華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Libertango もしくは自由のタンゴ (1974. Astor Piazzolla)


Libertango (Sharon Shannon feat. Kirsty MacColl)

Libertango (I've seen that face before)

英語原詞はこちら


Strange, I've seen that face before
Seen him hanging round my door
Like a hawk stealing for the prey
Like the night waiting for the day

奇妙なことだ。
あの顔は前に見たことがある。
私のドアのあたりをうろついている
彼の姿を見たことがある。
獲物を狙うタカのような顔。
夜明けを待っている夜のような顔。


Strange, he shadows me back home
Footsteps echo on the stone
Rainy nights on Haussmann Boulevard
Parisian music drifting from the bars

奇妙なことだ。
彼が私の帰り道をつけてくる。
石畳の上に
足音が響いている。
ブルヴァー·ホッスマンの雨の夜。
酒場からは
ペルシャの音楽が流れてくる。


とぅ しゃーしゃ くゎ
Tu cherches quoi?
あ おんこんとりー ら もーと
A rencontrer la mort?
とぅ て ぽぉん ぽぉ き
Tu te prends pour qui?
とぅ おうし, とぅ どぅーてすとぅ ら ゔぃー
Toi aussi, tu detestes la vie
(フランス語)
何を探しているの。
死との出会いを?
あなたは自分のことを
誰だと思っているの。
あなたもまた
人生を憎んでいるのね。


Dance in bars and restaurants
Home with anyone who wants
Strange, he's standing there alone
Staring eyes chill me to the bone

踊りなさい。
酒場でレストランで。
帰りなさい。
ついて行きたがる誰とでも。
奇妙なことだ。
彼は一人で立っている。
骨まで凍りつくような瞳で
私のことを見つめている。


どん せぁ しょんぶ
Dans sa chambre
じょえる え さ ゔぁりーず
Joël et sa valise
あん ほぉぎゃ しゅる せす ふぁんぎーす
Un regard sur ses fringues
しゅる れ みゅる で ふぉと, そん ほぐれぇと
Sur les murs des photos, sans regret,
そん めろ, ら ぽふ て くらっきー
Sans melo, la porte est claquée
じょえる い ばーひぃ
Joël est barré
(フランス語)
彼氏の部屋。
ジョエル。
そして彼女のスーツケース。
自分の服に向けられた視線。
壁の写真に向けられた視線。
そこに後悔はない。
何のメロドラマもなく
音を立ててドアが閉められる。
ジョエルは閉じ込められてしまった。


Sharon Shannon "Cavan Potholes"

ごく個人的な話ではあるのだけれど、アイルランドのボタンアコーディオン奏者であるシャロン·シャノンさんが友人たちとのコラボレーション作品を集めて2003年に発表したアルバム「Libertango」は、私が2000年代に一番数多く繰り返して聞いたCDだったかもしれない。何か、これといった思い入れがあるわけではないのだけれど、特別に気合を入れて聞こうという気持ちになれる音楽が見つからない時には、とりあえずこのアルバムばかりを鳴らしていた記憶がある。音色だとかリズムだとか呼吸だとかが、たぶん私のネイチャーというやつと相性が良かったのだと思う。

もっとも「相性」という言葉を使うからには、それなら向こうは私のことをどう思うだろうかということまで含めて書かないと、厳密にはウソになるのかもしれない。とはいえ私は、そんなことは知らない。知れば自分が傷つくだけだという予感があるので、どちらかと言えばあまり積極的に知りたいという気持ちになれないのが正直なところだったりする。それにも関わらず無造作に「相性がいい」などとゆう言葉を使ってみせるのって、どおなんだらう。ドサクサに紛らした両思いアピールみたいに受け取られてしまった場合、私はシャノンさんに対して責任がとれるのだろうか。

だいたい今だって私は「無造作」などという言葉をあたかも無造作であるかのごとくに使って「みせ」たりしたわけだが、そういうのが本当に無造作であるかどうかは他人が判断して決めることなのであって、無造作という言葉が読み手にどういう印象を与えるかを計算した上で選択された無造作という言葉など少しも無造作でないどころかむしろ造作の極みなのである。無造作を装った造作などというのは邪悪ですらある。

そういう風に考えてみると私という人間は、上の文章の中でかなり鼻持ちならないことをやっている。「これといった思い入れがあるわけではないのだけれど」とか何とか言って「それでも聞いてやってる」みたいな恩着せがましいニュアンスをかもし出してるあたり、この男は何を言いたいのだろうかと思ってしまう。自分で書いた言葉なわけだけど。でもって後半部分で「ネイチャー」などという横文字をしれっと挟み込んだりしているあたり、何をアピールしたいんだろうかと思ってしまう。私は日本人なのですけどこおゆう英語も知っているのですよつい無意識に口をついてしまったのですけどね、的なことでも言いたいのだろうか私。しゃらくさい。思っくそ意識してるくせに。て言っかさっきから私は誰に向かって何を問いかけているのだろう。自分がどんな気持ちでそんな文章を書いたのかは、自分が一番よく分かっているはずなのに。私。

この際、ハッキリ書いてしまう以外にないのかもしれない。好きなのである。私は。シャロン·シャノンさんという人が。めちゃめちゃに。ものすごく。

だって、こんなに幸せそうな顔をしてみんなのために楽器を演奏してくれる人って、世の中にいるだろうか。それでもって一緒に演奏している人間はもとよりその場で聞いている全員をも同じくらい幸せな気持ちにさせてくれることのできるミュージシャンが、この人の他にどこにいるだろうか。この人のCDを聞いている時、なかんずくこの人の動画を見ている時の自分の姿というものを、私は絶対に他人に見せたくない。「キシシ」と笑うストップひばりくんみたいな顔して蛇腹を引っ張っているこの人と「同じ笑顔」が、自分の内側からにちゃーっとこみ上げてくるのを抑えられなくなってしまうからである。上に貼りつけたライブ映像を見てもその気持ちが分からないと言うような人には、二度とこのブログを読んでほしくないと思う。もっとも分からない人が多ければ多いほどそのぶんライバルが減るわけで私にとってはむしろ好都合なはずなのだが、それはそれで納得できないのが恋する気持ちなのである。世界中の人に彼女のことを好きになってもらわなければイヤだけど、同時に彼女のことを好きになっていいのは私の中では世界で飽くまで私だけなのである。そんな人の曲をブログ記事にするなんて、一体どう書けばいいというのだろう。



そういう屈折した気持ちがシャイな私に「これといった思い入れがあるわけではないのだけれど」などという心にもない文章を書かせてしまうわけであって、これはもう男の子なら当然のことなのである。でもって実際には思い入れありまくりんぐなことぐらい年上のシャノンさんには伝わっていて当たり前だとも思うわけなのであって、そういう年上の女性目線から見た場合、上記の私のような態度というのは客観的かつ公平に言って「理解できる」ものであるにとどまらず、場合によっては「かわいい」とさえ思ってもらえて然るべきなのではないかと、まあ一般論として、自分でも思う。そうなのだ。恥ずかしがる必要なんてひとつもないのである。世界中の人間から失笑の的にされようとも、シャノンさんというひと一人のために胸を張って自分の気持ちを伝えることができれば、悔いることなど何もないではないか。だんだん勇気が湧いてきたぞ。

というわけで好きなんですシャノンさん。シャロンさんと言った方がいいのかしら。でも僕って生まれてこのかた女の人のことを下の名前で呼べたためしってないのです。えー、アンダーネーム。違うか。ファーストネーム。何しろ、好き。日本語ではラブとライクの両方の言葉が「好き」という言葉で表現されておりましてですね。だからこの「好き」という言葉にいろんな意味を持たせて駆け引きするのが文化と言うか手順と言うか、そういうことになってるんですけれども、僕の「好き」はぶっちゃけた話、ラブの方の「好き」なんです。はい。私のネイチャーがアイラブユーと叫んでいるわけなのです。アイラブユー。きひー。照れるなあ。いやなぜ照れるのかと言いますとですね。日本語話者である私の感覚を通すと、アイラブユーという言葉の響きからは反射的に哀裸舞遊という漢字の文字列が連想されてしまうのです。わかりますかね。哀裸舞遊。意味ですか。それはまあ、自分で調べてほしいのですけどね。調べてほしくない気もするのですけどね。してみたいですね。哀裸舞遊。

...どうして私には「普通の文章」が書けないのだろう。もうひとつ言うならどうして「普通の恋愛」ができないのだろう。「普通の文章」や「普通の恋愛」なんてそもそもあるんだろうかという根本的な問いは、大事な場面では私のために一度も役に立ってくれたことがないのである。


The late late show- tribute to Sharon Shannon

リベルタンゴの話をしよう。検索で来てくれたお客さんはあらかた途中で帰ってしまったかもしれないけれど、このブログのテーマは飽くまで「うたを翻訳すること」だったはずなのだ。ただしこの曲に関しては周知のごとく、もともとはインスト曲であり、初めから歌詞がついていたわけではない。

「Libertango」という作品名は、アルゼンチンの公用語であるスペイン語で「自由」を意味する「libertad」 を「tango」 と合わせて作った、作曲者のアストル·ピアソラによる造語なのだという。だから意味としては「自由のタンゴ」といったような感じになる。Wikipediaによればピアソラは「フアン・ペロンが大統領に返り咲くようなアルゼンチンの雰囲気に嫌気をさして、イタリアで演奏活動していた」1974年にこの作品を書いたとのことなのだけど、そういうのって、どうなんだろう。強いられた政治亡命とかなら話は別だけど、自分の国に困ったり苦しんだりしている人がいっぱいいる中で、自分一人だけがカネやらコネやらをいっぱい使って「苦しくない世界」で「優雅な生活」を送ることに何ら良心の呵責をおぼえないようなタイプの人に、私はあんまり「自由」などという言葉を軽々しく使ってもらいたくないものだと思う。「この木なからましかば」って感じの情報だったな。私にとっては。

アルゼンチンのタンゴでは、アコーディオンとよく似た「バンドネオン」というドイツ発祥の楽器が歴史的に使用されてきており、ピアソラはそのバンドネオンの名手だったのだという。ピアソラ本人がそのバンドネオンでこの曲を演奏している動画も見つかったのだが、これは確かに、めちゃめちゃカッコいい。専用の踏み台と思われるものをわざわざ用意して立て膝で演奏してはる感じなのだが、こういうスタイルで演奏される楽器というものを私は初めて見た。


Piazzolla Libertango 1977

バンドネオンとアコーディオンというのは「似ているけれど違う楽器」なのだということが、この楽器を紹介しているいろんなサイトではしきりと強調されているのだけれど、シャロン·シャノンさんの演奏している楽器はこれと全く同じような外観をしているにも関わらず一貫して「アコーディオン」もしくは「ボタンアコーディオン」と紹介されており、その辺が私にはいまだによく分からない。バンドネオンという楽器は蛇腹を押した時と引いた時で出る音が変わるらしいのだが、そういう構造をめぐる問題なのだろうか。ちなみに筋肉少女帯の昔の曲で「サボテンとバントライン」という作品があり、この「バントライン」という言葉も私の中では長年「バンドネオン」とカブっていたのだけれど、今回一緒に調べてみたところ、この歌に出てくる「バントライン」という猫の名前は楽器とは全く無関係であり、昔の西部劇に出てきた拳銃の名前から取られているらしいことが分かった。少しのことにも先達はあらまほしきことである。


サボテンとバントライン

シャノンさんのバージョンには出てこないのだけど、この曲の中の「♪みふぁみふぁみドら!」という繰り返しのフレーズは世界中のアコーディオン奏者の憧れの的であるらしく、本当に数えきれないくらいの人によってカバーされている。私がこの曲を初めて知ったのは昔タモリの番組でcobaこと小林靖宏さんが演奏しているのを聞いた時だったと思うのだが、今回そのコバさんとバイオリニストの寺井尚子さんが共演している動画にめぐり会い、これには完全に魂を奪われてしまった。寺井尚子さんという人もシャノン·シャロンさんと同じように「顔で弾く」タイプの人であるようで、何回も見ていると好きになってしまいそうな気がして怖いから私は一回しか見ないことに決めてしまったのだけど、この記事を訪れて下さった皆さんにはぜひ何回でも見て帰って頂きたいものだと思う。


寺井尚子 Libertango with Coba 2002

そんなリベルタンゴの名前を冠したアルバムを2003年にシャロン·シャノンさんが作ったのは、おそらくはこの曲を歌っているカースティ·マッコールさんの思い出に捧げるためだったのだと思う。こんな曲こんな曲こんな曲の中で至るところに顔を出しているカースティさんは私自身にとってもとっても思い入れの深いアーティストの人なのだけど、惜しむらくは2000年にキューバでボートの事故で他界されてしまったのである。ただし、リベルタンゴをこの歌詞とこのリズムで最初に歌ったのはカースティさんではなく、私も今回初めて知ったのだが、アンディ·ウォーホルの秘蔵っ子(←イヤな表現だ)だったというジャマイカ出身のスーパーモデルのグレイス·ジョーンズさんという人だった。そんでもってYouTubeに上がっていたそのPVというのがまた、1981年の動画とは思えないぐらいに衝撃的な作品だった。


Grace Jones "I've seen that face before"

歌詞の内容は、パリを舞台にしていることとジョエルという名前の女性が主人公になっているらしいことを除けば、ほとんどよく分からない。(「Haussmann Boulevard」というのはパリにある街の名前なのだそうで、他サイトでは「オスマン通り」という訳語が宛てられていた)。何でフランス語が出てくる必然性があるのかということについても、いまいちよく分からない。そんなことよりも、とあえて「そんなこと」呼ばわりさせてしまってもらうのだが、このPVを初めて見る人に最も強烈なインパクトを残すのは、冒頭部分でグレイスさんが「鳥のクチバシ」をつけている姿なのではないかと思う。どこをどうしたらこんなアバンギャルドな発想が出てくるのだろう。

そういえば中世のヨーロッパでペストが流行した際、当時の医者というのはみんなあんな格好をしていたという話をどこかで聞いたことがあったので、改めて調べてみたところ下のような記事が見つかり、思わず知らず読みふけってしまった。そして人間が大昔から鳥の格好を模倣することにはどういう象徴的な意味合いが込められているのだろうかといったようなことについて、小一時間ほど考え込んでしまった。あのスタイルに示された呪術性というのは、絶対に「空を飛ぶこと」という鳥の属性とは無関係なところにその起源を持っているのである。

karapaia.com
それと同時に私が思い出したのは、今は全然好きではないけれど昔は大好きだった野性爆弾のこのコントだった。このコントをめぐって私がずーっと気になっているのは、劇中で川島氏が歌っている「♪エンダンバギー」という歌には何か元ネタがあるのだろうかそれともないのだろうかということなのだけど、この点について何か詳しいことを知っている方がおられたら教えて頂けたら幸いです。


カラスとキジと学生さん

...何だか久しぶりに思い切りとりとめのない記事を書いてしまった気がするのだけれど、とりとめのない文章を書くことには正体不明のデトックス効果があるので、書いている人間の感覚としては、それほど捨てたものではない。ただし再読に耐える内容になっているかどうかは、私自身は二度と読み返す気がしないもので、保証の限りではない。こういうこともたまにはある。ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Originally Released: 1974.
Key: C

Libertango

Libertango