華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Shelter From the Storm もしくは 大いなるパーンは死せり (1975. Bob Dylan)

血を吐くような辛いもうひとつの世
泥んこ道の旅はなお続きゆく
追われ逃れる俺を彼女は招く
嵐からの隠れ家へ

焼けつくような道で息を切らして
集中豪雨の荒地 藪にかぶれた
ある田畑
(でんぱた)の縁で踏みにじられた
嵐からの隠れ家へ

二人の間の壁と消えゆく史実
何の変哲もない日々の中
思い起こしてみろよいつもの朝を
嵐からの隠れ家へ

開拓者たちは酷い独善の道を行く
神に祈る人は乗用馬に乗る
葬儀屋たちは無駄な演奏をする
嵐からの隠れ家へ

生まれて間もない赤子 鳩のように泣く
歯の欠け落ちた老婆 立往生する
縋れるはずの「家」は朽ち果て落ちた
嵐からの隠れ家へ

丘の上の村で裁きを受けた
純真さだけが俺の最後の弁護人
死の一服を盛れど彼女は招く
嵐からの隠れ家へ

国境線から遠い異国の地にいる
時代の軸から遠い刃を歩く
生まれて間もない「神」と彼女が住まう
嵐からの隠れ家へ


=日本語詞:中川敬 1993年=


Soulflower Union '94

「訳詞家」という職業名があるのかどうかということはともかく、私が日頃から尊敬してやまないその分野における先達として、今までこのブログで名前を挙げさせてもらってきた方々には、片桐ユズルさん、岩谷時子さん、伊藤比呂美さんがいる。けれども私が今までの人生で一番「震えた」翻訳といえば、ボブ·ディランの「Shelter From the Storm」にニューエスト時代の中川敬がつけた上記の日本語詞であり、かつまたその演奏だった。これまた絶対動画は見つからないだろうと思ったけれど、奇跡のように見つかったので、貼りつけておきたい。33分30秒のライブ動画の最後の曲で、29:55くらいから始まるのだけど、メガネ姿の実直そうな山口洋氏もギターで参加したりしていて、感慨深い。けれどもアルバム「カウンター·センサーシップ」に入っていたバージョンはもっともっと良かったので、20年前の私と同じ感動を味わいたい方は、ぜひ探して聞いてみることをお奨めしたい。

冒頭に飾らせてもらったイラストは、このかんしばしば登場して頂いている葉踏舎管理人のマリノさんの作品なのだけど、それを見た瞬間、上記の歌詞の終わりに出てくる「生まれて間もない神」というフレーズが頭の中を回りだして止まらなくなったことが、今回この歌を取りあげてみることを思い立つキッカケになった。



マリノさんの説明によるならば、この絵はギリシャ神話に登場する「牧神」パーンなのだという。

ティベリウス帝の時代、と言うから、ちょうどイエス·キリストが生まれて、30年生きて、十字架にかけられて死んだと伝えられている紀元一世紀のことだ。タムスという名前のエジプト人が舵取りをつとめる客船が、イオニア海をイタリアへ向かっていた。と、ある夜、パクソスという島の沖合で急に風が止まって船が動かなくなり、どこからか

タムス!

と呼ばわる「声」が聞こえた。乗客は何が何だか分からず怯えていたが、三度目の呼びかけにタムスが自ら答えると、

パロデス辺りに至りなば、伝えるべし、
「大いなるパーンは死せり!」と

という「声」が響きわたり、それきり、何も聞こえなくなった。船上は恐慌状態におちいるが、タムスは舵取りとして、パロデスあたりに着いてもやはり同様に風が止まってしまうようであれば、「声」の指示に従おうという決断をくだす。

そしてそこまで船を進めると、案の定、凪になっていたので、タムスは「声」に言われた通り、船尾からパロデスの岸辺に向かって

「大いなるパーンは死せり!」

と叫んだ。するとたちまち「あたりに一人のではない大勢の、驚嘆とない交ぜになった大きな慟哭が響き渡った」のだという。

この事件はたちまちローマ中に知れ渡り、ティベリウス帝が自らタムスを引見して、家来たちに「パーン」について調査·研究することを命じたとのことだが、特に後日談が伝わっているわけではない。以上はプルタルコスの著作「モラリア」の、「神託の衰微について」と題する文章の中に綴られた記録である。

謎めいたこの伝承は後年、「半獣神」であるパーンの崇拝に象徴される「神話の時代」が終わりを告げ、「キリスト教の時代」が開始されたことを印象づけるエピソードとして、多くの作家や思想家が好んで取りあげるモチーフとなってゆくのだが、それにしても不可解な部分が多すぎる。そもそも「大いなるパーンは死せり」というのは「誰」から発せられたメッセージだったのか。そしてそれを受け取って「慟哭した」と伝えられている「姿の見えない者たち」というのは、一体何者だったのか。

ところでギリシャ神話にはパーンよりももう少し「人間寄り」の存在として、「サテュロス」と呼ばれる半人半獣の「種族」が登場する。マリノさんという人は数年前からこのサテュロスばかりを集中的に描いている絵描きさんで、理由は「かわいいから」らしい。確かにこの人の描くサテュロスはとても可愛らしいのだけど、伝承の中のサテュロスというのは実際には少しもかわいくない。むしろかなり、むくつけき外見をしている。




来る日も来る日もサテュロスの絵を描いてきたマリノさんは、考える。サテュロスたちにとってはパーンこそが「神」だったはずなのだ。その「神」に「死なれて」しまったサテュロスたちは、それから一体どうしてしまったのだろうか。そんな問いから始まったのが、先頃までTumblrで連載されていたマンガ、「街の葉踏者」だった。以下、あらすじを転載させて頂きたい。

ずっと昔、もう誰も覚えてないくらい昔、ひとつの声が響きました。
『大いなるパーンは死せり!』
森に暮らしていたサテュロスたちは悲鳴を上げました。パーンは彼らの神でした。たったひとことで、彼らは友を、思い出を、ふるさとを失いました。
彼らのうちのほとんどが、このときかなしみのあまり死にました。

何もかも忘れるくらい時間がたちました。
どうやってこんなところに来たかは忘れましたが、ここは人間がたくさん住んでいる街です。
サテュロスたちは飢えに苦しんでいました。暑さ寒さにも苦しんでいました。病気にも苦しんでいました。それらどれとも違う、漠然とした不安も常につきまとっていました。
彼らは死ぬことができなくなっているようでした。しかし気づいたところでどうしようもありませんでした。

…そんな前置きがあった後、セリフのひとつも出てこないマンガである「街の葉踏者」上に淡々と展開されるのは、人間たちのつくった街でこう言っちゃあ何だけど「野良」的に生きる、サテュロスたちの日常である。だが、「野良」ではあってもかれらは人間と同じく、「感じる心」を持った生きものなのだ。その瞳を通して描かれた世界の一コマ一コマは、詩情に満ちている。




かれらはどこから来て、どこへ行く存在なのか。かれらにとって「友」であり「思い出」であり「ふるさと」だったパーンとは、どういう存在だったのか。パーンは「神」だったはずなのに、なぜ「死んだ」のか。「大いなるパーンは死せり」という「声」から今のかれらの日常が始まったのだとすれば、それは誰が何のために発した「宣言」だったのだろうか。

マリノさんは推理する。(「想像」という言葉は使いたくない。ひょっとしてそれは全部「本当の話」なのかもしれないからである)。「大いなるパーンは死せり」という「声」を発したその主は、もしかしたら実は「パーン本人」だったのではないだろうか。「神」が死んだら世界のすべては終わってしまうはずなのに、サテュロスたちの日常は終わっていない。それは自らの「死」を宣言して姿を隠したパーンが、実はどこかで生きていることの証拠なのではないのだろうか。

…「街の葉踏者」それ自体の中には、上述したように一言のセリフも説明も書かれていない。こうした構想や世界観は、マリノさんのブログやツイッターでメモ書き的に明らかにされていた文章を私が勝手に要約したものである。両者を読み比べながら私は、世の中には「使い古された神話」からよくもまあこんなに「新しい物語」を紡ぎ出すことのできる人がいるものだという衝撃に、ひたすら舌を巻いていた。もとより、ここに描かれているのは「サテュロスたち」の物語である。だがそこにつらぬかれているテーマは、われわれ人間を生まれた時からとらえてやまない、「なぜ生きるのか」という根源的な「問い」そのものではないか。「感じる心」を持った人なら誰もが気づかされずにいられないと思うが、ここに描かれている「サテュロスたちの物語」は、とりも直さず「われわれ自身の物語」に他ならないのだ。

とはいえ「それだけの話」なら、言い方はイヤらしいが「アタマで考えて作った話」の領域を一歩も出ないのである。それでは心は動かないし、心が動かなければカラダだって動き出さない。つまるところ読み手は自分の立ち位置から一歩も動くことなく、自分の身を危険にさらすこともなく、作者や登場人物の苦闘に対して好きだキライだと勝手な言葉を投げつけるだけの「評論家の特権」の中に、安住していることができる。それは「特権」であるかのように見えつつ、実はとっても虚しいことでもあるのである。本を読まずにいられない人間、音楽を聞かずにいられない人間というものは、いくら「評論家」ぶってみせても本音の部分ではいつでも「突き動かされること」をこそ、求めているものなのだ。そのためには作品そのものが、受け手の側が身にまとった傲慢さの鎧を破壊してしまわずにはおかないような、ある種の「暴力的な力」を具えている必要がある。ちょうど去年の今頃に私が「ミチコオノ日記」の第14話の笑顔に心を鷲掴みにされてしまったような、あの「力」である。

「街の葉踏者」という作品には、それがあった。約50ページにわたるこのマンガの一番最後の場面で、ひとりのサテュロスの前にパーンが一瞬だけ姿を現し、そして消える。自分が今まで読んできたのが実はとてつもない作品だったのだということを私が思い知らされたのは、まさにその「絵」が目に飛び込んできた瞬間のことだった。




パーンは「少年の姿」をしていたのだ。

たとえ「あらすじ」を読んでいつかはパーンが登場するのだということが頭で分かっていたとしても、そんなことを予想することのできた人間がどこにいただろうか。

そして「神を目にしたと同時にそれを失ってしまった人間(ならざるもの)」の気持ちというものを、こんな形で読み手に追体験させてくれるマンガないし文学作品というものが、今までどこの世界にありえただろうか。



パーンが見せた快活な笑顔の意味、そしてそれを見てしまったサテュロスが浮かべた表情とその涙の意味、それらは一切語られることなく、「街の葉踏者」という作品は唐突にその幕を降ろす。



…続くのだ。この物語は続くのだ。「死んだはずのパーン」の姿を見てしまったサテュロス(たち)の日常は、もはや「これまでと同じ」ではありえない。これからどんな毎日をかれらが送ることになるとしても、その日々はかれらにとって「旅」としての意味を持つことになる。その「同じ旅」の入口に、人間であるわれわれ読者のひとりひとりも、気がつけばいつの間にか、立たされてしまっていたことになる。

だとすれば、そのパーンの姿を初めて見た時に私の頭の中にファンファーレのごとく鳴り響いたのが「嵐からの隠れ家」のイントロだったという事実は、少なくとも私の人生においては、大きな意味を持つことになる。私自身の「新たな旅」の始まりを告げ知らせたのが、私という人間にとっては、「嵐からの隠れ家」という曲だったということになるからである。

だからこの記事では、そのことの意味について考えてみることにしたい。

…ここまでOKでしょうかね。


Shelter From the Storm (Cover)

「嵐からの隠れ場所 (Shelter From the Storm)」は、ディランの75年のアルバム「血の轍 (Blood On The Trucks)」に収録されている、どちらかと言えば、地味な曲である。(ディランの曲がアルバムに収録されているままの形でYouTubeに上がっている例は、極めて少ない。恐らくは上げる人がいても、すぐに消されてしまうのだと思う。なので上に貼りつけたのは、「オリジナルと寸分違わぬカバー」を演奏している無名の人の動画である)。このアルバムにはその冒頭に「ブルーにこんがらがって (Tangled Up In Blue)」という、このブログではまだ未訳のとてつもない名曲が収録されており、曲調も歌詞の内容もそれと重なっている部分がかなり多いため、当初の私はこの「嵐からの隠れ場所」を、「ブルーにこんがらがって」を書きあげるために作られた事前のスケッチみたいな作品だとしか思っていなかった。だから冒頭から華々しいギターが鳴り響くニューエスト·モデルの日本語バージョンを初めて聞いた時には、あんな地味な曲をこんな風に生まれ変わらせてしまう中川敬という人は本当に天才なのではないかと思ってしまったものである。こんな言い回し、前にもどこかで使ったな。


Shelter From the Storm (1976)

そのニューエストモデルのバージョンが、実は1975年から76年にかけての「ローリング·サンダー·レビュー」ツアーでディランとそのバンドが演奏していたこの曲のアレンジをほぼ忠実に再現したものだったのだということを私が知ったのは、これまたネットの時代になって以降のことである。ディラン自身がこんな風に演奏していたのだということが分かってみると、いっそう不思議に思えてくるのは、この曲がたたえている妙に「日本的な雰囲気」だ。とりわけ「てけとんてけとん」と聞こえる三味線みたいなギターの音色に、私はいつも「日本的」なものにしか感じたことがないような、独特の郷愁を覚えてしまう。映像を見る限りディランがこのライブで弾いているのはスライドギターであるようなので、「てけとんてけとん」は明らかに「別の人」が出している音である。動画の最後にクレジットが出てくる、Tボーン·バネットという人が弾いているギターなのだろうか。そしてギターの音が「てけとんてけとん」で聞こえてくると、心なしかドラムの音までが「どどんがどんどん」みたいな形で聞こえ始める。どうしてこの歌は、こんなに「なつかしい」感じがするのだろう。基本的には「生まれ育った土地」と結びついているはずである「なつかしい」という感情が、海や国境を遠く隔てて鳴り響いてくる歌を通して喚び覚まされてしまうというのは、どう説明すればいい現象なのだろう。

理屈から言うならば、この歌が聞く人の心に「郷愁」を喚び起こすのは、それが「かつて自分のものだった世界」「今では自分のものではなくなってしまった世界」そして「これから帰って(あるいは向かって)行こうとしている世界」のことを歌った歌だからだ、ということになるのだと思う。ここに歌われていることそれ自体は、ディランという人の極めて個人的な感情なのかもしれない。けれども自分の中に「そうした世界」を持っている人は、誰でもこの歌の中に「自分自身の物語」を見出さずにはいられない。それが、この歌が「寓話的なスタイル」をとっていることの持つ意味なのだと思う。

この「三つの世界」は「同じ世界」なのかもしれないし、「違う世界」なのかもしれない。その人を流れる時間の中で「同じ世界」が「違った見え方」をしているだけなのかもしれないし、「それぞれ違った世界」が時間的な連続性によってのみ繋ぎ合わされて「ひとつの世界」としての外観を保っているだけにすぎないのかもしれない。(←何を言ってるのか自分でも半分ぐらいしか分からない)。重要なのは、一人の人間にとって「世界」というものが持つ意味は、その人が「何を信じているか」によって変わってくるし、「何も信じることができなくなった人間」には「自分を含めた世界のすべて」が「信じられなくなってしまう」のだという、ある意味で唯物論的と言ってもいいような現実の構造を直視することからしか、何も始まりはしないということを認めることだろう。(←どうも、自分の文章ながら、ごまかしがあるな。少なくともこの部分は「直視する」か「認める」かの「どちらか」だけでいい。でもさしあたり今の私には、こういう書き方しかできない)

つまり人間というものは「何かを信じる」かさもなくば「信じているフリをし続ける」ことを通してしか、生きて行けない仕組みになっている存在なのである。

そして「信じているフリ」でダマしダマしその日を送ってゆくような人生というのは、飽くまで自分の好みとしての話だけど、最低だと私は思う。

だったら、「何も信じることができなくなってしまった人間」は、どうやって生きて行けばいいというのか。しかも「何も信じることができなくなってしまう瞬間」というものは、ほとんどの人間にとってその主観的な願望とは全く無関係に、その人には責任のとりようがないような形で、いきなりかつ暴力的に訪れるのだ。

それこそ「大いなるパーンの死」をある日突然「宣言」されてしまった、サテュロスたちのようにである。

私自身はこのブログを通して何度も何度も必要があるのかと思われるぐらいしつこく繰り返してきたごとく、今まで「神」というものを一度も信じたことのない人間だし、これから先も信じる予定はない。けれども個人的に「信じてきたこと」ならあるし、「信じてきた人」もいる。そういう「信じるに値する何か」のことをさしあたり「神」という一般名詞で比喩的に表現するぐらいのことは、とりあえず受け入れても構わない。私もそろそろいい年なので、そこまでは妥協してあげることに致しましょう。そうしないと、話が進まない。

「嵐からの隠れ場所」ならびに「血の轍」というアルバムは、ディランという人の個人史から言えば、最初の結婚相手のサラさんとの生活が破局に向かいつつあったことを背景に作られた作品だと言われている。この歌の歌詞に何度となく出てくる「She (彼女)」という女性の代名詞は、明らかにサラさんのことを指しているのだと思われる。

ディランは「彼女」の存在に「嵐からの隠れ場所」を求め、さらに「神」としての役割をも求め続けてきた。それなのにそうした関係が成立していた歴史は、失われてしまった。この歌に歌われているのは、そんな風にして「神」を失ってしまったにも関わらずそれでも「生きてゆかねばならない」羽目に陥って、途方に暮れている一人の人間の姿である。同じように「無力な存在」として生きている人間なら「誰でもその気持ちがわかる」ような普遍性が、その歌詞には横たわっている。

けれどもその一方でディランという人は、60年代には「おれのことを神様扱いするのはやめてくれ」という歌ばかり作っていた人間でもあるのである。以前に取りあげた「My Back Pages」という曲や未訳の「悲しきベイブ」といった楽曲には、「そういった苦しみ」がみなぎっている。「天才」だからこそ味合わされることになった苦悩だということもできるだろうが、そんな風に「人から神様扱いされる苦しみ」を知っているのなら、どうして彼氏はサラさんという女性に対して同じように「神様であること」を求めたりするようなことが、できたのだろうか。それはサラさんにとっても苦しいことに違いないことだという風には、思わなかったのだろうか。だからフラれたのではないかとまでは、別に二人のことを何も知ってるわけではないので、書かないのだけど。

つまりディランという人は、マリノさんの作品の世界観に照らした言葉を使うなら、「サテュロス的な側面」と「パーン的な側面」の両方を自分の中に同居させているアーティストなのだということになる。(そう考えてみると60年代に彼氏がバイクの事故で「姿を消した」エピソードまで、「パーンの死」というキーワードとダブって感じられてくる。もとよりそんなことは、こじつけようとすればいくらでもこじつけられるような話でしかないのだけれど)。そしてこのことは、「ディランが特別だから」という話ではない。考えてみればその「両方の側面」は、どんな人間の中にも存在しているはずなのだ。

たとえば「人の親となった人間」は、本人にそういった自覚や願望があろうとなかろうと、その子どもにとっては「神」に等しい存在になる。少なくとも子どもの方では、「勝手に」そう思っている。その責任からは逃げられないし、逃げても必ず追いかけてくる。そういうものとして人間は「神であること」から、基本的に逃れることができない。

一方で人間というものは、「神に近づきたい」「神になりたい」という願望を必ず具えている存在であるようにも思われる。それは一人一人の人間が、自分は一人だけでは不完全で不自由で、無力で何もできない存在であることをイヤというほど自覚しているからである。「不自由」な人間が「自由」を求めること、「無力」な人間が「力」を求めることは、水が高いところから低いところに流れるのと同じくらい、当たり前のことだ。けれどもその願望が「他の人間のことを支配したい」という欲望としての形をとって現れた時、あらゆる悪はそこから生じるのではないかという感じが、私はする。少なくとも人間が他の人間のことをありえないぐらいめちゃめちゃに傷つけるのは、本人にその自覚があろうとなかろうと、必ずその人間が相手の前で「人間」としてではなく「神」として振舞っている時に、発生することなのである。

そしてそうした人間たちは自らの行いを正当化するためにも、より一層強く「神」の存在を求め、その絶対性への服従を深めてゆく。その「服従の深さ」は、かれらが他の人間に対して強要する「服従の深さ」と正比例している。制度化された宗教というものは、どんなものであれそんな風に、人間という存在をとことんまで「みじめ」にし「不幸」にする役割しか、最終的には果たさない。

天皇制の例を引き合いに出すまでもなくである。

ギリシャ神話の時代の神々は、「人間と同じ姿」をしていた。そしてその「神々」がどんなに「自分勝手な振る舞い」をしても、人間たちにはどうすることもできなかった。「オトナ」である神々の意志に逆らったり意見したりするには、「人類」そのものが余りに「幼かった」からなのではないかと思う。

それがキリスト教の時代になり、「神」と「人間」とはハッキリと「切り離された」存在になった。それは「人類の成長過程」と重ねて考えるなら、「親」という存在が「他者」に見え始めた思春期ぐらいの精神状況を反映した、「距離の取り方」であるようにも思われる。

イスラム教をはじめとした他の宗教や、世界の他の地域における様々な精神文化のありようを、余りに乱暴に捨象した立論であることは、自覚している。しかしながら今まで書いてきたようなことを踏まえるならば、「人間の歴史」は「もう一度」、「神」と人間との間に築かれた垣根が取り払われるような方向に向かって、進んでゆくのではないかといったような予感が、私にはある。

それも「人間が神に近づく」といったような形ではなく、むしろ「人間」が「神」の「人間性」を認めるといったような形で、進行してゆくのではないかという予感である。

2018年の初秋にマリノさんという人が世に送り出した「街の葉踏者」は、そんな時代の到来を告げ知らせる、「新しい神話」としての性格を具えた作品なのではないか、と私は感じる。「死んだ」はずのパーンが「姿を現した」以上、今後の物語の中では遅かれ早かれ「パーンの側の事情」が必ず描かれることになるだろう。「オトナの世界」には「オトナの事情」があるのと同じように、「神々の世界」には「神々の事情」があるはずなのであって、ちょっと考えればそのことは、当たり前なのである。けれどもキリスト教の成立以降の人間社会において、そうした「神の側の事情」を人間がおもんぱかることは、タブーの中のタブーとされてきた。「神」は「人間」にとって、「人智を越えた存在」でなければならなかったからである。

だから「神々の側の事情」を描いた物語というのは、近代社会においては、意外なくらいに描かれたことがなかった。描かれるのはいつも、「人間が神に近づこうとする物語」ばかりだった。そんな風に「今まで描かれたことのなかったタイプの物語」が、ネットの片隅から極めて「自然」にフワッと生まれてくることができるようになったというそのこと自体が、大げさな言い方をするならば「人間の歴史」が新たな段階に突入しつつあることのあらわれなのではないかという感じが、私はする。

思えば「ミチコオノ日記」の作者の人が現在「note」で連載中の「月」という作品も、太陽と月の兄妹という「神々の側の事情」が、人間社会と交錯してゆくさまを描いた物語なのである。こうした作品群が同時多発的に私の周囲で生み出されつつあるということ自体、私にとっては偶然でないように感じられるし、こうした作品の世界には間違いなく「私たち自身の未来」が先取りされて映し出されているのだという風にも、感じずにはいられない。

生きてゆくということは不条理なことで、そのこと自体はもう、どうしようもないことなのだ。それでも自分たちがどこに向かって進んでいるのかということが少しでも「見えた」なら、歩き続ける力だけは、失わなくても済むはずだと思う。

だからどの作品もどうかハッピーエンドを迎えてくれますようにと、私は心から祈念してやみません。

…人間が「神」を求めることをやめ、「神であろうとすること」もやめ、自分たち自身のことを「人間」として認めあえるような未来が到来した時に、「街の葉踏者」にも「月」にも引いてはディランの歌にも、初めてハッピーエンドの可能性が開けてくるように私は感じているのだけれど、それ以上のことを書いたら書きすぎというものだろう。「嵐からの隠れ場所」という歌の中にディランが描き出した泥んこ道の旅路から、私たち自身はまだまだちっとも「卒業」できているわけではない。むしろ依然としてその旅は、「始まったばかり」なのである。今回いろんなことを考えさせてくれたその歌詞を改めて「きちんと」翻訳しておくことで、取り留めもなくなってしまったこの記事の締めくくりに代えたいと思う。

それにつけても、この歌がこんな風に聞こえるようになる未来が自分に待っていようとは、初めて聞いた頃には夢にも思っていなかったな。やっぱり人は、出会わなければならないと思う。

Shelter From the Storm

英語原詞はこちら


'Twas in another lifetime,
one of toil and blood
When blackness was a virtue
and the road was full of mud
I came in from the wilderness,
a creature void of form
"Come in," she said
"I'll give you shelter from the storm"

苦役と流血でいろどられた
もうひとつの人生の中にいたときのこと。
暗黒こそが美徳で
路上は泥で満たされていたときのこと。
わたしは荒野からたどりついた
かたちを持たない生きものだった。
「入りなさい」と彼女は言った。
「わたしがあなたの
嵐からの隠れ場所になってあげましょう」


And if I pass this way again,
you can rest assured
I'll always do my best for her,
on that I give my word
In a world of steel-eyed death,
and men who are fighting to be warm
"Come in," she said
"I'll give you shelter from the storm"

そしてわたしがもしもう一度
この道をやり過ごすことにすれば
保証つきのやすらぎを
手にすることができるだろう。
人々がぬくもりを求めて相争う
鋼鉄の瞳をした死の世界において
わたしはいつでも
彼女のためにベストを尽くす。
そのことは請け合ってもいい。
「入りなさい」と彼女は言った。
「わたしがあなたの
嵐からの隠れ場所になってあげましょう」


Not a word was spoke between us,
there was little risk involved
Everything up to that point
had been left unresolved
Try imagining a place
where it's always safe and warm
"Come in," she said
"I'll give you shelter from the storm"

わたしたちの間には話される言葉もなく
危険の介在する余地は
ほとんどなかった。
その一点にかかっていたすべてのことは
未解決のまま残されていた。
いつでも安全であたたかい
そんな場所のことを
思い浮かべてみればいいのだ。
「入りなさい」と彼女は言った。
「わたしがあなたの
嵐からの隠れ場所になってあげましょう」


I was burned out from exhaustion,
buried in the hail
Poisoned in the bushes
an' blown out on the trail
Hunted like a crocodile,
ravaged in the corn
"Come in," she said
"I'll give you shelter from the storm"

わたしは消耗のために燃え尽きて
あられのような罵声の中に
生き埋めにされた。
薮の中で毒にやられて
道なき道から吹き飛ばされた。
ワニのように狩られ
陳腐さの中で略奪を受けた。
「入りなさい」と彼女は言った。
「わたしがあなたの
嵐からの隠れ場所になってあげましょう」


Suddenly I turned around
and she was standin' there
With silver bracelets on her wrists
and flowers in her hair
She walked up to me so gracefully
and took my crown of thorns
"Come in," she said
"I'll give you shelter from the storm"

にわかにわたしが振り向くと
彼女がそこに立っていた。
両手に銀のブレスレット。
髪の毛には花の飾り。
こちらへ優雅に歩み寄り
わたしから荊の冠を
取りのけてくれた。
「入りなさい」と彼女は言った。
「わたしがあなたの
嵐からの隠れ場所になってあげましょう」


Now there's a wall between us,
somethin' there's been lost
I took too much for granted,
got my signals crossed
Just to think that it all began
on an uneventful morn
"Come in," she said
"I'll give you shelter from the storm"

いまではわたしたちの間には
壁があり
そこでは何かがずっと
失われている。
あまりに多くのことをわたしは
当たり前のことだと思い込んでいた。
わたしのために出された信号を
いくつも横切り後にしてきた。
すべてはいつもと変わることのない
ありふれた朝から始まったのだ。
そのことを考えてみるべきだろう。
「入りなさい」と彼女は言った。
「わたしがあなたの
嵐からの隠れ場所になってあげましょう」


Well, the deputy walks on hard nails
and the preacher rides a mount
But nothing really matters much,
it's doom alone that counts
And the one-eyed undertaker,
he blows a futile horn
"Come in," she said
"I'll give you shelter from the storm"

さてその代理人は硬い釘の上を歩き
その説教師は乗り物の背中にまたがる。
しかし本当に問題になるようなことは
ほとんど何もない。
意味を持つのは運命だけだ。
そしてあの一つ目の葬儀屋
彼氏は無益なラッパを吹き鳴らす。
「入りなさい」と彼女は言った。
「わたしがあなたの
嵐からの隠れ場所になってあげましょう」


I've heard newborn babies wailin'
like a mournin' dove
And old men with broken teeth
stranded without love
Do I understand your question,
then, is it hopeless and forlorn?
"Come in," she said
"I'll give you shelter from the storm"

生まれて間もない赤ん坊たちが
悲嘆にくれる鳩のように
泣き叫ぶ声を聞いた。
そして歯の欠け落ちた老人たちが
愛もなく立ち尽くしていた。
あなたが投げた問いの意味をわたしは
分かっていると言えるのだろうか。
分かっていたらいたでそれは
絶望的で孤立無援なことなのだろうか。
「入りなさい」と彼女は言った。
「わたしがあなたの
嵐からの隠れ場所になってあげましょう」


In a little hilltop village, they gambled for my clothes
I bargained for salvation an' they gave me a lethal dose
I offered up my innocence and got repaid with scorn
"Come in," she said
"I'll give you shelter from the storm"

丘の上の小さな村でかれらは
わたしの衣服をめぐって賭けをした。
わたしが求めたのは救済だったが
かれらがよこしたものは致死量だった。
わたしは純真さを捧げ
そしてあざけりで報いられた。
「入りなさい」と彼女は言った。
「わたしがあなたの
嵐からの隠れ場所になってあげましょう」


Well, I'm livin' in a foreign country but I'm bound to cross the line
Beauty walks a razor's edge, someday I'll make it mine
If I could only turn back the clock to when God and her were born
"Come in," she said
"I'll give you shelter from the storm"

いまやわたしは
よその国の住人になっているが
いずれは国境線を
越える運命になっている。
美は刃の上を歩く。
いつの日かそれをわたしは
自分のものにすることだろう。
もしもわたしが時計の針を
神と彼女が生まれたその時にまで
巻き戻すことができたならと思う。
「入りなさい」と彼女は言っただった。
「わたしがあなたの
嵐からの隠れ場所になってあげましょう」

=翻訳をめぐって=

'Twas in another lifetime

「'Twas」=「It was」。「Another lifetime」は直訳すると「もうひとつの一生涯」となるが、「Another」という単語からはその「人生」が「過去の一時期」のことを言っているわけではなく、むしろ「今ある人生」と平行的に存在する「別世界の人生」のことが歌われているような印象が伝わってくる。ディラン自身はこの「血の轍」に収録された全ての作品について、

「歌は時間と決別している。太陽の光を虫眼鏡で集めるように、焦点を明確にする為に時間の概念を一切、排除した」

と発言しているらしい。(孫引きにつき出典不明)。つまりこの歌において「時間的な距離感」はすべて「空間的な距離感」として表現されているのだとも解釈できるし、また「この歌に表現されている世界」そのものが「他にも存在する無数の世界の中のひとつで起こっていること」の表現に「すぎない」のだということを暗示する構成になっているようにも思える。

I came in from the wilderness,
a creature void of form

片桐ユズルさん訳は「私が荒野から/形のない生物から逃れて来ると」となっているのだけれど、ここはディラン自身が「私は形を持たない生きものだった」と述懐しているのだと解釈した方が、真意に近いのではないかと思う。片桐さん訳のような内容のことを言いたいのだとしたら文法的にももっと違った言い方になるはずだと思うし、「彼女」と出会うことを通じて自分の存在に初めて「意味」が生まれたという趣旨のことが歌われていると解釈した方が、文脈的にもしっくり来るような感じがするのである。知らんのやけど。

"I'll give you shelter from the storm"

直訳は「私があなたに嵐からの隠れ場所をあげましょう」なのだが、それを「私があなたの嵐からの隠れ場所になってあげましょう」と解釈し直すぐらいのことは、意訳の範囲としてギリギリ許容されるのではないかと思う。ディランが「求めて」いるのは「嵐からの隠れ場所」それ自体ではなく、明らかに「彼女自身」だからである。

そしてディランにとって重要なことは、「自分がそれを求めた」ということではなく「彼女が自分からそう言った」ということなのだ。だからディランには自分のことが「裏切られた被害者」にしか思えなくなっているし、同時に「自分の側に責任はない」という「事実」に唯一の「なぐさめ」を見出そうとしているようにも感じられる。私にはそのことをどうこう言える資格も中身もない。「気持ちは分かる」ぐらいのことしか言いようがない。ただ、「ずっとそうしていること」はできないはずである。ディランにも聞き手にも。

以前にこのブログで取りあげたC.C.R.の「Who'll Stop The Rain」という曲の中には、この曲と全く同じ「shelter from the storm」という歌詞が登場する。私はずっと、ディランの歌からC.C.R.がインスピレーションを受け取ったのだろうと思っていたのだけれど、今回調べてみて実はC.C.R.の歌からディランがこの曲の着想を得たというのが真相だったことが分かった。C.C.R.びいきの私としては、「やったぜフォガティ」という感じがしている。

And if I pass this way again, you can rest assured

直訳は「そしてもし私がこの道をもう一度通り過ぎれば、あなたは保証された状態で休むことができるだろう」。かなり、その意を計りかねる歌詞である。この歌が「私」と「彼女」のことを歌った歌であることは明らかだが、「you」というのは誰のことを指しているのだろう。英語では「誰だって〜できる」という「一般論」を言いたい時に「you」が主語になる場合があるので、その線で解釈したが、自信があるわけではない。

さらによく分からないのは、「pass」という動詞をどう解釈するかである。「pass」は「通過する」「追い越す」等々を意味する単語だが、普通に「その道を行く」と言いたい時は「go」を使うはずだと思う。そこにあえて「pass」を使うのは、ボールをパスするとか順番をパスするとか言う時と同じように、「その道」がディランにとって「できれば避けて通りたい道」であることを言い表したいからなのだと思われる。

そしてそんな風にディランは「その道を行くこと」に消極的であるらしいとした上で、分からないのは「行きたくないけど避けて通れない道だから意を決して行く」という気持ちが歌われているのか、それとも「その道を行くのは妥協して楽な道を選ぶことになるから本当はイヤなのだけど他にどうしようもないから渋々行く」という気持ちが歌われているのかということだ。どうも「pass」という語感は後者っぽいのでとりあえず後者で訳したが、正直言って、自信が持てない。この「pass」に込められた気持ちをどう理解するかで、後に続く歌詞の意味は全く変わってきてしまうので、ここをハッキリさせられずにいることは、私にとって非常に心もとない。後者で解釈した場合、「前と同じ道を行くことは自分にとって妥協になってしまうので、今の自分にはやはりもう彼女と一緒にいることができない」という気持ちが逆説的に歌われているように読める幅も出てくると思うのだが、誰か鮮やかに解説できる方がいたら、教えてください。

In a world of steel-eyed death,
and men who are fighting to be warm

上述のC.C.R.の「Who'll Stop The Rain」には、「The crowd had rushed together, Tryin' to keep warm」というこれまた全く同じ歌詞が登場するが、C.C.R.の歌詞では「人々が暖かさを求めて身を寄せ合う」さまが描かれているのに対し、ディランの歌詞では「人々が暖かさを求めて相争う」ことになっている。「暖かさを求めて身を寄せ合う」ことが「争い」になってしまうことの例として、海外サイトでは「ハリネズミのジレンマ」の比喩が紹介されていた。

Not a word was spoke between us,

「一言も会話のない冷えきった関係」が歌われているのかと思ったが、文脈的には「言葉なんて何もなくても分かり合えていた過去の信頼関係」への郷愁が歌われているのだと思う。

I was burned out from exhaustion,
buried in the hail
Poisoned in the bushes
an' blown out on the trail
Hunted like a crocodile,
ravaged in the corn

…疲れてきたのでカタマリで読解します。ここに列挙された「苦しみのオンパレード」に、ディラン自身の「怒濤の60年代」の記憶が反映されていることは、言をまたない。

「hail」の意味は「ひょう/あられ」だが、悪口や銃弾が「雨のように」飛んでくる場合にも使われる。両方の意味で翻訳した。

ここの歌詞に唐突に「ワニ」が出てくることについて、エジプト神話の「アメミット」というワニの格好をした幻獣との関係を考察した文章を海外サイトで見つけたが、読んでも意味が分からなかった。

「corn」は「穀物」を意味する言葉だが、「陳腐なさま」を言い表す時にも使われる。ここでは後者で翻訳した。

Well, the deputy walks on hard nails
and the preacher rides a mount
But nothing really matters much,
it's doom alone that counts
And the one-eyed undertaker,
he blows a futile horn

「deputy」の直訳は「代理人」だが、具体的には「法律の代理人」としての「副保安官」などを指しており、そういう人は普通、偉そうに馬に乗っている。一方で「preacher」は「キリスト教の説教師」であり、神への忠誠を示すために釘の上を歩いてみせたりするのだが、ここでは両者の役割が逆になっている。つまり自分が生きているのはそれぐらいデタラメな世の中なのだ、ということをディランは言っている。

さらに「one-eyed undertaker」について。「説教師」が出てきたことの連想から「葬儀屋(undertaker)」が出てきたのだと思うが、同時に「one-eyed (一つ目)」というフレーズは「男性器」の隠語として使われる場合もあるのだという。確かに、まあ、見たことのある人もない人もいるだろうけど、ある角度から見た男性器は一つ目小僧が瞑目しているような「顔」に見えないこともないのだが、それにしても、えぐい言い方だと思う。それと「葬儀屋」を「くっつける」こと自体が、その職業の人に対する「さげすみ」を示しているようで、好きになれない歌詞である。

I've heard newborn babies wailin'
like a mournin' dove
And old men with broken teeth
stranded without love
Do I understand your question,
then, is it hopeless and forlorn?

産まれたばかりの子どもと寄る辺のない老人は、この世で最も「無力で悲しい存在」だが、今のディランのおかれた状態はもっと「無力で悲しい」のだというのが海外サイトの説明だった。しかし「歯の欠け落ちた老人」という表現自体が老人に対する「さげすみ」に満ちており、それを「自分のみじめさ」の比喩表現に使うなんて、ふざけた話だと思う。このことは中川敬が書いた日本語詞に関しても、同様である。

In a little hilltop village, they gambled for my clothes
I bargained for salvation an' they gave me a lethal dose
I offered up my innocence and got repaid with scorn

ディランが自分のことをキリストになぞらえた「いい気な」歌詞。イエスが十字架にかけられた時に着ていた衣服は、くじ引きで勝った男のものになったという伝承が「聖書」にある。「hilltop village (丘の上の村)」というのはニューヨークあたりの高層ビル街にある離婚調停弁護士のオフィスを指しているのではないかという解釈もあるようだが、参考意見として紹介するにとどめたい。

「lethal dose」の直訳は「致死量」。「死の一服」という片桐さんの訳し方は的確だと思うが、ここでは直訳にとどめた。なお、コンサートなどで演奏される歌詞では、場合によってディランにその「死の一服」を送りつける主体が「they」ではなく「she」本人であることになっている。

Well, I'm livin' in a foreign country but I'm bound to cross the line
Beauty walks a razor's edge, someday I'll make it mine
If I could only turn back the clock to when God and her were born
"Come in," she said
"I'll give you shelter from the storm"

最後の最後になって「god」という言葉が出てくる。歌詞に使われているのは「神と彼女が生まれた時」という言葉であり、「生まれて間もない神」というフレーズは中川敬の手による「創作」だったことになる。従ってマリノさんの描いた「若々しいパーンの姿」から私が反射的にこの歌を連想したことは、厳密には「華氏65度の冬」だったという話になるわけなのだが、それでもこの歌詞の中において「神」と「彼女」が「等しい意味を持った言葉」として現れてきていることに、変わりはない。そしてそんな風に「神を信じるようなやり方」でしか「彼女」のことを「信じる」ことができなくなってしまった時に、「人間と人間の関係」としての「彼女との関係」は、ディランの にとって最終的に失われてしまったのではないかという感じが私はする。「今いる世界」から「別の世界」に向けてもう一度「国境を越える」ことを、歌の最後でディランは宣言している。中川敬の日本語詞の影響もあって、それは「彼女のいる世界」に「帰ってゆく」ための「旅」なのだろうという印象を私は持っていたのだけれど、どうやらそうではなかったらしい。おそらくディランは「全く新しい世界」に旅立とうとしているのである。そしてできることならその新しいいくつもの世界のどこかひとつで、もう一度「彼女」と「出会い直す」ことに最後の望みをかけているのではないかという感じが、私はする。

サテュロスたちはパーンと「出会い直す」ことができるのだろうか。太陽と月の兄妹は、その時空を超えた旅路の果てに「落ち着く先」を見つけることができるのだろうか。私には、思いを馳せることしかできない。何しろ私自身もまた、終着点の一向に見えてこない旅の途中にいるからである。

それでも、皆さんの幸運を私は祈っています。

心から、祈っています。

ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Recorded: 1974.9.17.
Released: 1975.1.20.
Key: E(1974)./ B♭(1976).

COUNTER CENSORSHIP

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Shelter From A Hard Rain

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