華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Killing Me Softly With His Song もしくはやさしく殺されてゆく私 (1973. Roberta Flack)


Killing Me Softly With His Song

この歌の邦題は「やさしく歌って」と言うわけだけど、ちょっとでも英語を習い覚えた日本語話者なら、誰しも「やさしく殺して」と翻訳したくなるのが人情というものではないだろうか。この歌の歌詞とタイトルに使われている「kill」という不穏な言葉は、それほど強烈なインパクトを放っている。日本の歌謡曲でこれに対抗できるタイトルの歌はといえば、木の実ナナさんの歌っていた「うぬぼれワルツ」ぐらいしか、とりあえず私には思いつかない。別に無理やり引っ張り出す必要もないのだけれど。


うぬぼれワルツ

英語の「kill」は相当に守備範囲の広い言葉であるらしく、「~を陶酔させる/~を魅了する」といった意味もあるのだそうで、そういった言葉を使って翻訳している例も見たことがあるのだが、言っちゃあ何だけれどそれでは興醒めだと思う。「殺す」「命を奪う」という意味を原義に持つそれこそ「致命的な言葉」を、歌の作者の人は「わざわざ」選んで使っているのである。だったら翻訳する方もその覚悟を受けて立つだけの姿勢を持って取りかかるのでなければ、ウソというものだろう。それに本当に感極まった時に「死ぬー!」とか「殺してー!」とか絶叫するのは、まあ男で言う人はじゃりン子チエのテツぐらいしか私は知らないけれど、日本語の世界でも結構フツーに使う言い方である。「ちゃんと」翻訳することさえできれば、必ずしもエキセントリックな翻訳にはならないはずだ。そんなわけで、できることなら「殺す」という言葉をモロに使ってこの歌を翻訳してみたいということは、実を言うならこのブログを始めた当初からの遠大な目標のひとつになっていた。

しかしながら「やさしく殺して」と言いたい場合、英語だと「Kill me softly」と言わなければならないはずなのだけど、この歌の言葉は「Killing me softly」である。だから「やさしく殺して」と翻訳すると、この場合は誤訳になる。それでは本当はどういう意味なのだろうか。実はそれが私には、ずーっと分からなかった。最初に訳そうと思ったのは高校生の時だったと思うが、「分詞構文」なのだろうかとかいろいろコネくり回している内にすっかりわけがわからなくなってしまい、結局挫折した。この長年にわたる課題曲に今回ようやく本腰で向き合うことを決意したのは、前回の「Superstar」を歌うカレンさんの夢見心地な感じがこの歌を歌うロバータさんの夢見心地な感じを想起させたことが直接のキッカケになってはいるのだが、何よりも大きかったのはそれでこの歌の文法構造を調べ始めてほどなく、下の動画に出会ってしまったことである。


Killing Me Softly With His Song

「Killing Me Softly 文法」で検索したらこの動画が出てきたもので、とりあえず再生してみたら、何と1時間13分もある動画だった。そしてその1時間13分の間、英語話者であるこの動画主の方は、この歌がどういう歌であるかということを「日本語で」伝えるため、ひたすら一人で語り続けておられた。我々日本語話者のためにである。人への敬意というものは究極的なところ、その相手に対してどれだけ自分の時間と力を捧げたかということでしか表現することのできないものだ。これは「ちゃんと」見なければならないと思って私は、他にやりたいことや行きたい所もいろいろあったのだけど、休日の午後をあらかた使って、1時間13分、きっちり最後まで見させて頂いた。英語話者のこの方の情熱に対し、日本語話者として「お返し」のできることがあるとすれば、こちらもそれに負けないぐらいのエネルギーを注ぎ込んで、この歌の心を日本語表現に移し込むことだけだろう。そんなわけでこの歌に対してもとうとう「決着をつける時」がやってきたわけである。

さてそのことの上で、上の動画主の方のおかげでようやく私が「納得」することができたのは、

  • Killing Me Softly With His Song

というのは

  • He is (もしくは"He was") Killing Me Softly With His Song

という文章の「He is もしくは He was」の部分、すなわち「主語と述語が省略された形」なのだということだった。「He is Killing Me Softly With His Song」を直訳するならば「彼はその歌で私のことをやさしく殺しつつある」となる。「was」なら「あった」である。特段難しい文章ではない。

問題はその文章から主語と述語が「省略」された場合、「語感」にはどんな変化が生じてくるのだろうかということである。私が知りたいのはいつもそういうことなのだ。

とりあえず日本語表現で考えてみよう。何でもいいのだけど

私は晩ご飯を食べた

という文章があったとする。そしてここから主語と述語を「省略」してみる。すると残るのは

晩ご飯を







…私は思わず息を飲んだ。この文字列における「晩ご飯」の圧倒的な存在感は、何なのだ。めくるめく晩ご飯感。大宇宙の中にポツンと放り出されて、それでも自らのことを力強く主張し続けている晩ご飯感。「私は晩ご飯を食べた」という文章では文脈の中に埋没させられていた「晩ご飯」の存在が、前後の主語と述語が省略されるとこんなにもクッキリと生々しく浮かびあがってくることになるのである。これは私自身にとっても、新鮮な発見だった。

しかもこの「晩ご飯を」という文字列は、それだけでしっかり意味を持つひとつの「文章」になっている。元々の文脈からするならば、この「晩ご飯を」は飽くまで「私は晩ご飯を食べた」という文章が「省略」されたものであるにすぎない。

「食べたからいいよ」
「何を?」
「晩ご飯を」

…そういう「晩ご飯を」が、この「晩ご飯を」なわけである。けれどもそうした文脈から切り離されて「自由」になった「晩ご飯を」は、それにとどまらずさまざまな情景を読み手/聞き手に思い描かせる生々しい表象となっている。餓えた人間の叫び。その場から逃げ出したい時の言い訳。お世話になった相手に何もお礼はできないけれどせめて晩ご飯だけは食べて行ってほしいという切ない感謝の気持ち。そうした全てが、「晩ご飯を」という言葉の中には、含まれているのだ。もしくは、込められているのだ。たとい元々の意味が「私は晩ご飯を食べた」ということに「すぎなかった」のだとしても、切り取られて宇宙の中に解き放たれた「晩ご飯を」という文字列の中には、それだけのポテンシャルが宿っているということなのである。

ますらをの
胸に湧き満つ
晩ご飯
喰らひゆかまし
その晩ご飯を

…書いている内に私の頭の中には上のような意味不明の短歌的なものまで浮かび上がってきたのだが、この最後の「晩ご飯を」に込められている感情は「詠嘆」である。そう。詠嘆。主語と述語の間に挟まれて、世間においては「自立していない言葉」だと見下されて軽く扱われている「真ん中の言葉」が、文脈から解き放たれて我々の前にその本当の姿を表す時、最後に残るその「意味」は、「詠嘆」だったのだ。

腹が減った。

ともかくそれを「Killing Me Softly With His Song」という英語表現に置き換えて考えてみるならば、「彼はその歌で私のことをやさしく殺しつつある」という文章の主語と述語に挟まれた真ん中の部分、すなわち「彼氏の歌でやさしく殺されつつある私」の姿が、あたかも宇宙の真ん中で永遠に侵食されることのない不滅の彫像のように屹立しているがごとく、クッキリと浮かび上がってくるような日本語で翻訳することができたなら、歌を作った人の気持ちにかなり迫ってゆけるような訳詞が作れるのではないかと思われる。暗闇の中から。

そんなわけでいろいろ考えて作ったのが下の試訳なのだが、それを載せる前にこんなにいろいろと「能書き」を並べなければならなかったのは、下の試訳が「意訳」ではないということをあらかじめハッキリさせておきたかったからである。もちろん「直訳」にもなっていないのだけど、私はいつも「文法に忠実な翻訳」ということに一番こだわることに決めている。その結果として出来上がったのが下の試訳だったということだ。数字で見る限りロバータ·フラックさんの何十倍も売れたらしいフージーズによる1996年のカバーバージョンを聞きながら、改めてどうぞ。


Killing Me Softly With His Song

Killing Me Softly With His Song

英語原詞はこちら


Strumming my pain with his fingers
Singing my life with his words
Killing me softly with his song
Killing me softly with his song
Telling my whole life with his words
Killing me softly with his song

彼氏の指がかき鳴らすのは
自分自身さえ触れようとしてこなかった
私の心の中の場所。
彼氏の言葉で歌われるのは
私自身の生きてきた人生。
彼氏の歌がやわらかに
私のことを殺してゆく。
恍惚の中で私の命を奪ってゆく。
その歌声で
私の人生を丸ごと言葉に変えて
やわらかに私の命を奪ってゆく。


I heard he sang a good song,
I heard he had a style
And so I came to see him
to listen for a while
And there he was this young boy,
a stranger to my eyes

いい歌を歌う子がいるって聞いて
他のいろんなのとは
違った何かを持ってる子だよって聞いて
それで私はちょっと聞いてみようと思って
やってきた。
そしたら彼氏はそこにいた。
まるっきり初めての
一度も会ったことのなかった若い男の子。


Strumming my pain with his fingers
Singing my life with his words
Killing me softly with his song
Killing me softly with his song
Telling my whole life with his words
Killing me softly with his song

自分自身さえ触れようとしてこなかった
私の心の中の場所を
彼氏の指はかき鳴らしていた。
私自身の生きてきた人生を
彼氏はその言葉で歌っていた。
彼氏の歌がやわらかに
自分の命を吸い取ってゆくのを
私は感じていた。
彼氏はその歌声で
やわらかに私のことをこの世でない場所に
いざなってくれていた。
私の人生を丸ごと言葉に変えて
彼氏はやさしく
私から命を吸い取っていった。


I felt all flushed with fever,
embarrassed by the crowd
I felt he found my letters
and read each one out loud
I prayed that he would finish
but he just kept right on
Strumming my pain with his fingers

私は身体が熱くなって
真っ赤になったのを感じて
大勢がそこにいた中で
すっかりうろたえてしまった。
彼氏がまるで
私が書いた手紙の束を見つけ出して
一通ずつ大声で読み上げているみたいな
そんな気さえしてきた。
早く終わらせてほしいと
私は祈るような気持ちだったけど
彼氏はどこまでも続けた。
自分自身さえ触れようとしてこなかった
私の心の中の場所を
その指でかき鳴らしながら。


Singing my life with his words
Killing me softly with his song
Killing me softly with his song
Telling my whole life with his words
Killing me softly with his song

私自身の生きてきた人生を
彼氏はその言葉で歌っていた。
彼氏の歌がやわらかに
自分の命を吸い取ってゆくのを
私は感じていた。
彼氏はその歌声で
やわらかに私のことを
この世でない場所に誘ってくれていた。
私の人生を丸ごと言葉に変えて
彼氏はやさしく
私から命を吸い取っていった。


He sang as if he knew me
in all my dark despair
And then he looked right through me
as if I wasn't there
But he just came to singing,
singing clear and strong

私が出口のない
暗闇のような気持ちの中にいたことを
彼氏はまるで初めから
知っていたみたいに歌うのだった。
そして次の瞬間彼氏はこちらを見たけど
その視線はまるで
そこには私なんていないかのように
私の中を突き抜けていった。
けれども彼氏は
私の心に向かって歌い出した。
くっきりと力強く。


Strumming my pain with his fingers
Singing my life with his words
Killing me softly with his song
Killing me softly with his song
Telling my whole life with his words
Killing me softly with his song

自分自身さえ触れようとしてこなかった
私の心の中の場所を
彼氏の指はかき鳴らしていた。
私自身の生きてきた人生を
彼氏はその言葉で歌っていた。
彼氏の歌がやわらかに
自分の命を吸い取ってゆくのを
私は感じていた。
彼氏はその歌声で
やわらかに私のことをこの世でない場所に
いざなってくれていた。
私の人生を丸ごと言葉に変えて
彼氏はやさしく
私から命を吸い取っていった。

=翻訳をめぐって=

Strumming my pain with his fingers

私の永遠の座右の書である、1960年代の四国観音寺を舞台とした青春小説、芦原すなおさんの「青春デンデケデケデケ」では、このフレーズが章題として「わしの胸のせつなさをあいと(あいつ)はちろちろ爪弾いて」という讃岐弁で翻訳されていた。「青春デンデケデケデケ」特集もやってみたいとずっと思っているのだけど、やり方のイメージが湧いてこないので果たせないままでいる。芦原さんが大林宣彦監督からこの小説の映画化のオファーを受けた時、舞台を尾道に変えられてしまうのではないかという不安でしばらく悩み抜いたというエピソードが、私は何年経っても忘れられないぐらい好きだ。

ただし冒頭の「Strum」は、「爪弾く」よりは「かき鳴らす」と翻訳すべき言葉だと思う。「ジャカジャーン」という弾き方である。「ストラム」という専門用語を使うと何やらスカしているが、実は「ギターの弾き方の中でも一番簡単な弾き方」で、クラッシュのジョー·ストラマーという人はこの弾き方しかできなかったから「ストラマー」を芸名にしたのだと伝えられている。

「pain」という言葉をどういう日本語で置き換えるかは、繰り返し出てくる難問である。単なる「痛み」一般ではなく、歴史の中でいろんな意味付与が施されてきたひとつの「概念」なのだ。私が中学生の時、「探偵ナイトスクープ」に「本当のブルースを歌えるようになりたい」という二人の若者が登場する回があったのだけど、その中でミナミの街で出会った黒人男性が、「ブルースとはpainを歌にすることだ」と二人に教える場面があった。けっこう、衝撃的だった。以来私自身も、それがブルースという音楽の「定義」なのだと思っている。

この「pain」という言葉には、アフリカ系アフリカ人の人々が「奴隷」として大西洋を渡らされて以来のありとあらゆる苦難の記憶、差別され抑圧される怒りと口惜しさ、その中でも助け合って生きてきた記憶のかけがえのなさ、その懸命の努力が繰り返し現実の壁に打ち砕かれ、挫折させられてきた悲しみ、そうしたものが「全部」込められている。その記憶と歴史が一人の人間の身体の中に丸ごと宿り、その魂の奥底の部分に沈殿していて、日常生活を営んでいる中でも折に触れてはそれに気づかされることになる「痛みという言葉でしか言い表しようのない気もち」が、私には想像することしかできないけれど、アフリカ系の英語話者の人の口から出てくる「pain」という言葉の内容なのである。朝鮮半島の人がそれを翻訳するなら必ず「ハン(恨)」という言葉に置き換えるのだろうと思うけど、天皇制などというものを信奉して他者を支配し抑圧することばかり考えて生きてきた民族の言葉である日本語には、直接それに置き換えられる言葉がない。デッチあげたとしてもウソにしかならない。「同胞社会が丸ごと他者の抑圧のもとに置かれた歴史と記憶」というものを、第二次大戦後の極めて短い一時期を別とすれば、日本の「本土」に在住している日本語話者は、今のところ持っていないからである。その「日本語社会」の内側における様々な差別や抑圧の存在は、差し当たりここでは別問題にするとしてだ。

第二次大戦中には「同胞社会が丸ごと」強制収容所に送られた経験を持つアメリカの日系人社会の人々の間には、あるいは「painと同じぐらいの重さと深さを持った日本語」が、私の知らない何らかの形で、息づいているのかもしれない。けれどもそれを「日本の日本人」である私が知ったとして、「借りてきて」使おうと試みたとしても、それはもはや「同じ言葉」ではない。そんな風に形成されてきた言葉の意味というものは究極的には「その人たちだけのもの」であり、その気持ちを知りもしない人間が「道具」のように使い回すことなど、できない性格のものだからである。

いろいろ考えたのだけど結局「自分自身さえ触れようとしてこなかった私の心の中の場所」という言葉で翻訳することにした。それを「彼氏の指」は荒々しくも「かき鳴らす」のだ。英語話者の人が聞いたらこれは身悶えしたくなるぐらいに「痛い表現」なのではないかと思う。けれども歌い手の女性は「痛いからやめてくれ」と言っているわけではない。「気持ちいい」と言うとあまりに言葉は軽いが、同時にその痛みの中に間違いなく「恍惚感」みたいなものをも、感じ取っている。そのまま死んでもいいしそれによって殺されても構わないと感じてしまうぐらいの「幸福な痛み」というものが、この一行目の歌詞には表現されているわけだ。

…改めて、すごい歌詞だと思う。何か、他にいろいろ言う気がしなくなってしまったのでこの記事はこれぐらいで締めくくることにしたいと思うが、この冒頭のコーラスと二番と三番の同じ歌詞の訳し方を変えているのは、二番と三番の歌詞はそれが「過去進行形の情景」であることが明らかにされた上で歌われているけれど、冒頭の歌詞は「それがいつの出来事なのか」ということが明らかにされないまま情景だけが聞き手に突きつけられる形を取っているからである。そこで英語話者の聞き手が受け取る「印象の違い」というものは、決して「同じ日本語表現」の中に閉じ込められる内容のものではないと思った。疲れた。


アンジー ピアノマン

翻訳しながら思い出したのは、大昔に解散してしまったアンジーというバンドのこの曲だった。「ヒソカ」というアルバムに収録されている「星を数えて」という曲の「原型バージョン」らしく、私もYouTubeの時代になって初めてその存在を知ったのだったが、いい歌だ。ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Originally written by Charles Fox & Norman Gimbel. Released by Lori Lieberman in 1971.
Released: 1973.1,
Key: A♭