華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Waltzing Matilda もしくは踊るマチルダさん (1895. Australian Folk Song)



今回の記事はポーグスの「And the Band Played Waltzing Matilda」、およびトム·ウェイツの「Tom Traubert's Blues」という曲の翻訳記事を書くための予習編である。両者の曲には共通して、「ワルツィング·マチルダ」というとても印象的な歌のフレーズが、そのまま挟み込まれている。「ワルツィング·マチルダ」というのはどういう歌なのだろうとずっと思っていたのだけれど、今までは何となく聞き流していたのだった。

「ワルツィング·マチルダ」をフツーに直訳するなら、イメージにうかびあがってくるのは「ワルツを踊っているマチルダという名前の女性」の姿である。(今回調べてみて、この歌から名前をとったという「踊ろうマチルダ」という福井県出身のミュージシャンの方が活躍されているのを初めて知ったのだが、文法的には「Waltzing」で「踊ろう」という意味にはなりえない。とはいえ、言葉の響きからいろいろなイメージを膨らませるのは、ある程度までは個人の自由だと思う)。ポーグスもトム·ウェイツも、そのマチルダさんという女性に向けた歌を歌っているのだろうと私は何年も思っていた。ところが、実際には全然ちがっていた。

Wikipediaによるならば、「ワルツィング·マチルダ」はオーストラリアで最も有名なブッシュ·バラッドであり、しばしば同国の「非公式国歌」として愛唱されている歌なのだという。「ブッシュ·バラッド」という言葉を私は知らなかったのだが、オーストラリアの白人社会の歴史の中で生まれ、歌い継がれてきたいわゆる「フォークソング(民謡)」が、同地では「ブッシュ·バラッド」と呼ばれているらしい。とはいえ、オーストラリアという近代国家は実質的に200年に満たない歴史しか持っていないから、「民謡」や「伝統曲」といっても実際にはかなり新しい歌ばかりだということになる。「ブッシュ」といえば「やぶ」や「しげみ」のことであり、メキシコの人にとってのサボテンやモンゴルの人にとっての草原と同じく、オーストラリアの人々にとってはその「ブッシュ」が「故郷を象徴する原風景」になっているということなのだろう。「Australian Bush」で検索してみると、出てきたのはこんな画像だった。



この歌の主人公になっているのは、一人の「スワッグマン」である。オーストラリアの言葉で、かつてクルマも鉄道もなかった時代、仕事を探して国中を徒歩で旅して回っていた人々のことをさす。「スワッグ」とは「寝袋」のことで、スワッグマンの人たちはその寝袋に荷物の一切をまとめ、背負い歩いていた。下は1901年の日付がついた、スワッグマンの男性の写真。



そうやって国中を旅して回ることが、スワッグマンの人たちの間ではいつしか「ワルツィング·マチルダ」という言葉で言い表されるようになった。"to waltz Matilda (マチルダをワルツする)"ということは、生活道具の一切を毛布や衣服にくるんだ「スワッグ」を背中に背負って旅をするということを意味している。なぜそうした言い方が生まれたのかということについては、かなりの説明を要する。

まず「ワルツする」という言葉はドイツ語の「auf der Walz (修行の旅の途中)」という言葉に由来しており、踊りのワルツとは関係がなかったらしい。(踊りのワルツは、ドイツ語では「ヴァルツァー」と言う)。ドイツでは、大工などの職人(マイスター)になろうとする人は必ず最低2年間の「修行の旅」に出なければならないという習慣が今でも生きているのだそうで、その際、修行者は

  • 身内に不幸がない限り、自分の生まれた街から半径50キロ以内に立ち入ってはならない。
  • 乗り物に乗ってはいけない。
  • 「クラフト」と呼ばれる制服と「スタンツ」と呼ばれる杖をいつも着用していること。
  • 旅の途上で死んだらその土地で葬式をあげてもらうために、金のピアスをつけておくこと。

等々の掟を厳密に守らなければならないのだという。ドイツ内外の街々では、そうした中世以来の慣習にのっとって、奇抜な格好で旅をしている若い「auf der Walz」さんに、今でも至る所で出会えるらしい。



私はドイツにそうした習慣があることを全然知らなかったので、上に書いたことはほとんど下記のサイトから引用させて頂いた受け売りなのだが、その中でドイツでは「大工」のことが「Zimmerman」と呼ばれていることも初めて知り、興味深く感じた。「ジンママン」といえばボブ·ディランの本名である。そういう由来があったのだな。いずれにしても「ワルツィング·マチルダ」というのは、オーストラリアの大地を当てもなく放浪していた19世紀のドイツ系移民の人々が、自分たちの境遇をその「Walz」になぞらえて言い始めた言葉だった。そう考えてほぼ間違いはないらしい。
ja-d.com
では、「マチルダ」というのは何なのか。「スワッグ」の別名なのだという。Wikipediaの英語版に載っていた説明は、以下の通り。

「マチルダ」という言葉のルーツに関しては、論争がある。流布されている空想的な説としては、旅をしているスワッグマンたちは一緒にダンスを踊ることのできる女性と出会えることが稀だったため、自分の荷物に女性の名をつけてダンスをしていたのだというものがある。しかしこの説明は「ワルツ」という言葉が偶然ダンスの名前と重なっていることから生み出されたものであると思われ、実際には「スワッグ」がスワッグマンたちにとっての唯一の「旅の同伴者」であったことから女性の呼び名を与えられていたのだと考えた方が正確であろう。オーストラリア国立図書館の説明によるならば、「マチルダ」とはチュートン語(古代のドイツや北欧で話されていた言葉)で「強く戦闘的な少女」を意味する女性の名前だったとのことであり、それが放浪者たちのあいだで「空想上の配偶者」をさす俗語になったのだろうという。オーストラリアのブッシュの中で、スワッグは旅する男たちの添い寝の相手と見なされていた。だから「マチルダ」という女性の名前がつけられたのである。

…何だか大変なことになってきたけれど、とにかく「マチルダ」というのが「荷物」につけられた愛称であることも、これまた間違いないらしい。「ワルツ」という言葉がダンスの名前と重なっていたことは「偶然」だったと上には書かれているが、英語を話す移民の人たちのあいだでこの「偶然」が持っていた意味は、かなり大きかったのではないかと思う。「マチルダ」もドイツ系の女性の名前なわけだけど、英語で「ワルツ」といえば「ワルツを踊ること」なわけだし、「ワルツを踊らせること」という風に他動詞化させることも、辞書には載っていないが不自然な用法ではない。大きな荷物を背負って旅をすれば、歩くのに合わせて荷物もヒョコヒョコ揺れる。これを称してスワッグマンの人たちの間では、「Waltzing Matilda=マチルダにワルツを踊らせる」という言い方が定着していったのではないかというのが私の想像である。ドイツ語と英語とがそんな風に混淆されることを通して生まれた不思議で魅惑的なフレーズが、「ワルツィング·マチルダ」だったということなのだろう。

…長い前置きになってしまったが、以上のことを予備知識として頭に入れて、実際に歌を聞いてみることにしたい。


Waltzing Matilda

Waltzing Matilda

英語原詞はこちら


Once a jolly swagman camped by a billabong
Under the shade of a coolibah tree,
And he sang as he watched and waited till his billy boiled:
"You'll come a-waltzing Matilda, with me."

昔ひとりの陽気なスワッグマンが
とあるビラボンのほとりで
野宿することに決めた。
クーリバーの木の下で
火にかかったビリーを眺め
お湯が沸くのを待ちながら
彼氏は歌うのだった。
「おまえもおれと
ワルツィング·マチルダをやるかい?」


Waltzing Matilda, waltzing Matilda
You'll come a-waltzing Matilda, with me
And he sang as he watched and waited till his billy boiled:
"You'll come a-waltzing Matilda, with me."

ワルツィング·マチルダ
ワルツィング·マチルダ
おまえもおれと
ワルツィング·マチルダをやるかい?
火にかかったビリーを眺め
お湯が沸くのを待ちながら
彼氏は歌うのだった。
「おまえもおれと
ワルツィング·マチルダをやるかい?」


Down came a jumbuck to drink at that billabong.
Up jumped the swagman and grabbed him with glee.
And he sang as he shoved that jumbuck in his tucker bag:
"You'll come a-waltzing Matilda, with me."

そのビラボンで水を飲もうと
羊が一匹やってきた。
スワッグマンは大喜びで
その羊に飛びかかり
捕まえて食糧袋に押し込みながら
歌うのだった。
「おまえもおれと
ワルツィング·マチルダをやるかい?」


Waltzing Matilda, waltzing Matilda
You'll come a-waltzing Matilda, with me
And he sang as he shoved that jumbuck in his tucker bag:
"You'll come a-waltzing Matilda, with me."

ワルツィング·マチルダ
ワルツィング·マチルダ
おまえもおれと
ワルツィング·マチルダをやるかい?
捕まえた羊を食糧袋に押し込みながら
彼氏は歌うのだった。
「おまえもおれと
ワルツィング·マチルダをやるかい?」


Up rode the squatter, mounted on his thoroughbred.
Down came the troopers, one, two, and three.
"Whose is that jumbuck you've got in your tucker bag?
You'll come a-waltzing Matilda, with me."

サラブレッドにまたがった
牧場主がやってきた。
騎馬警官もやってきた。
一人、二人、三人。
「お前が食糧袋に入れたのは誰の羊だ?
ワルツィング·マチルダしながら
一緒に来てもらおうか」


Waltzing Matilda, waltzing Matilda
You'll come a-waltzing Matilda, with me
"Whose is that jumbuck you've got in your tucker bag?
You'll come a-waltzing Matilda, with me."

ワルツィング·マチルダ
ワルツィング·マチルダ
おまえもおれと
ワルツィング·マチルダをやるかい?
「お前が食糧袋に入れたのは誰の羊だ?
ワルツィング·マチルダしながら
一緒に来てもらおうか」


Up jumped the swagman and sprang into the billabong.
"You'll never catch me alive!" said he
And his ghost may be heard as you pass by that billabong:
"You'll come a-waltzing Matilda, with me."

スワッグマンは立ちあがり
ビラボンの中に飛び込んだ。
「生きておれを捕まえることは
お前たちにはできないよ」
と彼氏は言った。
そのビラボンのそばを通りかかったら
きっとそのスワッグマンの
幽霊の声を聞くことになるだろう。
「おまえもおれと
ワルツィング·マチルダをやるかい?」


Waltzing Matilda, waltzing Matilda
You'll come a-waltzing Matilda, with me
And his ghost may be heard as you pass by that billabong:
"You'll come a-waltzing Matilda, with me."

ワルツィング·マチルダ
ワルツィング·マチルダ
おまえもおれと
ワルツィング·マチルダをやるかい?
そのビラボンのそばを通りかかったら
きっとそのスワッグマンの
幽霊の声を聞くことになるだろう。
「おまえもおれと
ワルツィング·マチルダをやるかい?」

=翻訳をめぐって=

…「ワルツィング·マチルダ」と言うよりも「ウォールシング·マチルダ」と言った方が実際の発音に近いことが、歌を聞いてみるとよく分かる。上の動画はオーストラリアの「おかあさんといっしょ」的な子ども番組で使われているアニメーションだと思うのだけど、スワッグマンのおじさんのダンスの切れの鋭さに思わず目を奪われてしまう。とりわけターンの決め方。よくまあ、くわえタバコであれだけの動きができるものだ。それはそれとした上で、「ワルツィング·マチルダ」以外にもこの歌にはさまざまな「オーストラリア独特の言葉」が使われている。まずはその意味を確認しておく必要があるだろう。

  • billabong…「ビラボン」とは、いわゆる「三日月湖」のこと。曲がりくねって流れている川の流路が変わった際、かつての川床に水がたまってできた湖や沼のことをさす。

  • coolibah tree…ユーカリの木の一種。かなり、独特な形をしている。

  • billy…スワッグマンの人たちが調理器具として持ち歩いていたブリキの容器。ビリー缶。これひとつでいろいろな用途に使えたという。

  • jumbuck…羊のこと
  • tucker bag…食料を運ぶための袋のこと。
  • troopers…警察官のこと。
  • squatter…英米で「squatter」といえば「無権利居住者」のことをさす言葉だが、オーストラリアでは「大牧場主」をさす言葉にもなる。オーストラリアの大地主たちは、もともと「誰の土地でもなかった場所」を占有するところから農業や牧畜を始めているのであり、「土地に対する正当な権利」など、誰も持っていなかった。だからその牧場主が「土地に対する権利」を主張することは、スワッグマンが自分のところに飛び込んできた羊に対して所有権を主張するのと同じくらい「根拠のないこと」なのだという説明が、Wikipediaではなされていた。言い換えるならスワッグマンは、大地主と呼ばれる人間たちと同じような形で「自然に対する自分の権利」を行使しようとしたにすぎなかったのだということになる。この歌のスワッグマンの生きざま/死にざまが現在も多くのオーストラリアの白人たちのあいだで共感を集めていることには、そうした理由があるらしい。彼氏は「平等でないオーストラリア社会」にあって「平等に生きようとした人間」だったのである。


Tina Arena "Waltzing Matilda" AFL Grand Final

「裸で生まれてきた一人の人間」として大地主や公権力と対等に渡り合い、「生きてお前らには捕まるものか!」と叫んでビラボンに身を投げたスワッグマンの生きざまには、「本国」のイギリスに対するオーストラリア人の反骨精神や、自由を尊ぶ気質が象徴されているのだ、と、オーストラリアの諸資料は誇らしげに解説している。私もこのスワッグマンのおじさんのような生き方は、嫌いではない。むしろ憧れさえ感じる。

権力者の目を通すなら「犯罪者」にしか見えないようなこのおじさんを主人公にした歌が、「unofficial national anthem (非公式国歌)」としてさまざまな公的な場で歌われているという事実も、日本において「国歌」とされている歌があの名前を出すのも気分が悪くなるようなどうしようもない個人崇拝の戦争賛美歌であることを思えば、考えられないぐらいに「リベラル」な話だと思う。上の動画はAFL(オーストラリアン·フットボール·リーグ)の優勝決定戦で恒例となっている「ワルツィング·マチルダ」斉唱の様子なのだが、独唱者の女性もスタンドの観衆も、「生きてお前らに捕まるものか!」のところで、ひときわ声を張り上げている。このスワッグマンのおじさんは、本当に愛されているのだ。そして言い換えるなら、大地主や政治家の手先といった特権階級の人間は、それだけ憎まれているのだ。

しかしながら、この歌を「いい歌」だと認めることにはやぶさかでないものの、「国歌(Anthem)」として祭りあげるようなことに対しては、いろんな面で「引っかかり」を覚えずにいられない。

私はそもそも「国家」というものには百害あって一利もないと考えている人間であり、人間社会は一刻も早く統一されるに如くことはないということを信条にしているものだから、「国歌」とか「国民」とか「国益」とかいう言葉を耳にするといちいち排外主義の匂いを感じてカチンと来てしまうということが、まずある。とはいえ「Anthem=みんなで歌う歌」が本当に「みんなで歌える歌」である限りにおいては、別に文句を言おうとは思わない。

「オーストラリアに住んでいるすべての人」が「自分の歌」であると感じることができるような歌であるなら、その歌は「オーストラリアのアンセム」の名に値する歌だといえるだろう。だが例えばこの「ワルツィング·マチルダ」という歌の中に、「女性」が登場できる余地はあるだろうか。

スワッグマンと呼ばれた人たちは自分の身体以外には何も財産を持っていなかったし、他人を支配することからも支配されることからも無縁だった。その限りにおいては「全人類を代表できる資格」を持った人たちだったと私は思う。でもその人たちがオーストラリアの大地を気ままに遍歴していた時代において、「自由に旅をすること」は「男性」だけに与えられた「特権」だったのである。ほとんどの女性は、家父長制のもとで家庭に縛られていたし、差別があるために一人で外出することさえできなかった。もちろんその中でも「自由をめざした」女性は無数にいたことだろうが、そうした人たちに対しては男性の場合だとありえないような危険と迫害が-基本的には男性の手によって-加えられた。

無理やりこじつけるなら「マチルダ」という名前でこの歌にも「女性」は登場するのだが、それは人間の名前ではなくて荷物の名前ではないか。そんな役どころを押しつけられて「公平だ」と感じる人がどこにいるだろう。さらに言うなら世界のいろいろな文化においては、国の名前そのものを女性になぞらえたり、未踏の土地を「処女地」と読んだり、さまざまな場面で「女性」が「自然」や「大地」の比喩表現として使われている。このことは女性を讃えているわけでも何でもなく、「女性」も「自然」も引っくるめて「人間=男性」に征服されるべき存在だということが宣言されているにすぎないのである。

いずれにしても、その社会を構成している人間の半数にとって「自分の歌」であるとはおよそ感じられないような歌を、「アンセム」に指定するのはとてもおかしなことだと思う。

さらにこの歌の世界からは、オーストラリアの先住民の人々の存在が完全に排除されている。

19世紀のオーストラリアにおいて、白人男性にとっては当たり前のことだった「自由に旅をすること」が、先住民の人たちにとっては少しも「当たり前のこと」ではなくなっていた。そもそも白人がオーストラリアの大地を好き勝手に歩き回れるようになったこと自体が、先住民に対する徹底した迫害と抑圧を通して初めて成立した「自由」に他ならなかった。ここに詳述できる余裕はないが、その迫害の歴史は本当に目を覆いたくなるほど凄惨なもので、先住民の人々は白人から「スポーツハンティング」の対象にされていた時代さえあったという。さらにオーストラリアという国家はごく近年の1970年代に至るまで「白豪主義」という差別主義政策をとっており、この言葉は私が小学生の頃までは社会の教科書にも載っていた。その後、オーストラリア国家は「労働力の不足」を最大の理由に「多文化主義への転換」を宣言するのだが、それならばオーストラリアの白人たちが「国家」の名のもとに先住民の人々に加えてきたあらゆる迫害と抑圧に対する根本的な反省が表明されない限り、取ってつけたようなことを言ってみせても誰からも信用されないことだろう。スワッグマンの人々が当時なりに謳歌していた「自由」が、本質的には先住民の人々から奪い取った「自由」に他ならなかったことを、奪われた側の人々が忘れることは絶対にありえないのである。その「反省なき自由」を無批判に称賛する内容の歌が、「事実上の国歌」として先住民の人々の上にも押しつけられるようなことは、絶対に許されないと私は思う。

そんな風に「国家」そのものと同一視させて論じようとした場合、この歌は「単なるいい歌」では済まなくなる。オーストラリアという国家の歴史の総体と向き合うのと同じ態度をもって、この歌とも向き合わざるを得ないことになる。とはいえ上述したように、この歌に出てくるスワッグマンのおじさん自身は、とても魅力的で共感に値する人物だと私は思う。そして次回以降に取りあげるいろいろな歌のモチーフになっていったことも、理由のあることなのだと感じている。


踊ろうマチルダ

最後に、名前だけ引き合いに出してその歌を聞かないというのも余りに失礼なので、踊ろうマチルダさんが歌っている「踊ろうマチルダ」という同名曲の動画も、併せて貼りつけておくことにしたいと思います。素敵な曲でした。ではまたいずれ。


=楽曲データ=
The original lyrics were written in 1895 by Australian poet Banjo Paterson, and were first published as sheet music in 1903.