華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Won't Get Fooled Again もしくは もう二度とだまされませんように (1971. The Who)


Won't Get Fooled Again

Won't Get Fooled Again

英語原詞はこちら


We'll be fighting in the streets
With our children at our feet
And the morals that they worship will be gone
And the men who spurred us on
Sit in judgment of all wrong
They decide and the shotgun sings the song

我々は路上で戦うことだろう。
自分の子どもたちにも
その姿を見せてやりたい。
そしてやつらの崇拝したモラルは
消え去ることだろう。
そして我々を煽りたてた人間たちが
あらゆる間違ったことを裁く立場につき
かれらが判決をくだせば
ショットガンが歌を歌いだす。


I'll tip my hat to the new constitution
Take a bow for the new revolution
Smile and grin at the change all around
Pick up my guitar and play
Just like yesterday
Then I'll get on my knees and pray
We don't get fooled again

おれは軽く帽子を上げて
新しい政体にあいさつを送り
新しい革命の前に
誓いを立てることだろう。
至るところで起こる変化に
微笑んだり笑顔を送ったりして
おれはギターをとり
弾き始める。
昨日とまったく同じように。
そしておれは膝をついて祈るのだろう。
もう二度とだまされませんように。


The change, it had to come
We knew it all along
We were liberated from the fold, that's all
And the world looks just the same
And history ain't changed
'Cause the banners, they are flown in the next war

変化それは
起こらなければならないものだった。
そんなことは最初から知っていた。
我々はオリの中から解放されたのだ。
他に言うことはない。
けれど世界は
今までと同じように見えるし
歴史も変わったようにも思えない。
振り回された旗は次の戦争でも
振り回されるのだろうから。


I'll tip my hat to the new constitution
Take a bow for the new revolution
Smile and grin at the change all around
Pick up my guitar and play
Just like yesterday
Then I'll get on my knees and pray
We don't get fooled again
No, no

おれは軽く帽子を上げて
新しい政体にあいさつを送り
新しい革命の前に
誓いを立てることだろう。
至るところで起こる変化に
微笑んだり笑顔を送ったりして
おれはギターをとり
弾き始める。
昨日とまったく同じように。
そしておれは膝をついて祈るのだろう。
もう二度とだまされませんように。
いやだいやだ。


I'll move myself and my family aside
If we happen to be left half alive
I'll get all my papers and smile at the sky
Though I know that the hypnotized never lie
Do ya?

おれは家族と一緒に
引っ込んでいることにしよう。
もし偶然にも半死半生の状態で
放っぽりだされることになったなら。
おれはとれるだけの新聞をとって
空に向かって微笑むことだろう。
催眠術にかかった人間には
ウソなんてつけないということを
おれは知ってるわけではあるけれど。
つけるとでも?


There's nothing in the streets
Looks any different to me
And the slogans are replaced, by-the-bye
And the parting on the left
Are now parting on the right
And the beards have all grown longer overnight

路上では何も起こっていないし
今までと違ったことがあるようにも
おれには思えない。
スローガンだけは次から次へと
取り替えられているけれど。
それまで左翼の部分にいたやつらが
今では右翼になってるみたいだ。
たった一晩であごひげも
ずいぶん伸びてしまうもんだな。


I'll tip my hat to the new constitution
Take a bow for the new revolution
Smile and grin at the change all around
Pick up my guitar and play
Just like yesterday
Then I'll get on my knees and pray
We don't get fooled again
Don't get fooled again
No, no

おれは軽く帽子を上げて
新しい政体にあいさつを送り
新しい革命の前に
誓いを立てることだろう。
至るところで起こる変化に
微笑んだり笑顔を送ったりして
おれはギターをとり
弾き始める。
昨日とまったく同じように。
そしておれは膝をついて祈るのだろう。
もう二度とだまされませんように。
いやだいやだ。


Yeah!

Meet the new boss
Same as the old boss

新しいボスの顔を
見てやろうじゃないか。
昨日までのボスと
同じ顔をしてるよ。



ストーンズの「ストリート·ファイティング·マン」、ビートルズの「レボリューション」を続けて取りあげて来た以上、この曲のことも取りあげておかなければ、何となく「落ち着かない」感じがした。前の二曲の三年後の1971年に発表された曲ではあるものの、テーマとしているところは全く同じであると感じられる、ザ·フーの「Won't Get Fooled Again」、邦題は「無法の世界」という曲である。それにつけても、何が言いたいのかよく分からない邦題だと思う。

「fool」という言葉は「精神病者」に対する差別表現であり、どのような形であれ「使われていい言葉」だとは私は思わないが、そのことの上で、この歌における「fool」は「だます」という意味の動詞として使われている。「Won't Get Fooled Again」は「二度とだまされないぞ」という意味である。何に対して「だまされない」と言っているのかといえば、「体制」に対して、「権力者」に対してだ。その「体制」や「権力」というものに対して「アンチ」を叫ぶところから「革命」というものは始まるわけではあるのだけれど、実に多くの「革命」において、それは結局それまでの「指導者」が新しい「支配者」に変わるだけの結果に終わってしまう。そういった歴史の現実に対するニヒリズムを孕んだ苛立ちが、この歌においては、歌われている。

極めて単純化して言うならば、「革命なんて、起こったって何も変わりゃしない」という「反体制運動そのものへのアンチ」が歌われている歌であるようにも聞こえるところから、この歌は2006年には、アメリカの保守派総合雑誌「ナショナル·レビュー」による、「保守的なロックソング ベスト50」の一位に選ばれたりもしているのだという。ただしそれに対して、歌を作ったピート·タウンゼントは、自分のブログで以下のように反論している。

"It is not precisely a song that decries revolution - it suggests that we will indeed fight in the streets - but that revolution, like all action can have results we cannot predict. Don't expect to see what you expect to see. Expect nothing and you might gain everything.''
この歌は正確には、革命を非難する歌じゃない。おれたちはもちろん路上に出て戦うぜって、そう言ってるんだ。でもあらゆる人間のおこないがそうであるように、革命というものは予測のつかない結果をもたらす。自分の見たいものだけが見られるとは、思わないことだ。初めから何も期待していなければ、すべてを丸ごと手に入れることができることだろう。

''Meant to let politicians and revolutionaries alike know that what lay in the center of my life was not for sale, and could not be co-opted into any obvious cause.''
(この歌は)、政治家に対しても革命家に対しても、僕という人間の人生の中心に横たわっているものは決して売り渡すことはできないし、どんな立派な大義にも吸収されることはできないっていうことを歌ってるんだ。

「Indeed (もちろん言うまでもなく)」我々は路上に出て戦う、とピートが言っていることを私は重視したいと思うし、またこの歌は実際にそのように始まってもいる。「どうせ何をやっても変わらないから何もしない」と言っているような歌では、ないのである。その上で自分たちが血を流して戦った結果が「新しい支配者」を生み出すだけに終わってしまうのであれば、たまったものではない。ということが歌われているわけだから、それは革命というものに対する当事者の側からの真面目な問題意識として、「ありうる」ものだと私は思う。

とはいえニヒリズムが「結論」になってしまっている以上、そこからは何も生まれてくるはずがないのだし、また「何をやっても変わらない」という「絶望」が社会に蔓延することは、それこそ保守派の支配層が望んでやまない状況でもある。保守派の支配層はその「絶望」を「栄養」にして、自分たちが何をやっても「問われない」状況の中に安住していることができるのだからである。かつてアメリカで学生運動の先頭に立っていた部分が、「ネオコン」としてブッシュ政権による戦争政策のブレーンを務めるようになっていた一時期、この歌のことを「今は保守派に身を置く夢敗れた革命家たちのテーマソング」と言われてピート·タウンゼントは「怒った」そうだが、この歌が「作った人間の意図」を離れてそうした保守派の人間の自己慰撫のためにたやすく「利用」されてしまっている現実に対しては、「作った人間の責任」も間違いなく存在していると私は思わざるを得ない。人に向かって「絶望するな」などということは、簡単に口にできることではないし、していいことでもないと思う。けれども絶望を「歌にする」ことで「組織する」ことができるのは、それこそ「絶望」だけなのだ。ミュージシャンは「自分はどうしたいと思うのか」ということだけを歌うべきなのであって、そこで客観的なことしか言えなくなってしまうようであれば、歌うことなんてやめた方がいい。と個人的には思っている。



この歌が収録されている「Who's Next?」というアルバムのタイトルの意味を、私は長いこと「ザ·フーのセカンドアルバム」ということだと誤解していたのだけど、実はこのアルバムは「5枚目」である。そしてそのタイトルは文字通り「次に来るのは誰だ?」ということを意味している。「次に支配者になるのは誰だ?」というこの歌の投げやりなメッセージが、そのままアルバム全体を貫くコンセプトにもなっているわけだ。

そのことの上で、アルバムジャケットの中のメンバーたちは、みんな「小便を終えたばかりのポーズ」でチャックを上げている。その真ん中に立っているコンクリートの柱は、1968年に公開された映画「2001年宇宙の旅」に出てくる「モノリス」を想起させる、「支配と権威の象徴」である。この歌が根本的には「反体制的なメッセージ」を込めて作られた歌であることは、この写真から見ても明らかなことだと思う。

ただし「反体制」を標榜したいのであれば、「絶対に口にしてはいけない言葉」というものが世の中には存在している。「どうせ何やったって変わりゃしない」という言葉である。

しかしながら「どうせ何やったって変わりゃしないとしても」自分たちは「戦う」と言っているのであれば、話は別である。個人的にはこの歌を「そういう歌」として受けとめたいと、私自身は思っている。「歌われるべきこと」は歌詞の中に、残さず歌われていると感じるからである。とはいえやはりどうしたって、今の日本の状況の中で「愛唱」できるような歌では、ありえないように思うわけなのだが。

=翻訳をめぐって=

We'll be fighting in the streets
With our children at our feet

ピート本人のブログにも綴られているごとく、この歌の中で一番「大切」なのは、この冒頭の部分なのではないかと私は感じている。「We'll be fighting in the streets」というフレーズの「will」という言葉には、不正に対して我々(we)は断固として声をあげるし、声をあげるだけにとどまらず身体を張って抵抗をつらぬくという、歌い手自身の「意志」がハッキリと示されているのである。「二度とだまされませんように」というのは、後述するけどそれを前提にした上での、歌い手の「祈り」に他ならないのだ。決して初めから「何をやってもムダ」「だから何もしない」などという反動的なことが歌われている歌ではない。そういう聞き方をしたい人間が山ほどいるらしいのは、その聞き手の心の持ちようの問題にすぎないのである。

With our children at our feet (自分たちの子どもを足もとに伴って)」というフレーズについて。「子分どもを引き連れて大暴れ」みたいな翻訳の仕方を見たことがあるのだが、ここは文字通り「歌い手自身の子どもたちと一緒に」と解釈すべき歌詞なのではないかと思う。海外サイトでも、その子どもたちが「時代の目撃者」となって、「同じ失敗が繰り返されないような未来」を切り開いてくれることへの希望が綴られているのではないか、という解釈が展開されていた。一般に、社会的な不正に対する「戦い」というものは、「家族ぐるみ」「地域ぐるみ」で戦われるケースが極めて多いし、大人たちの方でも自分たちが戦う姿を子どもたちに見ていてほしいという意識を、必ず持っている。「国家」の名のもとに行なわれる戦争が、兵士の「家族」には絶対に見せられないような残虐行為を必ず伴っていることとは、わけが違うのだ。



And the men who spurred us on
Sit in judgment of all wrong
They decide and the shotgun sings the song

あらゆる革命に「つきもの」とされている「粛清」や「人民裁判」への「嫌悪感」が表明されているともとれる歌詞だが、そのことの上で歌の主人公は、革命そのものに対しては「積極的に反対する態度」を表明しているわけでもない。だったら「そういうのを伴わない革命をやろう」と訴えればいいだけの話ではないかという風にも思うのだが、そう言いきれないことには何か理由でもあるのだろうか。確かにピートの言うごとく「革命というものは予測のつかない結果をもたらす」ものではあるにせよ、「自分はこうしたい」と主張することなら、できるはずだ。「指導者」が「支配者」に「変質」するのは、そんな風に「指導される側」が「自分の意見を言わなくなること」の結果でもあるはずなのである。

I'll tip my hat to the new constitution
Take a bow for the new revolution
Smile and grin at the change all around

ビートルズの「Revolution」にも出てきたが、「new constitution」は「新憲法」とも訳しうる言葉。でもここでは一般的に「新しい政体」ぐらいの意味で訳しておくのが適当だと思う。

「Take a bow」は、劇団の座長などが舞台の上から「挨拶を送る」ことの表現としても使われる言葉らしいが、一般的には「誓いを立てる」「願をかける」といった意味。どちらにしても「内面的な行為」なので、多分主人公は「心から」げんしゅくな態度で、革命というものそれ自体とは向き合おうとしているのだという姿勢がうかがえる。

「smile」はいいとして「grin」は「歯をむき出して笑う」という意味。いささか、わざとらしい感じのする言葉づかいである。「心にもない笑顔を浮かべることになるんだろうな」という気持ちが歌われているのだろうか。…浮かべなきゃいいじゃないか。

Then I'll get on my knees and pray
We don't get fooled again

二度とダマされるのはゴメンだぜ」といったカタカナ多使用ダゼダゼ口調で訳されることの多い歌詞だが、ここで歌われているのは「自分が膝まづいて祈るであろうその内容」なのだ。「もう二度とだまされませんように」なのである。ボーカルのロジャー·ダルトリーはこの部分を「叫び」として歌ったが、作曲者のピート·タウンゼントはこの歌詞の本質は「祈り」なのだということを、繰り返し明らかにしている。

ここの部分の歌詞をめぐっては、逸話がある。何でもアメリカのことわざには

"Fool me once, shame on you,
fool me twice, shame on me"

最初にだまされた時には、相手が悪い。
二回もだまされるのは、自分が悪い。

という言い回しがあるらしいのだが、2002年にアメリカ大統領だったブッシュが、イラクによる「大量破壊兵器の隠匿」の「疑惑」を口実に戦争を発動しようとした際、演説の中でそれを引用しようとして「トチった」らしいのである。

“There’s an old saying in Tennessee – I know it’s in Texas, probably in Tennessee, that says, fool me once, shame on you – shame on you. Fool me – you can’t get fooled again.”
テネシーにはこんな古いことわざがある。…テキサスでも言うと思うが、多分テネシーのことわざだ。それによるならば、自分が最初にだまされた時には、相手が悪い…恥を知れ。私をだますといい…あなたはもう二度とだまされない。

…ブッシュ政権を批判したマイケル·ムーアの「華氏911」という映画では、このブッシュの「言い間違えシーン」で「大爆笑」が起こったらしいのだが、「笑っていい話」では私はないと思う。こんな支離滅裂な演説に対しても議会では結局「拍手」が送られ、そしてこうした人物の「決断」にもとづいて何万もの命が奪われる戦争が実際に開始されてしまったわけなのだから、そのこと自体は極めて「恐ろしい話」なのだ。その「いいかげんさ」に対して「怒るべき話」ではあっても、「笑い飛ばして済まされる話」では断じてないと思う。

その「華氏911」の主題歌として、この「Won't Be Fool Again」を使わせてほしいというのが、マイケル·ムーアの当初の希望だったのだという。ブッシュという人間の「頭の悪さ」を印象づけるような上のシーンに流される曲としてまさに打ってつけだし、また同時にそのブッシュという人間から「二度とだまされないぞ」という反体制的なメッセージとしても「活かせる」ことになる。けれどもピート·タウンゼントは「bully (弱いものいじめみたいだから)」と言って、そのオファーを断ったらしい。

この件に関しては、ピートの対応の方が圧倒的に「正しい」と私は感じている。ブッシュでも、安倍でもトランプでもそうなのだが、かれらが「頭が悪いこと」をあげつらって「笑いもの」にすることで、それこそ何が解決するというのだろうか。そんなのはむしろ、「頭が悪い人」は「笑いもの」にしても「構わない」という明らかな差別行為に他ならない。支配者の「頭の悪さ」をあげつらうことで何かを言ったつもりになっている人たちというのは、たいてい自分が「精神的優位」に立てたことを自己確認するだけで「終わって」しまっている。自分が見下しているその相手から自分が「支配されている」という現実に対しては、指一本かけられるわけでもない。それだったらむしろ「笑い」などという「ガス抜き」に頼ることなく、その屈辱を「素直に」噛みしめた方が、よっぽど「有益」というものなのだ。

けれどもそんな風にピートが左派(と見なされている映画監督)からのオファーを断ったことが、今度はこの歌が「保守派の応援歌」であるかのように宣伝される理由を作ってしまったりもしているわけで、それに対してもピートは「ブログで反論すること」を強いられている。大変なことだなと同情したい気持ちにもなってしまうが、自分の主張を誰かから「利用の対象」にされたくないと思うなら、人間は結局のところ、そうやって「自分の意見」を「発信」し続ける以外にないのである。

とはいえそんな風に「自分の意見」を「発信」すること自体に「疲れて」しまうことも、人間である以上「ありうる」ことだと私は思う。まして「自分の意見」というものは、本当ならばそんな形で「強いられて」「発信」しなければならないようなものでは、ないはずなのだ。

この歌の二番以降の歌詞には、そんな風に「自分の意見を発信し続けること」に「疲れて」しまったピートの気持ちが、割と素直に綴られているのではないか。という印象も私は受ける。ともあれ、それは「相手のためにならない同情」というものだろう。

人間は「自分の口から出た言葉」に対しては、最後まで「責任」をとる以外にない。「革命」というものがそうであるのと同じく、書いた当初には「予測のつかない結果」をこの歌がピートという人間にもたらすことになったとしても、彼氏は自分の吐いた言葉からは、一生逃げることができない。ロックンローラーなのだから、そこはせいぜい頑張って、修羅道を歩んでほしいものだと思う。まあ、私も頑張るつもりではいますので。

I'll move myself and my family aside
If we happen to be left half alive

二行目の歌詞の意味がよくわからない。「革命にともなう戦闘の中でケガをして戦線から離脱したら」みたいなことがイメージされているフレーズなのだろうか。

I'll get all my papers and smile at the sky
Though I know that the hypnotized never lie
Do ya?

ここでの「paper」はおそらく「新聞」という意味で間違いないと思う。「hypnotize」は「催眠術にかける」という意味。90年代ぐらいに「洗脳 (brain wash)」という言葉が流行って使われだすようになる以前は、同じ意味でこういう言葉が使われていたのだろうなということが伺える歌詞である。

余談ながら「洗脳」などというのは完全に「レッテル貼り」のための言葉であって、「コミュニケーションのため」に使える言葉ではおよそない。私自身、天皇制に反対だとか自衛隊に反対だとか口にする人間なもので、「誰に洗脳されたの?」みたいなことを言われた経験には事欠かないのだが、そういうことを言ってくる相手とは「対話」が成立したためしがない。こちらがいくらそれは「自分の意見」なのだと主張しても、その相手は私という人間を「洗脳」して「利用」しようとしている人間が「別にいる」と信じてやまないらしいのである。つまりは「私という人間」のことを全く「相手」にしてくれていない。そんな風に簡単に「利用」される人間が実在してたまるものかと私は思うのだが、いずれにしても「洗脳」という言葉を深い考えもなしに「使える」人には、いっぺん自分が「洗脳」という言葉に「洗脳」されていないかということを立ち止まって考え直してみてほしいという気がする。

それはともかくとして、この歌詞で歌われていることは、「政治的な言葉にマヒしてしまった人間には、自分がウソをついているという自覚もないということなんだろうな」ということなのだろうと思う。だからこの歌の主人公には、新聞に書かれている言葉が「ウソばっかりのプロパガンダ」でしかないことがよしんば「わかって」いたとしても、「空を見上げて微笑む」ことしかできないのである。書いている人間たちには「ウソを書いている自覚」自体が、「欠落」しているのだから。

けれどもだとしたら、「二度とだまされない」ためにはこの主人公は、どうしたらいいのだろうか。結局それが「ウソ」であることを、彼自身が「示して」やる以外にないはずなのである。とにかくまあ、同じ言葉しか出てこないのも何だけど、頑張ってほしいものだと思う。


ユニコーン ヒゲとボイン

最後の「一晩で伸びるヒゲ」についても何かコメントしておいた方がいいかとも思ったが、さすがに疲れてしまった。まあ、「何だそのエラそなヒゲ」ぐらいのこと以上は、たぶん何も言っていない。かつて革命を「指導」していたはずの人間たちに対してである。でも、結局のところ、そういうことは実際に革命が起こって実際にそれに裏切られるようなことが起こった場合に「初めて」歌にすればいい話なのだ。「起こってもいないこと」にグチをこぼして何になるだろう。自分が揶揄している相手のそのヒゲだって、まだそんなには「伸びて」いないはずだと思う。伸びてから言え。いろいろ書いてきたけれど、最終的にはそれしかコメントのしようがない歌なのだった。ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Released: 1971.6.25. (Sigle version)
1971.8.25. (Album version)
Key: A