華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Delilah もしくは ざんげの値打ちもない (1968. Tom Jones)


Delilah (Total Balalaika Show)

Delilah

英語原詞はこちら


I saw the light on the night that I passed by her window
I saw the flickering shadow of love on her blind
She was my woman
As she deceived me I watched and went out of my mind

その夜おれがあいつの窓の下を通ったら
灯りがついていた。
あいつのブラインドごしに
愛し合うゆらめく影が見えた。
あいつはおれの女だったんだ。
裏切られたことを知ったおれは
ただそれを見つめ
我を忘れてしまった。


My my my Delilah
Why why why Delilah
I could see, that girl was no good for me
But I was lost like a slave that no man could free

おれの おれの おれのデライラ
なぜだ なぜだ なぜなんだデライラ
あいつはもうおれには
用のない女なんだってわかってはいた。
でもおれは
誰にも自由にすることができない
奴隷みたいに取り残されていたんだ。


At break of day when that man drove away I was waiting
I crossed the street to her house and she opened the door
She stood there laughing
I felt the knife in my hand and she laughed no more

夜明けに男が立ち去るのを
おれは待っていた。
おれは通りを横切ってあいつの家へ行き
あいつはドアを開けた。
あいつは笑いながら立っていた。
おれは自分の手の中のナイフを感じた。
そしてあいつはそれきりもう
二度と笑わなかった。


My my my Delilah
Why why why Delilah
So before they come to break down the door
Forgive me Delilah I just couldn't take any more

おれの おれの おれのデライラ
なぜだ なぜだ なぜなんだデライラ
やつらがドアを破って
押し入って来る前に
許してくれデライラおれには
がまんすることができなかったんだ。


She stood there laughing
I felt the knife in my hand and she laughed no more

あいつは笑いながら立っていた。
おれは自分の手の中のナイフを感じた。
そしてあいつはそれきりもう
二度と笑わなかった。


My my my Delilah
Why why why Delilah
So before they come to break down the door
Forgive me Delilah I just couldn't take any more

おれの おれの おれのデライラ
なぜだ なぜだ なぜなんだデライラ
やつらがドアを破って
押し入って来る前に
許してくれデライラおれには
がまんすることができなかったんだ。


Forgive me Delilah I just couldn't take any more
許してくれデライラおれには
がまんすることができなかったんだ。


Delilah (Tom Jones)

=翻訳をめぐって=

トータルバラライカショーの8曲目は、ウェールズ出身のイギリスの歌手、トム·ジョーンズの代表曲であるこの歌。とにかく、ケレン味の強い曲である。コンサートの趣旨にピッタリといえばそうなのかもしれないけれど、この曲で「大合唱」できる感覚というのは、どうなんだろう。ちょっとだけ、引いてしまう。

昔々に吉本新喜劇の座長をしていた三代目博多淡海こと木村進という人がいて、その人がテレビで好きだと言っていたのを聞いたのが、トム·ジョーンズという名前に触れた最初だったと思う。そしてその木村進さんの芸風そのままに、トム·ジョーンズという人の歌いっぷりはいつも芝居っ気たっぷりで、よく言えば情熱的だし、悪く言えば暑苦しいこと夥しい。英語圏ではこの人の歌う歌は、昔ながらのバラッドの伝統を引き継いだ「パワー·バラード」という「ジャンル」に分類されているらしいのだが、言いえて妙なネーミングだと思う。

何しろ私にはその記憶がくっついているものだから、この人の声を聞くたびに、木村進さんと間寛平さんが最高に破壊的な芸を繰り広げていた当時の吉本の舞台がまざまざと甦ってくるのを抑えられなくなる。本筋とは全く関係ないことを承知の上で検索してみたら、90年代に病気で降板されて以来ずっとその姿を見ることがなくなっていた木村進さんが「病人役」で間寛平さんと共演しているドラマの動画を見つけてしまい、これにはマジで、泣きそうになってしまった。脱線なのは分かってるけど、貼りつけておきたいと思う。最初に出てくるこの花紀京という人が、もう亡くなられたけどまたスゴい人だったのだった。


東野圭吾原作「悪意」より

「デライラ」という曲のタイトルは、旧約聖書に出てくる「デリラ」という女性の名前に由来しているらしい。昔々、ユダヤ人の中にサムソンという大男がいて、この大男が神から授かった力で、当時イスラエルを支配していたペリシテ人を大勢殺して英雄になった。これに手を焼いたペリシテ人側は、サムソンの恋人だったデリラという女性を買収して、サムソンの弱点を探らせるように仕組む。

サムソンは最初のうちはごまかしていたが、好きなデリラに泣かれると辛いので、神からもらった自分の力の源泉は実は髪の毛にあるのだということを、ついつい喋ってしまう。するとその夜、サムソンは眠っている間にデリラに髪を剃られてしまい、押し入ってきたペリシテ人たちに抵抗しようとしても力が出せず、ついには眼玉をえぐられて奴隷にされてしまう。この歌の歌詞に「奴隷になってしまったみたいだ」というフレーズが出てくるのには、一応その「故事」が踏まえられているらしい。


サムソンとデリラ(ルーベンス)

その後、サムソンは見世物にされてしまうのだが、再び生えかけてきた髪の毛のおかげで力を取り戻し、宴席で建物を倒壊させて大勢のペリシテ人を道連れに、死んだのだという。いずれにしてもこのことから、キリスト教文化圏では「デリラ(デライラ)」という名前が現在でも「男を裏切る女」の代名詞になっているという話なのだが、どうなんだろう。何だかこの話自体が、そうした宗教が女性を迫害することを正当化するために、後からデッチあげられた話であるように私には思えてならない。

"「悪男」という言葉が「おかしな言葉」である以上「悪女」という言葉だって「おかしな言葉」であるはずだ"という他のサイトに書かれていた言葉を、このブログでも引用させてもらったことが、以前にもあったっけ。世の中にはびこる女性差別について、男性である私が「成り代わって」あれこれ言えるようなことなど何もないのだけど、いわゆる「殺人事件」において男性が女性を殺すケースと女性が男性を殺すケースの比率というのは、「事件」として取りあげられないDVなども含めるならば、100:1でも利かないぐらいであるに違いない。それこそ、女性が男性を殺すことは「正義の決起」として称賛されるのでなければ「割に合わない」のではないかと思えてしまうぐらいに、この社会では「女性ばかりが殺されて」いる。それにも関わらず、上述の「サムソンとデリラ」のようなケースも含め、この社会においては女性が男性を騙したり殺したりしたケースの方が圧倒的に「騒がれる」し「叩かれる」のである。これが差別でなくて何だと言えるだろう。

「デライラ」という名前は「悪女」のイメージと重ねられることが多い、などという言葉でこの歌を「解説」しようとすることは、人殺しの主人公を免罪して「同情」まで組織しようとする、差別への加担に他ならないと思う。解体されるべきはその「悪女」という「概念」そのものなのだ。歌に出てくるデライラさんだって、名前だけで「殺されて当然なやつ」みたいな思われ方をしたのでは、とても浮かばれないに違いない。実際に彼氏に対して「ひどいこと」は、していたのかもしれないけれど。


北原ミレイ ざんげの値打ちもない

それでもってこの歌は私が知っている数少ない「女性が男性を殺す歌」のひとつなのだけれど、「ざんげの値打ちもない」というこの人の言葉とは裏腹に、この人のやった事はとても「値打ち」のあることだったのではないかという感慨を、私は昔から抑えられないのだった。ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Released: 1968.2.
Key: C