華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

不要脱人家的水手服啦 もしくはセーラー服を脱がさないで (1985. 小猫倶楽部)



今回は「うたを翻訳するということ」にまつわる話ではあるけれど、私が翻訳した歌詞ではない。ひょんなことから自分の知っている日本語の歌が中国語に翻訳されているのに出会ったのだけど、その訳詞があまりに面白かったので、ここで紹介せずにはいられない気持ちになった、というお話である。

ただし、日本語話者の誰もがそれを私と同じように「面白い」と感じるものなのだろうかということについて、私はいまいち確証が持てない。ひょっとしたら、私が一人で面白がっているだけなのかもしれない。なぜそれを面白いと感じるのかを、言葉にするのがすごく難しいのである。

また、翻訳した人にとってみれば「フツーの中国語」に翻訳しただけなのに、それを面白がって笑うというのは、あるいは中国語話者の人たちに対して失礼なことになるのかもしれない。しかし頭ではそんな風に思ってみても、文字を見るとどうしても笑けてくるのを押さえられなくなるのである。この感覚は一体、何なのだろう。

その観点からも、とにかくその歌詞についての文章を書いてみずにはいられない気持ちになったのである。うまく整理できない気持ちというものも、言葉にしてみることで答えが見えてくるということは、割とある。ただし無理やり言葉にしようとすることで余計にわけが分からなくなってしまうことも世の中には沢山あるので、もしそうなってしまったらごめんなさい。と今のうちに謝っておくことにしたいと思う。

きっかけは、前々回に取りあげたドアーズの「Land Ho !」が「船乗りの歌」だったことだった。船乗りの歌と言えばずいぶん前に、台湾の鄭智化という歌手が歌う「水手」という歌を取りあげたことがある。(「水手」は「水夫/船乗り」という意味)。そのPVがかなり印象的なものだったので、使える画像でも見つからないだろうかと思い、「水手 動画片」という文字列で検索をかけてみたのだった。

そしたらなぜか、「セーラー服を脱がさないで」を歌うAKB48の動画がいっぱい出てきた。見るとそれには中国語の字幕がついており、タイトルは以下の通りだった。

不要脱人家的水手服啦

反射的に私は、口を押さえた。この時点で何だか、笑けてきそうになったのである。

不要 (bùyào)
拒否や禁止をあらわす表現 「イヤだ」「やめて」「 〜しないで」

(tuō)
他動詞「脱がせる」

人家的 (rénjiade)
「他人の」「ひとさまの」 (備考: 親しい間柄の人間と話をしている時や、冗談を言ったりふざけたりしている時に自らを指して「人家」と言うことがある。多くは女性が異性に甘える時や気を引きたい時に使うほか、ペットやキャラクターの台詞として使われることもある。)

水手服 (shǔishǒufú) →セーラー服

(la)
感嘆や阻止の意味を兼ねた断定的な口調を表す語気詞。漢文では「置き字」に相当。

...何でこんなに「大げさな感じ」になってしまうのだろうということが、おかしくてたまらなくなったのだ。たかだか「セーラー服を脱がさないで」ぐらいのことを言うだけのために「不要脱人家的水手服」という「九文字熟語」を作り、最後の「啦」という一文字だけに全ての感情を代弁させる作風とでも言おうか。もちろん翻訳した中国語話者の人がそんなにややこしいことを考えているわけがないことは頭では分かるのだが、「日本人が漢字を使う時の感覚」で考えると、どうしてもそれが滑稽に思えてくるのである。

さらに動画が始まって中国語の字幕が出てくるのを眺めていると、もう何だかガマンできなくなって、机に突っ伏して笑ってしまった。文字に起こすと、こういう感じなのだ。


不要脱人家的水手服啦

不要脱人家的水手服啦
不行啦 忍耐一下吧
不要脱人家的水手服啦
讨厌啦 不可以
不要在这种地方啦
女孩子 总是
从八卦里
专心的学习
啊 每一天
虽然想比朋友更早
体验到H的感觉
却总是只到接吻就无法再往前进
还是太胆小了
很想要像周刊上描写的那样
尝尝H的滋味
但奉献出全部的话
还是有点舍不得
不给你

...何度も書くけれど、字幕を作った人が「フツーの言葉」しか使っていないことは、頭では分かる。しかし、日本人には日本人的なやり方で形成された「漢字に対するイメージ」というものがあるのである。「H的滋味」というのは、一体何なのだ。私は生まれてこのかた「H」というものをそんな、しじみのお味噌汁的なイメージで把握したことなど一度としてなかった。何と斬新な表現なのだろう。しかしそれって、中高生ぐらいの年齢の人がいまだ経験したことのない「H」というものに求める内容としては、あまりにもシブすぎるのではないだろうか。

一応付言しておくなら、小っちゃい頃から何度となく耳にしてきた歌ではあれ、「セーラー服を脱がさないで」というのはあまりにも「ひどい歌」だと私は感じている。本当に「女の子」が自分の言葉で作った歌ならば、傾聴もしよう。しかし男の作詞家がこういう歌を書いた上で、富と名声をエサにして年端もゆかぬ女の子たちに歌わせるなどということは、最悪という言葉でも追いつかないぐらいのセクハラ行為だとしか私には思えない。聞くところによるとハロプロの手法というのは秋元康ほど邪悪ではないのだそうで、フェミニストの人たちにも結構ファンがいるという話を聞いたことがあり、「アイドル」というものを一緒くたにして論じようとするのも乱暴な話になるのかもしれないが、とにかくこのブログで積極的に取りあげたいような曲では元々なかったし、外国語に翻訳して発信するに値するほど「誇れる日本文化」であるとも、全然思えない。

しかしそれはそれとした上で、この「不要脱人家的水手服啦」の中国語歌詞は、私にとって面白すぎるのだ。それは「言葉を翻訳するということ」の本質に関わるような問題だからなのかもしれない。上記の中国語歌詞に使われている簡体字を日本の漢字に直し、さらにその翻訳、と言うよりもその漢字の文字列から日本人である私が受け取るイメージを日本の言葉で再現すると、以下のような感じになる。

Bùyào tuō rénjiā de shuǐshǒu fú la
不要脱人家的水手服啦
ひとさまのセーラー服は脱がすを要せず。
bùxíng la rěnnài yīxià ba
不行啦 忍耐一下吧
はかばかしからざるなり。
ひとくだりの忍耐を乞う。

bùyào tuō rénjiā de shuǐshǒu fú la
不要脱人家的水手服啦
ひとさまのセーラー服は脱がすを要せず。
tǎoyàn la bù kěyǐ
討厭啦 不可以
うちいとましかり。もって不可なり。
bùyào zài zhè zhòng dìfāng la
不要在這種地方啦
この種の地方にありては不要のことなり。
nǚ háizi zǒng shì
女孩子 総是
女の子はすべてこれ
cóng bāguà lǐ
従八卦里
八卦(噂話/ゴシップ)のうちより
zhuānxīn de xuéxí
専心的学習
専心的に学習するものなり。
a měi yītiān
啊 毎一天
ああ 毎日
suīrán xiǎng bǐ péngyǒu gèng zǎo
雖然想比朋友更早
朋友に比してさらに早く
tǐyàn dào H de gǎnjué
体験到H的感覚
H的感覚の体験に至りたしとはいえども
què zǒng shì zhǐ dào jiēwěn
却総是只到接吻
かえってすべてこれただ接吻に至り
jiù wúfǎ zài wǎng qiánjìn
就無法再往前進
すなわち再び前進におもむくのすべなし。
háishì tài dǎn xiǎole
還是太胆小了
かえってこれ大いに胆の小さきにおわりぬ
hěn xiǎng yào xiàng zhōukān shàng miáoxiě dì nà yàng
很想要像週刊上描写的那様
週刊(誌)上に描写されたるその様をもって
cháng cháng H de zīwèi
嘗嘗H的滋味
Hの滋味をなめなめしたきは甚だなれど
dàn fèngxiàn chū quánbù dehuà
但奉献出全部的話
ただ全部を献出たてまつった場合の話
háishì yǒudiǎn shěbudé
還是有点舍不得
かえってこれ捨てるを得ざる点ありしゆえ
bù gěi nǐ
不給你
あなたには給付せず。

...およそ、後天的に習い覚えた外国語を使って人とコミュニケーションを図ろうとする人は、「自分の伝え方」と「相手にとっての聞こえ方」には常にこのぐらいの「ズレ」が存在している可能性があるのだということを、肝に銘じておかねばならないのではないかと思う。こんな話、前にもしたな。

さらに大陸中国においてWikipedia的な役割を果たしている「百度百科」というサイトがあり、そこにも「不要脱人家的水手服啦」の項目があったのだが、そこに書かれている説明というのが何と言うかまた、ふるっていた。

1985年7月5日,小猫倶楽部首張細碟<不要脱水手服>(セーラー服を脱がさないで)推出,(注:ニャンニャン事件——1983年6月,当時紅透日本的幼歯組合"わらべ"成員高部知子,被偷拍到在床上裸身抽煙,一時間造成極大的不良反響。"ニャンニャン事件"成為少女叛逆和出格行為(尤指性行為)的一種暗示。可見,小猫的籌劃方在最初頗有些打擦辺球的企図,従早期単曲"セーラー服を脱がさないで"(不要脱下水手服)和"およしになってねTEACHER"(老師請正経点)就可以看出些苗頭。)後経早安少女組翻唱及AKB48組合改編翻唱再次走紅。

1985年7月5日,小猫倶楽部の首張細碟(ファーストシングル)<不要脱水手服>が推出(リリース)される。(注:ニャンニャン事件——1983年6月,当時紅透していた(ヒットしていた)日本の幼歯組合(未成年アイドルグループ)"わらべ"の成員の高部知子さんが,ベッドの上で裸になって煙草を吸っているところを偷拍(盗撮)され、たちどころに極めてよくない反響が造成された。"ニャンニャン事件"は少女たちの叛逆と出格(常軌を逸した)行為(とりわけ性行為)を暗示する出来事だった。このことからも明らかなように、おニャン子の籌劃方(売り出し方)は最初においてはすこぶる擦辺球的な(ギリギリの)企図であった。早期の単曲"セーラー服を脱がさないで"(不要脱下水手服)や"およしになってねTEACHER"(老師請正経点)の中に、その苗頭(傾向)を見てとることができる)。後に至って早安少女組(モーニング娘)が翻唱(カバー)し、またAKB48組合が改編翻唱して再び走紅(ヒット)した。

...思うに、日本人はなまじっか中途半端に漢字が読めるから、「すべてが漢字で書かれた文章」を前にした時に「不自然さ」を感じてしまうことになるのだと思う。中国語話者の人たちにとっては極めて「自然」な表現であるにも関わらずである。そして逆のパターンだと向こうの人たちは基本的にひらがなやカタカナは読めないから、この「おかしさ」は日本人から中国人に向けられた一方的な印象なのだということになる。ベトナムや朝鮮半島も漢字圏だから、中国語の文章に対して「同じ感じ方」をすることはあるのかもしれないが、中国以外の漢字圏で今でも学校教育で漢字を教えている国は日本だけなので、この感覚はますます「日本人特有の感覚」になっている傾向があると思う。

だったら、果たして面白がっていてもいいのだろうかという疑問が生まれてくるのである。向こうはこっちのことを笑えないのに、こちらが一方的に向こうのことを笑い物にするというのは、どう考えても不公平なことだ。漢字と全く無関係な国の人が中国語や日本語をイチから学ぶ時には、そんなおかしな先入観なんて絶対持ったりしないのだから、むしろ我々もその態度を見習いながら、心を真っ白にして中国語という「異文化」に向き合うことを学んでゆかねばならないのではないだろうか。頭ではそう思う。

...しかしそうは思っても「不要脱人家的水手服啦」などという文字列を前にすると、どうしても脊髄反射みたいな感じで笑いが込み上げてきてしまう。こういう感覚が「変わる」までには、ものすごく時間がかかるものなのだと思う。私一人の問題ならまだしも、日本語世界というひとつの文化圏全体の感覚が「変わる」までにはどれくらいの時間がかかるのだろうと思うと、気が遠くなるのを覚える。「世界がひとつになる時」までの道のりは、やはり長大である。

それでも、過去50年や100年といった時間のあいだに日本語というものがどれだけ「変わってきた」かということを考え合わせるなら、我々がその感覚を「変えてゆく」のは、思ったほど大したことではないのかもしれない。いずれにしても一番大切なのは、そうした隣国の人たちとの直接の交流をもっともっと重ねてゆくことだろう。戦争を止める力もそこから生まれてくる。

ところで、私はどうしても気になってしまうのだが、上の歌詞で「H」という言葉が「翻訳されていない」のは、どういうことなのだろう。私が聞き覚えてきた限りでは、「H」は「ヘンタイ」という日本語の頭文字なのである。(←だから差別的なニュアンスを持った言葉だと思うし、私自身は基本的に使わない)。しかし中国語の「変態」は「biàntài」と発音するのだ。言うなら「B」とでも言わないと、意味が通らなくなってしまうのではないだろうか。

中国人の友だちに聞いてみたところ、「みんな日本語だと思って使ってるよ」という返事が返ってきた。「意味、分かって使ってるの?」と聞くと「セックスすることでしょ?」と言う。いや、そういうことを聞いているわけではなく、語源的な領域の話を私はしているつもりなのだけど、「H」が「セックスすること」という意味「だけ」で理解されているのだとしたら、それはそれで「H」という言葉の「他の重要な要素」が削ぎ落とされていることになりはしないだろうか。

「そんな難しいこと考えて使ってる人なんて、いないよ。大体よっぽどの日本オタクしか知らない言葉だし。『Hする』って言えば、親にも何の話してるのか分からないから、便利でしょ」と相手は言う。ちょっと待ってほしい。その使い方は日本ではありえないよ。だって「友だちとHした」と言って「意味が分からない親」なんて、いないもの。

...どうやら言葉というのは子どもと同んなじで、放っといたら「勝手な育ち方」をしてゆくものらしいということが、子どもを作った経験を持たない私にも、よく分かった。それを下手に管理したりカタにはめようとしたりすること自体が、本当はおこがましいことなのかもしれない。しかし放っといたら「相互理解」が進むどころか「変な誤解」が広がってゆくばかりだもんなあ。こういう問題は、本当に難しいと思う。

それで私も「H」という言葉について改めてWikipediaで調べてみたら、語源については「ヘンタイ」以外にもさまざまな説があることや、歴史的には100年ぐらい前にまでさかのぼれる言葉らしいということなど、初めて知ることが山ほど出てきて、自分自身、この言葉のことを今まで何も知らなかったのだという認識を新たにさせられた。その記事へのリンクを貼って今回はしめくくりとしたい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%25E3%2582%25A8%25E3%2583%2583%25E3%2583%2581?wprov=sfti1
...面白がってるのが私だけだとしたら、かなり独りよがりな記事を書いてしまった気がする。どうなんだろうな。

ではまたいずれ。