華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

ハイサイおじさん もしくは沖縄音楽との出会いをめぐって (1969. 喜納昌吉)



年の瀬が近づいてきたからか、「今年の汚れ、今年のうちに」という昔々のテレビコマーシャルのフレーズが、無性に頭の中をチラつくようになり出している。「汚れ」という言葉で片付けてしまうのはあんまりな気もするにせよ、「やりのこしていること」というのは実際、山ほどある。そういうのを、全部というわけには行かないかもしれないにしても、少しずつでも終わらせていかないことには、「おせちもいいけどカレーもね」みたいな満ち足りた気持ちで新年を迎えることも、ままならないというものだ。それにつけても、冒頭からえらくまだるっこしくて言い訳がましい文章だな。

春先にザ·バンドの「I Shall Be Released」の翻訳記事を書いたことをきっかけに、このブログでは私の中でその曲と切っても切り離せない思い出になっている、1994年5月のスーパーコンサート「GME94 -AONIYOSHI-」のステージを翻訳つきで完全に再現しようという企画が、始まっていたはずだった。(経過をめぐる詳細は、その記事を参照されたい)
nagi1995.hatenablog.com
けれどもそれから間もなくしてパレスチナであまりにショックな出来事が起こったためにしばらく何も書けなくなったり、「ミチコオノ日記」の作者の人が「」という新たな連作短編を描きはじめてそれに入れ込んだり、「ラストワルツ」を観に行ったり「ボヘミアン·ラプソディ」を観に行ったりといろんなことに心を奪われている間に、気がつけば「AONIYOSHI」特集は半年以上にもわたって中断されたまま、放ったらかしの状態になってしまっていた。今年も残り一ヶ月。今さらながら何としてもこの企画を終わらせてしまわないことには、私は年を越せないし、自分の青春に決着をつけることができる日も、どんどん先送りされてゆくことになってしまうだろう。


GME94.完全版

そんなわけで、この記事から初めて読み始める方もいることだろうし、まずは「前回までのあらすじ」をザッと振り返っておくことにしたいと思うのだけど、1994年の春のこと。私のホームタウンだった奈良県奈良市は東大寺大仏殿前において、ユネスコ主催のとんでもないコンサートが開かれるという情報が街を駆け巡り、地元のコネで首尾よくタダ券を手に入れた私は、その三日間の公演の全てをこの目に焼きつけるという、一生分の僥倖にありついたのだった。上の動画はおそらくフランスの人がアップロードしてくれたと思われる、三時間にわたるその一公演の「完全版」の映像である。時間と気持ちに余裕のある方は、とりあえず虚心坦懐にそれを鑑賞するところから始めて頂ければいいのではないかと思う。

でもってこのブログでそれを再現しようという企画は、まだその最初の一時間分ぐらいのところにまでしか行っていない。コンサートは最初、東大寺の坊さんたちによる「般若心経」の読経で幕を開け、ユネスコ主催のイベントらしくどんな音楽のカテゴリーにも分類できないような無国籍風のオープニング演奏が15分ぐらいにわたって繰り広げられた上で、一番に登場したのがオーストラリアからやってきたINXSのみなさん。次にステージに上がったのが日本代表(という位置づけだったのだと思う)玉置浩二さん。そして布袋寅泰氏にかしづかれるようにしてジョニ·ミッチェルが登壇し、多彩なサポートメンバーと共演しながら4曲を歌った。翻訳記事として今までに完成しているのは、大体ここまでである。

そんでもって、上の動画の53:30のところからウェイン·ショーターと近藤等則による凄まじい即興演奏の競演が繰り広げられ、さらに57:10 〜1:04:05の間では、アイルランドからやってきたチーフタンズが、当時ユーロビジョンを通じて世界に初公開されたばかりの「リバーダンス」の衝撃を垣間見せてくれるような演奏を、披露してくれた。そうした「歌以外の部分」の思い出については、以下の記事にまとめてある。
nagi1995.hatenablog.com
そしてその後にステージに上がってきたのが、ライ·クーダーと喜納昌吉&チャンプルーズだった。今回の記事は、ここから始まる。下のダイジェスト版の動画では、5:15から始まる部分である。


Shoukichi Kina & Ry Cooder '94

私が人生で最初に出会った「沖縄的な歌」というのはジッタリンジンの「にちようび」だったのではないかと思っていたりするのだが、個々のメンバーの皆さんの沖縄との関係までは知らないにしても、あの人たちは基本的に奈良県大和郡山市のバンドなわけだし、メロディ以外の部分に「沖縄的な要素」が含まれているわけでもない。喜納昌吉&チャンプルーズをテレビで初めて見たのは紅白歌合戦で「花」が歌われた1991年のことで、「本土」の小学生だった私は他の歌謡曲と一線を画するその演奏にかなりの衝撃を受けたのだけれど、歌詞が日本語(ヤマトグチ)で書かれていることもあり、あれが「沖縄の歌」であるという印象は、あまり感じてこなかった。

THE BOOMによる「島唄」が大ヒットしたのは「AONIYOSHI」の前年にあたる1993年のことで、同年にはNHKが沖縄を舞台にした「琉球の風」という大河ドラマを放映しており、りんけんバンドやネーネーズといった沖縄のいくつかのバンド名に、中学生だった私はそれを通じて初めて出会った。今にして思えば当時の日本「本土」は、内容は不明ながらも一種の「沖縄ブーム」みたいなものに包まれていたのではないかという感じがする。けれども当時の私というのは、「ブーム」みたいなものを感じ取れば感じ取るほど、そこから離れて行こうとする性癖を持ったイヤなイヤな中学生だった。「沖縄音楽」という未知で巨大な一領域が、手を伸ばせば触ることができそうなところにまで向こうから近づいてきてくれていることを気配では察知しつつも、自分からそこに手を伸ばそうという気持ちになるまでには、「何かのきっかけ」が必要だったのだと思う。

その「決定的なきっかけ」になったのが、私にとってはあの日東大寺の大仏の前で「花」に続いて直に聞くことになった、「ハイサイおじさん」だった。以来私は、それこそ引きずり込まれるようにして、沖縄の音楽に夢中になった。当時はまだインターネットもなかったし、店に並んでいるCDの種類も非常に限られていたけれど、聞ける条件のあるものは何でも聞いた。笑点で「なんでかフラメンコ」の堺すすむという人が、「ドレミファソラシド」から「レ」と「ラ」を外すと沖縄の音階ができあがるということを喋っていたのを聞き、「そうだったのか!」と思って「レ」と「ラ」を使わずにギターを弾く練習にいそしんだことも覚えている。すべては「ハイサイおじさん」みたいな音楽を自分もやってみたい、という一念からだった。

あの「ハイサイおじさん」は、とにかくスゴかった。チャンプルーズのお姉さんたちが一回「はぁ!」と言うたびにステージでは大爆発が起こっているような感じがしたし、歌の合間に喜納昌吉がハイジャンプするとそのたびごとに時間が止まり、世界中がスタッカートを刻みながら踊っているのではないかという感じがした。とりわけ忘れることができないのは、他のミュージシャンの演奏には見向きもせずに一貫して退屈そうな表情を浮かべていた周囲のエックスファンのお姉さんたちが、「ハイサイおじさん」が始まった時ばかりはものすごい歓声をあげて「一斉に踊り出した」ことだった。多少の偏見も混じっているかもしれないけれど、あの人たちの大半の意識の中には「エックスファンである自分たちがいみじくも他のミュージシャンの音楽に心を動かされるようなことはあってはならないコト」だという「心のブレーキ」みたいなものが、確実に存在していたはずだと今でも思うのである。けれども「ハイサイおじさん」の前でだけは、そんな「壁」も「ジャンル」もあったものではなくなってしまうのだった。私も踊っていたし、友人も踊っていた。私は「音楽の好きな少年」ではあったけれども、それまで音楽というのは座って聞くのが「普通」だと思っていたし、それに「不自由」を感じたことは一度もなかった。しかしあの時の「ハイサイおじさん」だけは、踊らずに聞くことは「不可能」だった。私の親の世代の人たちは「ロック」という音楽との出会いを通じて「身体が解放される感覚」を初めて「知った」のだということを、いろいろな人からいろいろな形で今でもよく聞かされる。けれども私自身がその感覚を生まれて初めて経験したのは、ジャズでもロックでもなく「ハイサイおじさん」という「沖縄の音楽」を通じてだった。そのことは私という人間の歴史の中で、いつまでも消えない意味を持っている。

同じ1994年、この東大寺でのコンサートからほどなくして、私は「ハイサイおじさん」という曲と「もう一度」出会うことになる。それがテレビ大阪の「ライブY」で放映された、結成されたばかりのソウルフラワーユニオンと喜納昌吉&チャンプルーズのジョイントライブの映像だった。(「ライブY」はあの「ミュートマジャパン」と併せ、関東の人にとっては「テレビ神奈川の名物番組」だったのだという事実を私は後になってから知ったのだが、関東の人たちが当たり前のように享受していたそうした情報の本当にごく一部しか、当時の関西には回ってきていなかった)。その時の「ハイサイおじさん」は東大寺でのライブのさらに二倍くらいのスピードで演奏されており、どんな音楽よりも破壊的だった。その番組を通じて初めて知ったソウルフラワーユニオンの迫力とも相まって、1994年は完全に「ハイサイおじさんと沖縄の年」だったという感覚が、私にはある。思えば前年に解散したユニコーンの最後のツアーの様子が中継されたのも沖縄からだったし、同時期に出会ったゼルダもボ·ガンボスもあの頃は沖縄の歌ばかり演奏していた。忌野清志郎さえ当時は沖縄チックな「髷」を結って、ステージで三線を鳴らしていた。私も、私が夢中になっていた日本のミュージシャンたちも、誰もが「沖縄のパワー」に魅せられて、そこからいろんな「新しいこと」をスポンジのように吸収していた。そんな時代だったように思う。

しかしながら今になって振り返ってみるならば、少なくとも当時の私自身は、極めて「上っ面」なところでしか「沖縄」に向き合っていなかったと思うし、「影響を受けた」みたいなことを言っても、その内実は「カッコを真似していた」だけのことだったとしか、言いようがない。「AONIYOSHI」の翌年にあたる1995年9月に沖縄で発生した米兵による少女暴行事件は、日本「本土」で生まれ育った一人の人間として(むしろ「男性として」とここでは書くべきなのかもしれない)、自分が「ハマって」いたその「沖縄の文化」というものが、どのような「歴史と現実」の上に築かれてきたものだったのかということに思い至らされた、私にとって最初の経験だった。

「抑圧された人々の中から生まれる文化は、それを跳ね返して余りあるパワーと明るさを備えている」みたいな「説明」は、それまで私が好きになってきた黒人音楽やアイルランド音楽の関連書籍を通じて、何度となく目にしていた表現だ。当時の私はそれを読んで「なるほどそういうものだろう」と軽薄にも「理解」したような気持ちになっていたし、黒人音楽やアイルランド音楽のそうした側面に「共感」しているつもりにさえなっていた。けれどもその「抑圧された人々」のことを「抑圧している人間」が他ならぬ自分たち自身なのだという事実を突きつけられた時、そうした「客観的な説明」は、いったい誰にとってどういう意味を持つものだというのだろうか。第二次世界大戦が終結してから(当時で)半世紀にわたり、さらには明治政府による「琉球処分」から100年以上にわたり、沖縄の人たちが味あわされてきたあらゆる苦しみや不条理は、ことごとく我々「本土の日本人」によって作り出されたものだったのだ。

「ハイサイおじさん」という歌はどのような背景のもとでどのようにして生まれた歌だったのか、という事実を、喜納昌吉の言葉を通じて私が初めて知ったのは、イラク戦争が継続中であるにも関わらず、それに関する「ニュース」がもはやマスコミではほとんど取りあげられなくなっていた、2000年代中期のことだった。下記は集英社新書から2006年に発行された、喜納昌吉とダグラス·ラミスの対談集「反戦平和の手帖」からの、関連部分の抜き書きである。(ダグラス·ラミス氏は日本語で刊行された「世界がもし100人の村だったら」という本の監修者にあたる人だが、私がそれにいい印象を持っていないことは以前に触れた通りなので、その旨は付記しておきたい)。かなり長い引用になるが、本の宣伝も兼ねてということで、関係者各位にはご寛恕ねがえればと思う。「ハイサイおじさん」という歌を聞いたり歌ったりした経験を持つすべての人間にとって、以下のことは「知っておかねばならない事実」だと私は思うからである。

反戦平和の手帖 ―あなたしかできない新しいこと (集英社新書)

反戦平和の手帖 ―あなたしかできない新しいこと (集英社新書)

司会:今日は、終戦後からのそれぞれの体験を交互に確認していくことにしたいと思います。喜納さんの代表作のひとつに 『ハイサイおじさん』という曲があります。沖縄音楽のスタンダードとなり、全国的にもよく知られている曲ですね。志村けんが替え歌にしているから、原曲は知らなくてもメロディーだけ知っているという人も多くいると思います。あの曲は、酔っぱらいのおじさんとの会話が詞になっています。おじさんのヒゲはネズミみたいだとか、おじさんのハゲはでかいだとか、底抜けに明るい歌詞なんですが、その裏に深いメッセージのようなものがあるのでしょうか。

喜納:その話ですか。わかりました。自然と、幼少期の話になりますね。

ラミス:喜納さんは、終戦直後に生まれた世代ですね。

喜納:1948年生まれです。沖縄は戦争被害が大きかったから、戦後復興期というまだまだ貧しい時代でした。「おじさん」に出会ったのは、私が4、5歳くらいだったから、1950年代の初めごろのことではないかと思います。

ラミス:ハイサイおじさんには、モデルになった方がいるのですね。

喜納:実在します。小さいころ、隣に住んでいたんです。こちらが後から越してきて、それからつきあいが始まったのだけどね。私と年の近い子どももその家にいて、親しくしていました。初めのころはおじさんもまともだったし、家族も健全だったから普通につきあえました。でも、酒の量が日に日に増え、だんだん元気を失っていった。酒のせいで、明るいおじさんが正気でなくなっていったんです。

ラミス:何かつらいことが、あったのでしょうか。

喜納:戦争が終わって復興は進むんですが、やっぱり戦前の沖縄には戻れないんです。多くの住民は共同体を失い、生活はアメリカ化するし、ヤマトの文化も入ってくる。心の穴を埋められないうちに環境が激変してしまったものだから、おじさんみたいな不器用な人はついていけなかったのだろうと思います。

ラミス:そんな人、きっとたくさんいたんでしょうね。

喜納:当時は家を失った人たちがたくさん路上で生活していました。今でいうホームレスですね。そのおじさんが、家庭もあるのに、ホームレスの女の人を家に連れてくるようになったんです。そのころの沖縄には、男女の関係なく、身寄りも住む場所もないなんて人が、まだまだたくさんいました。よく、報道番組で難民の映像とかが出てくるでしょう。あんな感じですよ。

ラミス:面倒を見てあげよう、という気持ちなのでしょうか?

喜納:おじさんは、私に「戦前、自分は校長先生をやっていた」と言っていたんですね。そのころは信じていたけど、後で知ったらぜんぜん違っていた。実は私たち子どもの関心を引きたいがためにウソをついていたらしくて。学校の先生になるにはそれなりの教養がいるから、校長先生といえばそれだけで一目置かれたわけです。本当は、那覇の遊郭へ人を運ぶ馬車引きだったらしいんです。しかし戦争によって、遊郭も馬車引きの仕事もなくなってしまった。おじさんもきっと、喪失感が大きかったのではないでしょうか。帰るところがない女の人に、同情というか、自分の姿を重ねてしまって、放っておけなくなったのではないかと思います。

ラミス:それで、女の人を家に連れて帰った。

喜納:次第に、もめごとが絶えなくなって、家族が荒れていくんです。そんなふうになってから、しばらく経ったある日、私は事件の予兆というか、不吉なものを見てしまった。

ラミス:不吉なもの…

喜納:ある日の明け方、私は家の隣の畑で用を足していたんです。小雨が降っていたけど、ちょっとの間なので気にせずしていたら、暗がりの奥に、女の人が立っている。髪をだらりと垂らし、ずぶ濡れになりながら....。幽霊だ、とその瞬間は思ったけど、よく見ると、隣のお母さん、つまりおじさんの奥さんだとわかった。おじさんの家族がかなりの瀬戸際に来ているということを、それをきっかけに感じるようになりました。それから何ヶ月も経たないうちに、事件が起きるんです。

ラミス:事件?

喜納:学校の帰りに、おじさんの家で何か大変なことが起きたらしい、という話を聞いて、おじさんの家に寄ったんです。そして、窓の外から覗いてみたら、玄関の脇に毛布にくるまれた小さな塊がある......。警察も来ていてね、だんだんそれが子どもの死体だとわかってきた。

ラミス:そこの家の子どもですか?奥さんが殺したということ?

喜納:その毛布にくるまれた死体には、首がありませんでした。というのも、奥さんは自分の子どもをまな板に置いて、斧で首を切り落としたそうなんです。

ラミス:(絶句)

喜納:沖縄にはシンメーナべという大鍋があります。土間の台所で、薪をくべてさの大鍋で、奥さんはその中に子どもの頭を入れて、そのまま煮てしまった…。

ラミス:ああ…

喜納:そのときの彼女の言葉が強烈だったー「自分の子どもなんだから、食べてもいいでしょう!」と。最初に死体を発見した向かいのおばさんは、その1年後くらいかな、亡くなってしまいました。あの事件のショックが大きすぎて、という噂でしたね。

この事件を通して、沖縄戦で生き残った人たちが、さらに自分たちの内に残っている戦争の狂気を改めて認識したのではないかと感じました。実際、戦中、死ぬ恐怖、孤独になる恐怖に曝され、いっそのこと死んだほうがましだ、と思っていた人がいっぱいいたわけです。連綿と続く恐怖から解放されたいと。破滅を目の当たりにする恐怖に耐え切れない気持ちが狂気となり、戦争が終わっても残ってしまっていることに、多くの人が気づいたのではないかと思います。

その後、この奥さんも精神病院に入れられましたが、退院した後、自分のやったことの恐ろしさに耐えられなくなって自殺した、と風の噂で聞きました。戦争の惨さというものは、たとえば今のイラク戦争の死者が何名とか発表されますが、そういった表の数字だけで読めるものではないということです。この悲劇からわかるように、そのトラウマから見ていく必要があるということです。

ラミス:事件の後、喜納さんのお宅はどうされたのですか。

喜納:その後、そう遠くないところに引っ越したんですね。そこに、一人生き残ったおじさんが訪ねてくるようになりました。

ラミス:その後のおじさんは、どうなってしまったのですか。

喜納:なにせ狭い社会ですからね。もう、嫌われ者、村八分ですよ。ただでさえ酒飲んで迷惑をかけているうえに、あんな事件もあったから。それに、大人たちが露骨に排除するから、近所の子どもたちまでがおじさんを追いかけて石を投げたりしてからかうようになりました。

当時、私の家には、泡盛の一合瓶がたくさんあったんです。父が民謡を歌う仕事をしていましたので、謝礼として頂いてくるんです。それを目当てにおじさんは来るようになって、最初のうちはよかったんだけど、あんまり頻繁なものだから、最終的にはうちの家族からも拒絶されるんですね。

ラミス:(うなずく)

喜納:親は追い返すんだけど、でも、私はなぜか帰れとは言えなかった。そんなわけで、おじさんは私を訪ねてくるようになるんです。おじさんは、訪ねてきたことを知らせるために、『ナークニー』という民謡を歌いながら通りを歩いてくるんですね。それが聞こえてくると、私は親のいないのを見計らって、おじさんに一合瓶を一、二本いつも渡していたわけ。

ラミス:おじさんを嫌いにならなかったのですか。

喜納:おじさんは、いつも子どもたちに石を投げられていたんだけどね、あるときめずらしく怒って、反撃に出る場面に遭遇したんです。おじさんが石を投げ返すと、子どもたちはワーッと逃げた。でも実は、その石は頭上に投げていて、そのまま落ちてきた石が自分の頭にカコーン、と(笑)。その瞬間、おじさんと私の目が合ったの。滑稽さがなんともいえなくてね、それをきっかけに、おじさんと自分が深いところでつながってしまった感があるんです。

不器用で、世間にうまくなじめなくて、立ち直れない部分は誰にでもある。心のネガティブな部分ですね。子どもながらに、それを否定して向こう側に追いやって自分は違うんだと安心するのは違うのではないか、と思ったのでしょうね。誰もがなかったことにしたい地獄を、おじさんが一人で背負っている。一人で傷を引き受けている。おじさんは自分であるかもしれないのに、と。

でも、おじさんは非常に生命力のある人だった。石を投げられても、あれだけの十字架を背負うことになっても、酒を飲んで笑い続けていた。道端で寝ているところを車にひかれて、顔半分大けがをしたこともあったけど、ぜんぜん平気でね。たとえそこが地獄でも、おじさんは生きていかなければならなかったんでしょう。だから『ハイサイおじさん 』は、生命力を後押しするような曲になったのではないかと思うんです。

ラミス:この曲にどんなメッセージがあるのかなと思ったが、違うんですね。誰かにメッセージを送った曲ではなくて、おじさんに対する愛情が歌になった。

喜納:それが曲の形になったのは、13歳くらいのときだったと思います。「おじさんに、いつか曲を作ってあげるね」と約束していたんだけど、ギターを触りながら自然にできあがってしまったんですね。それが自分の音楽のスタートとなったから、結局はおじさんから貰ったもののほうが大きかったかもしれない。「♪ハイサイおじさん♪ハイサイおじさん」のメロディは天から降りてきたように自分の中に浮かんできました。次に「ありあり童、いぇー童」のところは地から湧き上がってくるようにして浮かんできたんですね。そういった記憶があります。『花〜すべての人の心に花を〜』の場合は、内から、ハートから湧いてきたんですけどね。



文中に出てくる「健全」「正気」「ホームレス」「奥さん」「狂気」といった語句は、それぞれ「障害者」や貧困者、女性に対する差別表現ですが、ここでは原文をそのまま引用しました。

また対談相手のダグラス·ラミス氏の「うなずく」という対応や「おじさんを嫌いにならなかったのですか」という質問内容にも看過できない差別性を私は感じますが、省略して引用することも改竄につながると感じましたので、そのまま引用してあります。

…喜納昌吉氏が上で語っていることについて、私はコメントできる言葉を何ひとつ持たない。私の母親は喜納昌吉と同じ1948年生まれの大阪人だが、彼女の口から上記のような壮絶な思い出が語られたことなど、私が覚えている限り一度もない。その兄さんや姉さんにあたる親戚の人たちは、空襲や学童疎開を経験している世代にあたるので、疎開先で「イナカの子どもたち」にいじめられて大変だった、というぐらいの話なら聞いたことがある。けれども「目の前で人が殺される戦争体験」というものを、自分の身の回りの人々から直接聞かされた経験は、今に至るまで一度もない。徴兵されて「外地」で死んだ人や、空襲で焼き殺された人たちはいたにせよ、アメリカ軍が大阪に上陸するようなことは「最後まで」起こらなかったし、市街地で白兵戦が展開されるようなことも起こらなかった。そして「占領軍」として居座った米軍に銃剣とブルドーザーで家を追われるようなことも、結局大阪では「起こらずにすんだ」からなのである。奈良や京都に至っては、それこそ大仏や法隆寺があった「おかげ」で、空襲の対象となることからさえ「まぬがれて」きた。

なぜ沖縄の人たち「だけ」が、そんな目に遭わされてきたのか。戦争が「終わって」からもなお一貫して、暴力と死の恐怖に苦しまされなければならなかったのか。そして今なお、苦しめられ続けなければならないのか。

すべては「本土の日本人」が沖縄の人たちを「犠牲」にして、自分たちだけの「平和」をむさぼろうとしてきた結果ではないか、としか私には思えない。その「本土の日本人」の一人としてである。

「本土の日本人」ないし「日本という国家」が、沖縄の土地と人々に対して何をしてきたのかという歴史を、要点だけでもここで確認しておく必要があるだろう。沖縄の人たちにはそもそも「日本という国家」の「一部」に組み込まれなければならない理由さえ、元々は存在しなかったのだ。

沖縄が「本土の日本人」の「支配」を受けるようになった歴史は、島津藩による1609年の武力侵攻にまで遡るわけだが、それ以前もそれ以降も沖縄は、「琉球王国」という国号を持ったひとつの独立国だった。「日本という国家」の「アイデンティティ」を形成しているところの天皇制のもとでの歴史的同一性など、沖縄の人々にとっては「全く関係ないこと」でしかなかったし、言語も文化も「似ているところ」はあったにせよ、基本的には全く違ったものだった。「本土の日本人」が沖縄のことを「日本の一部」みたいに言いなすことそれ自体が(「本土」を「本土」と呼んだりするその言い方まで含め)、そもそもは何重にも「おかしなこと」なのだ。

「琉球処分」と称される、明治政府による再度の武力侵攻を経て、沖縄は「大日本帝国」の一部として併合され、沖縄の人々は「日本人になること」を「強制」されることになった。それは同時期におけるアイヌの人々への「同化政策」とも併せ、後に台湾や朝鮮半島、さらに東南アジアの人々から、名前や文化、「誇り」に至るまでの全てを奪い尽くして「日本人になること」を強要してゆく、植民地支配の原型を形づくる「政策」だった。

戦前の日本政府による「方言撲滅運動」によって、主要に東北地方の子どもたちがどんなに傷つけられ誇りを奪われてきたかということに関する証言は、井上ひさしの「吉里吉里人」などをはじめ、多くの日本の文学作品に記録されている。我々関西人は他地方の人から「威張って方言を使う」傾向があることが指摘されているが、それは暴力によって「訛り」を「矯正」されたような経験や歴史を、我々が持っていないからなのだと思う。なぜ東北の人たちが味あわされた苦しみを我々が経験しなくて「すんだ」のかといえば、結局は近畿地方が「天皇家の地元」だからなのだろうという風にしか、考えようがない。明治政府が成立した際、太政官の位に昇りつめた岩倉具視に向かって誰が「そのウザったい公家言葉をナオせ」と直言できただろうか。「その程度の話」なのである。

同様に鹿児島弁という言葉は、ドラマだと字幕が必要になるぐらい他地方の人たちにとっては「分かりにくい」言葉であるにも関わらず、明治時代の鹿児島の子どもたちが学校で東京帰りの教員に殴られたり笑われたりしながら「方言」を「矯正」されたというような話は、一度も聞いたことがない。(一応、調べてみたところによると、鹿児島県における「共通語教育」はむしろ第二次大戦後になってから「過熱」しているらしいのだけど、それも主要には奄美などの離島地域を対象としたものだったらしい)。それは明治政府の中枢を占めていた「元勲」たちの喋っていた言葉が、他ならぬ「鹿児島弁」だったからである。その新政府に最後まで反抗し続けた東北の人たちが、結局は最後まで「いじめの対象」にされたのだ。

つまるところ、「正しい日本語」や「正しい日本文化」などというものは、そんな風にその時々で日本という社会の支配的立場にある人間たちの「感性」にのみもとづき、基本的には胸先三寸で「決定」されて「押しつけられる」ものであるにすぎない。「基準を作る側」の人間たちの心や身体は、それによって何ら痛んだり傷ついたりすることはないけれど、「基準を押しつけられる側」の人間たちは、場合によっては「死」にさえ直結するような言葉の暴力と物理的暴力にさらされ続けることを通して、自分自身を「否定」することを「強いられる」のだ。「日本語」や「日本文化」の「同一性」というものは、そのようにして「本土」と呼ばれる地域の内側においてさえ、根本的には暴力的なやり方を通じて形作られてきたものなのだということを、我々は忘れてはならないはずだと思う。

けれども沖縄の人々に対する「方言撲滅運動」は、もともと違う言語と違う文化のもとに暮らしてきた人々に対する「同化」の強要だったという点において、それとは全く異質な暴力であり、沖縄の人々のアイデンティティに対する「抹殺行為」以外の何ものでもなかった。当時の沖縄の子どもたちは、学校でうっかり島言葉を使ってしまっただけで、首に「方言札」をかけられて教室から排除される恐怖と屈辱にさらされ続けなければならなかったというし、クシャミの仕方まで「日本人らしくない」といって「指導」の対象にするような、「いじめ」としか思えないやり口が教育現場では平気でまかり通っていたという。沖縄の人々を決して「日本人」とは認めないくせに、「日本人以上に日本人らしくすること」を強要することが、「日本という国家」の一貫したやり口だったのだ。そしてその暴力の最たるものが、沖縄とは縁もゆかりもない天皇という人間のことを、「神」として崇拝することを沖縄の人々に強要したことだったと私は思う。沖縄で「確立」されたそのやり口が、後には台湾や朝鮮半島の人々の上にまで拡大され、戦争に際しては「天皇のために死ぬ」ことまでが、「本当に」強要されていったのである。

言語も文化も歴史も異なる人々に対し、自分たちがとってきたそうした仕打ちについて、日本という国家はいまだに一度も公式な反省を明らかにしたことがないし、謝罪したこともない。「戦争への反省」という漠然とした言葉が語られることはあるけれど、その具体的な内容が語られることは決してない。この国の支配者たちは現在の天皇を含め、そのことを全く「悪かった」と思っていないからである。あわよくば「同じことがしたい」としか思っていない。この記事を書いているまさにその最中に、国会では「改正」入管法が衆議院を通過し、「外国人労働者の大量受け入れ」が政府によって喧伝される事態を迎えているわけだが、日本という国家が沖縄や近隣諸国に対してやってきたことの反省を踏まえない限り、新たに日本にやってくる外国人労働者の人たちに対し、「決して日本人とは認めないくせに、日本人以上に日本人らしくすることを強要する仕打ち」が同じように繰り返されてゆくであろうことは、火を見るよりも明らかなのだ。「安価な労働力」などというその言いなし方自体が、そもそも相手のことを「人間扱い」していないのである。その人たちのことを「必要」としているのは、自分たち自身であるはずなのに。

第二次世界大戦末期に日本の敗勢が強まる中、「本土の日本人」で構成されていた当時の戦争指導者たちは、少しでも有利な条件で米英との「講和」を実現するための「捨て石」として、沖縄を「戦場」にすることを選択した。自分たちや天皇が住んでいる「本土」が戦場になるようであれば、すぐにでも降伏することを考えていたくせに、沖縄が戦場になれば沖縄の人たちが殺されるからその前に戦争をやめるべきだと考えた「指導者」は、一人もいなかったのだ。

それまで沖縄が「日本の一部」であり、沖縄の人々が「日本人」であるという一方的な理屈を振りかざしてきた人間は、一体誰だったというのだろうか。

米軍がいよいよ沖縄に上陸してきた時、「日本の軍隊」は沖縄の人々のことを、守らなかった。むしろ「その軍隊を守ること」だけを強要されたのが、沖縄の人々だった。「本土の日本人」には一度も強要されたことのない「集団自決」が、沖縄の人々には強要された。「日本語」を話せない人はそれだけを理由に、「スパイ」として日本軍から殺されることになった。そして米軍は米軍で、沖縄の人々をやはり容赦なく殺戮した。

B29による日本「本土」への空襲は、沖縄戦の前年の時点から本格化していたし、広島と長崎は原爆によって「地獄」と化した。けれども銃剣で切り裂かれる人体や、こめかみに押し当てられた銃口によって打ち砕かれる人間の頭部、具体的に「人間が人間を殺す」その有様というものを、基本的に「本土の日本人」は「見なくてすんだ」のだ。現在「日本の一部」とされている地域の中で沖縄の人々だけが、その光景を否応なく「見せつけられなければならなかった」のである。

沖縄の人たちが語り続ける「戦争」と、「本土の日本人」が口にする「戦争」とでは、その内容の「重さ」が、そもそも全然違うのだ。

日本の敗戦後、「主権者」然として「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」というメッセージを占領軍の最高司令部に送り付けた人間は、誰あろう当時の天皇に他ならなかった。当時、大日本帝国憲法下で保証されていた最高権力を既に「喪失」していたはずのこの人物が、「頼まれもしないのに」アメリカに対してそうした「取引」を提案したその動機というものは、ひとつには自らの保身であり、さらには「自分の利用価値を相手に認めさせるため」だったのだろうとしか、私には考えられない。だが、こんなにふざけた話がどこにあるだろうか。

私は「天皇家ゆかりの地」と言われている奈良県で育った人間ではあるけれど、自分を育んできた風景やまして自分という存在が「天皇の所有物」であるなどと感じたことは、今までに一度もない。もしも天皇などという人間が私や私の故郷のことを「好き勝手に」扱おうとしたならば、全力で抵抗したいと思わずにはいられないことだろう。

それにも関わらず、天皇家などというものとはそれこそ縁もゆかりもない沖縄という一地域のことを、そこに暮らしている人間の存在まで含めて、丸ごと自分の「所有物」みたいに扱ってみせるようなことが、どうしてできるのだ。

この「天皇メッセージ」の存在が明らかになったのは、沖縄が「返還」されてから7年後にあたる1979年のことであり、当時まだ生きていたその天皇は私が知る限り、その件に関しては一言もコメントしていない。(そもそも広島への原爆投下を「仕方なかった」と言い放ったような人物である)。沖縄の人たちは自分たちの運命が「本土の密室」でどのように「処理」されていたのかという事実さえ一切知らされないまま、1972年に至るまで「アメリカ軍による統治下」におかれることになった。「返還」後も米軍基地はほぼ丸ごと残され続け、アメリカが新しい戦争を起こすたびに「人を殺した人間」や「これから殺す人間」が行き来する、「戦場の一部」となり続けている。そして周知の通り、現在の沖縄では、地元の人たちのあらゆる反対の声を圧殺して、「新たな基地」の建設が押し進められようとしている。

「本土の日本人」が沖縄に「基地負担」を「押しつけている」というのは、「変な言い方」だ。「押しつける」という言葉には、あたかも「基地」というものが自分たちが生きて行くために必要不可欠なものであるかのような語感が伴っているけれど、対外戦争のための出撃基地などというものは、誰にとっても「必要でない」に決まっている。「対案を出せ」みたいなことを言い出す人間はそもそも「戦争に反対する気のない人間」なのだから、相手にする必要はないというのが私の考えだし、このことは「原発」をめぐっても同様である。

けれども沖縄の人たちに基地被害や戦争被害を「強制」し続けているのが「誰」であるかといえば、それは明らかに「本土の日本人」なのだ。

沖縄の人たちが何世代にもわたる自らの体験にもとづいてどんなに「戦争は許せない」という声をあげ続けたとしても、沖縄が「日本の一部」に組み込まれており、かつ「本土の日本人」がその声に対して「聞く耳を持たない態度」を続けている限り、沖縄の人たちは絶対に「多数決では勝てない」のである。

こんな「不公平」な話があるだろうか。

上に引用させてもらった本の中で描写されていた、米軍政下の沖縄における「壮絶な日常」のありさまよりも、人の心にそうした何世代にもわたって消えない傷を残し続ける戦争というものを平気で繰り返したって全く心が痛まない人間が「多数派」を占めている現在の日本「本土」の状況の方が、私には遥かに「恐ろしい」ものだと感じられる。その「本土の日本人」の姿を「外側」から見つめている人々は、私なんかよりもっと「恐ろしい」と感じているに違いない。

「本土の日本人」には「本土の現状」に対する「責任」があるわけだし、それは私だけでなく同じ立場にあるすべての人間が、それぞれの形で、引き受けなければならないものだと思う。そしてその「責任」が日本「本土」の外側で生きる人々の運命にも直結していることを考えるなら、今の自分たちが「多数決で勝てていない」などということは、それこそ何の「言い訳」にもならないことなのだ。「本土の日本人」である我々は、例え「今」多数決で勝てなかったとしても、それで死ぬことはないわけだし、「次また頑張ろう」みたいな話で「すませる」ことができる。けれども自分たちが「勝てなかった」その結果は、「自分たち以外の人々」の頭上に、文字通り「押しつけられる」ことになるのである。

「聞く耳を持たない人間」たちというのは、他人の身にどんな悲劇が振りかかろうと、自分の身が危険にさらされるようなことでも起こらない限りは、ずっと「聞く耳を持たない態度」を取り続けることができるのだ。だったらそいつらの身を危険にさらしてやりたいと私は本気で思うし、歴史が本当に「変わる」時というのは、「多数決」なんかではなく、そういう行動を通してしか決して「変わらない」ものなのである。時代は既にそういうところにまで来ていると私は思う。そして音楽というものは結局のところ、「聞く耳を持った人」の心にしか決して「届かない」ものなのだ。

以上に書いてきたことのすべてを要約するならば、「歌なんか歌っていていい気持ちには到底なれない」のが私の気持ちであるということの一言に尽きる。そしてこのことは、私が「華氏65度の冬」を始めて以来すべての記事の行間に書き綴ってきた、このブログの「もうひとつのテーマ」を構成する事実にもなっている。

けれどもそれにも関わらず私が「うたを翻訳すること」を表看板に掲げたこのブログを書き続けているのは、やっぱり私自身が「歌いたくてたまらない気持ち」を持ち続けているからなのである。そのためには結局「歌ってもいいような気持ちになれる時代」を自分たち自身の手で切り開いてゆくことこそが、一番大切なことだろうという話になるのだと思う。

「ハイサイおじさん」についての記事をなかなか書き始めることができなかったのは、自分と沖縄音楽との出会いにまつわることを言葉にしようと思ったら、上に書いたようなことを「全部」書かざるを得なくなるということが、初めから分かっていたからだった。そしてそれを言葉にしてしまったら、改めて「音楽の話」を始めることのできる余地なんて、もはやどこにも残されていない。

沖縄の人たちの多くが私のような「本土の日本人」に対して信じられないくらい「寛容」であることは、よく知っているし、経験もしてきている。「気にせずに音楽の話を続けてほしい」と言ってくれる人もきっといることだろうし、その方が「うれしい」と感じてくれる人たちも、いることだろうと思う。けれどもその「やさしさ」に「甘えて」しまったら、他の人のことは知らないけれど、私という人間は絶対に「腐る」と思う。

自分という人間に「踊り出さずにいられなくなる感覚」を初めて経験させてくれた沖縄の音楽を今でも私は大好きだし、聞こえてくればいつでも足が止まる。けれども自分自身がそれを演奏することや、それが演奏されている場所に近づくことは、ずっと以前からやらなくなっている。

「合わせる顔がないから」なのである。けれどもそんな風にして「好きでたまらないこと」から「目をそむける態度」を続けていることが、「逃げる生き方」にしかなっていないということは私自身が一番自覚している。

少なくとも今は「一番好きなもの」を「断つ」ことで何かに対して「願をかける」のと同じような気持ちで、心の中に流れる沖縄の音楽と向き合うことにしていたいというのが、私の正直な気持ちである。そしていつかは、また一緒に歌わせてもらいたいと心から思っている。

以上のことも私にとっては、「どこかで言葉にしておかなければならなかったこと」だった。

=翻訳をめぐって=

「ハイサイおじさん」は「沖縄の言葉」である「ウチナーグチ」で歌われており、「本土の日本人」には当然、聞いただけでは何が歌われているのか全くわからない。(「ウチナーグチ」は言語学的には、「琉球語」の「沖縄本島における方言」だという「分類」になるのだそうである。ただしその「分類」が「誰の立場から」なされたものかということが、関連書籍を読んでもハッキリしないので、ここでは参考として付記しておくにとどめたい。私も知らなかったし、誤解を避けるために併記しておく必要があると思われるのは、「沖縄本島以外の島々」ではそれぞれやはり「ウチナーグチ」とは「違った言葉」が話されている、ということである)。ただし私自身はこのブログの50回目にあたる記事や、また今回の記事でも明らかにしてきたように、日本という国家からかつて「言葉を奪われた」歴史を持っている人たちの言葉を、「日本人」が「勝手」に「日本語」に「翻訳」して「他の日本人」に「解説」して回るようなことは、「他者から言葉を奪う」という究極の暴力の継続に他ならないのではないか、という見解を持っている。一言で言って私がこの歌を「自分の言葉」に「翻訳」することは、私にとっては「良心に反すること」なのである。歌詞の中の言葉のひとつひとつがどういう意味を持っているかということについては、詳しい解説が載っている他のサイトがいくつもあるので、今回に関してはそちらを参照して頂ければと思う。
taru.ti-da.net
matome.naver.jp
なお、「AONIYOSHI」を含めたライブバージョンの歌詞では、上のサイトで紹介されている「公式」の歌詞の後、歌の終わりに以下のようなフレーズが付け加わっている。

いやーや ちゅらーく よーがりゆさ
ヤマトぬ いなぐや ちゅらかーぎ
アメリカ いなぐや かばさんでい
うちなぬ いなぐや むるわからん

ここだけ、意味が分からなかったので、沖縄の人たちがネットで発信している島言葉に関するいろいろなサイトを通じて調べさせてもらったところ、

いやー:おまえ
ちゅらーく:きれいに
よーがりー:やせている
いなぐ:女性
ちゅらかーぎ:美人
かばさん:香ばしい
むる:すべて

みたいな意味がそれぞれあることが分かった。「や」や「でい」の「使い方」みたいなものはほとんど分からないのだけど、分かった単語の意味だけから類推するなら

あなたは美しく痩せるべきだ。
「本土」の女性は美しい。
アメリカの女性はかぐわしい。
沖縄の女性はわけが分からない。

...みたいなことが歌われているのだと思われる。けっこう、コメントに苦しむ歌詞である。「沖縄の男性」にしかこういう歌詞は絶対書けないだろうな、ということは思うにしても、「沖縄の男性」ならこういう歌詞を書いていいのかという話になれば、よくないだろうとしか言いようがない。何とも、後味の悪い終わり方になってしまった。

ではまたいずれ。



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