華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Bohemian Rhapsody もしくは人間の証明のテーマ (1975. Queen)

Bad (U2) LIVE AIDRadio Ga Ga


Queen-Live Aid 85/07/13

絶倫のバイセクシャルに変身し
全人類と愛し合いたい


-枡野浩一短歌集Ⅱ
「ドレミふぁんくしょんドロップ」97年-

カート·コベインが死んだのは、私が高校の入学式を直前に控えた1994年4月のことで、フレディ·マーキュリーが死んだのはその3年前にあたる1991年11月のことだった。逆算すれば私は中一だったことになるのだけれど、当時流れたはずのそのニュースについて、私には全く記憶がない。カートの時のことは新聞に載っていた死亡記事の見出しの位置に至るまで鮮明に覚えているのだが、フレディの時には新聞を読む習慣自体がまだついていなかったのだろうか。思い出せない。

いずれにしても私がその名前を知った時には、フレディ·マーキュリーは既にこの世の人ではなくなっていて、そして伝説的な存在になっていた。CMやテレビの主題歌にも、クイーンの曲は多く取りあげられていた。それにも関わらず、私がクイーンというバンドの楽曲をまともに聞いてみようと思ったことは、10代を通じて一度もなかった。その最大の理由は、ぶっちゃけて言うならば、当時の私が一番キライだった先輩がイチ推しにしていたバンドが、クイーンだったからである。

いいバンドなのに、あるいはいい作品なのに、そんな風に「不幸な出会い方」しかできなかったものだから、素通りして人生を送る羽目になってしまったという悲しい経験を持つ人は、世の中を見渡せば私の他にも山ほどいるに違いない。好きなバンドだったのに、あるいは好きな作品だったのに、ひどい失恋の仕方をしてしまったおかげで二度と聞けなくなってしまったというケースの、次ぐらいに多いパターンなのではないかと思う。その両方を知っている私は、人生経験が豊富だと言うべきなのかそれとも単純に人生を損していると言うべきなのか。正直考え込んでしまうのだが、歌の意味が知りたくてこのブログを訪れてくれる皆さんにとってはどうだっていい話に決まっているので、これ以上踏み込んでは考えない。

ただ、この「ボヘミアン·ラプソディ」という曲との出会い方がそのイヤな先輩の記憶と結びついていることは、私にとっては消すことも変えることもできない歴史的事実なのである。従って、この曲について語ろうと思うなら、私としてはそこから話を始める以外にない。

この曲は、スゴいねんぞ。人を殺した人間が、死刑になる前に母親に向かって語りかけてる歌やねん。

というのが、その先輩が周りに向かって得意気に吹聴していた「ボヘミアン·ラプソディ」の「あらまし」だったのだ。で、当時の私にはどうしてそれが「スゴい」理由になるのかということが、皆目わからなかった。そういう歌なのだということは分かった上で、その先輩はその何に共感して「スゴい」と言っているのだろうかと思うと、怖くさえあった。要するに、この人には「人を殺したい願望」でもあるのではないだろうか。だから「共感」してるのではないだろうか。そしてその「殺したい相手」というのは、ひょっとして私のことなのではないだろうか。そんなことまで考えてしまった。

とにかくその先輩には、ひどいことをいろいろされた。そしてそういう人間が尊敬の対象としておりかつ自分の振る舞いを正当化する材料にもしているフレディ·マーキュリーという人物とその楽曲のことを、私が好きになれるはずはなかった。その先輩はフレディ·マーキュリーに自分自身を投影し、かつその生き方を「自分の手本」にしていたわけである。だったらそれは私にとっては、「邪悪な存在」以外の何ものでもありえなかった。

その先輩の呪縛から逃れてようやくしみじみとクイーンの楽曲に耳を傾けられるような心境に立ち至ったのは、実を言うならほんの去年のことにすぎない。ちょうど、YouTubeで1985年のライブ·エイドの映像を見つけたことをきっかけに、U2の「Bad」の翻訳記事を書いた時のことだ。そのU2の演奏に釘付けになった流れの中で、今頃になって初めて見たのが、上に動画を貼りつけた同じライブ·エイドでの、クイーンの20分間にわたる伝説的なステージだったのである。
nagi1995.hatenablog.com
映像の冒頭でフレディ·マーキュリーが片手を上げてタッタカタッとステージに飛び出してゆく姿を一目見た瞬間から、自分は今まで何というモッタイない「食わず嫌い」をしていたのだろうと率直に思った。

こんなにも「華のあるミュージシャン」というものが、どこにいるだろうと思ったのだった。

まずこの人の、脚の長さは何なのだろう。そしてその体型を最大限に強調するあの服装である。白のタンクトップに、タイツみたいにピッタリした白のジーンズ。他の人間が同じ格好をしても絶対ギャグにしかならないし、ともすれば卑猥にさえ見えるイデタチだと思うのだが、この人の場合はそれが完璧に決まっている。身体の動きはすべてが「魅せる」ために計算されつくしており、駆け足でステージの真ん中に向かってゆくその脚の運び方のひとつにさえ、文字通り爪の先にまで意識が行き届いていることが、見ていてハッキリ分かる。

フツーの人間は、自分が駆け足をしている時に膝から下をどの角度でハネ上げれば一番ステキに見えるかなどということは、まず考えない。考える人間がいるとしたら、よっぽどのナルシストだけだと思う。つまりフレディ·マーキュリーという人は明らかに「よっぽどのナルシスト」なのだけど、それでいて不思議なことに、見ていて不快な感じはしてこない。

思うに「見ていて不快になるタイプのナルシスト」というのは、「自分自身にしか興味がなくて、他の人間のことを見下しているやつ」のことだと思うのだけど、このフレディ·マーキュリーという人にはその「他の人間のことを見下している気配」というものが全く感じられないという点が、大きいのではないかという気がする。この人は自分のことを好きで好きで仕方ない人だけど、それと同じかそれ以上に、自分のファンのことも好きで好きで仕方ないのである。だから自分がどう振る舞えばファンが一番喜んでくれるかということをいつもいつも考えているし、ファンが自分に対して何を求めているのかということも、知り抜いている。そして自分がどう振る舞えばファンが喜ぶのかということが実際に「分かる」のは、とりも直さず彼氏が自分という人間を好きで好きで仕方ない人だからなわけだし、自分という人間の最大の「ファン」だからなわけである。

つまりこの人はそれこそ、「エンターテイナーになるために生まれてきたような人」だったのだと思う。これぐらい「何をやっても許されていたミュージシャン」という存在は、この人を除けばマイルス·デイヴィスしか私は知らない。マイルスという人がファンに対する「サービス精神」というものを果たして持っていたのだろうかということになると、これは結構ややこしい話になるが、フレディ·マーキュリーのサービス精神はその点、極めてわかりやすい。圧倒的にわかりやすい。この人の歩んだ人生というのはとにかくハチャメチャで、見方によっては破滅的でさえあるのだけれど、彼氏がそのように生きた理由も、またそのようにしか生きられなかった理由も、突き詰めるなら全てはその、「人を幸せにすることこそが自分にとっての最大の幸せ」なのだと確信してやまないサービス精神のなせるわざだったのではないかという感じが、私はする。そういう姿勢で生きている人のことを世の中では「いい人」と呼ぶのであり、私自身、この人は本当に「いい人」だったのだろうなと、リアルタイムのことは知らないけれど、思わずにはいられない。

だが、そんな「いい人」の作った代表曲だとまで言われているこの「ボヘミアン·ラプソディ」という曲が、よりにもよって「人を殺す内容の歌」だというのは、一体どう考えたらいいことなのだろうか。「人を幸せにすること」に喜びを感じていたはずの人間が、「人を殺す人間の気持ち」を歌にすることなんて、実際、ありうる話なのだろうか。そして「Just killed a man (たった今、人を殺してきた)」という衝撃的な歌詞を、迷うことなくフレディと一緒に「大合唱」していた英語圏のファンの人たちの耳には、一体この歌がどんな風に聞こえていたのだろうか。また、聞こえているのだろうか。彼氏にとっての一世一代の晴れ舞台となったライブ·エイドでの演奏を初めて目の当たりにして、私が何より気になったのは、そのことだった。

そしてずっと気になってはいたのだけれど、結局それから一年あまりにわたって、この曲を正面からブログで取りあげることのできるタイミングを、見つけることができずにきた。まともに翻訳しようと思ったら、やっぱり一筋縄では行かない大曲であることを、歌詞を読めば読むほど、痛感せずにはいられなかったからである。引っかかっている「killed a man」というフレーズ以外の部分にも、謎な要素があまりに多い。

そうこうしているうちに世の中では、今週からこの「ボヘミアン·ラプソディ」をタイトルに冠したフレディの伝記映画が公開される運びになっているという話である。「記事にするなら今」だということなのだと思う。それで一念発起して改めてこの歌詞と正面から向き合うことにしてみたのだったが、やっぱりそれは案にたがわず、けっこう大変な作業だった。以下、試訳です。


Bohemian Rhapsody

Bohemian Rhapsody

英語原詞はこちら


Is this the real life?
Is this just fantasy?
Caught in a landslide
No escape from reality
Open your eyes
Look up to the skies and see
I'm just a poor boy, I need no sympathy
Because I'm easy come, easy go
A little high, little low
Anyway the wind blows, doesn't really matter to me, to me

これって本当の人生なんだろうか。
ひょっとしてただの
ファンタジーなんだろうか。
地すべりに呑み込まれて
現実からはもう抜け出せない。
目を開いて空を仰ぎ
そして見てごらん。
ぼくはただのかわいそうな男の子で
同情なんて要らない。
だってぼくはまともに仕事もしなければ
後先のことも考えたことがない
そういう人間で
いつだって無駄にはしゃいでいるか
無駄に落ち込んでいるかで
風がどっちに向かって吹こうが
ぼくには大して関係がないんだ。
ぼくにはね。


Mama, just killed a man
Put a gun against his head
Pulled my trigger, now he's dead
Mama, life had just begun
But now I've gone and thrown it all away
Mama, ooo
Didn't mean to make you cry
If I'm not back again this time tomorrow
Carry on, carry on, as if nothing really matters

母さん
たったいま人を殺してきました。
その男の頭に銃を押し当てて
自分の引き金を引きました。
その男はもう死んでいます。
母さん
人生は始まったばかりでした。
それなのにぼくはもう
帰れない所まで行ってしまいました。
すべてを投げ出してしまいました。
母さん
ううう
泣かせるつもりはなかったんです
もしぼくが明日
いつもと違って今度は
帰って来なかったとしても
続けてください。
まるで大したことじゃないんだって
いうみたいに
し続けていてください。


Too late, my time has come
Sends shivers down my spine
Body's aching all the time
Goodbye everybody I've got to go
Gotta leave you all behind and face the truth
Mama, ooo (anyway the wind blows)
I don't want to die
I sometimes wish I'd never been born at all

もう遅いんです。
来るべきものが来てしまったんです。
そう思うと
背骨が凍りつくような感じがします。
身体はひっきりなしに
痛み続けています。
さようならみなさん。
ぼくは行かなくちゃいけません。
みなさんのことを後にして
真実と
向き合わなくちゃいけないんです。
母さん
ううう
(どっちにしたって風は吹くんです)
ぼくは死にたくないです。
ときどき最初から
生まれてこなかった方が
よかったんじゃないかって
思う時があります。


(Guitar Solo)

I see a little silhouetto of a man
Scaramouch, scaramouch will you do the fandango
Thunderbolt and lightning very very frightening me
Gallileo, Gallileo,
Gallileo, Gallileo,
Gallileo Figaro - magnifico

誰かの小さなシルエットが見える。
スカラムーシュ、スカラムーシュ
ファンダンゴをやってくれないか?
雷が落ちて稲妻が走り
ぼくは怖くて怖くてたまらない。
ガリレオ (ガリレオ)
ガリレオ (ガリレオ)
ガリレオ·フィガロ
マグニフィコ(最上)


But I'm just a poor boy and nobody loves me
He's just a poor boy from a poor family
Spare him his life from this monstrosity

でもぼくはかわいそうな男の子で
誰もぼくのことを愛してくれないんです
その子はかわいそうな家で生まれた
かわいそうな男の子です。
この怪物的な境遇から
その子の人生を
救い出してあげなさい。


Easy come easy go will you let me go
Bismillah!
No we will not let you go - let him go
Bismillah!
We will not let you go - let him go
Bismillah!
We will not let you go let me go
Will not let you go let me go (never)
Never let you go let me go
Never let me go ooo
No, no, no, no, no, no, no
Oh mama mia, mama mia, mama mia let me go
Beelzebub has a devil put aside for me
For me
For me

簡単に手に入ったものは
簡単に消えちゃうって言うでしょ。
行っちゃダメかしら。
(アラーの名において!)
ダメです。
私たちは行かせるわけにはいきません。
…行かせてやりなよ。
(アラーの名において!)
ダメです。
私たちは行かせるわけにはいきません。
…行かせてやりなよ。
(アラーの名において!)
ダメです。
私たちは行かせるわけにはいきません。
行かせてよ。
行かせないよ/行かせてよ(絶対)
絶対に行かせません行かせてよ
絶対に行かせてくれないのかよおおお
ママ·ミア(私の母よ)ママ·ミア
ママ·ミア、行かせてください。
蝿の王ベルゼブブが
悪魔を一匹準備してるんです。
ぼくのために。
ぼくのために。
ぼくのためにです。


(Guitar Solo)

So you think you can stone me and spit in my eye
So you think you can love me and leave me to die
Oh baby can't do this to me baby
Just gotta get out just gotta get right outta here

だからってあんた(ら)はぼくに石を投げたり
ぼくの目に唾を吐きかけたって
かまわないって思ってるのかよ。
だからってあんた(ら)はぼくのことを
愛したと思ったら放ったらかしにして
死んだら死んだでいいって
そんな風に思ってるのかよ。
ああベイビー
そんなことさせるわけには行かないよ。
とにかく出ていかなくちゃ。
とにかくここから
まっすぐに出ていかなくちゃ。


Ooh yeah, ooh yeah
Nothing really matters
Anyone can see
Nothing really matters nothing really matters to me

うう、ゑゑ
何も大した問題じゃないんだ。
誰にだってわかる。
何も大して問題じゃない。
何も大した問題じゃないんだ。
ぼくにはね。


Any way the wind blows
風がどっちに向かって
吹いて行くにしたってさ。

=翻訳に先立って=

何てわけのわからない歌なのだ!だが、別に意味なんか分からなくたっていいのである。ただ、英語話者の人たちにはこの歌詞がどんな風に「聞こえて」いるのだろうかということを、日本語を使って「再現」することさえできればそれでいい。このブログは元々そういうブログなのだ。

殿様の身分で仏壇を抱えて
階段ぶっ転んで
線香ローソク木魚仏像
きらびやかに入院

空から降りつむ無情の月に
涙をこらえる私は18
テレパシーもどきの暗黙の了解なんて
有馬温泉一泊二日

…というのは私がむかし大好きだったモダンチョキチョキズの「有馬ポルカ」という歌の一節なのだけど、この歌の「意味」が「わかる」という人は、まあいないと思う。けれども歌詞そのものは、日本語を話せる人間になら誰にでも「わかる」言葉で書かれているわけなのである。「入院」したのが「殿様の身分にある人」で、線香やローソクが入院したのではないということ、「涙をこらえる私」は「18人」ではなく「18歳」なのだということ、そういった部分で「誤解」が生じることは、聞き手が日本語話者である限りまず起こらないことだと思うし、この歌が「わけがわからない」と言う人は、歌詞の言葉が分かってその情景が頭に浮かぶからこそ、「わけがわからない」という感想を持つわけなのだ。最後の「有馬温泉一泊二日」が「ありません」という言葉に「かかって」いるのだということについても、説明は不要だと思うし、説明を聞いて初めて笑い出す人というのも、いないと思う。「有馬温泉一泊二日」を聞いたその時点で、即座に笑うかさもなくばしょーもないと思うのが、日本語話者としてのフツーな反応なわけであって、そしてそういう反応がとれるという時点で、既にその人はこの歌のことを充分に「わかっている」と言いうるはずなのである。はずだと思うのである。

だが、日本語を知らない人たちというのは、この歌を聞いて「何か楽しそうだ」という感想を持ってくれたとしても、そういう前提が一切存在しない全くの白紙の状態から、歌詞の日本語と向き合わざるを得ないわけなのだ。この歌詞の内容を「理解」して「わけがわからない」という感想を持つに至るという、そのためだけのことにさえ、外国の人たちにはどれだけの「勉強」が必要になるだろうかと思うと、気が遠くなるのを覚えてしまう。

さらにこの「有馬温泉一泊二日」という歌詞は、単に「ありません」と掛け合わせたシャレ言葉であるというだけにとどまらず、他の温泉の名前では絶対に醸し出せない「有馬だからこその味わい」というものを確実に兼ね備えているということを我々(?)は感じるわけなのだけど、その「味わい」が「わかる」ためには、それこそ「日本の温泉文化」を聞き手が丸ごと「わかって」いることが必要になってくる。ユニコーンの歌詞に「熱海」や「別府」が出てくることはありえても、「有馬」が出てくることはまずありえない。それは取りもなおさず、「有馬」が「有馬」であるからに他ならないのだ。「草津」ほど野趣にあふれているわけでもなく、「白浜」みたいに海が見えるわけでもなく、「龍神」的な秘境感もなく、「城崎」的な詩情とも「雄琴」的な妖しさとも違った雰囲気を持ち、都会の喧騒をモロに浴びているわけではないけれど、さりとてそんなに俗世間から離れた場所にあるわけでもなく、関西弁を喋らないバンドがパクって歌詞に折りこもうとしても絶対にサマにならないに違いないであろう「記号」としての「有馬」なのである。その「有馬感」があってこそのこの歌詞なわけだけど、果たしてそこにはどれくらい膨大な情報量が詰め込まれていることだろうか。その「有馬感」が我々には「わかる」ということ自体が、ひとつの「奇跡」であるとしか言いようのない気持ちになってくる。

そしてその「有馬温泉一泊二日」みたいな歌詞が、ひるがえって外国語で書かれた外国の歌の中に外国の文脈で登場したとした場合、我々にはその「面白さ」なんて、絶対に「わかる」はずがないのである。それにも関わらず、外国語で歌われている歌がどういうことを歌っているのかということを「知りたい」と思う時、私が一番「知りたい」と感じるのは、「そういう面白さ」なのだ。上の「有馬ポルカ」を例にとった場合、「有馬温泉一泊二日」の「面白さ」をすっ飛ばしたところで

殿様という高い身分にある人間も、階段を転げ落ちるように地位や名誉を失うことはいつでも起こりうる。諸行は無常なのだ。

みたいな「解説」を聞かされたとしても、この歌の何を「わかった」と言えるだろうか。だが実際の話、外国の歌の内容を「解説」すると称する本やら雑誌やらウェブサイトやらに溢れかえっているのはその手の「解説」ばかりで、歌詞そのものの「面白さ」を直接教えてくれる「解説」というものには、私自身、出会えたためしがないのである。

洋楽の歌詞カードについている「対訳」の類は、いっそうひどいものだ。大手レコード会社の太鼓判つきでしかも値段までついている代物であるにも関わらず、「線香ローソク木魚が入院」とか「涙をこらえる私が18人」とかいったレベルのあからさまな誤訳が、平気で幅をきかせている。私が今までに見てきた中で一番メチャメチャだったのが「華氏65度の冬」というやつで、それがこのブログのタイトルになっているのだけれど、「有馬温泉一泊二日」みたいなことまで翻訳してくれという無茶なことは言わないにしても、せめてそういう文法レベルのことぐらいは、「ちゃんと」していてほしいものだと心から思う。

…何だか久々に「ブログの趣旨説明」を始める流れになってしまったけれど、定期的にやっておくのもまあ悪くないとした上で、本題になかなか入れないのはいかにもまずい。とにかく私が言いたかったのは、この「ボヘミアン·ラプソディ」という曲は英語圏の人たちにとって、そういう「有馬温泉一泊二日」的な「味わい」をいっぱいにたたえた曲なのだろうな、ということなのである。言葉遊びとしての側面よりもむしろ、「言葉の中に蓄積された文化」という側面においての話だ。オペラも「ファンダンゴ」も「ベルゼブブ」も、直接には英語圏の文化の中から出てきた言葉ではないし、イギリスやアメリカの人々にとっては「距離感」を伴う言葉なのではないかと思う。(さらに作詞者のフレディ·マーキュリーはインド生まれの両親のもとにザンジバル諸島で育った人であり、ルーツ的にはペルシャ=古代のイランを「故郷」に持つ人である)。けれども東アジアという「漢字の世界」で生きる我々にとって、例えば李白や諸葛亮といった名前が決して「馴染みのないもの」ではないのと同じように、「同じヨーロッパ世界」に生きる人間だからこそ「共有」できる感じ方というものは必ず存在するはずなのであって、その「独特の距離感」が、英語圏の人たちにとってのこの歌の「味わい」を形成しているのだと思われる。

その「感じ方」を、違う文化の中で生きてきた我々が同じように「体験」しようと思っても、それはどだい無理な話だ。でも「想像をめぐらす」ことぐらいなら可能だと思うし、かつまたそれは「許されること」なのではないかとも思う。「有馬温泉一泊二日」みたいな歌詞が持つ「味わい」を、いかに「正確」に「再現」できるかということが、結局うたを翻訳する人間にとっては一番難しいテーマになってくるわけなのだけど、逆に言うならそれは、よしんば解釈を間違ったとしても、所詮は「有馬温泉一泊二日」ぐらいなことに過ぎないということでもあるわけなのだ。なのでとりあえずは臆することなく、まっすぐ歌の世界に踏み込んでゆくことにしてみたいと思う。


モダンチョキチョキズ 有馬ポルカ

=翻訳にあたって=

というわけで、まずはタイトルの「ボヘミアン·ラプソディ」が意味するところについて調べて行きたいと思うのだが、(冒頭から1万2千字も書いてきてまだこんなことを言っているというパターンはさすがに初めてな気がするのだが)、辞書によるならば「Bohemian」というのは「ボヘミア人」のことを指す言葉であると同時に、「自由奔放に生きる人/放浪者」のことを指す言葉であると書かれている。ボヘミアというのは、現在のチェコ共和国の中西部をさす歴史的な地名である。



その「ボヘミアの人々」のことが、どうして遠く離れた英語の国々では、「自由奔放に生きる人」の代名詞になっているのだろう。Wikipediaには「ボヘミア二ズム」という項目があり、それによるならば

「ボヘミアン」という語を、比喩的に「定住性に乏しく、異なった伝統や習慣を持ち、周囲からの蔑視をものともしない人々」という意味で使い始めたのはフランス人で、その起源は15世紀にまでさかのぼる。これは当時フランスに流入していたジプシー(ロマ)が、主にボヘミア地方(現在のチェコ)からの民であったことがその背景にある。

19世紀の中ごろ、フランスの小説家アンリ・ミュルジェールが『ボヘミアン生活の情景』の序文で、「ボヘミアン」とは定職を持たない芸術家や作家、または世間に背を向けた者のことであると宣言した。この小説はプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』にもなり、以降ボヘミアンとは伝統的な暮らしや習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている芸術家気質の若者を指す言葉となった。そのニュアンスとしては、良い意味では「他人に使われることなく質素に暮らし、高尚な哲学を生活の主体とし、奔放で不可解」という含意、悪い意味では「定職がなく貧しい暮らしで、アルコールやドラッグを生活の主体とし、セックスや身だしなみにだらしない」という含意がある。

…ということらしい。だとしたらこの「ボヘミアン」というのは、当のボヘミアの人たちやロマの人たちに対して、極めて失礼な言い方なのではないかと私は感じる。「周囲からの蔑視をものともしない人々」というのはいかにも「賞賛」しているような言い方だけど、その実その人たちのことを「蔑視」しているのはお前ら自身だろう、としか思えない。(ここでの「お前ら」は、当然にも「ボヘミアン」という言葉をその文脈で「使って」いる全ての人間のことを指している)。少なくともボヘミアの人たちやロマの人たちが、「ボヘミアン」という言葉をそうした意味において自分たちの「自称」にすることは、基本的にありえないはずなのである。(例外もあることだろうが、その「例外の内容」というのは以前に「Hoochie Coochie Man」の回で詳細に分析したのと同様に、やはり「差別がもたらす結果」としての「例外」なのだ)

英語話者にとって「ボヘミアン」という言葉が持つ「味わい」が、そんな風に人を差別する人間の感性から出てきた「味わい」なのだとしたら、私はそんなのを知りたいとは思わないし、「共有」したいとも思わない。「自由奔放に生きる人」という「プラスの意味」と、「自堕落で破滅的な人」という「マイナスの意味」を併せ持つ「ボヘミアン」という言葉は、当時のフレディ氏にとって一番「ピッタリ来る言葉」で、かつ「他の言葉では言い表せないニュアンス」を伴った言葉でもあったのだろうと思う。けれどもそうだったとしたらなおのこと、そんな言葉に「頼る」ことはしないでほしかった、と私は感じる。「ボヘミアン」という言葉を使って「自分はそういう人間だ」ということを彼氏が「表現」しようとし続ける限り、彼氏はボヘミアという地で暮らしている本当にいろいろな側面を持った多様な人々のことをまとめて「そういう人間だ」と決めつけ続けていることになるのである。それこそ、「人を差別する人間は、自分もまた自由になれない」という話なのだ。

そんな風にボヘミアの人たちやロマの人たちの気持ちを完全に黙殺したまま、「ボヘミア」という言葉にくっつけられた「勝手な意味づけ」は21世紀に入った現在でも世界中で「独り歩き」を続けており、聞けば日本でも例えば原宿や下北沢といった「若者文化の発信地」を、「ボヘミア」と呼ぼうということを提唱している一群の人々が存在するらしい。心の底から、ふざけた話だと思う。けれどもそういうふざけた人間のふざけた感性を育成するのに、この「ボヘミアン·ラプソディ」という「有名な歌」が、一役も二役も買っているであろうことはまず疑いえない。それを考えるならこの歌は内容以前にそのタイトルの時点で、「罪深いこと」をいっぱいやらかしている歌なのだと言わざるを得ないと思う。

…のっけから、しんどい話になってしまったな。昔、私の母親が運転するクルマの中ではチャゲ&飛鳥のテープがいつもかかっていて、その中でも私たちきょうだいがとりわけお気に入りにしていたのが、葛城ユキによる歌唱で有名になったあの「ボヘミアン」だった。なので学校の帰り道にシマヘビを見つけたりするたびに、その替え歌で「お、蛇やん!」と歌いながら大はしゃぎしていたというのが、私にとっては「ボヘミアン」という言葉にまつわる一番古い記憶になっているのだけれど、今となっては単にそれを「なつかしい」とだけ言っていてはいけないのだろうな、という気がしてならない。思い出の中のそんな些細な一コマにさえ、「差別」はいつも深々と絡みついていた、という話なのである。


チャゲ&飛鳥 ボヘミアン

さらに「ラプソディ」という言葉について。日本語世界では現在でもこれに「狂詩曲」とか「狂想曲」とかいった差別的な訳語が宛てられているのだが、その語源をなしているというギリシャ語の「ῥαψῳδία(ラプソディア)」は、元々ホメーロスの「イーリアス」や「オデュッセイア」といった「叙事詩」のことを指す言葉であり、原義の中に「精神病者」をさげすみの対象とするような意味は全く含まれていない。Wikipediaの解説が定義しているところに従うならば、「ラプソディ」とは

自由奔放な形式で民族的または叙事的な内容を表現した楽曲

のことであり、かつ

異なる曲調をメドレーのようにつなげたり、既成のメロディを引用したりすることが多い。

とされている。そんな風に「同じひとつの曲の中で、曲調や雰囲気がくるくる変わる感じ」が、訳語を考えた人間の中に存在する「狂人」に対する差別的なイメージと結びつき、「狂詩曲」という言葉が成立したという流れになっていると思われるのだけど、そんな風に「精神病者」の気持ちというものを何ひとつ知っているわけでもない人間に「狂」という言葉を「もてあそぶ」資格がどこにあるのか、と私は思う。そういう言葉を「使える」人間は、その時点でどういう人間が「正常」でありどういう人間が「狂的」であるかという「線引き」を、「自分の感性」だけを基準に行なってみせる完全なエゴイストに他ならないのであって、戦争の時代にあってはそういう人間こそが平気な顔して一番多くの人間を殺すのである。

「ラプソディ」とは「叙事詩形式」のことであり、「叙事詩」とは「実際に起こった物事を題材にした文学作品」のことだ。「実際の世の中」では「いろんなこと」が起こるからこそ、その作品の中でも曲調や雰囲気が「くるくる変わる」わけなのであって、その全体に「狂」というレッテルを貼りつけるようなことは、それこそ「世の中の全体」を「狂」だと決めつける究極のエゴイストにしかなしえない所行なのではないかと私は感じる。流通している訳語がそんな風に原語の意味自体をもねじ曲げる内容を持っており、かつそれに代わる新たな訳語が提唱されているわけでもないらしい以上、「ラプソディ」は「ラプソディ」で構わないではないかというのが私の見解である。

いずれにせよ、そんな風に言葉にくっついた「余計な意味」をフルい落とした上で(…本当は「フルい落とせない」からこそ、言葉の問題は「難しい」わけでもあるのだけれど)、「ボヘミアン·ラプソディ」というこのタイトルがどういうことを言わんとしているのかということをまとめてみるならば、

世の中からは否定されがちだけど、自分なりの誇りとスタイルを持って生きているさすらいの自由人を主人公とした、曲調が目まぐるしく変化する楽曲

だということになる。そして「ラプソディ」というそのタイトルが示す通り、この曲はまずオペラ形式で始まり、そこからピアノバラードに変わり、またオペラに変わり今度はハードロックに変わり最後はやはりピアノバラードで締めくくられるという、「目まぐるしい形式」をまとっている。その「くるくる変わる感じ」の中に、歌の主人公の「さすらい」そのものが表現されているわけであり、さらにその「さすらいの内容」は、オペラに象徴される「ヨーロッパの古典的世界」から、デストーションの効いたギターの音に象徴される「20世紀の突端」に至るまで、文字通り時間軸をも「行ったり来たり」するものになっている。その意味では、やっぱり「壮大な作品」なのである。

さらに海外サイトが指摘しているところによるならば、ヨーロッパの音楽史において「ラプソディ」という表現形式を確立したのはリストが作曲した「ハンガリアン·ラプソディ」という曲であると言われており、「ラプソディ」といえば誰もが「ハンガリー」を連想するぐらい、この曲は有名なのだという。私は知らんのやけど。そしてこの「ボヘミアン·ラプソディ」は、その「ハンガリー」を割と近所に位置した「ボヘミア」と取り換えただけの一種のパロディになっていて、そういうところにもヨーロッパの人たちは「面白さ」を感じているらしい。してみると、さっき私がこの歌の「わけのわからなさ」と向き合うために「有馬ポルカ」を引き合いに出したのは、あながち外れたことでもなかったのだなという感じがする。

そのことの上でこの歌の「空間軸」は、地名としての「ボヘミア」はもとより、「ヨーロッパ文明の故郷」と言われているイタリアや、キリスト教(と同時に「魔王ベルゼブブ」)を生み出したパレスチナ、さらにその東方のアラブ世界(「ビスミッラ!」)にまで至る、ロックの楽曲としては空前の広がりを見せている。さらにさらに海外サイトを引用するならば、「ボヘミア」という言葉から英語圏の人々が連想するのは「ボヘミアン」に対するステレオタイプなイメージであると同時に、「アメリカのカウボーイの服装」のことでもあるのだという。それというのもボヘミア地方というのは昔から牧畜が盛んなところで、そこで使われていた皮の帽子や皮のベストというスタイルはオーストリア帝国の支配階級の気に入るところとなり、それがハプスブルク家の姻戚関係を通じてスペインに伝わって、やがては「新大陸」における「カウボーイスタイル」の原型となったという話なのだが、そんな風に「ボヘミアン」という言葉が欧米の人々に「カウボーイの絵」を連想させる「力」を持っている以上、この歌の世界の空間的な広がりはそれこそ「アメリカ」をも包含した、西洋世界の全体に及んでいることになる。それほどまでに広大な時空の中を、自由に、と言うべきなのか。引きずり回されるように、と言うべきなのか。行ったり来たりしながらこの曲の中で語られているのが、おそらくはフレディ·マーキュリーという人自身の「歴史」なのだと思う。

そしてここからがようやく「歌の内容」をめぐる話になるわけなのだが、こうした「大曲」を取りあげる際にはこれまでもできるだけそうしてきたように、まずはこの曲がネイティブの英語話者の間では「どのような歌」として受け止められているのかということを、簡単に「予習」しておくことにしたい。以下は「Songfacts」という英語圏の歌詞読解サイトの、この曲についての記事からの引用である。

Freddie Mercury wrote the lyrics, and there has been a lot of speculation as to their meaning. Many of the words appear in the Qu'ran. "Bismillah" is one of these and it literally means "In the name of Allah." The word "Scaramouch" means "A stock character that appears as a boastful coward." "Beelzebub" is one of the many names given to The Devil.
この歌を書いたのはフレディ·マーキュリーで、その意味するところについては多くの推測がなされている。歌詞の中の言葉には、クルアーン(イスラームの経典)に出てくるものが多い。そのひとつである「ビスミラ」は、直接には「アラーの名において」という意味である。「スカラムーシュ」は「傲慢な意気地なしの戯画化されたキャラクター」であり、「ベルゼブブ」は悪魔に与えられた多くの名前のひとつである。
文中には「多くの言葉がクルアーンに由来している」とあるが、「スカラムーシュ」はイタリア語、「ベルゼブブ」はヘブライ語であり、実際にはクルアーン由来の言葉は「ビスミラ」だけである。なぜこんな書き方をしているのか理解に苦しむ。

Mercury's parents were deeply involved in Zoroastrianism, and these Arabic words do have a meaning in that religion. His family grew up in Zanzibar, but was forced out by government upheaval in 1964 and they moved to England. Some of the lyrics could be about leaving his homeland behind. Guitarist Brian May seemed to suggest this when he said in an interview about the song: "Freddie was a very complex person: flippant and funny on the surface, but he concealed insecurities and problems in squaring up his life with his childhood. He never explained the lyrics, but I think he put a lot of himself into that song."
マーキュリーの両親はゾロアスター教と深く関係しており、これらのアラビア語の言葉はそうした宗教的意味を持っている。 ここも、デタラメである。「これらの(these)」とあるが、実際にはアラビア語で書かれているのは「ビスミラ」だけであり、かつゾロアスター教はイスラームやアラブ世界とは無関係なペルシア発祥の宗教に他ならない。マーキュリーは元々家族と共にザンジバルで暮らしていたが、1964年に政変によってイングランドに移住することを余儀なくされた。歌詞の中のいくらかの部分は、そうやって生まれた土地を後にした時の気持ちを歌っているものと解釈しうる。ギタリストのブライアン·メイは、あるインタビューの中でそれを示唆するようなことを語っている:「フレディは、とても複雑な人間だった。表面的にはふざけた愉快なやつなんだが、内面では子どもの頃から自分の人生を作りあげてゆく上でのいろいろな不安や問題を抱え込んでいた。あいつがこの歌詞について説明してくれたことは、ない。けれどもあいつはこの歌の中に自分自身の多くを込めていると思う」。

Another explanation is not to do with Mercury's childhood, but his sexuality - it was around this time that he was starting to come to terms with his bisexuality, and his relationship with Mary Austin was falling apart.
また別の解釈では、この歌はフレディの子供時代にではなく、そのセクシュアリティと関係していると考えらている。この歌が作られた時期は、彼が自分がバイセクシャルであることを受け入れつつあった時期と重なっており、また(パートナーだった女性である)メアリー·オースティンとの関係が崩れつつあった時期とも重なっている。

Whatever the meaning is, we may never know - Mercury himself remained tight-lipped, and the band agreed not to reveal anything about the meaning. Mercury himself stated, "It's one of those songs which has such a fantasy feel about it. I think people should just listen to it, think about it, and then make up their own minds as to what it says to them." He also claimed that the lyrics were nothing more than "Random rhyming nonsense" when asked about it by his friend Kenny Everett, who was a London DJ.
歌の本当に意味するところが何であれ、我々がそれを知ることはないだろう。マーキュリー自身は口を閉ざしていたし、バンドのメンバーの間でもその意味を詮索するようなことはしないという合意ができていた。マーキュリー自身は、「この歌はファンタジーみたいな感じのいろいろある歌のひとつだよ。みんなはただ、聞いてくれたらいいし、考えてくれたらいい。そしてこの歌が何を歌ってるのか、自分自身の答えを見つけてくれたらいい」と語っている。またロンドンのDJで彼の友人だったケニー·エバレットから訊ねられた際には、「ランダムな韻の組み合わせで、意味はないよ」と答えている。

The band were always keen to let listeners interpret their music in a personal way to them, rather than impose their own meaning on songs, and May stated that the band agreed to keep the personal meaning behind the song private out of respect for Mercury.
クイーンというバンドは、歌に込められた意味をリスナーに押しつけるよりも、むしろリスナーにそれぞれの形で自分たちの歌を解釈してもらうことを、いつも積極的に求めていた。そしてメイは、マーキュリーに配慮して、歌の背景にある個人的な事情についてはプライベートなままにしておくことで、バンドは一致していると声明している。

…イスラム教やゾロアスター教に対する一知半解な偏見にもとづいて、分かったような顔で間違いだらけのことを書いているあたり、あまり質のいい論評だとは思えないのだが、そうした「いいかげんさ」まで含めて、この歌が英語圏ではどういう受け入れられ方をしているかを示す生きた資料となっていると思うので、あえて原文を長々と引用した。つまりは英語圏の人々も「何も分からないまま」聞いているのである。

そのことの上で、フレディという人の生い立ちやセクシュアリティが、この歌の歌詞に深く関係しているらしいということは、事実なのだと思う。このブログのごく初期の記事にも書いたように、私自身は、「歌の意味を正しく知る」ということは、その歌の背景に隠された作者自身のいろんなスキャンダラスな事実について「詳しくなる」こととは違うはずだという見解を持っている。けれどもその一方で、とりわけポピュラー音楽の歌詞というものは、作者自身が「自分のことを知ってほしい」という気持ちで書いているものが大半だったりもするわけなのである。「わかったつもりになること」はその作者に対して一番失礼な行為だと思うが、「わかろうと努めること」は、歌を作った人間に対して聞き手がとることのできる唯一の「誠実な態度」というものではないかとも思う。

そうした自戒を持った上で、この歌については以下のような見解も存在しているという事実は、紹介しておきたい。同じ「Songfacts」からの転載である。

Was Freddie Mercury coming out as gay in this song? Lesley-Ann Jones, author of the biography Mercury, thinks so.
フレディ·マーキュリーは、この歌を通じて自分がゲイであることをカミングアウトしようとしていたのだろうか?マーキュリーの伝記作家であるレスリー·アン·ジョーンズは、そのように考えている。

Jones says that when she posed the question to Mercury in 1986, the singer didn't give a straight answer, and that he was always very vague about the song's meaning, admitting only that it was "about relationships." (Mercury's family religion, Zoroastrianism, doesn't accept homosexuality, and he made efforts to conceal his sexual orientation, possibly so as not to offend his family.)
ジョーンズによれば、彼女が1986年にその質問をマーキュリーにぶつけた時、彼はストレートにはそれに答えなかったし、また彼が歌詞の意味について語る言葉はいつも極めて曖昧だったという。彼が唯一認めたのは、この歌が「関係性についての歌」であるということだけだった。(マーキュリーの家の宗教であるゾロアスター教ではホモセクシャリティを認めておらず、彼は家族の機嫌を損ねないために、自分の性的疎外感を覆い隠すべく努力していた)。

After Mercury's death, Jones says she spent time with his lover, Jim Hutton, who told her that the song was, in fact, Mercury's confession that he was gay. Mercury's good friend Tim Rice agreed, and offered some lyrical analysis to support the theory:
マーキュリーの死後、ジェーンの語ったところによれば、彼女は彼氏の恋人だったジム·ハットンと共に時間を過ごしたことがあった。そしてその時トムが語ったことによるならば、この歌は実はマーキュリーによる、自分がゲイだったことの告白だったのだという。マーキュリーの親友だったティム·ライスもそれに同意しており、そのことを裏づける歌詞の読み方を提起している。

"Mama, I just killed a man" - He's killed the old Freddie he was trying to be. The former image.
「母さん、たったいま人を殺してきました」…彼氏は自分がそうあろうと努めてきた「古いフレディ」のイメージを殺してしまったのである。

"Put a gun against his head, pulled my trigger, now he's dead" - He's dead, the straight person he was originally. He's destroyed the man he was trying to be, and now this is him, trying to live with the new Freddie.
「その男の頭に銃を押し当てて自分の引き金を引きました。その男はもう死んでいます」…異性愛者だった元々のフレディは死んだのだ。自分がそうなろうとしていたところの人物像を破壊し、新しいフレディとして生きようとしているのが、今の彼の姿なのだ。

"I see a little silhouetto of a man" - That's him, still being haunted by what he's done and what he is.
「誰かの小さなシルエットが見える」…それは彼自身である。今でもやはり彼は、自分が何者であり何をやってきた人間であるかという事実に、取り憑かれ続けているのだ。

…この歌の中でマーキュリーは「自分がたった今、人を殺してきた」という「告白」をしているわけだが、その「殺した相手」が「かつての自分自身」だったというのは、言われてみるまで私の頭には一度も思い浮かばなかった読み方だった。私がクイーンの名前を知るキッカケになった大嫌いな先輩のイメージとも重なって、この歌は「人を殺しておきながら、相手に対する反省もなく、自分の人生がメチャメチャになったのどうのと泣き言を言っているだけの、どうしようもない人間を主人公にした歌」だと、長年思い続けてきたのである。けれどもその「殺人」が「過去の自分との訣別」を象徴するキーワードになっているという可能性の指摘は、この歌に対する私のそうした「偏見」を打ち破るものだった。それがなければ、この曲のことを自分のブログで取りあげようなどという気持ちには、最後までならなかったに違いない。

けれども、それもまた「ひとつの読み方」であるにすぎず、歌詞の中では主人公が「殺した」のが「自分自身」であるということなど、どこにも明言されていない。むしろ現実的に考えるならば、

「母さん、おれ人殺しちゃった」
「誰を?」
「自分を」

などというのは、そっちの方がよっぽど「ありえないやりとり」なのである。だからこの歌が「単なる人殺しの歌」である可能性は依然として排除できないわけだし、そういう聞き方をしている人の方がやはり世の中には多いのだろうと思う。私の先輩も、ライブ·エイドに詰めかけた人々も、みんなこの歌を「そういう歌」だと思っていたし、そう思った上でこの歌に「共感」していたわけなのだ。

そういう内容に「共感」することのできる人の気持ちというものが、私には今でも全然わからないし、人殺しに「共感」できるその気持ちの中身というものを、私はやはり「怖い」と思う。「いくつもの多様な読み方が可能な広がりを持った楽曲」などと言うと、まるでそれが「素晴らしいこと」であるかのように聞こえるけれど、場合によってはそれは「恐ろしいこと」でもあるのである。

いわゆる「犯罪」としての「殺人」にとどまらず、第二次大戦後もベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争等々と多くの戦争に手を染めてきたアメリカという英語圏の国では、「実際に人を殺した経験を持つ若者」が、ほぼ10年おきの単位で「量産」されてきたわけであり、ドラマや映画で見る限り、そういう人間たちが復員してきて「普通の市民生活」を送っているのがあの国の実態であるわけだ。そんな風に「普通に」人を殺した経験を持つ人間が、「普通に」この歌を気に入っており、かつ自分の母親の誕生日のお祝いなどで「普通に」この歌を歌ってみせているようなことも、決してありえない話ではないと思うし、むしろそれこそ「普通に」起こっていることなのではないかと思う。でもそれって、ものすごく「恐ろしいこと」だと言えないだろうか。クラッシュのジョー·ストラマーは、自分の楽曲がそういう風に「使われる」ことの「恐ろしさ」に死ぬまで苦しみ続けた人だったわけだけど、フレディ·マーキュリーはこの曲を作った時、そういう「恐ろしい可能性」を考えたことは、なかったのだろうか。それともそういう「恐ろしい可能性」をも受け入れた上で、この曲を世の中に送り出したということなのだろうか。つまるところフレディ·マーキュリーという人は、「人を殺すということ」を「どういうこと」だと考えていたのだろうか。

いいか悪いかは別として、この歌は実際問題、そんな風に「どんな形にでも解釈できる幅」を持った楽曲なのである。10代の頃には反発しか感じていなかったけれど、その後いろんな人生の経験を重ねる中で、今では私自身も、自分なりの内容でこの歌に「共感」させられる場面が増えてきていることを、自覚させられるようになってきている。とりわけ自分が「親不孝な生き方」をしていることを痛感させられるような場面で、「Mama〜〜」というフレディの声が聞こえてきたりすると、それだけで前後の文脈を抜きにして鼻の奥がツーンとしてきてしまう感覚などは、そのあらわれなのだと思う。けれどもそれに「溺れて」いたのでは、「青春に決着をつける作業」などいつまで経っても完結しないことだろう。良きにつけ悪しきにつけ様々な「歌」と共に歩んできた自分自身の前半生に「答え」を出し、これから先の後半生を生きてゆくための準備作業にしようというのが、私自身がこのブログを始めたそもそもの趣旨だったわけなのである。「いろいろあった」この歌に対しても、「答え」を出す時が来た。そういうことなのだと思う。

というわけでここからがやっと、「翻訳をめぐって」の通常展開である。「前置き」だけで2万7千字というのはたぶん今までの最高記録だけど、この歌に対する私の思い入れはそれほど「複雑」だったということになるのだろうな。自分でもちょっと、ビックリしている。

=翻訳をめぐって=

Is this the real life?
Is this just fantasy?

この歌はその冒頭から、歌われている内容が現実世界の出来事なのかそれとも空想の出来事なのかということの境目が、曖昧にされている。そしてその「曖昧な世界」で、この歌の主人公は「人を殺した」ことになっているわけだけど、そうした舞台設定自体が、歌の中で人を殺すための「アリバイ工作」になっているのではないかという感じが、しないでもない。人を殺すという行為は、それを口に出して言うというだけでも、やっぱり「大変なこと」なのである。

I'm just a poor boy,
I need no sympathy

「I'm just a poor boy」というフレーズには、サイモンとガーファンクルの「ボクサー」という歌の歌い出しからの影響が見られると、多くの海外サイトが指摘している。(このブログではまだ未訳である…仕事を増やしてしまったな)。「poor」という言葉には「貧しい」と「かわいそうな」という両方の意味があり、「僕はただの貧しい少年」とも訳せるわけだが、文脈的にはやはり「かわいそうな男の子」という意味なのではないかと思った。

I'm easy come, easy go
A little high, little low

「easy come, easy go」は、直訳するなら「簡単に入ってくるものは簡単に出て行く」ということになり、それが転じて英語圏では、「悪銭身につかず」を意味する熟語として使われるフレーズになっている。だから「I'm easy come, easy go」は、直訳するなら「私は悪銭身につかずです」…何のことだかよく分からない。

思うにこの部分は、「easy come, easy go」という「おなじみの言い方」で、自分が「悪銭身につかず的なキャラクターを持った人間」であるということを言おうとしていると同時に、「easy come(簡単にやって来る)」「easy go(簡単に出て行く)」というそれぞれの言葉にも独自の意味を持たせて、自分が「放浪者的な性格を持った人間」であるということを表現しようとしているフレーズなのではないかと思う。それで、上記のような訳し方になった。上記って言っても相当上だけど、「A little high, little low」も同様の「意訳」になっている。

Any way the wind blows,
doesn't really matter to me

歌詞サイトによってはこのフレーズの冒頭が「Anyway」と表記されているものと、「Any way」と表記されているものの、両方のパターンが見られる。耳で聞く分には聞き分けられないタイプの違いなのだが、「Anyway」だった場合「いずれにしても風は吹く」という意味になり、「Any way」だった場合には「どっちに向かって風が吹くにしても」という意味になる。

多くの和訳サイトが「Anyway説=どっちにしたって風は吹く」説を採用しているのだけど、後段の「doesn't really matter to me (僕にとっては大した問題ではない)」というフレーズとの関係からしても、この部分は「Any way=どっちに向かって風が吹くにしても」で翻訳する方が「自然」なのではないかという気が、私はする。

「どっちにしたって風は吹く」というのは何となく「素敵なフレーズ」ではあるものの、風が吹いたからといって何かが「解決」するわけでもないだろうし、何が言いたいのかよく分からない。一方で主人公は「放浪者=『Bohemian』」であることを自称しており、「放浪者」と言えば「風の向くまま気の向くまま」に生きている存在なわけである。だから風が「どっちに向かっているか」に左右されて、主人公が「どっちに向かって生きるか」も左右されるわけであり、そういう読み方をした方が、「筋」は通っていると思う。

けれども「どっちに向かって」生きることになったところで、自分には結局大した問題ではないのだ、と主人公は述懐している。そういう歌詞なのだと思う。なお、このフレーズはこの歌の初めと真ん中と終わりに計3回出てくる。「ボヘミアン·ラプソディ」を読み解く上での、ひとつのキーワードになっているフレーズだと言えるだろう。

Mama, just killed a man

いくつかの海外サイトでは、ここから始まる「殺人の告白」の部分に、ボブ·マーリーの作品でエリック·クラプトンがカバーして有名になったレゲエの名曲「I Shot the Sheriff」の歌詞世界と重なるものがあるのではないか、という論評が展開されている。(この曲も未訳である…仕事がどんどん増えていく)。主人公がハッキリ「人を殺した」と明言していながら、そのことに対する「罪悪感」は、全く感じていない様子がうかがえる点についてである。

私も、同じ感想を持つ。少なくとも言えることは、この主人公は「悲しい気持ち」の中にいるのだろうということである。けれどもその「悲しみ」の内容というのは、「自分」が「それまで通りの人生」を続けることができなくなってしまったということに対する「悲しみ」であり、かつそのことで「母親を悲しませることになってしまった」という「悲しみ」なのであって、殺人という行為や、また殺した相手に対する感情というものは、この歌の中では全く語られていない。

このことが意味しているのは、主人公が「殺した」相手が自分自身であれ他の誰かであれ、そのこと自体は「正しい」ことだったという確信が、彼氏の中にはある、ということなのだと思う。彼氏はおそらく「自分の正義」にもとづいて行動したのである。それがたとえ「世の中の正義」に反することであったとしても、彼氏が彼氏として生きてゆくためには他にありえない選択だったという気持ちを込めて、「killed a man」という言葉は語られている。

それが「いいこと」だったのか「悪いこと」だったのかということは、「他人の立場」からはそれこそ何とも言いようのないことだ。そもそも彼氏は自分が殺したのが「誰」だったのかということを、歌の中で一言も語っていない。ただ、「世の中の正義」が何であれ、「自分自身の正義」に従って生きるのかそれとも「自分を殺して生きる」のかという究極の選択を突きつけられることは、誰にとっても起こりうることだと思う。この主人公が「罪人」なのか「正義の人」なのかは、この歌詞だけからは「わからない」としか私には言いようがない。けれどもこの主人公が「我々と同じ一人の人間」であるということだけは、間違いなく言えることだと思う。

ちなみにこの「Mama〜」の部分は、歌詞だけ先にできていたのだけど、曲がなかなかできあがらず、フレディ氏は最初この部分をとりあえずビートルズの「A Day In The Life」のメロディで歌ってたらしい、という話が海外サイトに載っていた。「♪ 今さっき、人を殺しちゃった〜だらったらん」…あまりにカジュアルすぎないだろうか。それにしても「歌詞が先にできていた」と改めて言われると、「きっとそうだったんだろうな」という感じがする。

なお、この部分の翻訳がですます体になっているのは、完全に西条八十の「麦わら帽子の詩」の影響なのだろうなと、皆さんも思ったかもしれないけれど、私自身も自覚している。


人間の証明のテーマ

Put a gun against his head
Pulled my trigger, now he's dead

二行目が「Pulled the trigger」ではなく「Pulled my trigger」になっている点に、ネイティブの英語話者は「独特の言い方だ」という感想を持つらしい。「その引き金」ではなく「私の引き金」という言い方をした場合、何となくその「引き金」は「その人の肉体の一部」を形成しているかのようなイメージで響くのだとのことである。

このことから、この歌で歌われている「殺人」は「性行為」のメタファーなのではないかという解釈も存在しているらしいが、参考意見として紹介しておくにとどめたい。ただ、「無視できない参考意見」ではあると思う。

Carry on,
carry on,
as if nothing really matters

「Carry on」は「続けるべきことを続ける」というニュアンスの熟語。主人公は母親に向かって、自分が二度と帰ってこれなくなったとしても「今まで通りにしていてください」と呼びかけている。「nothing really matters」というフレーズは、冒頭では主人公が自分の生き方に対する「誇り」を込めて口にしていた言葉だったという感があるが、ここでは同じフレーズが痛切な響きを帯びている。この歌詞も、この歌の中には繰り返し登場する。

Goodbye everybody I've got to go
Gotta leave you all behind and face the truth

私の先輩は、この歌は「これから死刑になる人間の歌」だと言っていたわけだが、そんなことは歌詞の中にはどこにも書かれていない。「自分は行かなければならない」「行って真実と向き合わねばならない」ということが言われているだけである。「行ってしまう=処刑される」「真実と向き合う=罪を認める」という読み方も、確かに「ありうる」とは思う。けれども「行ってしまう=旅立つあるいは逃亡する」「真実と向き合う=これからは自分らしく生きる」という読み方だって可能だと思うし、私にはそっちの方が「しっくり来る」感じがする。いずれにせよ、「いろんな読み方が可能な歌」なのである。

I don't want to die
I sometimes wish I'd never been born at all

ここも、いろんな読み方ができる。「I don't want to die (死にたくない)」というのは「死刑になるのはイヤだ」という文字通りの叫びとしても解釈できるし、「ここにいたら死んでしまうから、自分は違う生き方を選ぶしかなかったんだ」という述懐だとも解釈できる。

「I sometimes wish I'd never been born at all (時々、生まれて来なければよかったのではないかと思う)」というフレーズには、主人公の「苦しみ」の内容が一番具体的な言葉で綴られている。彼氏は自分の生き方を「後悔」することは、していない。けれどもその生き方を貫くことには、「生まれてこなかった方が良かったかもしれない」と感じるほどの「苦しみ」が伴っている。ということが歌われているのだと思う。

そしてこの言葉は、やっぱり「これから死刑になる人間」の口から出てくる言葉ではないだろう、というのが私の感想である。どんなに苦しくてもやはり「生きてゆかねばならない」からこそ、彼氏はこれから二度と会えなくなってしまうかもしれない母親の面影に向かって、その苦しみを吐き出しているのだと思われる。それは自分をこの世に生み出した母親という存在に対する最大の「断罪」であり「呪い」であるのと同時に、母親以外の相手には絶対口にできないタイプの「甘え」であるようにも思われる。

I see a little silhouetto of a man

ここから、オペラになる。主人公の目に見えている「シルエットの男」が、「自分が殺した相手の影」やあるいは「かつての自分自身の影」であろうというのは、すごく鋭い読み方であると感じられる。そういう点からしても、ここまでの部分では主人公の「旅立ち」が歌われていたのに対し、ここからは主人公の「遍歴」が歌われているのではないか、という感じが私はする。

Scaramouch, scaramouch will you do the fandango

…どんどん、わけがわからなくなってくる。「スカラムーシュ」というのはイタリアの伝統的な大衆演劇である「コンメディア·デッラルテ」に登場するキャラクターの名前なのだそうで(下図)、なぜ唐突にそんなのが出てくるのかといえば「イタリアっぽい演奏だからイタリアっぽいキャラクターを出してみたかった」という以上の意図は大して含まれていないのではないかという感じが私はする。



個人的に興味深かったのは、藤田和日郎氏の「からくりサーカス」に登場する敵役のキャラクター達もこの「コンメディア·デッラルテ」を題材にしていたらしいということが分かったことで(下図)、そういえばあのマンガにも「ボヘミアン·ラプソディ」と重なる部分があったということを、いろんな形で思い出している。とりわけ3巻ぐらいで主人公のマサル君が、ずっと受け身で生きてきたそれまでの自分を「殺しちゃう」ことを決意する場面である。あの印象からしても、この歌に歌われている「殺人」は、やはり「生まれ変わり」を寓意するキーワードなのではないかと信じたい気が、私はする。何の話か分からない人は、読んでみてほしいと思う。




「ファンダンゴ」というのは、スペイン起源の踊りなのだそうで、陽気なものであるらしく、モーツァルトの「フィガロの結婚」などのオペラにも、取り入れられているのだという。後段の歌詞との関係が、ちょっとうかがえる。日本語的には「ファン」が「団子」になるという語感から、各種のファンクラブやそのイベントなどの名称として最近よく使われているのを目にするのだけれど、原語にはそうした意味合いはもちろんない。

「will you do the fandango」は「ファンダンゴを踊ってくれないか」という形で訳されている形が多いけど、動画からもうかがえるように女性が主体の踊りであり、かつ伝統的なスタイルの「スカラムーシュ」は「ギター」を持っている。「will you do」は「演奏してくれ」と言っている可能性の方が高いと思う。だから訳語は「ファンダンゴをやってくれないか」とするのが適当であろう。私はそういうことにかなりうるさいのだ。


fandango

Thunderbolt and lightning very very frightening me
Gallileo, Gallileo,
Gallileo, Gallileo,
Gallileo Figaro - magnifico

ここでどうして「ガリレオ」が登場するのかということは、このブログの歴史を振り返ってみても最大級の「謎」のひとつであるに違いない。まあ、前段と同様「イタリアといえばガリレオ」ぐらいの意味しかないであろうことは明らかなのだけど、「Thunderbolt and lightning」という歌詞の後に出てくることからして、「カミナリの音の擬音表現」なのではないかという感じも、ちょっとだけする。(日本語の感覚に引き寄せた完全な勘違いかもしれないけど)。海外サイトには、ギタリストのブライアン·メイが無類の天文学ファンであるところから、「ガリレオ」という言葉が「わざわざ」選択されたのではないか、という見解も紹介されていた。

「マグニフィコー!」は、「時々言ってみたくなる言葉」である。でもそれ以上の「解説」は、私にはやれそうにない。

Easy come easy go will you let me go
Bismillah!
No we will not let you go - let him go

…さすがに、ちょっと疲れてきた。このコール&レスポンスは、「誰と誰とのやりとり」なのだろう。主人公と彼氏の母親、あるいは主人公と「神」、さもなくば主人公と彼氏の「良心」、いろんな読み方ができる箇所だと思う。

仮に相手が「母親」だと考えた場合、冒頭の「Easy come easy go」は、結構すごいことを言ってるのではないかという感じがする。僕は「簡単に」生まれてきたんでしょ?だから「簡単に」消えてあげちゃうよ。さあ行っていいかな?そんな風にも響くフレーズである。まあ、考えすぎかもしれないけど、何らかの「重い決断」を主人公は「軽いノリ」でやってしまいたいという衝動にかられており、それを親だか「神」だか「良心」だか「世間体」だかが引き止めようとしている、という構図が歌われていることはほぼ間違いない。

「Bismillah! 」はイスラームの聖典である「クルアーン」の冒頭に出てくる言葉で、「アラーの名において」という意味であり、ムスリムの人たちにとっては、すごく「重い言葉」なのだという。ムスリム諸国においてはそうした聖典の言葉がこうした「ノリ」で使われているこの歌に対する批判は当然大きいらしいのだが、最近ではイランでもこの歌が初めて「解禁」されたらしいというニュースが、どこかのサイトに載っていた。

Oh mama mia, mama mia, mama mia let me go

「mama mia」はイタリア語で「私のお母さん」という意味なのだが、英語の「oh my god」と同様、「間投詞」としても使われる言葉なのだという。何かショックなことが起こった時に「おかーん!」…関西人の感覚としては、ちょっと恥ずかしくて言えないな。でもかつて日本が起こした戦争のために死んで行った人たちが最後に口にした言葉が、「公式の歴史」で語られている「天皇陛下万歳」ではなく、「お母さん」という言葉だったというエピソードについては、私は信じ続けて行きたい気がする。

Beelzebub has a devil put aside for me

あー、難解だなー。めんどくさいなー。「ベルゼブブ」というのは聖書に出てくる「悪霊の君主の名前のひとつ」で、ヘブライ語で「蝿の王」という意味を持った言葉なのだという。そして「蝿の王」というのは、1954年にイギリスで出版されたウィリアム·ゴールディングという作家による小説のタイトルにもなっており、この歌詞の言葉にはその小説の作品世界のイメージも、恐らくだけど、投影されている。未来の戦争中に、疎開地に向かう少年たちを乗せた飛行機が無人島に不時着し、少年たちは最初のうちは助け合って生きて行こうとするのだけれど、野性的な暮らしの中で次第に自分たちの中にある「獣性」に「目覚め」はじめ、最後には「殺し合い」を始めるという、あらすじを聞いただけで読みたくなくなるような小説である。だから私はまだ読んだことがない。



その「ベルゼブブ」が「悪魔を一匹準備している」というのがどういうことかといえば、主人公は自分の中にそういう「獣性」や「悪魔性」が潜んでいることを自覚しており、それを目覚めさせるわけには行かないからここにはいられないと言っているのか、あるいは目覚めさせたら人に迷惑をかけるから出て行くわけには行かないと言ってるのか、あるいは既に目覚めてしまったから自分にも他人にもどうすることもできないと言っているのか、多分そのどれかなのである。でもそのどれなのかは、歌詞の中には書かれていないので分からない。何といいかげんな「解説」なのだろう。

そして再びのギターソロを挟み、楽曲はだんだんと「吹っ切れた」様相を呈してくる。

So you think you can stone me and spit in my eye

この歌詞にはディランの「雨の日の女」がエコーしていることを私は感じるけれど、「雨の日の女」もやっぱり未訳である。これ以上仕事を増やしても仕方ないのでそこは流す。

以降の歌詞では主人公が「迫害」を受ける様子が描かれているわけだが、それに対して「反発」する中で、主人公はだんだんと「自己肯定感」を「回復」させて行っているようにも感じられる。曲調が明らかにポジティブに変わってくるのである。だからこの歌のエンディングには、フレディ·マーキュリーなりの「ハッピーエンド」が意識されているのだろうなと、私は感じている。

Ooh yeah, ooh yeah
Nothing really matters
Anyone can see
Nothing really matters nothing really matters to me

Any way the wind blows

そして「最初と同じフレーズ」がもう一度繰り返されることで、この歌は終わる。最初は「投げやりな感じ」で、二回目には「悲痛な感じ」で、そして最後には「確信に満ちた感じ」で繰り返されるのが「Nothing really matters」というフレーズである。その「言い方の変化」の中に、「遍歴の中での主人公の成長」が表現されていると、言って言えないことはないだろう。この歌に「テーマ」というものがあるとすれば、それはやっぱり「死と再生」ということに落ち着くのではないかと思う。そしてそれは結局のところ、世界中のあらゆる「物語」が主題にしているところの「共通のテーマ」なのである。

…終わった。3万8千字。「Hoochie Coochie Man」の3万3500字を4500字も上回ってしまった。まさかこんな曲で最高記録を更新してしまうことになるとは思わなかったな。かつてはあれほど、「毛嫌いしていた歌」だったはずなのだ。


Weild Al Yankovic "Bohemian Polka"

最後に何か「特別なこと」でも言わなければならないような感慨にとらわれているけれど、このブログはもともと「うたを翻訳すること」だけをテーマにしたブログなのであり、それを終わらせてしまった以上は、別に書くべきこともない。ただ最後の最後になって「ボヘミアン·ラプソディ」と「有馬ポルカ」を「結びつける」ような動画を見つけてしまったことについては、偶然という言葉では言い尽くせないような「何か」を感じている。モダンチョキチョキズの「ボンゲンガンバンガラビンゲンの伝説」、21世紀になってから生まれた皆さんも、良かったらこれを機会に聞いてみてください。ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Released: 1975.10.31.
Key: B♭

ボンゲンガンバンガラビンゲンの伝説

ボンゲンガンバンガラビンゲンの伝説

  • アーティスト: モダンチョキチョキズ,岸本基,西條広一,SAM LIBERMAN,りぴーと山中,長谷部信子,吉田旺,吉村智樹,矢倉邦晃,磯田収,水谷麻紀
  • 出版社/メーカー: キューンミュージック
  • 発売日: 1993/06/21
  • メディア: CD
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からくりサーカス 全23巻完結セット (少年サンデーコミックス〔スペシャル〕)

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