華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Oh! Susanna もしくは「ミンストレルショー」と呼ばれたものについてなど (1847. Stephen Foster) ※

私はアラバマからバンジョー肩に
はるかなルイジアナまで行くのです
土砂降りかと思えばカンカン照りで
死ぬほどつらい旅をしています
おおスザンナ 泣かないでね
素敵なバンジョーの歌 思い出して


-日本語詞: 岩沢千早-


おおスザンナ

Sweet Home Alabama」という楽曲を批判的に取りあげて以来、このブログではちょっとした「アラバマ特集」が続いてきたわけだけど、考えてみれば私が「アラバマ」という地名に初めて出会ったのは、中学の時に音楽の時間で習ったこの歌を通じてだったのだな。上に貼りつけた「ちょろけん」みたいな人の画像は、この歌を初めて日本に伝えたとされているジョン万次郎の27歳の時の肖像画である。足摺岬の近くで1827年に生まれたこの人は、14歳の時に乗っていた漁船が難破し、漂流先の鳥島でアメリカの捕鯨船に助けられ、その船長の養子となって初めてアメリカの地を踏んだ。東海岸のマサチューセッツ州で教育を受け、カリフォルニアのゴールドラッシュに参加して日本に帰る資金を稼ぎ、苦労して帰国した翌年にはペリーが来航し、アメリカ事情に通じているほぼ唯一の日本人として幕府に呼び出されるわ命は狙われるわ坂本龍馬らに影響を与えるわと、とにかく波瀾万丈な人生を送った人なのだが、血の吹き荒れた幕末の革命期にあってこの人は「自分のなすべきこと」だけを淡々となしきり、「爪を隠した能ある鷹」として謙虚にその人生を終えた。基本的に悪人しか登場しない「歴史上の人物」の数々の中で、私が素直に尊敬することのできる数少ない人たちの一人である。みなもと太郎の「風雲児たち」というマンガに出てくるタラコ唇のこの人の姿が、私は子どもの頃から大好きだったのだったな。

といった感じで自分自身のこの歌にまつわる思い出をさらさらっと綴り、後はオリジナルの歌詞をさらさらっと翻訳してこの記事は終わりになるかと思っていたのだけれど、調べてみるととてもそれだけでは済まされないような歴史がこの歌にはまとわりついていたことが分かり、さらさらっと終わらせるわけには行かなくなってしまった。以下、前回に引き続き、アメリカのティーンエイジャー向けの雑学サイト「Shmoop」から、この歌に関する記事を翻訳して転載しておきたい。
www.shmoop.com

「おおスザンナ」がピッツバーグのとあるアイスクリームパーラーでそのデビューを果たしたのは、1847年のことだった。それから2〜3年のうちに、この歌は全米のあらゆる州からカリフォルニアに向かうゴールド·シーカー(黄金採掘者)たちによって、至る所で口ずさまれる歌となった。

カリフォルニアのゴールドラッシュは、アメリカの歴史における一大事件だつた。1848年1月にカリフォルニアの山麓で金が発見されてからというもの、おおよそ10万人が西海岸に押し寄せた。一獲千金を夢見る者たちで地域の人口は一気に何倍にも膨れあがり、連邦政府は大急ぎでカリフォルニアを31番目の州として承認した。

スティーブン·フォスターが「おおスザンナ」を書いたのはゴールドラッシュに若干先立つ時期のことだったとはいえ、この歌は冒険を求めるアメリカの金鉱採掘者、「フォーティナイナーズ」の心意気をそのまま象徴するような歌として、瞬く間にトラベリング·ミュージックとなり、かつアンセムとなった。(金鉱が発見された翌年の1849年にカリフォルニアに向かう人々が集中したことから、「Fortyniners」の呼び名がある)。フォスターは多くの人々から、アメリカが産んだ最初の偉大なソングライターであると見なされている。

彼がこの歌を書いたのはまだたったの21歳の時だった。他にも彼は「夢路より」「ケンタッキーの我が家」「金髪のジェニー」といった古典的名曲を残している。同時に重要なのは、彼が自分の才能をアメリカ的な素材の中で花開かせたことだ。彼の書いた歌が描き出すのはアメリカの人々であったり、地理であったり、さらには政治であったりもした。その中でも最も広く歌われることになったと思われる「おおスザンナ」は、これまたアイスクリーム·パーラーという場所で最初に紹介されたのである。これ以上アメリカ的な舞台は、誰にも思いつけないだろう。

だがこの歌の背景には、アメリカの極めて醜い面も横たわっている。フォスターはこの曲を、ミンストレル·ショーのために書いたのだ。白人の演者がコルクの煤を顔に塗りたくり、自分たちがアフリカ系アメリカ人に対して抱いているイメージのままに、ふざけたスタイルで喋ったり歌ったり踊ったりするのがその内容だった。

ショーの前半では、都会的にめかしこんだずる賢い黒人男性を演じる俳優が主役を務め、後半になると、のろまで無知なプランテーションの奴隷を演じる俳優が登場する、というのが大体のお決まりのパターンだった。ミンストレル·ショーの演目はアメリカ全土にはびこっていた人種差別の最もグロテスクなカリカチュアと言うべきものであり、そして「おおスザンナ」はそのジャンルの典型的な作品だった。この歌はアフリカ系アメリカ人の「奴隷」に対する差別的なパロディであり、顔を黒く塗った白人の歌手が歌うための演目として作られた歌だったのだった。

この歌の原歌詞は、極めて侮辱的なものだった。アフリカ系アメリカ人のことを、空いばりしている無知な人間として描き出し、かつそのアフリカ系の人々が500人も死に至らしめられることが、その歌詞の「オチ (punch line)」になっていた。

歌の最初の部分は、それ自体は罪のない設定のもとに始まる。ひとりのアフリカ系アメリカ人が、ルイジアナにいる自分の恋人に会いに行くためにアラバマから南に向かっている。旅人の口ずさむナンセンスなフレーズは、ともすれば他愛もない冗談として片づけられる類のものでもあるだろう。("It rained all night the day I left, the weather it was dry; the sun so hot I froze to death…" 朝から晩まで土砂降りの中にいて、天気はカラカラだった。太陽は熱くて熱くて、おれは凍え死ぬところだった…)。だがその歌詞は、主人公が「賢い」とは言えない人間であることを聞き手に印象づけるために故意にブロークンな英語で書かれている。("It rain'd all night de day I left…")。一番ではそれが「気配」だけだが、二番になると歌い手は極端なまでに無知な人間として描かれている。

I jumped aboard de telegraph,
And trabbelled down de ribber,
De Lectrie fluid magnified,
And killed five hundred N----s.
De bullgine bust, de horse run off,
I really thought I'd die;
I shut my eyes to hold my breath,
Susanna, don't you cry.

おれは電報の機械に飛び乗って
カワをクダった。
ナガれるデンキはバクダイで
ニガーを500人も殺してしまった。
汽車はつぶれるし馬は脱線するし
まったくおれは死ぬかと思った。
おれは目を閉じて深呼吸する。
スザンナ、泣かないでくれよ。

伏字部分は原文をそのまま転載しました。「ニガー」という黒人に対する最悪の罵倒語が使われています。

そうなのだ。書かれた当初の「おおスザンナ」は、極めて醜悪な歌だった。諸君が学校で習った歌詞と全然違うという印象を受けるなら、それは歌の中の差別的な部分が徐々に書き換えられていったことの結果である。

「電報」以下の侮辱的な歌詞は真っ先に歌われなくなったが、"But if I do not find her, / Dis darkie'l surely die, (でももしあの子に会えなけりゃ/ このダーキーは死んじまう…「darkie」もまた黒人に対する蔑称)" という歌詞はかなり長いこと歌われ続けていた。けれどもその歌詞も、最後には歌集から消えた。プランテーションの「奴隷」が喋るのはこんな言葉だろうとして空想的に使われていたブロークンな英語も、徐々に書き直されていった。

結果、この歌は、主人公がどんな人種であっても成立するような (race-neutral)、 恋人に会いに行く男性一般の物語へと姿を変えた。また一方で、ゴールドラッシュのイメージを印象づける新たな歌詞も付け加えていった。ローラ·インガルス·ワイルダー(「大草原の小さな家」で知られる作家·小学校教師)は、バンジョーを抱えた旅の主人公の行き先と目的を一変させてしまう、プレイリー(アメリカ中央部に広がる大平原)の小さな家を登場させた。

I come from Salem City with my wash pan on my knee,
I'm going to California, the gold dust for to see...
I soon shall be in Frisco, and there I'll look around,
And when I see the gold lumps I'll pick them off the ground.

膝の上に金ダライを載せて
セラム(←ミズーリ州?)から来ました。
カリフォルニアまで
砂金を見つけに行くところなんです。
すぐにサンフランシスコに着くでしょう。
そしたら見わたすんです。
黄金の塊をみつけたら
すぐに掘り出しちゃいます。

けれどもこうした改訂版の「おおスザンナ」で、この歌の闇に包まれた過去を「なかったこと」にできるものではない。1847年にアイスクリーム·パーラーでお披露目され、瞬く間に全米を席巻したこの歌についていたのは、醜悪な歌詞だったのだ。アメリカ的な冒険を繰り広げるゴールドシーカーたちによって広く愛唱されたこの歌は、その時代における人種差別がいかに広範に根深いものとして存在していたかということを示している。

今日でも我々は、スティーブン·フォスターをアメリカが産んだ偉大なソングライターとして称え、愛や故郷を歌ったいくつものバラッドの作者としてことほいでいるわけではあるけれど、彼自身の人生もまた、暗い影に縁取られたものだった。彼の結婚生活はトラブルに満ちたもので、離婚ということが極めて稀だったその時代にあって、彼とその連れ合いとは一度ならず別れている。またその音楽があれほど有名になったのにも関わらず、彼のもとにはほとんど金が入らなかった。歌を作るということがまだ職業にはなりえなかった時代であり、彼が手にすることができたのは最初に発行されたいくらかの楽譜の印税だけだった。

当時においてアメリカの著作権法は弱い力しか持っておらず、演奏者は彼に無断でいくらでも彼の曲を演奏できたし、また楽譜が増刷されたり新しいアレンジの楽譜が出版されても、発行者はフォスターに1ドルも支払う必要はなかった。30代の半ばまでに彼は借金まみれとなり、酒びたりの孤独な生活を送っていた。1864年にフォスターはニューヨークのホテルで転倒し、洗面台で頭を打って世を去った。37歳になったばかりだった。

フォスターと彼の業績は、ミンストレル·ショーの文化が持っていた許しがたい差別性とは分けて考えられるべきだ、と主張する人もいる。彼の擁護者に言わせるならば、彼の作った歌は他の同類の歌と比べればマシな部類のものだったし、また彼は最終的には、黒人「奴隷」の喋り方をからかうような言葉遣いで歌詞を書くことをやめてもいる。彼は出版社に対し、自分の楽譜に差別的な挿絵をつけることを禁じていたし、また演奏者に対しても、自分の作品に登場する黒人キャラクターをからかいの対象として演じるのはやめてくれと注文していた。さらに擁護者たちの主張によるならば、フォスターは自分の作品の黒人キャラクターに対し、他のミンストレル作家が顧みもしなかったような「尊厳」を与えようと努力していたという。

たとえば「Nelly Was a Lady」という曲では、フォスターの描く黒人の主人公はその連れ合いに対して感動的な弔辞を捧げている。

Nelly was a Lady;
Last night she died.
Toll de bell for lubly Nell,
My dark Virginny bride.

ネリーは貴婦人だった。
きのうの夜にあいつは死んだ。
ラブリイなネルにカネを鳴らしておくれ。
黒い肌をした
ヴァージニア生まれのおれの花嫁。

もっともらしい主張ではあるが、それに対しては懐疑的にならざるを得ない面もある。20世紀を通じて、歴史家たちは至る所でこれと同様に、奴隷制度の「人間的な側面」を言いつのる主張を繰り返してきたものだった。いわく、奴隷たちはかれらの父性的な「所有者」によって大切に扱われていたのであり、かつ「所有者」の白人との出会いを通して初めて、キリスト教による魂の救いにも触れることができたのではないか云々と。

もちろん、人間に対してその自由を否定するということ自体は、根本的に間違っている。しかし奴隷としてのかれらの生活は、必ずしも耐えられないものではなかった、と擁護者たちは言う。さらにかれらはアフリカ系アメリカ人が「知的に劣っている」とさえ主張し、19世紀のアメリカにおけるシビアな経済事情の中では、自由な人間として生きるより「奴隷」として生活していた方がかれらにとってよほど「楽」だったはずだ、などという論陣を張ったりしている。

20世紀の中頃までには既にこうした議論は紙クズと化しており、好むと好まざるに関わらず、アメリカの歴史には無視することのできない闇の部分が存在したのだということを、全ての人々が直視しなければならない時代を迎えた。この闇は、しばしば社会の最も無邪気(innocent)な部分にも、したたっているのを見出すことができる。「おおスザンナ」は、我々にとっては今では小学校で教わる明るく元気な歌となっているわけだが、そこにこそ我々は、自分たちの歴史の負の側面を直視しなければならないのではないだろうか。

我々はこの歌が、富と冒険を求めて西部に旅立った黄金採掘者たちの愛唱歌だったと教えられてきた。そのことの上で現在のこの歌の歌詞は、子どもたちに教えても害のないものであると見なされているわけではあるが、当時の共同体において最も尊敬すべきとされていたような人々がこぞってアフリカ系アメリカ人を揶揄と嘲笑の対象としていた当時の文化の産物として、この歌は生まれたのである。それがいかに冒険者たちの間に笑いをもたらし、連帯感を深める役割を果たす歌であったにしても、その根底に横たわる人種差別主義がいかに恐ろしく憎むべきものであるかということを、現在のアメリカはいまだ本当には自覚できていないのだと言わねばならないだろう。

上述のように「Shmoop」はティーンエイジャー向けのサイトであり、記事も砕けた内容のものが多いのだが、そうしたメディアでも上のように「しっかりしたこと」が書かれていることに私は感心したし、またすごく新鮮な印象を受けた。そうなるに至るまでの道のりはどんなにか大変だったことだろうが、少なくともアメリカでは、こうした認識が「当たり前」になりつつあるのだ。その同じことが日本においてはまだ全然「当たり前」になっていないということを、ひるがえって私は痛感させられずにいられなかった。日本という国家の内側に対しても、外側に対してもである。

ミンストレル·ショー」と呼ばれたアメリカの「伝統文化」がどのようなものであったかということは、リンク先の記事でかなり詳細に取りあげたことがあったが、これが日本で初めて「上演」されたのは、このこともやはりみなもと太郎の「風雲児たち」というマンガを通じて知った話なのだけど、ペリーが来航して日米和親条約が締結された際のことだったらしい。その時に日本側からは「余興」として「相撲とりの怪力パフォーマンス」が披露されたのだけど、アメリカ側からの「余興」として演じられたのが、顔を「黒塗り」にした白人水兵らによる「ミンストレル·ショー」だったのだという。

それを見せられた日本の幕府の役人が「怒った」という記録は、私の知る限り、残っていない。明らかに有色人種が侮辱の対象とされており、かつアメリカの軍艦には黒人も大勢乗り込んでいることを、かれらはその目で見ていたはずであるにも関わらずである。話には聞いたことがあったかもしれないが、かれらがアフリカ系の人間と実際に「出会った」のは、その時が初めてだったはずだ。そしてその時点からかれらは、相手のことを「同じ人間」であるとも「同じ有色人種」であるとも、見なしていなかったことになる。ただ相手の国の使節の中で一番「エラい」立場にある白人たちが平気で黒人を差別している様を見て、黒人というのは「差別してもいい人間」なのだということを「学んだ」だけだったのだろう。そしてその白人たちから「正式な交渉相手」として認められている自分たちもまた黒人のことを差別しても「構わない」のだと、「当たり前」のように、喜びや優越感まで伴って、思い込んだ。それはかれらがそもそも「差別の上に生きてきた」武士階級の人間だったことにも、もとづく反応であったことだろう。

けれども、自らも白人からの人種差別にさらされながら、捕鯨船の上でアフリカ系の人たちと命がけの友情を育んだジョン万次郎の視点ではなく、この時の「幕府の役人の視点」が、その後における「日本人全般」の「黒人に対する基本的な向き合い方」として、定着してしまったのではないかという感じがする。それは大きくは、日本社会がいまだ「本当の革命」というものを経験しておらず、「明治」以降の「国民教育」が基本的に「武士階級の価値観」の上に行われてきたことによっているのだと思う。1945年の敗戦を通じて「制度」の部分は「外からの力」で改編をくぐることになるのだが、日本におけるあらゆる差別構造の大本に位置する天皇制はいまだ「温存」されているし、その中でアフリカ系の人々に対して日本人がとってきた差別的な態度もまた、ほとんど検証されないまま21世紀を迎えてしまった印象がある。

子どもの頃に見るとはなしにテレビで見ていた宝塚の「風と共に去りぬ」で、スカーレット·オハラの「奴隷」役の女優さんが「黒塗り」で登場して「東北弁的な台詞」を喋っていたことを私は強烈に覚えているのだけれど、今にして思えばあれは「日本人向けのミンストレル·ショー」そのものだったと思う。「風と共に去りぬ」の原文をネットで探して読んでみると、確かに「奴隷」の台詞の部分は「おおスザンナ」のオリジナルの歌詞と同じく「崩れた英語」で書かれており、かつアフリカ系の人に言わせるならば、当時の黒人がそんな言葉で喋っていたなどというのは完全なフィクションらしいということも別のところで読んだりしたのだが、しかしそれが「日本で言えばさしずめ東北弁」にあたるような言葉なのだといったようなことは、もとより原文のどこにも書かれていない。その「東北弁的な台詞」は飽くまで日本人の翻訳者の「判断」を通して「選択」されたものなのであり、言い換えるならその日本人の翻訳者自身の差別意識、そして「日本人のあいだに存在する差別意識」こそがそこには「表現」され、かつそれが「再生産」されているのである。

「風と共に去りぬ」自体がアメリカ南部の白人社会における差別文化の上に成立した作品だったということの上で、原作の中にも登場しなかったような新たな形態の差別がそこでは「創造」されている。人をさげすむことを「悪いこと」だと思っていない人間の書いた文章を、同じく人をさげすむことを「悪いこと」だと思っていない人間が「翻訳」すると、こういうことが起こるのだ。スカーレット·オハラの世界で黒人が差別されている現実を「問わない」翻訳者は、同様に自分の生きている日本社会における差別の現実も「問う」ことをしない。原作の中でさげすまれている人間のことを自分も同じようにさげすみ、さげすまれている人間の喋る日本語は「さしずめ」こんな言葉だろうという「自分の価値観」にもとづいて、翻訳の文体が決定される。そこで「東北弁的な言葉」が選択されるのは、日本の社会において東北地方の言葉がさげすまれている事情が「現実に」存在しているからであり、かつその翻訳者自身が東北地方の人の喋る言葉を「さげすんで」いるからに他ならない。そんな風に「翻訳」された作品が、やはり人をさげすむことを何とも思っていない人間たちには「受け入れられる」のだし、逆に言うならそうした人間たちの間で「だけ」受け入れられるのだ。そんな流れは、どこかで断ち切られなければならないのではないだろうか。

宝塚のウェブサイトを見てみると、「風と共に去りぬ」は21世紀に入っても繰り返し上演され続けているようだし、そこに出てくる「奴隷」役の女優さんは、相変わらず「黒塗り」をしておどけた表情でポスターに収まっている。黒くもない日本人がわざわざ「黒塗り」の扮装をしてまで「さげすまれる黒人像」を演じているような「アメリカを舞台にした芝居」を、アフリカ系アメリカ人が実際に見たらどんな気持ちがするだろうか。またそれ以外の地域、南アジアやポリネシアの黒い肌を持った人たちがそれを見ても、どんな気持ちがするだろうか。そういう人たちは「見ていない」とでも思っているのだろうか。このインターネットの時代にである。「風と共に去りぬ」が「黒塗り」抜きには成立しない芝居であるというのなら、それを上演してきた歴史はこの際キッパリ終わりにするべきだと私は思う。宝塚にとどまらず、他のあらゆる「日本文化」の領域においてである。19世紀に書かれた差別的な歌を「当たり障りのない内容」に書き換えて学校で教え続けるようなことも、今のアメリカでは欺瞞だとして正当に批判されているのであり、差別を隠すのではなくむしろその時代における差別の現実と欺瞞なく向き合うことが必要なのだという議論が、例えばこの「おおスザンナ」をめぐっては、繰り広げられている。アメリカ「本国」においてさえ、反省の上に立って克服してゆくことが問われている文化のありようを、日本人が無批判に「継承」し続けようとするようなことに一体何の意味があるのかと思う。

以下、現在アメリカの小学校で教えられている通りの「改訂版」の「おおスザンナ」の歌詞を訳出しておくと共に、どういう「改編」が加えられて現在の形になったのかということを明らかにするために、フォスターが「ニセモノの黒人訛り」で作詞したオリジナルの歌詞を原文のみ、参考のために掲載しておくことにしたい。

Oh! Susanna (Carly Simon)

Oh! Susanna

英語原詞はこちら


Oh I come from Alabama
With a banjo on my knee
I'm going to Louisiana
My true love for to see
It rained all night the day I left
The weather it was dry
The sun so hot I froze myself
Susanna, don't you cry

おれはバンジョーを膝に乗せて
アラバマからやってきた。
恋人に会うために
ルイジアナに行くところだ。
朝から晩まで土砂降りの中にいて
天気はカラカラだった。
太陽は熱くて熱くて
おれは凍え死ぬところだった
スザンナ、泣かないでくれよな。


Oh! Susanna
Oh! don't you cry for me
For I come from Alabama
With my banjo on my knee

ああスザンナ
おれのために泣かないでくれよな。
おれはバンジョーを膝に乗せて
アラバマから会いに行くから。


I had a dream the other night
When everything was still
I thought I saw Susanna
Coming down the hill
The buckwheat cake was in her mouth
The tear was in her eye
I said I'm coming from the South
Susanna don't you cry

いつだったかの夜おれは夢を見た。
何もかもが静かな夜だった。
おれはスザンナが
丘を降りてくるのを見た気がした。
そば粉で作ったケーキをかじりながら
目には涙をためていた。
南から会いに行くところだからスザンナ
泣かないでくれよなって俺は言ったんだ。


Oh! Susanna
Oh! don't you cry for me
For I come from Alabama
With my banjo on my knee

ああスザンナ
おれのために泣かないでくれよな。
おれはバンジョーを膝に乗せて
アラバマから会いに行くから。


Oh I soon will be in New Orleans and then I'll look around
And when I find my Susanna, I'll fall upon the ground
But if I do not find her, this man will surely die
And when I'm dead and buried, Susanna don't you cry

すぐにニューオーリンズに着くさ。
そしたらあたりを見わたすんだ。
それでスザンナを見つけたら
抱き合って転げあっちゃうぜ。
でも見つけられなかったら
この哀れな男は信じまう。
おれが死んで埋められてもスザンナ
泣かないでくれよな。


Oh! Susanna
Oh! don't you cry for me
For I come from Alabama
With my banjo on my knee

ああスザンナ
おれのために泣かないでくれよな。
おれはバンジョーを膝に乗せて
アラバマから会いに行くから。

(Original Lyrics)

I came from Alabama wid my banjo on my knee,
I'm g'wan to Louisiana my true love for to see,
It rain'd all night the day I left, the weather it was dry,
The sun so hot I frose to death; Susanna, dont you cry.
Oh! Susanna, Oh! dont you cry for me,
I've come from Alabama, wid my banjo on my knee.

I jumped aboard de telegraph, and trabbelled down de ribber,
De Lectrie fluid magnified, and killed five hundred Nigger
De bullgine bust, de horse run off, I realy thought I'd die;
I shut my eyes to hold my breath, Susanna, dont you cry.
Oh! Susanna, Oh! dont you cry for me,
I've come from Alabama, wid my banjo on my knee.

I had a dream de odder night when ebery ting was still;
I thought I saw Susanna, a coming down de hill.
The buckwheat cake war in her mouth, the tear was in her eye,
Says I'm coming from de South, Susanna, dont you cry.
Oh! Susanna, Oh! dont you cry for me,
I've come from Alabama, wid my banjo on my knee.

I soon will be in New Orleans, and den I'll look all round,
And when I find Susanna, I' fall upon the ground.
But if I do not find her, dis darkie 'I surely die,
And when I'm dead and buried, Susanna, dont you cry.
Oh! Susanna, Oh! dont you cry for me,
I've come from Alabama, wid my banjo on my knee.

…前半の二連で客を大笑いさせて、後半でホロリとさせる、というのがスティーブン·フォスターの狙った「演出」だったのだろうな、と感じる。今では完全に歌われなくなった二番の部分を含め、フォスターはおそらく仲間と一緒にぎゃはぎゃは笑いながら「無邪気な気持ちで」この歌詞を書いたのだろうと思う。私だって子どもの頃は、世界がうんこで覆い尽くされて全人類が死滅してしまうようなデタラメな歌を作っては喜んでいたものだったけど、この歌は完全にそうした「子どもじみたノリ」で作られており、その意味ではフォスターに確かに「悪気」はなかったのだろう。けれどもそうした「無邪気な言葉」の中に織り込まれている差別こそが、実際は一番人を傷つけるのだし、それが「子どもの言葉」だとしても、差別は実際に「人を殺す力」を持っている。だからこそ、「社会の最もイノセントな部分に滴っている闇」を直視しなければならないという、上掲の文章に綴られていた言葉は、正しいと思う。

この歌を日本に持ち帰ったジョン万次郎が、彼自身の言葉で翻訳した歌詞が、一行分だけ残されている。

向フノ山坂ヨリコヒシト思フ人カパンクウクウウル目ニ涙ヲハサミテ

…前半のスラップスティックな部分ではなく、ジョン万次郎はこの部分が好きだったのだな、と思う。そしてカリフォルニアの金鉱で岩石を砕きながら、この歌に故郷を重ねていたのだろうなと思う。それ自体は、「いい話」だと感じている。

ではまたいずれ。