華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

The Death Of Emmett Till もしくはエメット·ティルのバラッド 1955年8月28日 (1962. Bob Dylan)


The Death Of Emmett Till

The Death Of Emmett Till

英語原詞はこちら


’Twas down in Mississippi no so long ago,
When a young boy from Chicago town stepped through a Southern door.
This boy's dreadful tragedy I can still remember well,
The color of his skin was black and his name was Emmett Till.

ミシシッピ州の方で起こったこと。
それほど前のことじゃない。
シカゴの街から来た男の子が
南部のドアをくぐった。
この子に起こった恐ろしい悲劇を
ぼくは今でもよく覚えている。
その子の肌は黒くて
その子の名前は
エメット·ティルと言った。


Some men they dragged him to a barn and there they beat him up.
They said they had a reason, but I can't remember what.
They tortured him and did some evil things too evil to repeat.
There was screaming sounds inside the barn, there was laughing sounds out on the street.

何人かの男たちが
その子を納屋の中に引きずり込んで
そこでその子を袋叩きにした。
それには理由があると
そいつらは言っていたが
ぼくはそれを覚えていない。
そいつらはその子をいたぶって
邪悪すぎて口にできないぐらい
邪悪なことをした。
納屋の中では叫び声が響き
街の通りでは笑い声が響いていた。


Then they rolled his body down a gulf amidst a bloody red rain
And they threw him in the waters wide to cease his screaming pain.
The reason that they killed him there, and I'm sure it ain't no lie,
Was just for the fun of killin' him and to watch him slowly die.

血のように赤い雨の中
そいつらはその子のからだを
入り江の土手から転げ落とした。
そして水の中に投げ込んだ。
痛みに苦しむその子の声を
消してしまうため。
そいつらがそこでその子を殺した理由は
これは決してうそじゃない
ただ面白がって殺したんだ。
そしてその子がゆっくり死んでゆくのを
眺めるためだったんだ。


And then to stop the United States of yelling for a trial,
Two brothers they confessed that they had killed poor Emmett Till.
But on the jury there were men who helped the brothers commit this awful crime,
And so this trial was a mockery, but nobody seemed to mind.

裁判を開けと叫ぶ声で
アメリカ合州国は凍りついてしまった。
ふたりのきょうだいが
かわいそうなエメット·ティルを
殺したことを自白した。
けれども法廷には
その恐ろしい犯罪を起こした
きょうだいのことを
かばう人間たちがいて
裁判は茶番劇になった。
それなのに誰もそのことを
気にしていないようだった。


I saw the morning papers but I could not bear to see
The smiling brothers walkin' down the courthouse stairs.
For the jury found them innocent and the brothers they went free,
While Emmett's body floats the foam of a Jim Crow southern sea.

あの朝ぼくは新聞を見たのだけど
とても見続けていられなかった。
笑顔のきょうだいが
裁判所の階段から
降りてくるところだった。
法廷はかれらを無罪にして
きょうだいは自由になったのだ。
エメット·テイルのからだは
ジム·クロウ法の南部の海の上に
泡を浮かせていつづけていたけれど。


If you can't speak out against this kind of thing, a crime that's so unjust,
Your eyes are filled with dead men's dirt, your mind is filled with dust.
Your arms and legs they must be in shackles and chains, and your blood it must refuse to flow,
For you let this human race fall down so God-awful low!

こんなことを見て
こんなに不正義な犯罪を見て
許せないという声を
あげられないというのなら
そいつの目は死んで腐ったその汚らしさで
埋めつくされてるってことだし
そいつの心の中は
ゴミでいっぱいになってるってことだ。
そんなやつの手足は鎖で縛られて
そんなやつの血は
流れるのをやめてしまえばいいんだ。
こんなふざけた法律のために
全人類がおとしめられているのを
黙って見ていられるようなやつは!


This song is just a reminder to remind your fellow man
That this kind of thing still lives today in that ghost-robed Ku Klux Klan.
But if all of us folks that thinks alike, if we gave all we could give,
We could make this great land of ours a greater place to live.

この歌はみんなに
忘れないでいてもらうための歌だ。
こんなことが今でも
クー·クラックス·クランのかぶった
幽霊みたいなローブの下で
生き残ってるんだということを。
でももしみんなが
同じように思ってくれるなら
ぼくらが自分にできることを
全部やりとげたなら
ぼくらのこの素晴らしい場所を
生きるに値するもっと素晴らしい場所に
変えてゆくことだって
できるはずだろう。



この部分のみ翻訳に自信がなく、「想像訳」になっています。文法的に正確なところを指摘してくださる方がいらっしゃれば、よろしくお願いします。



ディランが20歳の時にミネソタからニューヨークにやって来て、注目を集め、最初にレコーディングすることになったいくつかの曲のなかのひとつだと言われている曲。長らく公式には発売されていなかった。後の時代の韜晦だらけの表現とは無縁な、ディラン自身の初期衝動と言うべき「青臭い怒り」が歌詞の中に充満しており、私はそれを、嫌いではない。

当時14歳だったシカゴ出身の黒人少年、エメット·ティル君を殺した罪に問われた二人の男が、ミシシッピ州の裁判所で無罪判決を受けたというニュースが新聞に躍ったのは、1955年9月24日の朝のことだった。ディランの生まれた年を改めて確かめてみると、1941年。このとき彼氏は、殺された少年と同じ14歳だったことになる。その日のことをディランは7年間忘れずにいて、人生で最初のレコーディングの時には、その時のことを歌った歌を歌った。このことは、記憶されていいことだと思う。



北部の大都会シカゴで生まれたティル少年は、1955年8月、夏休みを利用して母方の親戚が暮らすミシシッピ州に旅行する計画を立てた。母親のメイミーさんは心配し、南部の田舎とシカゴとでは習慣が全く違うから、白人の前では必ず行儀よく振る舞わなければならないと強く言って聞かせたのだという。けれどもティル少年は「そんなにひどいわけないよ」と笑って、迎えに来てくれた従兄弟と一緒に、初めての南部へと旅立っていった。「実際にはもっとひどいから」という母親からの忠告は、耳に入っていなかったようだった。

南部の従兄弟や友人たちは、シカゴでは黒人は白人の目を恐れたりしないし、自分には白人のガールフレンドもいるというティル少年の自慢話を聞かされて、驚いたと同時に、見下されたと思って多少はムッとしたのだろう。おまえの言うことが本当なら、地元で一軒しかない食料品店のレジにいる白人女性にデートを申し込んでみせろと、からかい半分にけしかけた。誰も、まさか本当に行くとは思っていなかった。ところが、差別の恐ろしさを知らないティル少年は、普通にその店に入って行ってしまった。

従兄弟や友人たちは、大変なことになったと思いながら、窓越しに固唾を飲んで見守っていた。中でどういうやり取りが交わされたのかは、他に客がいなかったので、今でも本人たち以外には誰も分からない。けれどもティル少年がレジの女性の身体に触ろうとしたのを見て、従兄弟の一人は大慌てで店に飛び込み、ティル少年を引きずり出した。クルマで逃げようとした時、レジの女性は店の外に飛び出して、停めてあったクルマから拳銃を取り出した。その女性に向かって、ティル少年は走り去るクルマの中から「口笛を吹き鳴らした」と言われている。

ティル少年がやってしまったことは、当時の南部の黒人たちが最も「やってはならないこと」とされていたことだった。逆のパターン、すなわち白人男性が黒人女性と性的関係を持つことはいくらでもあったにも関わらず、黒人男性が白人女性を性的な関心の対象とすることは、最大の「タブー」とされていた。白人女性に少しでも興味を示した黒人男性は、誰でも命の保証がなかったし、南部の黒人男性は誤解から身を守るため、たとえ話しかけられたとしても絶対に白人女性の顔は見ないということが「常識」になっていた。それは実は母親のエイミーさんが最も注意深くティル少年に警告していたことでもあったのだが、だからこそ彼氏はわざとそれに逆らって、どうなるか試してみたいと思ったのかもしれない。南部の差別主義を彼は知らなかったし、「同じ人間」のあいだでそんなことが起こるなんて、信じることもできなかったのだ。

4日後、8月28日の午前2時、ティル少年が身を寄せている親戚の家を、拳銃と懐中電灯を持った二人の白人男性が訪れ、「シカゴから来た小僧を出せ」と迫った。家の主人だったモーゼス·ライト老人は、何が起こってしまったかを悟り、金で何とか解決してくれるように懇願したが、二人は聞く耳を持たず、逆らうことはできなかった。ティル少年を起こすと、彼は落ち着いた様子で二人について行ったと言う。去り際、男たちのひとりは「明日になって俺たちのことを知ってるなんて言おうもんなら、次の誕生日はないと思え」とモーゼス老人を脅迫し、トラックの荷台にティル少年を乗せ、ライトを消したまま走り去った。

ティル少年がどんなにひどい目に遭わされたとしても、まさか殺されることはないだろうと、この時はモーゼス老人も、思っていたのだという。そして後から明らかになったことではあるが、二人の白人の側も「殺す気まではなかった」のだという。それにも関わらずティル少年が命を落とすことになったのは、白人の前で脅しや暴力に屈せずに、「毅然とした態度」を取り続けたからだった。生まれて初めて経験させられた不当な人種差別を絶対に許せないという「人間としての誇り」が、結果的には、彼の命を奪うことになったのだった。

有刺鉄線で首に重りをくくりつけられた少年の遺体が、近くの川で釣り人によって発見されたのは、三日後のことだった。遺体は激しく損傷していた。頭蓋骨は一部陥没し、片方の眼球が抉り取られており、さらに頭に銃創があった。全身に殴打の痕があり、性器が切断されていて、発見された時にはそれが口の中に押し込まれていたという話もある。遺体の発見から間もなく、ティル少年が声をかけた女性の夫であるロイ·ブライアントと、その異母兄弟のJ.D.マイラムが「誘拐罪」で告発された。

地方当局はすぐにも遺体をミシシッピで埋葬し、証拠を消してしまおうとしたが、母親のエイミーさんはそれを許さなかった。遺体を何としてもシカゴに戻すよう要求し、それを実現させた。そして埋葬がおこなわれるまでの4日間にわたり、「自分の息子が何をされたかを世界に見てほしい」というエイミーさんの願いにもとづき、遺体を納めた棺桶からは蓋が外され、市内のロバーツ教会で参列者に公開された。ティル少年の前に列を作り、その姿を自分の目で確かめた人々は、のべ10万人にのぼったという。このことは全米に衝撃を与えた。エイミーさんのような行動をとった黒人のリンチ被害者家族は、知られている限りそれまでに誰もいなかったからだった。



ティル少年の葬儀と同じ日、大陪審は二人の白人を殺人罪で起訴し、報道の目はミシシッピ州サムナーの小さな裁判所に集中した。そして法廷の傍聴席にさえ人種差別が貫かれている南部の実態を、初めて全米が目の当たりにすることになった。ティル少年を家に泊めていたモーゼス·ライト老人は、絶えず命を狙われることになり潜伏を余儀なくされていたが、この法廷に堂々と出廷し、少年を連れて行ったのはこの二人だと被告の白人を指さした。それはアメリカの裁判史上、黒人が白人の有罪を指摘した最初の事例であり、見ていた人々に「電気ショックを受けたような衝撃」を与えたという。ライト老人はこの後、自分の畑で実をつけかけていた綿花も土地もすべてを捨てて、ただちに北部に逃れた。そうしなければ確実に殺されることになるのを、知っていたからだった。



被告のブライトンとマイラムは、ティル少年を連れ出したことは知らないが、その後のことは知らないと証言した。ティル少年から直接声をかけられたキャロリン·ブライアントは、店に入ってきた北部なまりの「男」が自分の身体に触れ、卑猥な言葉で自分をデートに誘ったと証言した。それは南部の陪審員たちに対しては、それだけでティル少年が何をされても当然だという印象を与える証言だったと言われている。裁判はわずか5日で終わり、被告には無罪が宣告され、二人の白人は家族と抱き合い、英雄気取りでカメラの前でポーズを作った。14歳だったディランが見たのは、この写真だったのだろうか。



裁判が終わり、アメリカの法制度にもとづき、同一の犯罪で二重に訴追されるおそれが無くなった後、二人の白人は四千ドルで独占インタビューに応じ、その中でティル少年の殺害を公然と認め、かつそのことを「誇って」みせた。1956年1月の「ルック」誌に掲載されたその記事によるならば、下手人の一人であるマイラムが殺害を決意したのは、ティル少年がどんな脅しにも屈せずに以下のような言葉を叫んだからだったという。

"I'm not afraid of you. I'm as good as you are. I've 'had' white women. My grandmother was a white woman."
俺はお前らなんか怖くないぞ。俺はお前らと何も変わらないぞ。俺には白人の彼女だって何人もいたんだぞ。俺のばあちゃんは白人だったぞ。

以下はマイラム自身のコメントだ。

"Well, what else could we do? He was hopeless. I'm no bully; I never hurt a nigger in my life. I like niggers -- in their place -- I know how to work 'em. But I just decided it was time a few people got put on notice. As long as I live and can do anything about it, niggers are gonna stay in their place. Niggers ain't gonna vote where I live. If they did, they'd control the government. They ain't gonna go to school with my kids. And when a nigger gets close to mentioning sex with a white woman, he's tired o' livin'. I'm likely to kill him. Me and my folks fought for this country, and we got some rights. I stood there in that shed and listened to that nigger throw that poison at me, and I just made up my mind. 'Chicago boy,' I said, 'I'm tired of 'em sending your kind down here to stir up trouble. Goddam you, I'm going to make an example of you -- just so everybody can know how me and my folks stand.'"
他にどうしろって言うんだ。そいつは終わってた。おれは弱い者いじめはしないぜ。人生でniggerを傷つけたことなんて一度もない。おれはniggerは好きさ。連中が自分のいるべきところにいる限りはな。やつらの扱い方は知ってるよ。だが、俺は決めたんだ。警告が必要な連中が何人かいるらしい。俺が生きてる限り、そして俺が自分の力をふるうことができる限り、niggerが自分の場所を守らないなんてことは、あってはならないんだ。おれが生きてる場所でniggerに投票はさせない。それをさせれば、やつらが政治をコントロールすることになるだろう。やつらを俺の子どもたちと一緒に学校に行かせたりはしない。そしてniggerが白人の女とセックスするようなことをほのめかしたりでもしたとしたら、そいつは生きるのに疲れたということなんだ。俺はそいつを殺すね。俺と相棒はこの国のために戦ったんだし、俺たちにはrights(権利/正しさ)があった。おれはあの小屋であのniggerがおれに毒づくのを聞いて、自分の心を決めたんだ。「シカゴのガキよ」と俺は言った。「ここでトラブルを起こすためにお前みたいなやつを送り込んできた連中にはうんざりだぜ。お前みたいなやつはどうなるか、見本を作ってやるよ…俺や俺たちはどんな風にそれに立ち向かうのかってことをな」。



「nigger」はアフリカ系の人々に対する最大級の憎悪が込められた差別表現です。ここでは原文をそのまま転載しました。

アフリカ系の人々はこの事件のことを決して忘れなかったし、決して許さなかった。ティル少年の母親のエイミーさんは、自分の息子に起こったことを人々に訴え続ける語り部として残りの人生を送った。1992年のこと、彼女は下手人の一人であるロイ·ブライアントが取材を受けている現場に居合わせた。エイミーさんがそこにいることを知らないブライアントは、自分の人生は「エメット·ティルのせいでめちゃめちゃにされた」と主張し、反省の色もなく、以下のように語ったのだという。

"Emmett Till is dead. I don't know why he can't just stay dead."
「エメット·ティルは死んだんだ。なぜ死んだままでいてくれないのか俺には分からない」。

私はティル少年の最後の瞬間の戦いが、差別主義者たちに以後40年にわたって「悪夢」を見せ続けることになったことを、偉大なことだと思う。それにも関わらずかれらは、「反省しないまま」死んだのだ。ならばさらに歴史の続く限り、人々から永遠に許されることのない罪人として記憶され続けねばならないのは、当然のことだと思う。



エメット·ティル少年の殺された1955年は、「公民権運動が始まった年」になったと言われている。無残に破壊されたティル少年の遺体と顔を合わせた人々は、誰もが「自分の中の何かが変わったこと」を感じずにはいられなかったと言う。同年12月1日、アラバマ州モンゴメリーでバスに乗っていた黒人女性のローザ·パークスさんが、白人のために席を移動することを強要されてもそれに従わなかった時、頭に浮かんだのはティル少年のことであり、それを思うと「引けない気持ちになった」のだとのことである。バス·ボイコットという最初の「大衆運動」が南部で巻き起こったのは、彼女の逮捕に対する抗議をきっかけとしてのことだった。

ティル少年のお母さんが「世界中の人に見てほしい」と願ったその遺体の写真は、現在もネットの上で、さまざまな形で公開されている。ショッキングな写真だが、彼のことを取りあげた記事をここまで綴ってきた以上、我々も彼の最期の姿と対面することが必要だと思うし、その姿と向き合うことを通して、差別のない未来への決意を新たにしてゆかねばならないと思う。ページの一番下の部分にその写真を貼りつけて、今回の記事の結びに代えたい。ではまたいずれ。