華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

We Are The Champions もしくは何様ランド (1977. Queen) ※

We Will Rock You LIVE AID (終)



「No time for losers」
=「敗者のための時間はない」!?


なんてひどい歌詞なんだ!!


私は、ハッキリ思い出したのだけど、私がクイーンというバンドにずっといい印象を感じていなかったのは、「ボヘミアン·ラプソディ」の時に書いたあのイヤな先輩の影響だけではなかったのだ。当時CMや何やかやでしょっちゅう耳にしていたこの歌のこのフレーズが、むかついてむかついて仕方なかったからだったのである。そして、そうだよ。あのイヤな先輩も、確かにしょっちゅう口ずさんでいた。あまりにむかつく歌詞だったもので、長いこと記憶の底に封印してしまっていたのだ。思い出せば思い出すほど、腹が立ってきたぞ。

「敗者のための時間はない」。こんなひどい歌詞があるものなのだろうか。先週思い立って「ボヘミアン·ラプソディ」の記事を書いてからこのかたの約一週間、私は自分の時間のほとんどをクイーンのために注ぎ込んできたことになるもので、正直このバンドには、情が移りかけている。「敗者のための時間はない」というこのエグい文字列が、「泣かない女はいない」や「自由以外は何でもくれる」みたいな「誤訳」であってくれたらどんなにうれしいだろうか。あの男前のフレディや、シブいオジさんになったロジャー·テイラーに、「ごめんなさい、おれずっと皆さんのこと誤解してました」と、こちらから「仲直りの握手」を求めることができたなら、どんなにか素晴らしいことだろうか。

そう思った私は、「実際にその可能性を追求すること」までしてしまった。Weblioの英和辞書で「no time for」という文字列の入った例文を検索すると、「There is no time for sleeping (寝てる暇はありません)」や「I have no time for dogs (犬なんかに構ってはいられない」という例文の他に、「This is no time for pleasure (遊んでいる場合ではない)」という例文も出てくる。「no time for losers」の前に省略されている言葉が「There is」や「I have」であった場合、「敗者のための時間はない」や「敗者に構っているヒマはない」というどうしようもないフレーズになってしまうことは避けられないが、もしも「This is」だったとしたら、「敗者になってる場合ではない」みたいな風に、少なくともあんまり人を傷つけないような方向性で、翻訳できる余地もあるのではないだろうか。翻訳できないものなのだろうか。

…だが、やめよう。何をやっているのだ私は。こんなに一目瞭然で誰が見ても誤解の余地がないようなフレーズを、わざわざ「無理のある方向に」読み替えて何がしたいというのだ。そんなの、南京大虐殺を無かったことにしたい連中や、天皇の戦争責任をなかったことにしたい連中が、カネと時間を湯水のように注ぎ込んでやってる歴史の改竄と、同んなじことになっちゃうじゃないか。そういう連中のことを許せないと思うのであれば、そしてそういう連中がのさばる世の中を本気で変えたいと思うのであれば、「自分の願望に合わせて真実をねじ曲げる」ことだけは、地球が裂けてもやってはいけないことなのだ。「イマジン」の時にそうしたように、「ブラウン·シュガー」の時にそうしたように、例えどれだけ多くの洋楽ファンを敵に回すことになったとしても、私は自分の感じたままを口にしなければならないと思う。

この歌は、最低の歌だ。





Wikipediaには、こんなことが書かれている。

シングルが発売された当時は「歌詞のチャンピオンというのは自分たちのことを指し、自分たちが世界一だと思い上がっているのではないか」と批判されたが、後にブライアン・メイは「この曲は自分たちをチャンピオンだと歌っているのではなく、世界中の一人ひとりがチャンピオンなのだと歌っている」と反論している。

…なんカシてけっかんどんねんシラこいこと抜かしとったらあかんどコラぁ!(何を言いながらお尻をかじっているのですか。稚拙で白々しいことを言っていてはいけませんよ。こらっ)。何をええように言うてくれてんねんラッたつわぁンーまにい。(何をそんな風に美化する方向で言ってくれているのですか。腹が立つことですよ。本当に)。そらね。ある思いまっせ世の中にはそおゆう話かて。(それはね。あると思いますよ。世の中には。そういう話というものも。…以下、東京弁訳は省略します。て言っか、地の文章に戻します)。「世界中の一人ひとりがチャンピオン」。ありえない言い方ではないと思う。例えばずっといじめられてきた人間同士が、そういう言葉でお互いを讃え合うことができるような日が来てくれたりしたら、それはすごく美しい話だと思う。「おれたち、がんばってきたよな」って。「よく、耐えてきたよな」って。「おれたち、あいつらより絶対強かったぜ。やられる側に回ったら、あんなやつらに同じ苦しみが耐えられたわけがないんだ」って。「おれたちこそ、チャンピオンだと思わないか?」「そうだよ、おれたちこそチャンピオンだよな」って。どういうのをイメージしながら喋ってるかといえば、高岡ヨシさんという人の書いた「歩けばいい」という小説をイメージしながら私は喋っているのだけれど、ブライアン·メイが飽くまでこの歌のことを「そういう歌」だと言い張るのであれば、それでもいいとしようではないか。

だが、それならば「敗者のための時間はない」というフレーズは、何なのだ。ハナダ君もシンヤ君も、そんな言葉は絶対に口にしないぞ。名前を出させてもらった勢いで、「歩けばいい」の中から、私の心を最も震わせたハナダ君の心の叫びを、引用させてもらいたい。

シンヤ、平等って何だ?そんなもの、この世にあるのか?足し引きだってそうだ、プラスの奴はプラスのままで、マイナスの奴はとことんマイナスじゃないか。その法則が変わらないなら、なぜ弱者は生まれてくるんだ?俺らは食い物にされるだけの存在か?強者のための世界なら、あいつらだけで回せばいいじゃないか。なぁ、シンヤ、教えてくれ。何で俺は生まれてきたんだ?何で俺や母さんは生まれてきた?何で、何でこんなに生きにくいんだ?

歩けばいい

歩けばいい

…なあ、ブライアンメイのおっさんよ。さっきあんたが言うたこと、このハナダ君の前で、もっぺん言えるか?「世界中の一人ひとりがチャンピオン」って言うたその「世界中の一人ひとり」の中に、あんたらハナダ君のこと入れてたか?入れてへんやろ?「敗者のための時間はない」ねやろ?「世界中の一人ひとりがチャンピオンただし敗者は除く」ちゅーてんねやったら、あんたらの言う「世界」ちゅーのは、ずいぶん狭い世界やちゅーことになるよな。おい。

なめんな。

弱者なめんな。

何でおれがこない怒ってんのか言うたろか。

おれがその弱者やからや。

…初めて言うたわ。

あんなー言うといたるけどなー。弱い人間が自分のこと「弱者」て言うのは、めちゃめちゃ勇気要んねんからな。じぶんら、自分で自分のこと「弱者」って言う人間のこと、「弱者」って認めへんやろ。「本当の弱者は別のところにいる」みたいなこと言うて、せやから「こいつは弱者やない」ちゅーて、叩くやろ。「弱い者いじめと違う」ちゅーて、言い訳しながら、叩くやろ。必ず叩くやろ。じぶん叩いててこっち叩かれてるのに、じぶんが叩いてる相手のこと「弱者」って認めへんやろ。おれかてせやったわ。「本当の弱者は別のところにおる」思てたし、せやから自分は「強い」ねや思てたわ。字ぃも書けるし理屈も言えるし。ほんでむっちゃ口惜しい話情けない話恥ずかしい話、そのことに「安心感」おぼえてたわ。

「弱者の立場に立つ」って言うたことはあるよ。しゃーけど自分自身が弱者やて認めたことは、今の今まで一回もなかった。「この世には本当の弱者なんていない」みたいなこと言うたこともあったよ。しゃーけどそれは自分自身がその弱者やねんちゅーことを認めたないから、そういう理屈をコネてただけやったんやて、今では思うよ。おれかて自分のこと「弱者」やなんて認めるのは、イヤやもん。イヤやて思てきたもん。

おれはなー。

あの小説に出てくるハナダ君やシンヤ君と、同んなし思いをしながら生きてきたんや。

おれらが弱者とちゃうかったら、誰が弱者やちゅーねん。

おれらよっか、ずっと弱い立場の人らかて、いたはるよ。そんなん、分あったあるよ。しゃーけど、「その人らより強いから」みたいなこと言うて、その人らとおれらのこと分断するのん、やめてくれへん?カネもチカラも持ってて、おれらから見て明っきらかに「強い」じぶんらが、おれらのことを「弱者と違う」ちゅーねやったら、おれらよりずっと「弱い」立場の人らも、やっぱり「どっかの外国の人と比べたら幸せ」みたいなこと言われて、「弱者」とは認められへんことになるのんと違うん?ほんでその「どっかの外国の人ら」のために、じぶんら、何かやってあげたこと、あるのん?同んなじその口で、じぶんらいっつも、「外国人が増えたら犯罪が増える」みたいなことばっかし言うてるのんと、違うのん?

あんなーおれらはなー。じぶんらみたいな人間から「強い」て認めてもろたかて、いっこもうれしないねん。「強いからイジめても平気だよね」ちゅーて叩かれまくるのん、もう要らんねん。なあ。じぶんら、ひょっとしておれらに、ビビっとんのんと違うん?せやから「徹底的に叩き潰さな落ち着かへん」のんと違うん?部屋に飛んでるハエみたいに。台所に隠れてるゴキブリみたいに。おれらいっぺんでもじぶんらのことそおゆう風に扱ったことって、あったか?なあ。「敗者のための時間はない」てか。えらいアッサリ言うてくれるやん?えらい気持ち良さそうに言うてくれるやん?じぶんらおれらのこと弱者とは認めへんくせに、敗者とは言うんやな。敗者は、必要やもんな。敗者がいてへんかったら、じぶんら勝者になられへんもんな。チャンピオンになられへんもんな。なあ、じぶんら、どんだけおれらのこと虫ケラ扱いしてくれてんねん?

お前ら、敵じゃ。

れっじあげいんすざまっしーんの人らが「のーゆあえねみー」ちゅー歌の中で、言うてはったわ。「あなたの敵を知りなさい」て。おーろぶいっちゃあめりかんどりぃなやつらが、ほんまの敵やねんて。お前ら、モロそれやんけ。

おれら、この際ハッキリ言わしてもらうけど、弱者でええわ。敗者でええわ。て言っか、敗者がええわ。

お前らみたいな人間にだけは、死んでもなりたないって思てるからな!





何が「世界中の一人ひとりがチャンピオン」だ。

しょーもないウソを、つくなっ。





大体、「No Time For Losers」って、どおゆう意味なのだろうか。「負け犬に用はない」みたいに翻訳されているのを見たことがあって、これはこれで充分ひどいって言うか、いくら「翻訳」であれそういう言葉を平気で口にできる人間の感性というものを私は疑うのだけれど、まあ内容的に大して違ったことは言っていないにせよ、その翻訳の仕方は幾分「不正確」なのではないかと感じる。だって、「負け犬に用はない」んだったら、初めから「負け犬」のことなんか、歌にしないと思いません?「負け犬ども」に「聞かせたい」からこそ、こういう歌詞が出てくるわけなんでしょ。聞いてるよ。ぼくたち。

No Time For Losers」を「直訳」すると上記のように「敗者のための時間はない」となるわけだけど、客観的な言い方でずいぶん奇妙なことを言ってくれるものだ。「時は金なり」みたいな言葉は確かにあるけれど、時間というものはその人が生きている限りその人について回るものであって、カネで買うことができるものでもなければ、何かいいことをすればそのごほうびにもらえるようなものでもない。うれしい時にも悲しい時にも、時間というものは「平等に」流れている。もしそれが「止まる」と言うか「消えてなくなる」ようなことがあるとすれば、それはその人にとっては、その人の人生が終わる時にしか起こりえない。

つまりこの歌詞は「負け犬の人生はその時点で終わっている」という意味だとしか、解釈のしようがないのである。これって事実上、「負け犬は死ね」と言ってるのと、何も変わらないのではないだろうか。

インターネットの時代になってから本当に頻繁に見かけるようになった、目を覆いたくなるような言葉の暴力として、「自殺しろ」という言い方がある。相手のことがそんなに目障りだと思うなら、せめて「殺してやる」ぐらい言ってみろと思う。でもこういう言葉を使う人間というのは、「殺す」と言ったら自分が罪に問われるし、自分の言葉に責任を取らねばならなくなるしで、そうなるのはイヤなのである。それにも関わらず、そいつは相手に「死んでほしいと思っている」のである。だから狡猾にも、「死ぬこと」さえ相手の「自己責任」にしてしまえるような、「自殺しろ」というフレーズや、あるいは「生きてても仕方ないんじゃない?」みたいな「客観的な言い方」で、計算に計算を重ねて相手のことを「攻撃」するのだ。本当に、卑怯なやり口なのである。そして言うまでもなく、と言うか言って分からないやつには死ぬまで分からないのだろうけれど、と言うか分からないフリをし続けるのだろうけれど、そうした言葉には実際に人を殺す力があるし、それで死んだ人、とは私は言わない。殺された人も、世の中には数え切れないぐらい存在する。

No Time For Losers」というのは、それとどこが違うというのだろうか。そういう信条を持って生きるのは勝手かもしれないけれど、それを口に出して他人に向かって言う必要が、どこにあるというのだろうか。お前ら、おれらに「死んでほしい」て思てるやろ。死んだらへんからな。そんで、死なへんかったら死なへんかったで、「強いじゃん」とか「元気じゃん」とか「その調子」とか、心にもないこと言いながらあーうっとーしとか思てんねやろ。もう、丸わかりやねん。うんざりするくらいこちとら経験しとんねん。そんで、どんだけ経験しても、慣れへんねん。一回一回、ココロ殺されとんねん。

何でお前らみたいなモンの言うことでそないに傷つかなアカンくなるのか、教えたろか。

お前らみたいなやつらとでも、できることなら力合わして、一緒に生きて行きたいて思てるからやないかい。

おれらはお前らがどんだけ極悪であったとしても、「死ねばいい」とか「死んでほしい」とか思ったこと、いっぺんもあれへんよ。正当防衛で殺してまうようなことは、ありえへんとは言わんわ。正直むかついてるし。せやけど、お前らの誰かが自殺しそうなぐらい追い詰められてたら、おれらは絶対助けに行くよ?

せやのにお前らの方ではおれらに対していっぺんもそんな風に思てくれたことないやろ。ひたすら見下しとるだけやろ。死ねばいいとか、いなくなったらいいとか、そんな風にしかおれらのこと見てへんやろ。それはおれらが「こういうやつら」やからやろ。

それが悲しいて口惜しいて情けなあてむかつくちゅーとんのんじゃい!

しかもこの歌詞、「No Time For Losers」の後に「'Cause we are the champions of the world」と続くのである。この「'Cause」にはどういう意味があるのか、説明してもらおうではないか。「敗者のための時間はない。なぜなら我々世界のチャンピオンだから」と訳した場合、前後の文には「つながり」がなくなってしまい、「なぜなら('Cause)」という言葉は意味をなさないことになる。ここは明らかに「敗者のための時間はない。なぜなら我々世界のチャンピオンだから」と言っているのである。つまりどういうことかというと、

我々以外の人間がチャンピオンであれば、「No Time For Losers」なんてことは言わないかもしれない。でも我々がチャンピオンである以上は、「No Time For Losers」と言わせてもらう。

と言ってるとしか思えないわけなのだ。そんな風に確信犯的に「弱者を叩くこと」を自分の思想信条にしている人間たちが、「世界の覇者」になることを目指している歌なのである。この歌は。どれだけ極悪なのだ。むかつくからあんまり深く考えないようにしてきたけど、まともに考え出したら考えれば考えるほどむかついてくるやんけ。

「世界中の一人ひとりがチャンピオン」だと言っていると称するこの歌に、それと真っ向から矛盾するような「敗者のための時間はない」というフレーズが入ってくるのは、なぜなのか。それは明らかに、歌い手にとって「必要な」フレーズだから、入ってくるのである。この歌には「チャンピオンであることの素晴らしさ」が歌われているわけだけど、この歌い手にとってはその「素晴らしさ」が、「敗者を踏みしだく歓び」と、切っても切り離せないものになっているとしか思えないのだ。だから「We Are The Champions」という歌は、「No Time For Losers」というフレーズが「なくても成立する歌」では、決してない。むしろ歌い手の「訴えたいこと」の比重は、「We Are The Champions」の部分より「No Time For Losers」の部分に置かれているのではないか、と私なんかは感じてしまうぐらいである。だから「We Are The Champions」の部分ではなく「No Time For Losers」の部分を切り取った下図のようなポスターが、「この歌のポスター」として立派に「成立」してしまうことになるのだ。



…フレディ·マーキュリーがヒトラーとスターリンを足して2で割ったようなルックスをしていることは彼氏の責任ではないにしても、これってもはや、大日本帝国やナチスのポスター「そのもの」なんではないだろうか。(ちなみに「大日本帝国」と「ナチス第三帝国」を「並べて書く必要」が生じた際には、必ず「大日本帝国」を先に書くというのが、私の小さなこだわりである。ナチスのことなら自民党の政治家みたいな人間だって「悪い」と言うけれど、歴史における自分たち自身の過ちを反省することから始めなければ、「日本人」に「ナチス」を批判できる資格など、あるはずはないのだ)。「帝王」の証たる「王冠」かざしてるし。彼氏におそらく「悪気」というものは、全然ないのだと思う。中国大陸で殺戮を続けていた日本軍兵士や、ユダヤ人絶滅収容所の管理運営に携わっていたナチスの事務職員たちに、「悪気」はこれっぽっちもなかったであろうことと同様にである。かれらを突き動かしていたのはむしろ「崇高な使命感」と言うべきものだったと思うし、それはこういう歌をわざわざコンサートの最後に歌ってみせていた彼氏にしたって、そうなのだ。だから「悪気はない」などということは、この歌を免罪できる理由には全然ならない。

フレディ·マーキュリーという人が個人的に「I am the champion」とイキっているだけの歌だったとすれば、この歌はまだ「罪のない歌」だったと言えるだろう。「裸の王様」というものがどこか「滑稽」であるのと同様に、我々はそのフレディ氏の姿を、愛情を込めて微笑ましく見守ることだって、できたことだろう。けれども主語が「We (我々)」になっている時点で、この歌は自分たちが「チャンピオン」であることの快感をむさぼるために「敗者の血」を求めてやまない、ある種の選民願望によって結ばれた人間集団のための「アンセム」になってしまっている。そんな人間たちが支配し君臨する世界に、私は住みたいとは思わない。

聞けばこの曲はドナルド·トランプの大のお気に入りになっているのだそうで、以前に取りあげたストーンズの「無情の世界」と同様、その集会等々で繰り返し使われる曲となっており、ブライアン·メイはクイーンの著作権を引き継ぐ者として一応最低限の抗議はしているらしいのだが(ロックというものの歴史から考え合わせるなら、トランプみたいなやつには「反対するのが当たり前」なのであって、トランプを公然と支持している「アーティスト」などというものは、私の知る限りではKISSぐらいしかいない。だから私はKISSなどという集団の音楽は、死んでも聞かない)、それでもその「抗議」が「無力」にしか響かないのは、トランプという人間がむしろこの歌の精神を「立派に」体現しているからに他ならないのである。この歌はもともと「そういう歌」なのだ。トランプはそれを「正しく」使っているだけなのであって、それに文句を言いたいのであればこういう歌を作ったこと自体を恥じてもらうしかないと私は思う。

我々が現在生きている世界は、その全体がひとつの巨大な「競争社会」を形成しており、そこにおいて「No Time For Losers」という言葉は、好むと好まざるに関わらず誰もが受け入れざるを得ない「真実」の響きを持っている。部活をやらされていた時や受験の時、人の選挙を応援する時、そして皮肉なことに自分のための表現活動をやっているはずの時にさえ、私自身、「No Time For Losers」という言葉はこの社会を支配する「真実」なのだということを、何度となくいろんな形で思い知らされてきた。フレディ氏だって、同じだろうと思う。「No Time For Losers」という言葉には何度となく「口惜しい思い」をさせられてきたに違いないはずだと思うし、彼氏はそのたびに「No Time For Losers」という言葉を自分自身に言い聞かせて、自分を奮い立たせねばならなかったはずだろうと思う。それ自体は、この社会に生きる誰もがほぼ「等しく」経験させられていることだ。私だってその気持ちを、「分からない」とは言わない。

けれどもこの歌を歌っている時の彼氏は、誰もが認める「チャンピオン」なのである。せっかく「チャンピオン」になれたというのに、自分が言われてあれほどイヤだったはずの「No Time For Losers」という言葉を、どうして今さら人に向かって投げつけたりとか、するのだろう。できるのだろう。ひょっとして「復讐」のつもりなのだろうか。でも「復讐」なら、彼氏のことを笑ったり苦しめたりしてきたその人間たちに直接叩き返せばいいのであって、その人間たちと同じように「自分より弱い立場」にある人たちを「攻撃」の対象にすることで、一体何が変わると言うのだろうか。ボブ·マーリイも歌ってるぞ。「もしもあんたが強い者だというのなら、弱い者のことを助けろよ」って。自分が「チャンピオン」という「一番強い者」の位置にまで登りつめた以上は、自分や他の人間のことを苦しめ続けてきた「No Time For Losers」という「間違ったルール」なんて、その「力」で「変えて」くれたらいいではないか。

けれども、「競争社会の掟」に従って「チャンピオンの座」に登りつめた人間に「守る」ことができるのは、最終的にはその「競争社会の掟」だけなのであって、「人の命」ではないのである。そしてこの歌の場合は、「競争社会の掟」を「変えたい」と思うどころか、その「掟」が保証してくれる「権利」にもとづいて弱者のことを踏みにじることが楽しくて仕方ないと思っている人間が、歌っているのだ。そうでなければどうして「No Time For Losers」などというフレーズを「わざわざ」歌詞の中に入れ込むだろうか。そのことがハッキリしている以上、こんな歌のことを我々弱者が「まともに」取り扱ってやらねばならない必要など、もはや一片も存在しない。この歌が我々のことを「全否定」してくれているのと同じように、我々の方でも自分たち自身の全存在をかけて、この歌のことを「否定」してやる以外にない。つまりは「戦う」しかない。

「No time for losers 'cause we are the champions」というふざけた歌詞の中の「We (我々)」という言葉に、我々のことを勝手に含めるのは、やめて頂きたい。我々はそんな恥知らずな人間ではない。

私は、子どもの頃から、「競争」というものが大嫌いだった。

いや、正直に書く必要があるだろう。「自分が勝てる分野における競争」というものは、大好きだった。そこにおいて人に「勝つ」ことの「よろこび」というものも、身をもって経験してきたし、その「よろこび」は一回経験してしまうと、やめられなくなるタイプのものでもあった。私には弟がいるけれど、一歳二歳という年の違いが決定的な「力の違い」としてあらわれる子ども時代において、その「気持ちよさ」を味わうためだけに、その弟のことを「自分の自己実現のための道具」として取り扱い、いたぶりまくってきたという自覚が、私にはある。だから私は今では弟に頭が上がらない。

けれども基本的なところで「競争」というものを「好き」になることができずにきたのは、極めて単純に、「そこでは勝てない場面の方が圧倒的に多かったから」なのだと思う。そして「負けた人間」が受けることになる屈辱や理不尽な待遇というものを、たぶん他の人間よりも多く経験させられてきたからなのだと思う。だから物心がついて以降の私は、「自分が人に勝てることで頑張ればいいじゃないか」みたいな年長者たちからの「忠告」も、全然「素直に」受け止めることができなかった。私がイヤだったのは「競争」それ自体であり、それに参加を強制されるということ自体が、私にとっては最大の「屈辱」だった。

人はそんな私に、様々な言葉で「競争の素晴らしさ」を教え込もうと、無駄な試みを続けてきたものだった。いわく、「競争というものがあるから人間は『進歩』してきたんじゃないか」とか。「お前だって他の億千万もの精子たちとの競争に勝ち抜いてきたからこそ、人間として生まれてこれたんじゃないか」とか。そして「今だって他の生き物の命を奪うことを通して、初めて生きてるんじゃないか」とか。しかしそれらの何が一体「素晴らしい」というのか、私には今でも全く理解できないし、また理解したいとも思えない。

他の生き物の命を奪うことを通してしか生きて行けない、ということは、少なくとも今のところ人間の「業」と言うべきことかもしれないけれど、人間というものは「助け合って生きる」ことができるからこそ、「人間」なのではないのだろうか。「争わなくても生きて行けるはずの世界」が「争いを求めることでしか生きて行けないルール」にもとづいて運営されているのだとすれば、そんなのは、修羅道ではないか。

競争がなければ進歩もない、みたいなことを言うけれど、その「進歩」というのは一体何なのだ。丸く有限な地球の上で人間たちが国ごとに分かれて競争で「進歩」を追求してきたそのおかげで、今ではその「自分たちが生きて行くための地球環境」そのものがドン詰まりを迎えていることは、子どもだって理解している。と言うか、子どもこそが一番ビビッドに感じ取っている。その当たり前の感受性を「矯正」してまで「競争」を続けさせることの、どこに「進歩」を見出せと言うのだろうか。人間に「進歩の余地」が残されているとすれば、まずは「そういうことをやめること」から始める以外に、どうしようもないではないか。

そんなことは分かりきっているにも関わらず、人間にそれをやめることができないのは、なぜなのか。若い頃の私はずいぶん小難しく考えていたものだったが、今ではその理由は極めて単純な話なのだということを、その単純さゆえに、骨身にしみて、思い知っている。競争社会の「上」に立っている人間たちというのは、人を踏みにじって生きることの「気持ちよさ」を知り抜いているものだから、その「楽しみ」を手放したくない。それだけの話なのである。

我々が「力を合わせること」さえできたなら、そんなやつらに「勝つ」ことは、決して難しいことではない。


Union Is Strength!

我々は「争いのない世界で生きたい」と願うからこそ、「戦わなければならない」のだ。そして自分たちだけが「チャンピオン」となることを求め続けている人間たちに、「勝つ」ことが必要なのだ。「We Are The Champions」みたいな歌を大合唱できる人間たちというのは、その数だけは多いように見えても、その内実は「自分だけがチャンピオンでありたい」というエゴイスティックな願望しか持ち合わせていない、バラバラの個人主義者の集合体であるにすぎない。かれらが「団結」することができるのは、「弱者を叩く時」だけなのである。そんなやつらに「We(我々)」という美しい言葉を使っていい資格など、あるわけがないのだ。使っていいのは「我々」だけである。「世界のチャンピオン」たちがその刹那の快楽をむさぼるために、さんざいじめたり笑い者にしたり兵隊扱いしたり使い捨てにしてきた「弱者」であるところの「我々」だけが、「我々」という言葉を使っていいのだ。「No Time For Losers」という言葉で我々のことをさげすむようなことができる人間たちというのは、絶対に「自分のことしか考えていない」のである。本当に文字通りの意味で「世界中の一人一人がチャンピオン」になれる世界というものを、心の底から「求めている」人間たちが、「我々」の他のどこにいると言うのだろうか。

「我々」が「我々」になることは、簡単なことではない。「No Time For Losers」などというふざけた言葉で脅迫されて、物心ついた時から周りにいるのは「仲間」ではなく「競争相手」ばかりで、そして「さらに弱い者を叩く」ことの「気持ちよさ」をも「アメ」として教えこまれ、「学校」や「会社」や「国家」のためにしか「力を合わせること」を教えられず、それぞれがバラバラにされて一人ぼっちで生きてきた「我々」が、「自分たち自身のため」に「力を合わせること」を「学ぶ」のは、決して容易なことではない。この文章を私は今スマホに向かって一人で書いているし、それを読んでいるあなたも多分その画面を一人で眺めているはずである。そしてそのことにどれだけの時間とエネルギーを注ぎ込んだとしても、私やあなたが「一人」である限り、「我々」はやっぱり「無力」なのだ。それにも関わらず、「力を合わせること」さえできれば、「我々」は絶対に「勝てる」はずなのである。私は少なくともそのことにだけは、まだ絶望していない。

だからまずは東京オリンピックをぶっ潰すことから始めよう!ぐらいのことを本当は書きたいのだけれど、まあ私自身にはもう少しだけ「うたを翻訳すること」をこのブログで続けていたい気持ちがあるもので、あんまり具体的なことについては、あえて書かないことにする。けれどもこれだけは言えることとして、「我々」は「世界のチャンピオン」たちに、いつまでも「No Time For Losers」などと思い上がった言葉を吐かせ続けているわけには、行かないのだ。「力を合わせること」さえできれば我々は絶対に「勝てる」のだし、誰も「No Time For Losers」と言われたりしなくて済むような新しい世界を築きあげてゆくことだって、「我々」になら必ずできるはずなのである。

その時こそ我々は、この歌を一番美しい形で葬ってやることができることだろう。

We are the losers, my friends,
And we'll keep on fighting 'til the end.
We are the losers.
We are the losers.
No time for champions
'Cause we are the losers of the world.

その日が来るまで私はこの歌の歌詞をそんな風に置き換えて、心の中で口ずさみ続けることにしていたいと思う。

私と同じ夢を見ながら、いつかひとつの世界で力を合わせて生きてゆくことのできる未来が訪れてくれることを信じて、世界中で戦い続けているすべての人たちへの、ありったけの連帯を込めて。





…以上、映画「ボヘミアン·ラプソディ」の上映をきっかけに何となく始めたクイーン特集、こんな形で終わらせることになろうとは自分でも全然思っていなかったのですが、言いたいことは大体言い終えましたので、後は「本来の仕事」に戻ります。このブログのテーマはあくまで「うたを翻訳すること」です。そっちはそっちで、「許せないと思ってる歌」だからこそ、きっちりやっておくことにしたいと思います。


We Are The Champions (Live Aid)

We Are The Champions

英語原詞はこちら


I've paid my dues
Time after time.
I've done my sentence
But committed no crime.
And bad mistakes ‒
I've made a few.
I've had my share of sand kicked in my face
But I've come through.

自分のやったことのツケは
自分で払い続けてきた。
何度も何度も果てしなく。
おれは自分の時間を
牢獄で過ごしてきた。
何の罪も犯してはいないけど。
そしてひどい間違いも
何度かやらかした。
蹴りつけられた砂に
顔面をうずめたこともあった。
けれどもおれは
やりぬいてきた。


(And I need just go on and on, and on, and on)
(そしておれにはただ前に向かって
進み続けること、続けること
続けることだけが必要なんだ)


We are the champions, my friends,
And we'll keep on fighting 'til the end.
We are the champions.
We are the champions.
No time for losers
'Cause we are the champions of the world.

おれたちはチャンピオンだ。
友よ。
そしておれたちは最後まで
戦い続けるんだ。
おれたちはチャンピオンだ。
おれたちはチャンピオンだ。
敗者のための時間はない。
だってこの世界のチャンピオンは
おれたちなんだから。


I've taken my bows
And my curtain calls.
You brought me fame and fortune, and everything that goes with it.
I thank you all.
But it's been no bed of roses,
No pleasure cruise.
I consider it a challenge before the whole human race,
And I ain't gonna lose.

おれは深々とお辞儀をし
そしてカーテンコールが始まる。
富と名声
そしてそれにまつわるすべてのものを
おれにもたらしてくれたのは
みなさんです。
心から感謝します。
けれどもここまでたどり着くのは
バラの花びらのベッドで眠ったり
豪華客船でクルーズしたりするような
優雅な道のりじゃなかった。
おれは自分たちのやってることは
全人類を前にした
ひとつの挑戦なんだと思ってます。
そしておれは
絶対負けたりしません。


(And I need just go on and on, and on, and on)
(そしておれにはただ前に向かって
進み続けること、続けること、
続けることだけが必要なんです)


We are the champions, my friends,
And we'll keep on fighting 'til the end.
We are the champions.
We are the champions.
No time for losers
'Cause we are the champions of the world.

おれたちはチャンピオンだ。
友よ。
そしておれたちは最後まで
戦い続けるんだ。
おれたちはチャンピオンだ。
おれたちはチャンピオンだ。
敗者のための時間はない。
だってこの世界のチャンピオンは
おれたちなんだから。


We are the champions, my friends,
And we'll keep on fighting 'til the end.
We are the champions.
We are the champions.
No time for losers
'Cause we are the champions...

おれたちはチャンピオンだ。
友よ。
そしておれたちは最後まで
戦い続けるんだ。
おれたちはチャンピオンだ。
おれたちはチャンピオンだ。
敗者のための時間はない。
だっておれたちこそが
チャンピオンなんだから…

=翻訳をめぐって=

I've paid my dues

「due」は「当然支払われるべきもの」を意味する極めて抽象的な名詞で、「税金」や「手数料」という意味で使われることもある。「自分の払うべきツケ」という形でここでは訳したが、「自分は義務を果たしてきた」「やるべきことをやってきた」みたいな訳し方も、ありうるかもしれない。

I've done my sentence
But committed no crime.

「sentence」には「刑罰」という意味があり、海外サイトでは、「自分がチャンピオンとなるまでの苦難に満ちた日々のことを、彼は牢獄に例えているのだろう。彼がその牢獄につながれることになった唯一の理由は、チャンピオンになることを夢見たという"罪"のためだったのだ」という感じの解説が施されていたので、それを参考に上記のように意訳した。

ただ、「sentence」には「文章の一区切り」という意味もあるもので、最初私には「人生の一区切りを終えた」みたいな感じで聞こえたし、そう解釈できる幅もあるのではないかと思う。その場合、後段の「But committed no crime」というフレーズは、「sentence」が「刑罰」を併せ持っていることと引っかけた一種のシャレだということになる。

仲井戸麗市チャボという人が、「何の罪もないはずなのに/何らかの罰を受けてる/自分でまいた種でもないのに/咲き乱れた花/摘まされる」という歌を歌っており、何となくこの歌に似ているのを感じたが、フレディ氏の場合は「自分が好きこのんで牢獄にいた」という感じなので、たぶん関係は、ないのだろう。(でも書くのだけれど)。

And bad mistakes ‒
I've made a few.

全体を通してこの歌はフランク·シナトラの「My Way」という歌とすごく雰囲気が似ており、「My Way」は「My Way」で自己陶酔的なむかつく歌なのだが、特にこの部分は「Regret ‒ I have a few」という「My Way」の一節と、言葉遣いまでが同んなじである。パクっているのか「オマージュ」なのかは、私は知らない。

I've had my share of sand kicked in my face

…受験生泣かせのややこしい構文だ。直訳は「私は自分の顔に蹴りつけられた砂の、自分の分の分け前を得た」。つまりフレディ氏は「顔面に砂を蹴りつけられた」のだけど、あんな背の高い人の顔面にまで砂なんて蹴りあげられるはずがないから、これをやられた時フレディ氏は、「よつんばい」かもっと屈辱的な姿勢をとらされていたのだと思う。「絵」が浮かんでくるような歌詞である。

But I've come through

「come through」は「(困難や危険や病気を)切り抜ける、耐え抜く、持ちこたえる」「やり遂げる、成し遂げる、約束を果たす、成功する、期待に応える、期待に沿う」「生き延びる、生き抜く、生き残る」等々といったニュアンスを併せ持つ極めて幅の広い言葉であり、どんな言葉で翻訳してもいいのだが、「生き残る」という言い方だけには私は虫唾が走る。「他の人間を殺してでも」というニュアンスが伴うからである。でも私がむかつくからといって、この歌詞が「そういう意味にも解釈できるフレーズ」であることに、変わりはない。

And I need just go on and on, and on, and on

何か、SMAPが解散する直前に最後にメンバー全員でテレビカメラの前に立って声明みたいなのを発表した時に、木村拓哉が口にしてたフレーズが思い出されますよね。ってこれはただの感想。共通点は「ぜんぜん心に響かない」ということ。

I've taken my bows…

この二番の歌詞の全体は、フレディ氏がステージから観客に向かって語りかける「てい」になっている。

bed of roses

「安楽な境遇」のタトエに使われる慣用句。ボンジョビの歌のタイトルにもなってましたね。日本語では「乳母日傘」に相当する言い方だと思うのだけど、これを「おんもひがさ」と読めばいいのか「おんばひがさ」と読めばいいのかいまだに「正解」が分からないので、私はこの言葉を使ったことがない。

I consider it a challenge before the whole human race

…この人にとって「全人類」が「必要」なのは、「自分の観客として」でしかないのだな、とつくづく思ってしまう。何が「世界中の一人一人がチャンピオン」だ。しつこく私は言わせてもらうぞ。

'Cause we are the champions...

最後が「…」で終わっているのは、他の部分では歌われている「of the world」という決めの言葉が、最後でだけは歌われていないからである。なぜフレディ氏は「champions」で「止めた」のだろうかということが、ファンの人たちの間では「謎」として語り継がれているらしいけれど、私自身はこの歌に全く思い入れがないもので、どーでもいー話やないかいとしか思えない。たぶん「宇宙」とか「三次元」とか、「もっと大きな概念」が想像できる余地みたいなのを作っておきたかったのではないだろうか。知らんけど。(←こういうのが「知らんけど」の「理想的な使い方」です)


Theピーズ 底なし

ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Released: 1977.10.7.
Key: D→E