華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

What's Going On もしくは今なにが起こっているのかということ (1971. Marvin Gaye)


What's Going On

What's Going On

英語原詞はこちら


Mother, mother
There's too many of you crying
Brother, brother, brother
There's far too many of you dying
You know we've got to find a way
To bring some lovin' here today - Ya

母さん。
泣いている母親が
この世には多すぎます。
きょうだいのみなさん。
同じ立場にあるあまりに多くの人が
命を奪われつつあります。
わかるでしょう。
何とかしなくちゃいけないんです。
今ここに少しでも
愛をもたらすために。


Father, father
We don't need to escalate
You see, war is not the answer
For only love can conquer hate
You know we've got to find a way
To bring some lovin' here today

父さん。
物事をエスカレートさせるべきじゃ
ないんです。
わかってほしい。
戦争は答えにならないんです。
憎しみに打ち勝つことができるのは
愛だけなんだから。
そうでしょう。
何とかしなくちゃいけないんです。
今ここに少しでも
愛をもたらすために。


Picket lines and picket signs
Don't punish me with brutality
Talk to me, so you can see
Oh, what's going on
What's going on
Ya, what's going on
Ah, what's going on

暴力にそなえて腕を組む人たち。
並んだプラカード。
残酷なやり方で
抑えつけるのはやめてください。
話し合ってください。
そしたらきっとわかるはずですから。
何が起こっているのかが。
何が起こっているのか。
いま何が起こっているのか。
何が起こっているのかが。


In the mean time
Right on, baby
Right on
Right on

それまでは
がんばるんだ。
がんばろう。
異議なし。


Mother, mother,
everybody thinks we're wrong
Oh, but who are they to judge us
Simply because our hair is long
Oh, you know we've got to find a way
To bring some understanding here today
Oh

母さん。
みんながぼくらは
間違ってるって思っています。
でもぼくらの髪が長いというだけで
ぼくらのことをあれこれ決めつける
その自分たちは
何者だっていうんでしょうか。
そうでしょう。
何とかしなくちゃいけないんです。
今ここに少しでも
理解をもたらすために。


Picket lines and picket signs
Don't punish me with brutality
Talk to me
So you can see
What's going on
Ya, what's going on
Tell me what's going on
I'll tell you what's going on - Uh
Right on baby
Right on baby

暴力にそなえて腕を組む人たち。
並んだプラカード。
残酷なやり方で
抑えつけるのはやめてください。
話し合ってください。
そしたらきっとわかるはずですから。
何が起こっているのかが。
何が起こっているのかが。
いま起こっていることを
ぼくに教えてください。
何が起こっているのか
ぼくが教えてあげます。
がんばろう。
しっかり続けて行こう。



前回ジェファーソン·エアプレインを取りあげてしまってからというもの、私の頭の中では「うーらからからうっうー、らからか」というスライ&ファミリーストーンのフレーズが流れ出して止まらなくなっているのだが、今は「トータル·バラライカショー」の途中なのである。まだウッドストックに行くわけにはいかない。けれどもそれと同時に頭の中を回り始めたこの曲のことは、どうしても今ここで併せて取りあげておきたい気持ちになった。

この曲に関しては、私が言えることは、あまりない。代わりに海外サイトでこの曲のことを紹介している文章のいくつかを、抜粋して翻訳しておきたい。

What’s Going On is an exquisite plea for peace on Earth, sung by a man at the height of crisis. In 1970, Marvin Gaye was Motown’s top male vocal star, yet he was frustrated by the assembly-line role he played on his own hits.
- Rolling Stone’s Top 500 Songs

「What’s Going On」は、危機の突端に立つ一人の人間によって歌われた、この上なく繊細で美しい地球の平和への嘆願である。1970年、マーヴィン·ゲイはモータウン最高の男性ボーカルスターだったが、彼はベルトコンベア的にヒット曲を量産する自分に与えられた役割に、我慢することができなかったのだ。
-ローリング·ストーン誌による楽曲評

Events like the 1965 Watts Riots in Los Angeles, one of the most destructive urban uprisings in U.S. history, deeply moved the sensitive singer: "I remember I was listening to a tune of mine playing on the radio, 'Pretty Little Baby,' when the announcer interrupted with news about the Watts riot. My stomach got real tight and my heart started beating like crazy. I wanted to throw the radio down and burn all the bull---- songs I'd been singing and get out there and kick a-- with the rest of the brothers. I knew they were going about it wrong, I knew they weren't thinking, but I understood anger that builds up over years—s---, over centuries—and I felt myself exploding. Why didn't our music have anything to do with this? Wasn't music supposed to express feelings? No, according to BG [Berry Gordy], music's supposed to sell. That's his trip. And it was mine" (Dyson 91-92).
アメリカ史上もっとも破壊的な都市暴動のひとつとなった、1965年のロサンゼルスにおけるワッツ蜂起のような出来事は、繊細なシンガー(ゲイ)の心を深く揺さぶった。「僕はラジオで自分の曲がかかっているのを聞いていたんだ。『Pretty Little Baby』だった。それが、ワッツのニュースを伝えるアナウンサーの声で中断された。胃袋が締めつけられるような気がして、心臓がめちゃめちゃに鳴り出した。僕はラジオを床に叩きつけたくなった。そしてあらゆるガラクタに…自分がそれまで歌ってたような歌だよ。火をつけてそして出ていって、(ワッツにいる)他のきょうだいたちと一緒に暴れてやりたくなった。かれらが向かってるのは間違った方向だってことは、分かってたよ。あまりにも考えがなさすぎるとも思った。でも僕には何年分もの...何世紀分ものその怒りが、分かったんだ。僕は自分が爆発しそうな気がした。どうしてぼくらの音楽は、それと関係ないことばかりやってきたんだろう?音楽は気持ちを表現するためのものじゃなかったのか?違ったんだ。ベリー·ゴーディ(モータウンの社長)に言わせるなら、音楽とは売るためのものだった。それがあの人の間違いで、僕のあやまちでもあったんだ」
-マイケル·E·ダイソンによるマーヴィン·ゲイの伝記「Mercy Mercy Me」より



文中に使われている「crazy」という言葉は、「精神病者」に対する差別表現です。ここでは原文をそのまま転載しました。

Gaye connected personally with the song, but it was also the product of another one of his collaborations. Obie Benson, a member of Motown's"Four Tops" singing group, had seen protestors in San Francisco getting beaten up by police. As he tells it, he thought to himself, "What's going on?" It disturbed him, and drove him to co-write the first version of the song with his upstairs neighbor Al Cleveland.
ゲイ自身も関わっているが、この曲は同時に彼とのコラボレーションによって生み出された楽曲でもある。モータウンのボーカルグループ「フォー·トップス」のメンバーの一人だったオービー·ベンソンは、サンフランシスコでデモの参加者が警察に殴打されているのを目撃したことがあった。彼によるならばそのとき彼は、「何が起こっているんだ?」と考え込んでしまったのだという。このことは彼の心をかき乱し、同じ建物の上の階に住んでいたアル·クリーブランドとの共作で、この曲の最初のバージョンが作られることになった。

"See, it's really a love song," Benson says. "These people had so much love, and the police were just beating them because they were hippies. Then we were sending people over to war, and they didn't want to go. And there were mothers who had that experience in their lifetime of sending their offspring off to fight. So that question had to be answered" (Dyson 53-54). Benson and Cleveland brought the song to Marvin, reworked it as a group, and convinced him to record it as his own song.
「この曲は本当にラブソングなんだよ」とベンソンは言う。「そこにいたのはみんな、愛にあふれた人たちだったんだ。それを警察は、ヒッピーだからって理由だけでただ殴ってた。そうやって我々は、人々を戦争に送り出してたんだよ。その人たちは行きたくないのに。そしてそこには、自分の子どもを戦場に送り出す経験を味あわされなければならなかった母親たちがいたんだ。この問題は、解決されなくちゃいけないことだろう」(ゲイの伝記より)。ベンソンとクリーブランドはこの曲をマーヴィンのところに持って行き、グループで曲を完成させ、そしてマーヴィンに彼自身の曲としてそれを録音するよう説得した。
-海外サイト「Shmoop」より

=翻訳をめぐって=

Mother, mother
There's too many of you crying

この最初の「Mother」は、マーヴィン·ゲイ自身の母親に向けられた呼びかけであると同時に、「アメリカ中」さらにはベトナムを含めた「世界中の母親」に向けられた呼びかけでもある。このことは後に出てくる「Brother」と「Father」でも同じなのだが、本当の意味で「世界中」に向けられた呼びかけになりえているのは、この「Mother」の部分だけだと思う。というのは私の感想。

Brother, brother, brother
There's far too many of you dying

マーヴィン·ゲイの弟のフランキー氏は自分の意思に反する形で徴兵され、ベトナムから戦場の悲惨さを伝える手紙を何通も送ってきていた。そのことが彼にこの曲を歌わせる大きな理由になったということが、上記の各サイトには書かれている。だからこの「Brother」という歌詞にその弟さんのことが強く意識されているのは間違いないのだが、同時に「Brother」は、とりわけ黒人解放運動の文脈の中では「自分と同じ立場にあるすべての同胞」のことを指す言葉でもある。だからこれを「的確な日本語」に翻訳することは難しいし、そもそも日本語では自分のきょうだいのことはフツー名前でしか呼ばない。だから「家族のひとりとしてのきょうだい」という意味合いは、事実上切り捨てた訳文にせざるを得なかった。

Father, father
We don't need to escalate

この「Father」は、実に苦い響きを伴って聞き手の耳に届く。マーヴィン·ゲイはプロテスタントの牧師だった父親から激しい虐待を受けて育った経験を持つ人であり、かつその最後には両親の喧嘩の仲裁に入ったことで父親を激昂させ、自分が護身用に家に持ち込んだ拳銃でその父親から撃たれるという死に方を迎えなければならなかった人だからである。もとよりその悲劇が起こったのはこの曲が書かれた10年以上も後になってからのことだが、この曲と彼の死とを結びつけて論じていない関連サイトは、私が見た限りでは皆無に等しかった。

「赤の他人」に勝手な評論や詮索が許されないのは当然のことだが、少年時代には父親の虐待から逃れるために高校を中退して空軍に入隊するという思いまで経験させられねばならなかったマーヴィン·ゲイという人が、スターとして成功して以降はその父親と「同居」する生き方を選んだということは、その父親を「愛そうとした」気持ちのあらわれでなくて何だっただろうか。それにも関わらずその気持ちは最も悲劇的な形で挫折させられたわけであり、そのことはこの歌に歌われている「愛」そのものが「挫折」に終わったことを同時に意味している。だからマーヴィン·ゲイという人のことを愛していた人であればあるほど、この歌はその人自身にとっても「苦い歌」とならざるを得ないのである。

事件の直後に獄中でマスコミからインタビューを受けたその父親は、「息子のことを愛していたのか」という問いに対しそれを「問う」人間にどれだけの「決意」や「覚悟」があったのかも同時に問われねばならない話だと私は思うが「Let’s say that I didn’t dislike him (嫌いじゃなかったと言わせてほしい)」と答えたと伝えられている。また事件の数ヶ月前からマーヴィンはコカインの影響で精神的に不安定な状態が続いており、父親が身の危険を感じるほどに「暴力的」になっていたという趣旨のことも語られている。父親に言わせるならば事件を起こした拳銃は、自分のベッドの枕の下にマーヴィンが「勝手に」置いて行ったものであり、持ち出した時にはまさか実弾が入っているとは思わなかったのだともいう。だがいずれにしても-「いずれにしても」何だと言うのだろう。そしてそんな言い方で何らかの「結論」めいた言葉を並べることのできる資格が、私のどこにあるだろう-マーヴィン·ゲイは死んだのだ。その事実以外に我々の前に残されていることは何もない。

この「Father」という言葉には、その父親のことと同時に、歴史的に「Fathers」という言葉で言い表されてきた「アメリカ社会の伝統的な権威」が寓意されている。さらに「Father」は、キリスト教的な伝統の中では「神」そのものを言い表す言葉でもある。マーヴィン·ゲイという人はそんな風に神聖にして侵すべからざるものとされてきた「家父長制的な権威の構造」というものを、「対話によって乗り越えること」を試みようとしたのだと思う。けれどもその試みは挫折したし、また挫折せざるを得ないものだったのではないかと、私自身は感じている。家父長制とは「暴力」そのものなのであり、それに対して「抵抗しないこと」は、「敗北を受け入れること」にしかならない。かつ「家父長制の克服」ということは「男性の力」によってなしうることでは絶対にありえず、それを根本的に「変える」ことのできる力を持っているのは、「男性以外の人間」だけなのだ。(大きくは「女性」であり、さらには「それ以外の性のあり方」を持っている人たちが含まれる)

私自身は男性の一人として、男性というのは「自分で自分のことを解放することができない存在」なのだということを、今までの人生を通じて結構思い知らされてきている。そして女性やそれ以外の人々と力を合わせることを求めることもせず、自分だけの力で何かが成し遂げられるかのように夢想することは、完全に「思い上がり」でしかないのだということも、今では痛感している。けれども私に言えるのは「そこまで」でしかない。私自身も社会に偏在する家父長制や、自分自身の「内なる家父長制」に、「勝てて」いるわけでは全くないからである。

「家父長制的な権威」との「対話」は、拒否することに私は決めている。そうしなければ自分自身が「権威」の側に取り込まれ、抑圧者へと変質してゆくに違いないことを自覚しているからだ。「権威」の側と「共有できる言葉」が増えれば増えるほど、その権威によって抑圧されている側の人々と「共有できる言葉」は、減って行くに決まっているのである。とはいえだからといって、「対話の道」を選んだマーヴィン·ゲイのことを、批判できるような資格が自分にあるとも思えない。彼はぬるま湯の家庭環境で育った私なんかより、家父長制というもののために遥かに苦しめられなければならなかった人なのであり、かつ最後は間違いなく、その家父長制によって殺された人なのだ。その口惜しさや、それをハネ返したいという熱い想いについては、引き継いで行くのが「正しい態度」というものなのではないかと思う。Right on。という言葉については後述。

You see, war is not the answer
For only love can conquer hate

この有名なフレーズは、マーティン·ルーサー·キング牧師の演説からの引用なのだという。元になった演説の原文は、以下の通り。

Darkness cannot drive out darkness:
only light can do that.
Hate cannot drive out hate:
only love can do that.

闇に闇を追い払うことはできません。
光だけにそれができるのです。
憎しみでは憎しみを追い払えません。
愛だけにそれができるのです。

この格調高い言葉に、ファンが多いことはうなづける。けれども果たしてそんな「愛」が、この世にありうるものなのだろうか。別に意地悪なことが言いたいわけではなく、私にはそれが本当に分からない。年を重ねれば重ねるほどに、分からなくなるばかりなのである。

子どもの頃はむしろ無邪気に「そんなものだろう」と思っていたし、キング牧師や中山みきのそうした言葉に、素直に感動させられたりもしていた。(しょっちゅう書いていることだが、私の実家は天理教の家だった)。けれどもオトナになるにつれ、「憎しみ」というのはむしろ「愛」そのものの中から生まれてくるのではないかと思わざるを得ないような場面を、私はあまりに多く目にするようになった。それは私に限った話ではなく、誰だってそうなのではないかと思う。自分が傷つけられた時よりも、自分の愛している人が傷つけられた時の方が、憎しみというものはむしろストレートに湧いてくる。好きになった人の気を引きたいばかりに周りの人のことがどうでもよくなってしまって、それでいろんな人から憎しみを買った経験が私には何度もある。愛と憎しみは「同じメダルの裏表」なのであって、その一方でもう一方を「征服」しようという発想自体が、どこか根本的に間違っているとは言えないだろうか。

イラク戦争の頃にドリカムの人が、「自分の愛している人を死なせたくないって気持ちを誰もが持てば、戦争は終わるはず」みたいなことを新聞広告に書いていたのを読んで、別にドリカムの人たちに悪意を持っているわけではないのだけれど、実際に戦争が起こって人が死んでいるこんな時にそんないいかげんなことを言って歌にしてカネまで取るなんて詐欺師と変わらないではないかと思って、暗タンたる気持ちになったことを覚えている。(...これで「悪意がない」と言っても、たぶん受け入れてもらえないだろうな)。「自分の愛している人を死なせたくない」のは誰だってそうだと思うが、だからこそ「死ぬ役目」を「自分の愛していない人間」に押しつけようとする手合いが世の中にはゴマンといるわけで、戦争だって根本的にはその延長線上に引き起こされるのである。キレイなステージでキレイな歌を歌うことだけを仕事にしているあんたらが、その片棒を担いでいないと言えるのか。と私は思った。別にドリカムの人たちを責めたって仕方のない話ではあるのだけれど、そんな「音楽」というものは社会の矛盾を暴き出すどころか、隠蔽する役割しか果たしていない。それにも関わらず「音楽の世界」ではそういうのが「マジョリティ」になっているらしいという現実をそのとき私は突きつけられたわけなのだが、だからといって「音楽の領域」でそれに「対抗」することにそれこそ何の意味があるのか。と私は思わずにいられなかった。それでそれ以来、このブログを書き始めた一昨年に至るまで私は音楽の世界との関わりというものをプッツリと断ち切ることになった次第なのだが、そんな風に私が「音楽」というものから距離を置くことになった理由そのものも、要約するならば「愛という言葉への幻滅」ゆえのことなのである。ドリカムの愛はしょーもないけどキング牧師の愛は素晴らしいとかそういうご都合主義で片付けられる話ではこれは、ないと思う。

この歌に歌われている「愛」は、具体的にはどういうこと(あるいは、もの)をイメージした言葉なのだろうか。反戦デモに集まった人々は、為政者たちが持っていない戦争相手の国の人々への「愛」を、間違いなく持っているわけだ。これは、素晴らしいことである。そして、心をひとつにして同じスローガンを叫ぶ仲間たちとの「同志愛」で結ばれてもいる。これも、素晴らしいことである。さらにこの人たちは、自分たちに暴力を振るって解散させようとしてくる為政者側の人間たちのことをも、「愛」そうと努めている。にも関わらず、警官隊の方ではデモの参加者を「愛する気持ち」など、全く持ち合わせていない。ここに「スレ違い」が生まれている。他のいろんな「愛」ではなく、まさにこの「対立軸」の中にこそ、「愛」をもたらすことが必要なのだとマーヴィン·ゲイは歌っているのだと思われる。

それは具体的には、どういうことなのだろうか。デモ隊の方では警官隊のことをも「愛そうとする気持ち」を少なくとも持ち合わせてはいるわけだけど、(そうでないデモもいくらでもあるけれど)、警官隊の側には全く「愛」が存在しない。その警官隊の側に「人間的な感情」が生まれることがなければ、その場に「愛」が実現されることは、起こりえないことになる。

では、警官隊の心に「愛」を呼び起こしてやるためには、どうすればいいというのだろうか。「愛すること」を「教えて」やらねばならない相手が「自分に敵対している人間」であるならば、もともと自分の側に立っている「Mother」や「Brother」に向かっていくら「愛」を呼びかけたとしても、全く意味を持たないことになってしまう。そしてそれは実際問題、無意味なことにしかならないのである。

結論から言うならば、「本気で戦う」以外にないのではないか。と私自身は考えている。理不尽な暴力を振るわれても無抵抗なままでいるということは、「相手のことを愛そうとする気持ち」の貫き方としても、おかしいのではないかと思う。自分の愛している人が、理不尽な暴力で他人を傷つけようとしたならば、格闘してでもそれを止めようとするのが「愛」のあり方というものではないのだろうか。その意味から言うなら「人を傷つけること」も「ありうる」のが「愛」なのだ。「自分の気持ちを貫くこと」よりも「相手に手を出さないこと」の方が「大切」になってしまうなら、それはもはや「愛」とはかけ離れた打算的な戦術みたいなものと変わらなくなってしまうと私は思うし、それで傷つけられるのが自分たちの側だけなのだとすれば、口惜しくてとても我慢してはいられない。

キリスト教的な「愛」というものを、たぶん私は本当には「知らない」のだと思う。「神の愛」というものは個人の愛憎を超えてもっと偉大で普遍的なものなのだということが、いろんな本には書かれている。「そういう愛」の立場から多分キング牧師という人は語っていたのだと思うし、マーヴィン·ゲイという人も歌っていたのだと思う。けれども私は神ならぬ人間の一人として、「一人の人間には一人分の愛しか持つことができない」ということを「わきまえて」いるつもりである。その中でその一人の人間に可能なことは、「一人分しかないその愛に誠実に生きること」に限られているのではないかと思う。自分が絶対に許せないと思っている相手とは徹底的に非和解的な態度で向き合うのが「誠実さ」と言うべきものだと思うし、かつそうしたやり方でしか貫くことのできない「愛」というものも必ずあるはずだと思うのだ。何かを本当に許せないと思うその気持ち自体、何かを本当に愛するという気持ちの中からしか、決して生まれてこないものだと思うからである。

そういう私の考え方というのは、キング牧師の「非暴力·不服従」とは相容れないものであるわけだし、マーヴィン·ゲイの言う「物事はエスカレートさせるべきじゃない」という考え方ともやはり相容れない。そのことは自覚している。けれども私がこんなことを敢えて書くのは、キング牧師やマーヴィン·ゲイのような人たちがああいう風に殺されなければならなかったことが「くやしい」からなのである。この二人が訴えていた「愛」というものは、ジョン·レノンが口にしていたような「愛」とはハッキリ言って重さが違う。それにも関わらずそんな愛でもやっぱり「挫折」を強制されたのだという現実から目を背けて、「今みたいな時代だからこそ愛のメッセージが心に染みますね」みたいな欺瞞的な言葉で翻訳記事をデッチあげることがどうしてできるだろうか。私は多分この歌のことを、心から愛しているのだと思う。けれどもだからこそ、この歌に歌われているような「愛」を自分には信じることができないということを「ハッキリ」書くしかないのである。こんなにしんどい記事を書いたのは、初めてだ。

Picket lines and picket signs
Don't punish me with brutality

「ピケライン」という言葉は私が子どもの頃ぐらいまではしっかり「日本語の一部」になっていた言葉なのだけど、最近ではマスコミが意識的に使わないようにしているせいもあってのことなのか、ほとんど耳にする機会がなくなっている。(そこには日本社会における「戦い」の存在を隠蔽しようとする意図が働いていると私は思う)。デモやストライキの参加者が警察その他の介入を防ぐために密集して「阻止線」を作ることがよくあるが、その「密集した隊列」が「ピケライン」である。逆に悪徳企業などの側が、抗議者を建物に侵入させないために「人間の壁」を作ってくるケースもよくあるが、それもそれで「ピケライン」と呼ばれている。いずれにしても「ピケライン」という言葉を知らない世代の人にはそのままでは伝わらない歌詞なので、試訳では「暴力にそなえて腕を組む人たち」と、風景が見えてくるような形で意訳した。なお、アメリカでは「プラカード」のことも「ピケサイン」と呼ぶらしいのだが、こちらの言葉は日本では使われていない。

それと、歌詞中に「警官隊」という言葉は直接には出てこないが、二行目の「Don't punish me...」は明らかに「デモ隊から警官隊に向けた呼びかけ」として歌われている。これをデモ隊に向けた「暴力はやめろ」という呼びかけとして翻訳している例を一回だけ見たことがあるのだが、その翻訳者がどういう思想信条の持ち主であれ、いくら何でもそれは誤訳だと思う。

Talk to me, so you can see

「Talk to me」は「私に話しかけて下さい」ということだが、内容としては警官隊に対して「暴力ではなく言葉で対応してほしい」ということを呼びかけているわけである。だから「話し合ってください」と翻訳した。

そしてこの「暴力ではなく話し合いで」というのもいろんなところでよく聞く「美しいフレーズ」ではあるのだが、ここでも私はやっぱり疑問を挟まずにはいられない。そういう場面で「話し合い」で何かが解決するようなケースって、本当にあるのだろうか。

「戦争をやめろ」というデモである場合、参加者にとって問題なのは相手が戦争をやめるかやめないかという「ふたつにひとつ」でしかない。「原発をやめろ」というデモであっても、問題はいぜん相手が原発をやめるかやめないかという「ふたつにひとつ」でしかない。「中間点」や「落とし所」みたいなものは存在しないのであり、そこに「話し合い」が介在できる余地はない。結果がどうなるかを決定するのは双方の「力関係」だけなのである。つまりは「戦い」なのであり、「勝ち負け」でしか決着がつかない問題なのであって、だからこそ「demonstration (示威行動)」という用語が使われているわけなのだ。最近ではこの「デモ」という言葉自体を嫌って「パレード」とか「行進」とかいう風に言い換えようという動きもあるようだが、私、そういうの、大嫌いである。何がしたいんだあんたらは。と思う。自分たちの掲げている主張が「戦い」を通してしか実現できないものである以上、それが「戦い」であることを隠蔽しようとするような欺瞞的な態度は、とるべきではない。

百歩ゆずって「話し合い」で物事が解決されるケースがもしあったとしても、その「話し合い」が「力関係」や「戦い」とは無縁なものだと、果たして言えるだろうか。「説得する側」と「説得される側」の間には、明らかに「力関係」が存在している。そして「説得する側」の言葉が「力」を持つのは、飽くまでも「説得する側」が有している「物理的な力」を背景にしてのことなのである。「無駄な抵抗はやめて直ちに武器を捨てなさい」という言葉が「力」を持つのは、「君たちは完全に包囲されている」という「現実」があって初めてのことなのだ。そしてそうした「力」を保有している人間たちというのは、歯がゆい話ではあるけれど、相手の主張がどんなに「正論」であろうともそれを平然と無視することのできる「力」をも同時に有している。そういう相手のことを「自分なら説得できる」という風に思い込むのは、幻想かさもなくば思い上がりでしかない。「無駄な抵抗はやめて直ちに原発を止めなさい」という言葉で相手を「説得」しようと思うなら、原発を止めようとする側がそれに見合った「力」を自ら形成する以外にないのである。

「愛」をめぐって云々した上の項目で書きそびれたことだが、「新約聖書」を岩手県沿岸部の言葉に翻訳した「ケセン語訳福音書」の著者である山浦玄嗣という人は、従来の日本語聖書が「愛する」という訳語を使ってきた部分にあえて「大事にする」的な「別の訳語」を宛てたという話を最近読んで、衝撃を受けたことがある。その理由は、ギリシャ語の「アガパオー」が「上下関係のない動詞」であるのに対し、日本語の「愛する」は本来は「上から下への思い」でしかないからだとのことで、言われてみれば確かにそうなのである。(下から上へは「慕う」となる)。だからその日本語の「愛」を使って「Love」という歌詞を読み解こうとした上記の展開自体、本当なら全面的に見直さなければならないかもしれない話なのだが、少なくとも日本語を前提する限り、「愛する」ということさえもやはり、「力関係」の上にしか成立しないことなのだ。その「愛する」という言葉を「暴力」に対置しようとすることは、日本語に翻訳された歌詞の上では二重三重に欺瞞的な話にしかならなくなってしまうことだろう。

この歌が全体的に基調としているのはキング牧師の「非暴力·不服従」の思想であると思われ、「戦い」や「流血」をイメージさせるような言葉は歌詞の中から注意深く排除されている。そして「戦い」の対義語にあたるような「対案」として「loving (愛すること)」「undestanding (理解すること)」「talk (話し合うこと)」という三つの概念が提示されているわけだが、そこには「ごまかし」があると私は思う。相手は「権力」なのである。相手がこちらの主張に耳を傾けないことも、こちらを「人間扱い」しないことも、その相手の側に「権力」が存在しているからこそ可能になっていることなのだ。その力関係を「逆転」させることを抜きにして、相手がこちらを人間扱い(「愛」)することも、理解する(人間として認める)ことも、基本的にはありえないことだと思っておいた方がいい。もしその相手が「権力を手放さないまま」こちらの主張を「理解」するような素振りを見せてきたとしたなら、むしろそこには何らかの邪悪な企みが隠されていると考えるべきなのだ。相手の持っている権力を「解体」することなしに、一切の「人間的な関係」は成立しない。従って「愛」も「理解」も「対等な対話」も、現実には「戦い」を通してしか決して「かちとる」ことができないものなのである。

それがあたかも「戦い抜きで」実現できるかのようなことがここでは歌われているわけだけど、それはやはり「ごまかし」だと思う。もちろんその「ごまかし」に「悪意」があるとは思わない。むしろマーヴィン·ゲイという人の「願望」が素直に反映されていたのが、この歌詞なのだと思う。けれども「願望」と「現実に対する認識」とをハキ違えた時、人間は必ず「失敗」するのだし、下手をすればそれで「命を落とす」ことになるのだ。そして実際にキング牧師もマーヴィン·ゲイも殺されてしまったではないかということが、繰り返しになるけれど私はくやしくて仕方ないのである。「戦わないこと」を「答え」にしてしまっては、いけないと思う。

In the mean time
Right on, baby
Right on
Right on

「In the meantime」は「さしあたりそれまでは」ということ。歌の文脈からするならば「愛と理解がもたらされるまで」ということになる。「Right on」は「かけ声」に近い言葉で、日本の集会で耳にする「そうだ!」「よーし!」「異議なし!」「行け行け!」などに相当する。「Power To The People」という歌でも、確か使われていたっけ。さらにそこに「そのまま続けろ」という意味も含まれてくるので、上では「がんばろう」と翻訳した。
nagi1995.hatenablog.com

Talk to me So you can see
What's going on
Ya, what's going on
Tell me what's going on
I'll tell you what's going on

楽曲全体の要となっているこのフレーズの意味するところについて、海外サイトでは以下のような「注釈」がつけられていた。

When you initially hear Gaye sing the words “What’s going on” you could perceive it as being a question. But the text on the album cover and the song title don’t contain question marks.
ゲイが「What’s going on」と歌うのを聞くとき、最初はそれが「問いかけ」であるように聞こえることだろう。けれども曲名や歌詞カードの言葉には、「?」マークがついていない。

These final lines confirm that Gaye isn’t asking what’s going on. He’s telling us about all the troubling things that are going on in the world in the early ‘70s.
最後の行まで来ると、ゲイは「何が起こっているか」を「問いかけて」いたわけではなかったことが明らかになる。彼は70年代初頭において世界で起こっていたあらゆる混乱のことを、我々に「説明」してくれているのだ。

つまりこの歌は、アメリカでもそう勘違いしている人が多いようだが、現実を前にした主人公が「何が起こってるんだ?」と途方に暮れているような歌では、ないのである。この主人公は「何が起こっているのか」ということをハッキリと「知って」いる。それは「時代が変わりつつある」ということなのだ。そのことを「戦い」抜きに「愛」だけで権力者たちに「理解」させることが可能だと彼氏が考えていたのだとしたら、それはやはり「幻想」だと思う。けれどもマーヴィン·ゲイがこの歌を歌っていた時に「時代が変わりつつあった」ことは、間違いなく事実だったと私は受け止めている。その時代の人たちが「変えてくれた」歴史の上に、間違いなく私たちの世代は、生きてきたのである。「もっともっと変えて行くこと」がこれからの時代には確実に必要になってくると思うし、その現実が存在している限りこの歌の「生命力」が失われることは、ないと思う。批判的なことばかり書かねばならなかったことが自分でもくやしくてならないのだけど、心の部分ではやっぱりこの歌を「いい歌」だと私は思っているし、「美しい歌」だと思っているのである。


Donny Hathaway "What's Going On"

最初にこの歌を聞いたのはダニー·ハサウェイのバージョンを通じてだったのだった。最後の最後になって「時代が変わりつつある」というフレーズが出てきてしまったものだから、「トータルバラライカショー」に戻る前にもう一回だけ「寄り道」をしておかねばならないかもしれないという気持ちに、私はなりつつある。ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Released: 1971.1.20.
Key: E