華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Ring Them Bells もしくは そのいくつもの鐘を鳴らせ (1989. Bob Dylan)



...当時のチラシ。まだX-JAPANの出演が決まっていなかった時に印刷されたのでヨシキの名前だけが書かれていたのだと思うが、しかし二番目がヨシキで本当にいいのかよ、と私は思ったものだった。


1994年5月に東大寺で開催されたユネスコ主催のコンサート「AONIYOSHI」。ステージに上がったボブ·ディランが「はげしい雨が降る」に続いて歌い出したのは、「聖歌」中の「聖歌」だと私が思っていた「I Shall Be Released」だった。「この記憶を焼きつけなければ!」「一生消えない記憶として焼きつけなければ!」と必死で思っていたことばかりを覚えていて、結局、それが実際どんな演奏だったかということについては、極めてグチャグチャした記憶しか残っていない。何か、私の人生って、そんなことばかりだったような気がする。

で、それはそれで良かったのだけど、最初の記事にも書いた通り、コンサートの一番最後になって、出演者の全員により「I Shall Be Released」は「もう一回」歌われたのである。うれしいかうれしくないかで言えば、それはまあ、うれしかったけど、あれは相当に、興醒めだった。出演者のひとりひとり、とりわけディラン本人は本当にそれで良かったのかよという感じがした。よっぽど「ラスト·ワルツ」がやりたかったのかもしれないが、それなら未見の「ラスト·ワルツ」そのものを私は見たかった。三日間のコンサートの演目は全て共通だったので、「I Shall Be Released」の演奏は律儀にも2回ずつ繰り返され、都合私はそれを6回見ることになった。散漫な印象しか残っていないのは、そのことが理由になっているのかもしれない。
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そしてその「I Shall Be Released」に続き、オーケストラと天平時代の宮廷楽器をバックに歌われたディランの最後の演目が、当時の私にとっては唯一、「知らない曲」だった。現場で聞き取れた単語は「Ring...Bell」だけで、数ヶ月後にテレビ放映された時に出てきた字幕の曲名は「Ring Them Bells」だった。それが1989年のアルバム「Oh Mercy」に「鐘を鳴らせ」という邦題で収録されていた曲だったことを私が特定できたのは、二年後か三年後のことになっていたと思う。こんな曲である。(演奏は動画の11:11 〜)


Bob Dylan in Nara Japan. 1994.5.22.

Ring Them Bells

英語原詞はこちら


Ring them bells, ye heathen
From the city that dreams
Ring them bells from the sanctuaries
’Cross the valleys and streams
For they’re deep and they’re wide
And the world’s on its side
And time is running backwards
And so is the bride

そのいくつもの鐘を鳴らせ
なんじら異教の徒よ
夢見る街より
そのいくつもの鐘を鳴らせ
いくつもの聖なる地より
いくつもの谷間と
流れの上に響かしめよ
その音は深く
かつ広きものなれば
かつその音のもとには
世界が控え
かつ時は逆行しつつあり
かつまたそれは花嫁にとりても
同じことにてあるなれば


Ring them bells St. Peter
Where the four winds blow
Ring them bells with an iron hand
So the people will know
Oh it’s rush hour now
On the wheel and the plow
And the sun is going down
Upon the sacred cow

そのいくつもの鐘を鳴らせ
聖ペテロよ
四つの風の吹くところ
そのいくつもの鐘を鳴らせ
鋼鉄のかいなもて
されば人々は知るべし
ああ時は今
車輪と鋤との上に繰り広げらるる
ラッシュ·アワーにして
そして太陽は
聖なる雌牛の上に
沈みつつあるなり


Ring them bells Sweet Martha
For the poor man’s son
Ring them bells so the world will know
That God is one
Oh the shepherd is asleep
Where the willows weep
And the mountains are filled
With lost sheep

そのいくつもの鐘を鳴らせ
いとしきマルタよ
貧しき男が息子のため
そのいくつもの鐘を鳴らせ
されば世界は知るべし
神は唯一なることを
ああ羊飼いは
すすり泣く柳の上に眠り
そして山々は迷える羊に
満たされてあるなり


Ring them bells for the blind and the deaf
Ring them bells for all of us who are left
Ring them bells for the chosen few
Who will judge the many when the game is through
Ring them bells, for the time that flies
For the child that cries
When innocence dies

そのいくつもの鐘を鳴らせ
blind と deaf とのために
そのいくつもの鐘を鳴らせ
すべてわれら取り残されたる者のために
そのいくつもの鐘を鳴らせ
ゲームの終わるとき
多くの者を裁く身となるべき
選ばれたる少数の者のために
そのいくつもの鐘を鳴らせ
翔けりゆく時のために
無垢なるものの死ぬとき
泣き声をあげる子どものために



「blind」と「deaf」はそれぞれ「視覚障害者」と「聴覚障害者」に対する差別表現です。ここでは原文をそのまま転載しました。

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...コンサートの後、「Ring」と「Bell」という自分に聞き取れた2つの単語だけを手がかりに、「これかもしれない」と思って私が買ったのが、「自由の鐘」という邦題の上の曲が収録された、「時代は変わる」というディランのサードアルバムだった。で、見事にハズレだった。そして「時代は変わる」というアルバムは当時の私にとってあまりに辛気臭くて聞いていてしんどくなるような内容だったため、結局10代を通じて何回も聞き返すことなく終わってしまった記憶がある。「ちゃんと」聞けるようになったのは本当に最近のことである。以上は余談。

=翻訳をめぐって=

まずタイトルについて。「Ring Them Bells」の邦題がどうして「鐘を鳴らせ」になるのかということが、10代の頃は疑問で仕方なかった。「Them」はどこに行ってしまうのだ、と思ったのである。そしてこの「Them」の文法的な意味については、今でもやはりネイティブの人と同じような感覚で「わかる」とは、言いがたい。

直訳するならば「Ring Them Bells」は「かれらのために(複数の)鐘を鳴らせ」となると思う。しかし辞書によるなら「them」は「those」という言葉の「代用」として使われることもあるとのことで、その場合だと「鳴らせ。それらの鐘を」あるいは「鳴らせ。それらを。鐘を」みたいな感じになる。それならば「大意」としては「鐘を鳴らせ」になるわけだが、いずれにしてもその「鐘」が「複数」であるという情報は、「消されて」しまう。

「鐘を鳴らせ」と言われた場合、日本語話者の脳裏に浮かぶ音色は「ゴーン」か、よく行って「カーン」だと思う。(どこへ「よく行く」のかは知らないのだが)。しかし「鐘」が「複数」である以上、この歌の中に響いている音色は「キリンカランコロン」的な感じなのだと思う。それが「聞こえる」ような訳詞にしようと思ったら、やや冗長になっても「そのいくつもの鐘を鳴らせ」ぐらい言わないと「聞こえない」だろうと思い、そのように翻訳することにした。そして「かれら(のため)に」という目的語については、なくても伝わる気がするし、文法的にもその意味があるのかどうかハッキリ言えないしということで、「省略」することにした。この点、訳し方について詳しい方からご意見を頂けるようでしたら、伝えて頂ければ幸いです。

全体を「文語体」で訳したのは、「Ring Them Bells」の後に続く「ye」が「なんじら」とか「そなたら」とかいった「古語の響き」を持つ「呼びかけ」であることによっている。1ヶ所だけそういう「古めかしい言葉」を使って他を「現代語」で訳したら、全体がグチャグチャになってしまうのである。ちなみに「AONIYOSHI」と同じ年、NHKの「春よ、来い」という朝ドラの主題歌になっていた松任谷由実の曲で

君に預けし我が心は
今でも返事を待っています

という歌詞があったのだけど、私はこれが本当にイラついて仕方なかった。顔中に蕁麻疹が広がってその盛り上がったブツブツの全ての頂点から鮮血が噴き出すような勢いでイライラさせられた。「待っています」と言いたいなら「預けし」とか言うなよ!と思ったのだった。松任谷由実ともあろう人にそれが「不自然な言い方」であることなど分からないはずがないにも関わらず、どういう了見でそういうことをするのだろうと思った。ことによると自分を基準にして「日本語表現の新たなルール」でも作ろうとしてはったのだろうか。だったら思い上がるのも大概にしなはれやと今でも言いたくなる。それと全く同じ感覚を最近になって再び味あわされたのが下の曲の歌詞を初めて見た時で、本当にこういうのは、どうしてくれようかと思う。
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...とはいえ私自身、「国文学」を専門に勉強した人間ではないし、文語体の文章なんてフツー書かないし、上の試訳は試訳で、「エセな言葉遣い」になっている可能性もあると思う。もしそういうのに気づいた方がいらっしゃったら、指摘は真摯に受け止めたいと思います。でもってその次に続く単語は「heathen (異教徒/「未開人」)」で、1行目の歌詞はつまるところ

そのいくつもの鐘を鳴らせ
なんじら異教の徒よ

ということになるわけなのだけど、ちょっとよろしいでしょうかジンママンさん。あんた、これ、ひょっとして、ボクらに向かって言うてはりました?しかも大仏の前で。何ちゅうか、すんごい、ええ根性してはりますよね。ははは。

キレんで?
(理性を投げ捨てますよ?)



この曲の中に横溢しているのは「聖書的なイメージ」で、キリスト教のことなど全然知らない私にも、その雰囲気ぐらいは大体わかる。海外サイトによるならば、この歌が直接「下敷き」としているのは旧約聖書の中の「ソロモン王の雅歌」と呼ばれる一編のイメージであるらしく、そこではソロモン王とその「花嫁」との関係が、ユダヤ教的な解釈としては「神とイスラエルの民」との関係に、またキリスト教的な解釈としては「イエスと教会」との関係に、なぞらえられているらしい。他にも「羊飼い」とはイエスのことだとか、「ゲームが終わる時」とは「最後の審判」のことを指しているとか、キリスト教世界の人たちにとっては「直感」レベルで喚起されるイメージがいろいろあるらしいのだが、率直に言って私には、そんなに興味が持てないし、深く知りたいという気持ちにもなれない。本気で「知りたい」「感じたい」と思われる方には直接聖書に当たって頂ければいいのではないかとした上で、ここでは歌の中に出てくる「3人の登場人物」についてのWikipediaの記事にリンクを貼っておく程度にとどめておきたい。


Wikipedia ペトロ


Wikipedia マルタ(マリアの姉)


Wikipedia アレクサンドリアのカタリナ

その他、翻訳をめぐっては、「For they’re deep and they’re wide」という一節の「深くて広い」と言っている部分が「鐘の音」を指しているのか「谷間と流れ」のことを指しているのか、という問題があるのだが、ここでは「鐘の音」で訳すことにした。個人的に注釈が必要だと思われるのは、それぐらいです。


Tony Hollingsworth The Great Music Experience

英語で書かれた上のサイトには、イギリスのプロデューサーによって企画された「AONIYOSHI」というイベントの今まで全然知らなかった「裏話」がいろいろ綴られているのだが、その中で今さらのようにビックリさせられたのは、当時はパンフレットを読んでも全然ピンと来なかったのだけど、コンサート全体の「音楽ディレクター」がビートルズのプロデューサーを務めていたあのジョージ·マーティンだった、という事実だった。上の記事によれば、オーケストラと初めて共演することになったディランのリハーサルは結構難航したらしく、ジョージ·マーティンは「もっと大きな声で!」とかディランにバシバシ「ダメ出し」をしていたらしい。ディランにそんなことを言えたのは彼だけだったろう、みたいなことが書かれていたけれど、それ以上に感慨深いのは、あの日東大寺のどこか見えない一角で、ジョージ·マーティンという人も自分と同じ空気を吸っていたのだな、という、今まで一度も気づくことのなかった事実である。一生分の「ぜいたく」をさせてもらったものだと、改めて思う。ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Released: 1989.9.18.
Key: D♭