かちがたく結びついていた曲でした。上で「全能感」という言葉を使いましたが、自分の好きになった人が向こうの方でもこちらと同じように自分を思ってくれていたということを知った時の「全能感」をそのまま歌にしてくれているのがこの曲だ、というイメージを私は持っていました。

私の中でこの歌は、ディランという人が自分にできた「完璧な恋人」のことを「自慢」している歌であり、その意味ではドアーズの「Love Street」という曲と対をなした曲で、心の中ではこの二曲がいつも一緒に流れていました。(「She has wisdom and knows what to do」という歌詞です。他に「Break On Through」の「Everybody loves my baby」という歌詞も同じ文脈で聞こえていましたが、ジムモリソンもそういう意味では「恋人自慢」の好きな人だったのだと思います)。古くは中臣鎌足の作品として万葉集に載っている

吾はもや 安見児得たり 皆人の 得かてにすといふ 安見児得たり

という歌にも通じるような、それこそ時代を越えた普遍的な喜びの感情がこの「恋人自慢」の歌には歌い込まれているというのが当時の私の感想でした。そして何より、自分にもその気持ちが分かるようになったという「誇らしい気持ち」が、この曲を自分の中で「特別なもの」にしていたのだと思います。

海の見える喫茶店でこの歌の翻訳記事を書いた時、私は完全に「その頃の気持ち」に戻っていました。それに加えて当時には理解できなかった歌詞の意味が今ならスラスラ分かるという「新たな全能感」が、私をいっそう調子づかせていました。

今になってみれば、「浮かれていた」と思うばかりです。

「見下されている感じがするので、受け入れられません」というこの記事に寄せられた上記のコメントは、そんな私の浮かれた気持ちを吹き飛ばすに充分なものでした。私はハッとして、自分が自分で翻訳した日本語の歌詞を読み返し、そこに漂っている「どうしようもなく傲慢な感じ」に初めて気づかされました。

そしてこの歌のことをそれまでずっと「無邪気で罪のない歌」としか思っていなかった自分の感覚というのは、何だったんだろうと思わされました。

私はこの歌の翻訳記事をいったん下書きに戻し、自分の訳詞を読み直すと同時に、ろくに調べずに翻訳したこの歌の背景についても、改めて調べ直してみました。そして、いろいろなことに気づかされました。

第一に、この歌の中に描かれている「彼女」の存在は、一人の人間であるにとどまらず「世界」や「宇宙の秘密」と同等の位置を持った巨大な存在として描かれていると思います。そしてそれ自体は、別に責められるにはあたらないことだと思います。誰かを好きになったらその相手が「世界の全て」に思えてくるのは至って「普通」のことだし、恋愛というのは男性にとっても女性にとってもそういうものだろうと思うからです。

次にこの歌の中には「people (人びと)」が出てきます。「人びと」は論争してみせたり知識をひけらかしたりして「彼女」の気を引こうと必死になっているわけですが、「知識」や「論争」が何のためにあるのかということを考えるなら「世界の秘密を解き明かすため」であるわけですから、「人びと」が「彼女」=「世界」に振り向いてもらおうと背伸びするのは当然のことだと思います。にも関わらず「彼女」はそれを相手にしない。なぜなら「彼女」は「ディランのことしか見ていない」からで、そういう「優越感」がこの歌には歌われているのだろうと解釈できます。

そしてその「優越感」も、語弊はあるけれどその限りにおいては「罪のないもの」であるようにも思えます。うれしいでしょう。そりゃ。みんなから愛されている人が自分を選んでくれたということは、その分だけ「自分の値打ち」も高まったように思えてくるのが当然なわけで、「彼女」の気を引こうと集まってくる「人びと」の数が多ければ多いほどディランの「優越感」も高まってくることは、人間として「自然」なことだと思います。いいか悪いかは別にして。

ただ、引っかかるのは、「彼女」という存在に「世界」や「宇宙」のすべてを投影した場合、それに対置される「people (人びと)」は必然的に全員が「男性」であることになってしまう、という点です。「people (人びと)」という言葉であるにも関わらず、その半数を占めているはずの女性の存在が、ここでは丸ごと捨象されてしまうのです。(そして「彼女」の存在についても、「人間」として対象化されているようには私には思えません。女性が男性にとって「他者」であり、それと対置される存在であるのは当たり前のことなのですが、ここでの「彼女」は「人間」そのものに対置される「他者」として描かれている感じがします)

このことは単にディランが男性だからそういう歌になったという話だとは思えないわけで、何となれば「逆のパターン」で女性が作ったこういう歌というものを私はひとつも知らないからです。人間社会には洋の東西を問わず「理性」を「男性原理」とする一方で「自然」を「女性原理」に象徴させるようなステレオタイプな差別観念が歴史的に作りあげられてしまっており、それが現在に至ってもエセな心理学の用語となって「力」を振るっているような現実があるわけですが、そうした観念のもとに「理性が自然を征服する」みたいな理屈をくっつけて男性による女性への差別が正当化されてきたこと、そして今でも正当化され続けていることは紛れもない事実なのであって、 そうした差別文化に乗っかる形でディランのこの歌も成立しているのだということは、見ておかなければならないことだと思います。

しかしよしんばそうした差別性に無自覚だったとしても、ディランという人が本当にその「彼女」のことを愛していたのであれば、この歌は依然として「罪のない歌」であるとも言えると思うのです。ところがよく歌詞を読んでみると、ディランという人が自分の彼女のことを「自慢する」言葉は沢山出てきても、彼氏が彼女のことを「愛している」ことが伝わってくるような言葉はひとつも出てこない。今回、読者の方からの指摘を受けて私が初めて気付かされたのは、そのことでした。

そしてその指摘は、この歌の「全能感」に自分自身の気持ちを重ねていた私という人間は、それなら当時好きだったその人とどんな態度で向き合っていたのだろうかということを、同時に問いかけていました。だからドキイッッとしたのです。

My love she speaks like silence」。片桐ユズルさんが「彼女は沈黙のように喋る」と訳したこの部分を「彼女(は)物言う静けさって感じの子」という日本語に置き換えたのは、私自身でした。自分の感覚としても、当時つきあっていたその人との関係からしても、そう訳した方が自分にとって「自然」であるように感じられたからでした。

言葉にすることにいちいち身体を切り刻むような感情が込みあげてくるのですが、当時の私がこの「子」という言葉に込めていた気持ちは、かなり独特なものでした。その人に向かって「しゃーない子やな」とか「カンの立つ子やな」とかいった言葉遣いをするたびに「自分にも彼女ができたのだ」という喜びが込みあげてきて自ずと顔の筋肉がゆるんでくるような、そういう感覚と結びついていたのがこの「〜な子」という言い方でした。その甘酸っぱい感じを懐かしいと思う感情が、「she speaks like silence」を「物言う静けさって感じの子」と訳したいと思った気持ちの動機になっていました。

けれども考えたら分かる話ですが、そして当時だって分かっていなかったはずはないのですが、「子」というのは「子どもの子」であり、相手のことを初めから「対等な存在」だとは見なしていない「見下した呼び方」であるわけです。にも関わらず好きだったその人に対してそういう呼び方をすることに私が「喜び」を感じていたということは、好きな人であるにも関わらずその相手のことを見下す、すなわち「支配し従属させる」ということに「喜び」を感じていたということになるわけで、当時の私はその相手との間に「対等な関係」を築こうとしていなかったのだということになります。していなかったのです。

「青春に決着をつける」ということは、自分が自分の歴史の中で積み重ねてきたそういう「自分にとっては何気ないけど相手にとっては大きな意味を持つこと」のひとつひとつをとらえ返して本気で反省し、自分の周りに今いる人びとやこれから出会う人びととの関係においては二度と同じ過ちを繰り返さないということがやれて初めて、胸を張って口にできることだろうと思います。それにも関わらず私は口でだけ「青春に決着をつける」などとカッコのいいことを言いながら、気がつけば「人を見下すこと」を「心地よい」と感じていたその青春時代の自分の感覚をしれっと居直り、自分の周りに今いる皆さんとの関係においても、何の反省もなくそれを押し通そうとしていたわけです。つくづく情けないしまた恥ずかしい話だと思いますが、それに気づかせてくれた読者の方のコメントに対しては、ひたすら感謝しかありません。

ですから、この歌の歌詞に対する「人に見下されている感じがするので、受け入れられません」という批判は、まず第一にこの歌詞をそういう日本語で翻訳した私自身に対する批判として受け止めねばならないと思います。自分でそういう風に訳しておいて「ディランが悪い」という話にはなりませんし、私が今回この歌を「プライベートな翻訳」として取りあげる気持ちになったのは、私自身がかつてこの歌に共感していた歴史があったからなのです。その歴史を自分の「プライベートな部分」に封じ込めてしまおうとしたこと自体が、このブログが看板に掲げている「青春に決着をつける作業」を腐敗させてしまう行為に他ならなかったと今では感じます。このことは、忘れないようにしたいです。

そのことの上で、それなら改めてこの歌の歌詞を「傲慢でない日本語」に翻訳し直すことができるかといえば、私にはできません。他の誰にもできないと思います。ディランが書いたこの歌の原詞の内容そのものが、改めて読み返してみれば、やはりどうしようもなく傲慢で人を見下したもの、とりわけ相手の「彼女」のことを見下したものになっていると思うからです。

この歌の前半部分をつらぬいている「多幸感」みたいなものについて、上段で私は「時代を越えた普遍的な喜びの感情」が歌い込まれているように感じてきたと書いたわけですが、ドアーズの歌詞は別にするとして(別にします)ディランのこの歌においても中臣鎌足のあの歌においても、そこに歌われているのは「愛の喜び」などでは一切なく、単なる「所有の喜び」にすぎないのではないかと、今にして思えば感じます。「人間」をあたかも「モノ」であるかのごとくに「所有」することに対する「喜び」です。そういう「喜び」も確かに「時代を越えて」存在してきたものではあるだろうけれど、内容としては邪悪なものでしかないように思われます。「相手の人格」は一顧だにされていない感じがするのです。

とりわけそのことが顕著にあらわれている感じがするのが、最後の部分の歌詞です。最初にこの歌の試訳を作った際、「恋人自慢」の幸せムードで始まるこの歌が、どうしてこんなに「不吉なイメージ」の歌詞で終わっているのかということが、私には全く理解できませんでした。「死の象徴」であると英和辞典にも記載されている「カラス(raven)」、「自由」の象徴である「翼(wing)」が「壊れている(broken)」という描写、そしてその「壊れている」という言葉と必然的に対をなしているように感じられる「ハンマー」という単語。「何かある」とは感じながらも私はただ、その歌詞を「文法通りに」日本語に置き換えただけでした。

今回指摘を受けて海外サイトの情報なども調べ直してみた結果、明らかになったのは、少なくない英語話者の人たちがこの部分の歌詞から「ディランによるパートナーへの暴力」が存在したことを感じとっていることです。以下、「genius」というサイトに掲載されていた論評を転載します。

As sudden change to the song when the singer suddenly realises maybe, after all, he doesn’t want a woman who is a free spirit, and all the great things he thought he wanted. The imagery of “the hammer” and “broken wing” on a stormy night suggest an argument, perhaps over her need to be free, and he smashes her wing with the hammer, so that she ends up at his window with a broken (clipped) wing, needing him to help her. Is this what all men really want in women? Raven is a symbol of death – so is this the end of the relationship? Is Dylan referring to one of his own past lovers?
歌のムードが急激に変わるところで、歌い手は自分が結局のところ、自由な精神を持った女性や、(女性に対し)理想として求めていたあらゆる要素を、欲していないのだということに突如として気づく。嵐の夜の「ハンマー」や「壊れた翼」のイメージが示唆するのは、おそらく彼女が自由を求めていることをめぐって「争い」があったことである。そして彼はそのハンマーで彼女の翼に一撃を与え、その結果、彼女は壊れた(切り取られた)翼を抱えて彼氏の窓辺にたたずみ、彼氏の保護を必要としている。これは全ての男性が女性に対して望んでいる関係なのだろうか?カラスは死の象徴である...それならばこれは「関係の終わり」を示しているのだろうか?ディランは自分自身のかつての恋人のことについて語っているのだろうか?

...ディランは歌詞の中で「自分が彼女を傷つけた」とは書いていません。(ハンマーの「持ち主」は「風」になっています)。またディラン自身の「プライベート」をほじくり返して検証するようなことを、このブログでやろうとも思いません。けれども「傷ついた翼」を抱えて窓辺に立っている「彼女」に対するディランの視線がどうしようもなく「冷酷」であることぐらいは、私が自分の手で日本語に翻訳した歌詞の言葉を見ただけでも、充分に気づくことができたはずのことでした。それにも関わらず、この歌が「そういう歌」である可能性について考えてみることもしないまま、20年前と同じような気持ちでこの歌を「恋愛の歌」として聞き続けようとしていた自分の感覚に、今となっては恥じ入るばかりです。

ディランの作る歌の底の部分には「女性憎悪」と言うべきものが流れているのではないか、という私の疑念は、以前にもこのブログで表明したことがありました。この歌もやはり「そういう歌」だったのだということになると思いますし、そういう目で見ると最後から二番目の部分に出てくる「銀行家の姪」に対するディランの視線も、やはり強烈な「見下し」に貫かれているのを感じます。「銀行家の姪」という「呼び捨て方」からして悪意に満ちている感じがしますし、自分だって「世界の全て」を求めているはずなくせに、彼女が同じものを求めることに対しては「分不相応」なことだとでも言わんばかりの切り捨て方をしている感じがします。そしてこの「銀行家の姪」が実は冒頭から出てくる「完璧な彼女」と同一人物であると考えた方が辻褄が合うのではないかという気が、今ではします。根底の部分では「彼女」に対しても「同じ見下し方」をしているのを感じるからです。

ちなみに20年前に私が好きだったその人は、高校を卒業すると同時に一切の連絡を絶って私の前から消えてしまい、私はそのことに対して「理不尽に捨てられた」という恨みがましい気持ちを持ち続けていたのでしたが、当時の自分がこんな歌に「共感」して「全能感」まで覚えていた人間だったことを考え合わせるなら、相手の方でイヤになって逃げて行きたくなったのも当然だったのではないかという気が、今ではします。至極納得の行く話だったのだという感じがします。「青春に決着をつける」というのは、本当ならそういうことを言うはずなんですよね。

あと、この歌に関して調べていた中で、もう一点、自分の知らなかったことがありました。今まで私は「Love Minus Zero /No Limit」というこの歌のタイトルを「ラヴ·マイナス·ゼロ·ノー·リミット」と読んでいたのですが、実は「/」という記号にも読み方があったのだそうで、正式には「ラヴ·マイナス·ゼロ·オーバー·ノー·リミット」と読むらしいのです。そしてその意味するところは、「愛ひくゼロ」÷「No Limit (無限大)」という「数式」になっているのだという話です。

...そんな話、今さら聞かされたって、心の底からどうでもいい話ではあるんですけどね。


山本コウタローとウイークエンド 岬めぐり

ほとんど「反省文」みたいになってしまった今回の記事を書いているさなかに、はてなブログから「華氏65度の冬 を開設して1年が経ちました」というメールが届きました。そういう節目で「慢心」を戒められたのは私にとってとても意味のあることだったと思いますし、その意味では今回の「岬めぐり」も単なる自己満足に終わってしまわないで本当に良かったのだと感じます。そして書いているこちらに負けないぐらい「本気」で私の文章と向き合って下さっている読者の方々の存在に、感謝を新たにしたい気持ちです。>

次回以降は「GME'94 "AONIYOSHI"」特集を再開して行きたいと思います。古い読者の皆さんも新しい読者の皆さんも、改めて末永くお付き合い願えれば幸いです。ではまたいずれ。お元気で。


=楽曲データ=
Released: 1965.3.22.
Key: A

BRINGING IT ALL BACK HOME

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