華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

The Crucifixion もしくはジーザス·クライスト·スーパースター#24 完結編 (1970. Tim Rice)

ⅩⅩⅢJesus Christ Superstar


The Crucifixion

The Crucifixion

磔刑

英語原詞はこちら


JESUS
Father forgive them.
They don't know what they're doing.

父よ、かれらのことをおゆるしください。
かれらは自分が何をやっているか
わかっていないのです。


My God, my God, why have you forgotten me?
わたしの神よ、わたしの神よ、
なぜあなたはわたしのことを
見捨ててしまわれたのですか?


I'm thirsty
のどがかわいた。

It is finished
ことはなしとげられた。

Father, into your hands, I commend my spirit.
父よあなたの御手に
わたしは自分の魂をゆだねます。


Jesus Christ Superstar 1973. 今回は1:35:20〜1:40:20

=翻訳をめぐって=

以下は山浦玄嗣氏の「ケセン語訳新約聖書」の脚注に記されていた、当時のローマ世界における磔刑についての詳細。参考のため転載させて頂きたい。

磔刑のやり方を述べておこう。まず縦棒が地面に立ててある。横棒に罪人の両手首を釘付けにし、その横棒を縦棒の上に丁字形に乗せて固定する。十字架にすることもある。絵などではイエスの掌などに釘が打ちつけてあるが、あれでは体重が支えられず、肉が裂けて落ちてしまうから、手首の手紺骨の狭い隙間に釘を打ち込むのである。ここには正中神経が通っており、これを貫く激痛は言語に絶する。死刑執行人が技術に自信がない場合には、前腕の橈骨と尺骨の間に釘を打ち込む。こうして手首を釘で吊るされた罪人は、苦しさで暴れるから、その両脚を縦棒に釘で打ちつける。ローマ帝国のやり方だと、これは揃えた両足の踵の骨を横から一本の釘で貫いて打ちつけるので、体が捻れた形に固定される。これだけでも、ひどく苦しい体勢だ。全体重が両手首にかかるので、たちまち呼吸困難になる。呼吸をするには、手首の釘を力に懸垂の要領で腕を曲げ、足を貫く釘に立ち上がって、体を腕よりも上に持ち上げて、胸部の筋肉を緊張から解放しなければならない。ものすごい激痛を伴う姿勢だ。たちまち全身の筋肉が痙攣し、今度は吸い込んだ空気を吐き出せなくなる。こんな無理な体勢は長続きしないから、力尽きてがっくりとぶら下がる。新たなすさまじい激痛と呼吸困難が再開する。これを繰り返して次第に体力を消耗し、ついに窒息死する。これには数日間を要するという。受刑者がなかなか死なない時には、棍棒で足の骨を叩き折る。足(スケロス)とは下肢全体を指すが、1969年のフランシスコ会訳の註によると、ここでは大腿骨を折るのだという。なるほど捻れた形で吊るされている処刑者の腰は横を向いているので、大腿骨頸部が前を向いており、しかも十字架の縦棒に反対側がくっついているから、これを棍棒で殴るのは脛を殴るのよりも遥かに容易で、効果的に骨折させることができる。こうすると、折られた方の脚では足を打ちつけた釘に立つことができなくなる。反対側は使えるが、片脚では負担が倍になる上、動かすと骨折の激痛に耐えられないので、たちまち窒息死するだろう。実に残酷な刑罰である。

このシーンで十字架にかけられたイエスの言葉として語られるフレーズは、全て新約聖書四福音書からのそのままの引用である。「言葉の通りに」受け取ればいいと思うわけで、余計なコメントは不要だと思うが、

My God, my God, why have you forgotten me?

については若干備考を述べておく必要があるかもしれない。「マタイによる福音書」で「エリ、エリ、レマサバクタニ (主よ、主よ、なぜ私を見捨てられたのですか)」と記載されている有名なフレーズであり、私はこれをイエスが最後の最後に「神」に対して「恨みごと」を述べた場面として印象深く記憶していたのだが、最近読んだ聖書関係の本によると、どうも聖職者の人たちは違う解釈をしているらしい。というのはこの「なぜ私を見捨てられたのですか」というのは、旧約聖書の詩篇22に収録されているダビデ王が作った詩の冒頭部分であり、その詩はそんな風に「神に対する恨みごと」で始まってはいるものの、最後は「神を讃える内容」で締めくくられているというのである。

つまりイエスは死に臨んで、ユダヤ人の間に広く知られている「神を讃える詩」を朗唱しようとしたのだけど、冒頭部分をつぶやいただけで力尽きてしまった、ということになる。彼は飽くまで「最後まで神を讃えようとした」のであって、「神を恨む気持ち」などは毛頭持っていなかったのだ、という風に教会では教えられているらしい。

でも、異教の徒の勝手な推量ではあるけれど、そんなことは分からないと思う。実はやっぱり「恨みごと」を言っていたのだけど、それが偶然「神を讃える詩」の冒頭の言葉と重なってしまっただけかもしれないし、あるいはもっとセコいやり方と言いますか何と言いますか。「神を讃える詩」の言葉に「かこつけて」本音の部分の恨みごとを彼氏はぶつけたのかもしれないといったような感じもする。とにかくこんなにも手の込んだやり方で、イエスという人は後世の人間のために「謎」を残してくれたわけである。意識的にそうしたのだとしたら、大したものだと思う他にない。なお、私と同じように、やっぱりイエスは神に対して「恨みごと」を言ったのだと信じている人は、キリスト教世界の英語圏にもたくさんいるみたいである。

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英語圏の人たちはイエスの生涯を、「誕生から復活まで」というサイクルで教えられる。織田信長は若い頃はチョケた格好で馬に乗ってキュウリをかじっていて、最後は本能寺で「敦盛」を舞いながら死ぬ、といったような我々日本語話者の持っているステレオタイプなイメージと同じように、十字架にかけられた後のイエスは三日目に復活して天に昇ってゆくのだ、という「動かしようのないイメージ」が、英語圏の人たちには刷り込まれている。

けれどもこの映画は「復活」を描かない。イエスが十字架にかけられたシーンで終わってしまう。十字架の周りに集まっていた人々は一人減り二人減り、映画ではやがて「今の格好」に着替えて、バスに乗って帰ってしまう。その中にはマグダラのマリアやペテロはもとより、ユダ(役の人)の姿まで含まれている。でも、バスが去った後に残されているイエスの十字架だけは「本物」である。そこに死んだ一人の男がぶら下がっていることも「本当」である。

見ている人はイエスの十字架と一緒に「取り残されたような気持ち」になる。それがキリスト教世界の人たちにとっては、実はこの映画の一番「新しいところ」だったのかもしれないという感じがする。「復活」を「描かない」というだけのことで、イエスという人はこんなにも「ただの人間」になってしまうのである。一ヶ月がかりでこのシーンの翻訳にまでたどり着いた私にも、やっぱり「取り残されたような気持ち」だけが残されている。

でも、まあ、悪い感じはしていない。



何はともあれ、これでようやく「ジーザス·クライスト·スーパースター」を字幕なしでイッキ見することができるところにまで、こぎ着けることができたわけだ。私自身としてはもともとそのためだけに始めた特集企画だったもので、今からそれが楽しみである。付き合って下さった読者の皆さんにおかれては、ありがとうございました。次回より「華氏65度の冬」は、また通常展開に戻りたいと思います。