華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

秋の夜長 もしくは450曲目を迎えて (1990. NEWEST MODEL)

音もなく降り暮らす
木の葉の下で眠りゆく
空さえも喜びの笑顔見せず

毎日が果てしない
大きな川に浮かびゆく
橋げたにつかまりて一息つく

"いつまでもいつまでも
二人でいたい"
あー道端で拗ねたまま
しゃがみこむ日々

街灯が照らしてる
家並みの影重なりて
無表情な夜道に模様入れる

突風よ吹くなかれ
番犬よ眠りにつけ
ぎこちなく木の幹を誰が揺らす?

"いつまでもいつまでも
二人でいたい"
あー道端で拗ねたまま
しゃがみこむ日々

"いつまでもいついつまでも
二人でいたい"
あー道端で拗ねたまま
しゃがみこむ日々

50曲目ごとに日本語曲を取りあげて、歌詞翻訳とは直接関係のない雑感をあれこれ書き綴るのがこのブログのスタイルになっているのだけれど、200曲目の節目として東京少年の「秋の夜長に」という曲を取りあげたのが、ちょうど去年の秋のことだった。あれからもう一年も経ったのかというその早さに驚いているが、気がつけばまたしても秋の夜長である。そしてそんな風に意識してしまったが100年目というやつで、私の中では上記の歌詞がぐるぐる周りだし、止まらなくなっている。こうなってしまったらもう、それについて書く他には「追い出す」方法がない。

しかし今回の記事は、何から書けばいいというのだろう。「決着をつけることができていない」あまりに多くの思いが渦巻いて、全く言葉が出てこない。自分にとってこれだけ「書きにくい」音楽の記事は、初めてだ。

1995年、17歳だった自分が何になりたいと思っていたかといえば、率直に言ってあの頃の私は中川敬になりたいと思っていたのではないかと、今では思う。

でも結局数年を経て「中川敬の選んだ道は自分のめざすところではない」ということを痛感させられるに至り、それとは違う生き方を選んだ結果として、今の私があるのである。あえて言い換えるなら今の私という人間は、「中川敬の否定」の上に成り立っていると言っても、過言でなかったりするのである。

だったらそれこそ自分の全存在をかけて中川敬のことを批判する文章でも書いてみせないことには、「青春に決着をつける」というこのブログのコンセプトからすれば、ウソになると言えるだろう。実際今までもディランの曲やストーンズの曲、ジョンレノンの曲などを取りあげてきた際に、私はかなり意識してそういう文章を書いてきた。だが中川敬という「身近な人」を相手にそういう文章を書くことは、私にとってすごく難しい。

そもそもディランやストーンズが相手である場合、こちらが日本語でどんな悪口雑言を書き連ねたところで、本人たちの目に触れることはまずありえないと言っていい。ジョンレノンに至っては、死んでいる。だからこちらも相手の機嫌を損ねる可能性など一切考えずに好きなことが書けるわけだけど、中川敬という日本のアーティストについて何かを書くとなった場合、この狭い日本語世界のさらに狭いネット世界の内側では、遅かれ早かれ本人の目にも止まってしまうであろうことが、不可避であるように思われる。それを思うと、すごく書きにくい。

さらに私は、中川敬という人のことを今でも別にキライではない。だからあえて「悪口」を書きたいとも思わない。

確かに「昔はあれほど好きだったけど、今では聞かなくなった」という経緯は存在しているわけだが、距離を置くようになった頃のその気持ちというのは、「これ以上追いかけ続けてもガッカリさせられることの方が増えそうな気がするから、キライになってしまう前にこちらから離れる」といった感じのものだった。その意味では「好きでいたかったからこそ」「好きだった頃の思い出を大切にしたかったからこそ」離れることに決めたのだ、と言っていい。

しかしこれを恋人同士の関係に置き換えてみると分かるが、離れて行く方の人間はそんな風に勝手なことが言えても、置き去りにされる側の人間からしてみれば、そんなこと言われてみたって、うれしくも何ともないに決まっている。「昔のことなんてどうだっていいから、今の自分を愛してくれ」と誰だって思うはずである。ミュージシャンであれそうでない人であれ、生きている人間にとっては「今」が全てなのだ。その「今」を否定されることは、その人にとっては「死ね」と言われるのと同じ意味を持つ。私自身、そういう否定のされ方をした経験はあるから、その気持ちは痛いほどよく分かる。

それにも関わらず「私は今の中川敬を愛していない」ということを、あえて言葉にする必要があるのだろうか。あるとすればそれは「私が私として生きるため」に「必要」なのである。そのことは、分かっている。しかし、じゃあ、「彼氏と違う生き方」を選んだ自分の側には、果たして他人の生き方やら行き方やらをあれこれ批評できるような何があるのだという話に、結局なる。

要するに、書くべきことがまとまらないのである。それはつまるところ、私という人間の生き方や行き方がいまだに「まとまって」いないことを意味しているのだ。

その意味で中川敬というミュージシャンは、初めて知ってから20年以上たった現在に至っても、いぜん私にとって「鏡」のような存在であり続けているのだなということに、今さらのように、気づかされている。

…ここまで前置きもなくいろんな言葉を綴ってきたけど、このブログを読んでいる人たちの中で中川敬というミュージシャンの名前、そしてニューエストモデルというかつて存在したバンドの名前は、果たしてどれくらい知られているのだろうかと思う。まして冒頭に歌詞を貼った「秋の夜長」という曲なんて、知らない人の方が多いに決まっている。絶対ないだろうなと思いながらYouTubeを検索してみたら、あにはからんや、動画が見つかった。私も一度も見たことがなかった、一時間近いライブ映像だ。「秋の夜長」はその6曲目、24:30のところから始まるのだけど、時間のある方はぜひ冒頭から通しで観て頂ければと思う。10代の頃の私にとって一番「かっこよかった」バンドの、今ではもう二度と見ることのできないフルステージの演奏なのである。


NEWEST MODEL LIVE

…今になって観直してみて、これほど「密度の高い音楽」をやっていた人たちがどこにいただろうか、と改めて思う。音の密度と言葉の密度、両方においてである。そして自分自身が元気だった10代の頃には意識させられることがなかったけれど、何よりこれだけのテンションでステージをやりきってしまう「体力」に、今となっては力づくで魅了されてしまう。歌詞のことばっかり書いてるブログなもので、ともすれば忘れがちになってしまうのだけど、やっぱり基本的なところで、音楽というのはフィジカルなものなのだな。

「ニューエスト·モデル(最新型)」というバンド名は、この人たちが「何であろうとしていたか」ということの、すべてを物語っていると思う。このバンドがデビューした時には私はまだ小学生だったので、当然リアルタイムでは知らないのだけど、一番最初のこの人たちは「ハードコア·パンク」をもって任じていた。「ソウル·サバイバーの逆襲」という下の曲は、YouTubeで見つかった中でも最も古い時代に属するものだが、その迫力は既にこの時点で、他の追随を許さないぐらいに圧倒的なものだったと思う。


ソウル·サバイバーの逆襲

だがこの人たちの情熱は「パンクであろうとすること」よりもむしろ常に「自分たちのスタイルを破壊し続けること」に向けられており、その姿勢こそがまさしくパンクだった。(←しゃらくさい表現だ)。下の「乳母車と棺桶」という曲は、上の曲からわずか一年後に発売されたものだが、この時点でもう、「定義しようのない音楽」になっている。「ジャンルの垣根」をものともせず、ソウルやファンク、さらにアイルランド民謡に至るまで、あらゆる音楽をこの人たちは自分の中に取り込み、「自分だけの音楽」に変えていった。世界中の音楽の要素が含まれているにも関わらず、一方でこの人たちの音楽は極めてローカルなもので、あえて言うなら「関西的」だった。同じ近畿地方で生まれ育った私の耳には、「国籍不明」なかれらの楽曲の至るところに「吉本新喜劇」のオープニング曲や「素人名人会」の鐘の音がこだましているのが感じられたし、その意味で全ての楽曲が「なつかしさ」を感じさせてくれるものでもあった。私の思い出の中でこのバンドが他の追随を許さないぐらい「特別なもの」であり続けているのは、そのことによっているのだと思う。


乳母車と棺桶

同時期の大阪では「メスカリン·ドライブ」という女性中心のバンドが活躍しており、ニューエスト·モデルはこのグループと至る所で活動を共にするようになって、1993年には両者が合体·融合し、「ソウルフラワーユニオン」という名前のバンドが成立する。私がこの人たちのことを知るようになったのはその直後のことであり、ニューエスト/メスカリンというそれぞれのバンド名は、その時には既に「伝説の中にしか存在しない名前」になっていた。YouTubeを探してみると、デビュー前のメスカリンドライブがディランの「Absolutely Sweet Marie」をカバーしている奇跡のような動画が見つかったが、この頃の内海洋子さんが歌う姿は、パティ·スミスを見るようだ。この人は後年、真心ブラザーズの「サマーヌード」などの楽曲で一度聞いたら絶対に忘れられないコーラスを残したりもしているので、名前は知らなくても声だけは知っているという人は、すごく多いのではないかと思う。


乳母車と棺桶

その奥でギターを弾いている伊丹英子という人が、また、すごい歌を書く人だった。(過去形で書くのもあれなのだけど)。昔の私が一番好きだったメスカリンの曲の動画も上がっていたので、再生回数的にいつ消されてしまうか心許ないのだが、貼りつけておきたい。今回の記事を書くためにいろいろ調べていて一番驚いたのは、私がソウルフラワーを聞かなくなってからしばらくして、この伊丹英子さんがアイルランドの音楽界で知らない人がいないぐらい有名なプロデューサーであるドーナル·ラニー氏と結婚し、沖縄で暮らしていたらしいという事実だった。その後別れたらしいのだけどそれにとどまらずこのドーナル·ラニーという人はシネイド·オコーナーさんとも付き合った上で一子を設け、さらにその以前にはあのシャロン·シャノンさんとも付き合っていたらしいという、知りたくもなかったことまで知る羽目になってしまった。ちきしょおドーナル·ラニー。今まではひたすらその業績を尊敬するだけだったけど、少しだけ、キライになっちゃったからな。


Blood Go Round

私がソウルフラワーユニオンと出会った1994年という年は、中川敬という人の「過激さ」がその鋭さのピークを迎えていた瞬間だったのではないかと、今にしてみれば思う。世界のあらゆる音楽を「取り込み」つくしたかれらは、その当時は「日本人である自分たち」の存在そのものを突きつめて食い破るような、そういう活動を展開していた。日本の古い歌謡曲はもとより、沖縄の音楽やアイヌの音楽にも接近し、いわゆる「土俗的」な要素や歴史的な要素の全てを自分たちの内側に「取り込んだ」その上で、世界中に引かれたあらゆる国境線の存在を無化してしまうような、本当に「新しくて普遍的なもの」を作り出そうとしているように感じられた。もはやそれは「音楽の領域」に自己完結してしまうような内容を越えて、「ソウルフラワー運動」とでも呼ぶしかないような、ひとつのムーブメントを形成していた。その迫力に私は畏怖をおぼえたし、この人たちの音楽は、そしてそれを聞いている自分自身の人生はどこに向かってゆくのだろうということに、ひたすら興奮を感じていた。

だがその翌年になって間もなく、あの阪神·淡路大震災が発生する。私が住んでいた奈良市では震度4の揺れが2回起こっただけで、ほとんど被害には見舞われなかった。けれども大阪を隔てた向こう側の神戸の地を襲った大惨事は、全く「他人事」ではなかった。何千人もの人々が自分の眼の前で死んでゆくという、私も私の両親もさらに言うなら中川敬も、第二次大戦後に生まれた人間の誰もが一度も経験したことのなかった悲劇が、あの時初めて起こったのだ。当時の関西地方に住んでいた誰にとっても、あの地震は「人生を変える体験」だったはずだと思う。

ソウルフラワーユニオンはその時、電気なしでも演奏できる楽器をかき集めて被災地に「歌」を届けに行くという、他の誰もやらなかった「ボランティア活動」を展開した。当初はメンバーの人たち自身、「帰れ」と言われるのではないかという風に自問しつつも、「何かせずにはいられない」という気持ちで始めた活動だったのだという。けれども始めてみれば、生きるために「歌」を必要としていたのは被災地の人たち自身だったから、その活動は熱く受け入れられた。もとより私自身は現場にいたわけではないから、見てきたようなことなど書けない。けれどもいろんなライブ会場で聞いた話や、印刷された文章の言葉を通じて、そのエピソードのひとつひとつには素直に感動させられた。そしてそこでの多くの出会いや経験は、ソウルフラワーユニオンの人たちの音楽や人生をも大きく変え、震災の一ヶ月後には中川敬氏とHEATWAVEの山口洋氏の共作で、「満月の夕」という曲が誕生する。今でも多くの人によって歌い継がれている、有名な歌である。


満月の夕

それなのに。と言うべきだろうか。ソウルフラワーユニオンというバンドが展開する活動に対し、「本当にそれでいいのだろうか」という疑問を私がおぼえるようになったのは、まさにその「震災後」のことだったのだ。

私が今でも中川敬というミュージシャンから受け継いでいるものがあるとすれば、それは「自分自身に突っ込みを入れ続ける作風」なのではないかと思う。このブログに自分が書き綴ってきた文章をいろいろ読み直してみても、ニューエストモデルの楽曲からの影響というものを、イヤになるくらい感じる。ニューエスト時代のあの人というのは、「自分に妥協すること」を絶対にしない人だった。自分の中にあるどんな小さな欺瞞の要素をも、抉り出して歌詞にして叩きつけずにはおかない人だった。そしてその厳しさと鋭さが、自分を抑圧する世間や社会に対する圧倒的な「反撃力」を生み出していたのではないかという風に、今になってみると、思う。

けれどもあの震災以降の中川敬という人は、一介の高校生の目から見ても明らかに、「丸くなって」しまったのである。それが私が、あの人に対して「違和感」を感じるようになった最初だった。

…私はものすごく「勝手なこと」を言っているのかもしれない。「丸くなる」のはそもそも「いいこと」なのではないのか。高校時代から私は何度もそんな風に自問してきた。けれども「怒るべき対象」がほとんど見当たらなかった90年代前半、「叛逆の歌」が影を潜め、「ヤンキー」さえ既に絶滅して久しいと言われていたあの時代にあって、ほとんど一人であれだけの毒と怒りを撒き散らしていた人が、戦後日本が蓄積してきたさまざまな社会矛盾が一挙に露呈するキッカケとなったあの震災を境にパタッと「怒るのをやめてしまう」なんて、そんなことがあっていいものなのだろうかと思ったのだ。

震災を境にして、ソウルフラワーユニオンというバンドはそれまで以上に「社会派」的な色彩を強めても行くのだけれど、自分自身のことに対してはあれだけ「過激」になれた中川敬という人が、いざ具体的に社会をどう変えるのかということが問題になってみると「みんなで選挙に行って投票しよう」的な学校教育と何も変わらない言葉しか口にしない/できないということにも、大いに当惑させられた。私は子どもの頃から「多数決」というもの全般を、憎悪しながら生きてきたと言っていい。「どうせ多数派にはなれない生き方」しかしてこなかったし、できなかったからである。もしも世の中が「多数決」によって軍隊と戦争の存在を正当化するような社会に変わってしまったら、私は「法に逆らう反逆者」として生きる他に道はないのだし、ミュージシャンというのは誰でもそういう存在なのではないかと思っていた。そのミュージシャンともあろう人が、「多数決に自らの将来を委ねる発言」をしてしまっても、いいものなのだろうかと思ったのである。

もとより、「多数決の暴力」に手を拱いて何も反撃しないなどというのは、論外だ。悪い政治家が選挙に出ようとしたならそいつのことを「落とす」努力が必要だし、「自分たちの候補」を立てて応援する努力も必要だろう。だが「政治」というのは果たして「それがすべて」なのだろうか。むしろ選挙の結果や多数決の結果がどうなろうともブレることのない「生き方の芯」みたいなものを聞き手に示し、手渡してくれるのがミュージシャンの役割というものなのではないだろうか。当時の私はミュージシャンという存在にそうしたものを求めていたし、また自分自身が「そういうミュージシャン」になることを夢見ていたのだと思う。けれども「いざ」となった時に、「そういうミュージシャン」は実際にはどこにも存在しなかった。私にとって「最後のアイドル」だった中川敬という人も、「そういうミュージシャン」ではありえなかった。

そのことを悟った時に、おそらく私は「音楽そのもの」に対する「幻想」を捨て去ることを迫られたのだと思う。そして実際、その後の私は「音楽を捨てる」生き方を選択することになる。

阪神大震災が起こった時に、ソウルフラワーユニオンの人たちの一人一人に突きつけられたのは、「自分たちが今までやってきたのは何だったのか」「こんな悲惨なことが起こっている時に『音楽を続ける』ということに、果たして何の意味があるのか」という、根源的な問いだったのではないかと思う。それは「ミュージシャン」に対してだけ突きつけられた問いではない。あらゆる立場のあらゆる人々が、「これからどう生きるのか」「何のために生きるのか」「なぜ生きるのか」という、根源的な問いを突きつけられずにはおかなかったはずだと思う。そしてその「問い」は、日本社会が「3·11」を経験し、さらにこの2018年に入ってからだけでも数えきれないぐらいの災害が常態化するようになってしまった今現在、ますます多くの人にとって「切実な問い」になっているに違いない。

1995年のソウルフラワーユニオンはあの被災地ライブを敢行することで、その「問い」に自分たちなりの「答え」を出したのだ。そしてそのことが、あの人たちにとっては「音楽を続ける新たな理由」を形成してゆくことにもなったのだと思う。その延長線上に、「今のあの人たち」が存在している。

けれどももしも「同じ問い」が自分自身に突きつけられた時、「自分には音楽がある」みたいな「しがみつき方」をしてしまったら、それは絶対「問いからの逃避」にしかならないだろうということを、私自身は自覚していた。「自分には音楽しかない」みたいな言い方をしてみても、同じことである。そんなのは、政治や災害の暴力的な力によって「しがみつくべき対象」を奪われてしまった人たちが大勢いる中にあって、自分だけが「しがみつくことができる何か」を確保していることを正当化し居直るための、言葉のトリックでしかない。

あくまで私だったら、という話である。ソウルフラワーの人たちのやっていたことまでが「逃げ」だったのだといったような、ケチのつけ方をする気はない。あの人たちは被災地に受けいれられたし、被災地にとって必要な存在にもなった。立派なことをやったのだ。けれどもそういうグループは「一組だけ」いればそれで充分だった。自分自身が「心から踊る」ことのできない人間になってしまった以上は、その音楽にいくらしがみつき続けていたいと思っても、欺瞞にしかならないことを私は自覚していた。だから「別の道」を選ぶしかなかったし、音楽そのものからも距離を置くことになったのだ。

そして「別の道」を選ぶことになったその結果として、あの人たちが音楽を続けることを選んだことで何を「失わねばならなかった」のかということが、イヤでも目に入るようになった。一言で言うならそれは「怒り」だったと思う。「人々を笑顔にさせる生き方」を選択した以上、「怒り」を前面に出すことができなくなるのは、当然のことだ。けれども「怒るべき時に怒ること」を忘れてしまえば、そのことは最後には結局すべての人々から笑顔を奪ってしまう結果しか、もたらさないはずなのである。

21世紀になってからのソウルフラワーユニオンの楽曲を、YouTubeでいくつか聞いてみた。中川敬の諧謔精神は、健在だと思った。とりわけ石原慎太郎を揶揄った下記のような歌は、あの人だからこそ書ける歌だと思ったし、こんな歌をもっと聞いてみたいとも思った。


Noと言える男

けれども諧謔精神というものが「力」を持ちうるのは、大多数の人々の生活に「余裕」があるような時代に、限られているのではないだろうか。思えばこの人の書く歌詞にはニューエスト時代から「笑い飛ばす」という言葉がめちゃめちゃ多かった。中川敬という人にとっては「笑い飛ばす」ということが「現実」に対する最後の「結論」であり、「方針」なのであって、その姿勢は基本的に現在でも変わっていないのだと思う。しかしながら、天災がもたらす悲劇に対してはそういう「振っ切り方」もありうるかもしれないが、今の時代、これから起ころうとしている「悲劇」は、ハッキリ言って「戦争」なのである。「笑い飛ばす」などということが、果たしてできるものだろうか。できる人間がいるとしたら、果たしてそいつは何様なのだろうか。

私はこの自分のブログに、ニヒリスティックな言葉だけは死んでも綴りたいと思わない。憲法が変えられて戦争が合法化されるような時代が目前に迫っているというのなら、全力でそれを「止めればいい」のである。本気でそう思っているのであれば、「もし止められなければ」的な「泣き言」も、本当ならば絶対言葉にしてはいけないはずだと思っている。過去の戦争を居直り、原発事故をオリンピックでごまかし、差別主義と排外主義で人々に殺し合いをさせることを通して自分たちだけが「生き延びる」ことを夢想しているこの日本という国家の支配者たちとの、これは「戦い」なのだ。戦いの最中に弱音を吐いたら、敵を喜ばせることにしかならない。だからそんな言葉は意地でも綴らない。

けれどもこれだけは明らかにしておかねばならないと思っていることとして、もしも自分たちの「戦い」が力及ばず、この国の支配者たちに再び戦争への道に舵を切らせてしまうようなことを許したならば、その時には「音楽について語ること」の一切を止めようと私は決めている。それについては今までにこのブログで何度何度何度何度も触れてきた通りである。自分が今まで命の次に大切にしてきたもの、場合によっては命よりもっと大切にしてきたものの全てを「賭ける」決意を持ってのぞまないことには、「戦い」は「戦い」にさえならないことだろう。私が「自分の青春に決着をつける」ということをテーマにこのブログを書き続けているのは、そうした時代の到来を控えて自分自身の「逃げ道」を断ち切っておくための、準備作業に他ならない。

そして私をそういう人間に育ててくれた日本の年長のミュージシャン諸氏には、せめてそれぐらい「必死」になって差別と戦争に抵抗する姿勢を見せてほしいものだと心から思う。もしもそれぐらい時代がのっぴきならない状況を迎えた時に、「抵抗すること」より「自分がミュージシャンであり続けること」を優先する人間たちの姿をこれ以上見せつけられねばならないようであれば、その時こそ私は音楽というものに本当に見切りをつけるしかなくなってしまうことだろう。

いわゆる「メッセージ性の高い歌」よりも、中川敬という人が作る歌の中で私が本当に好きだったのは、いつも叙情的な作品だった。とりわけ冒頭に紹介させてもらった「秋の夜長」という歌は、自分自身の青春の思い出の甘酸っぱさみたいなものとも相まって、オトナになってからも繰り返し聞き続けてきた数少ない曲のひとつになっている。

けれども戦争の時代の再来を許したら、そんな思い出さえ「唾棄すべき記憶」に変わってしまうのだ。後の時代の人たちは「命がけで戦争に反対すべき時に、こんな歌にウツツを抜かして現実逃避に浸ってやがったのか」と私たちのことを責めるに決まっているのだし、それに対して私は一言も返せないだろうということが、今から分かっている。確かに、まだ言われてはいないけど、その通りなのである。こんな歌は、しょーもないのだ。

しょーもないのだ。

しょーもないのだ!

…などという「結論」を受け入れなければならないような未来に、私は生きたいとは思わない。未来というのは今からだって、本当ならいくらでも「変えてゆく」ことができるはずのものなのだ。こんなセンチメンタルな歌が好きで好きで仕方なかったという過去の歴史も、それが「恥」に変わるか「誇り」に変わるかということは、結局「これからの自分がどう生きるのか」ということによってしか、決まらないのである。

私は、「誇るに足りる人生」を送ってゆきたいと思う。だからそんな私にかけがえのない無数の思い出を与えてくれた中川敬さんという人に対しても、「誇るに足りる人生」を全うして頂かれんことを、心から祈念している。

…結局、最初に思っていたことの半分も書けなかった気がするな。

ラストワルツ特集も完結し、ここに450曲目という新たな節目を迎えることができました。みなさんのご愛読に感謝します。

ではまたいずれ。