華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Panic もしくは理性が意味を失う時 (1986. The Smith)

Panic

英語原詞はこちら


Panic on the streets of London
Panic on the streets of Birmingham
I wonder to myself
Could life ever be sane again?
The Leeds side-streets that you slip down
I wonder to myself

ロンドンの街角はパニック
バーミンガムの街角もパニック
くらしがもう一度まともになることなんて
あるんだろうか
ぼくは考えてしまう
きみがずっこけてるリーズの横丁
ぼくは考えてしまう


Hopes may rise on the Grasmere
But honey pie, you're not safe here
So you run down
To the safety of the town
But there's panic on the streets of Carlisle
Dublin, Dundee, Humberside
I wonder to myself

あのグラスメアの村にだって
希望はよみがえることだろう
でもぼくのハニーパイであるところの君よ
そこは安全な場所じゃない
それできみは街の安全の中に
逃げ込もうとするわけだけど
カーライルの街もパニックだし
ダブリンもダンディーも
ハンバーサイドもだし
ぼくは考えてしまう


Burn down the disco
Hang the blessed DJ
Because the music that they constantly play
It says nothing to me about my life
Hang the blessed DJ
Because the music they constantly play

ディスコを燃やせ
神扱いされてるDJを吊るせ
あいつらがひっきりなしにかけてる音楽は
ぼくにとっちゃぼくの人生には
何も関係ないことしか歌ってないんだから
神扱いされてるDJを吊るせ
だってあいつらが
ひっきりなしにかけてる音楽は


On the Leeds side-streets that you slip down
The provincial towns you jog 'round
Hang the DJ, hang the DJ, hang the DJ
Hang the DJ, hang the DJ, hang the DJ
Hang the DJ, hang the DJ, hang the DJ

きみがずっこけてるリーズの横丁で
きみらがジョギングしてるその田舎の町で
DJを吊るせDJを吊るせDJを吊るせ
DJを吊るせDJを吊るせDJを吊るせ
DJを吊るせDJを吊るせDJを吊るせ


Hang the DJ, hang the DJ
Hang the DJ, hang the DJ
Hang the DJ, hang the DJ, hang the DJ
Hang the DJ, hang the DJ
Hang the DJ, hang the DJ
Hang the DJ, hang the DJ, hang the DJ
Hang the DJ, hang the DJ
Hang the DJ, hang the DJ
Hang the DJ, hang the DJ, hang the DJ
Hang the DJ

DJは縛り首だ


Panic
ごくごくシンプルな歌であり、かつ余計な注釈はなくても充分にインパクトのある言葉が並んでいる歌なので、できることならこうした歌の翻訳記事にコメントは一切つけたくない。ただ、歌の背景について調べてみたところ、今まで私の知らなかった話がいろいろ出てきたもので、それについては触れておかないわけに行かないと思う。

「パニック」という言葉は、日本の近代が始まって以降、一貫して「恐慌」という言葉で翻訳されてきている。しかし「パニック」は「パニック」のままでもある程度「日本語化」しているので、「恐慌」はどちらかといえば経済学の専門用語として、「パニック」は心理学や社会学の領域における専門用語として「使い分け」がなされているという「妙な状態」が日本語世界では続いているわけなのだが、英語圏ではどちらも同じ「パニック」であり、かつそれほど小難しいイメージのつきまとっている言葉でもない。ただ、「説明することのできない現象に無理やり説明を与えるために生まれた言葉」という印象の強い単語で、その意味では「神」という言葉と似通っていると言えるかもしれない。

パニック (panic) とは、個人または集団において突発的な不安や恐怖(ストレス)による混乱した心理状態、またそれに伴う錯乱した行動を指す。恐慌とも言う。動物の同種行動に関しては、暴発行動とも呼ばれる。

Wikipediaにはある。古代ギリシャにおいては「家畜の群れが何の前触れもなく突然騒ぎだし、集団で逃げ出す現象(←長いことブログをやっていると、全く思いもかけないところから「歌の世界のつながり」が見えてくるものだ)が知られており、これが「牧神」パーンの仕業であると信じられていたことから「パニック(panic)」という言葉が生まれたらしい。牧畜文化の歴史が浅い国で育ったものだから、「家畜の群れがいきなり走り出すアレ」と言われてもいまいちピンと来ないところがあるのだが、そういえば中学生ぐらいの時、午前5時頃の奈良公園で、「浅茅が原」と呼ばれている春日大社の北側の神域からいきなり何十頭もの鹿が飛び出してきて、車道を横切り東大寺の東側に広がる「春日野」へと全力疾走してゆく現場に出くわしたことが一度だけある。何が起こったのだろうと思ってこちらも思わず全力疾走でその後を追いかけたら、視界の開けた広場に出たところでかれらは何ごともなかったような顔をして朝食に夢中になっており、芝生を食いちぎるブチッブチッという音だけが静寂の中に何十頭分もこだましていた。思わずこちらも両手を地面について一緒に朝食に参加しなければ「悪い」ような気持ちにかられてしまったのだけどさすがにそこまではしなかったのだけど、それにつけてもあれほどシュールな感覚にとらわれたことは他になかった。さっきの「全力疾走」は一体何だったのだろうか。森の中から飛び出してきた時のかれらのテンパり方はどう見ても尋常ではなかった。古代の人間でなくてもやはり春日大社という場所には「何かいる」と感じずにいられなかったことを鮮明に覚えている。ギリシャの人々が動物たちのそうした行動に「超自然的な存在の意思」を感じ取ったことは、当然といえば当然だろう。

「牧神」パーンといえば、このブログに何度も登場して頂いている葉踏舎管理人のマリノさんである。今回のタイトル画像も現在進行中の連作まんが「街の葉踏者」の1シーンからお借りしたのだが、この物語に出てくるパーンは生き物の心理に恐慌状態を引き起こして慌てふためかせることを面白がるような性格をした「神」であるようには、あんまり思えない。とはいえ、パーンの考えていることはパーンに聞かなければ分からない。人間や動物の心に引き起こされる「パニック」が本当に「パーンの仕業」なのだとすれば、彼氏がそんなことをやらずにいられない理由というものも、いずれはこの物語の中に描かれてゆくことになるのではないだろうか。というのはまあ脱線の領域の話なのだけど、こと「牧神」に関する話である限りは、ギリシャ語やラテン語で書かれた古典に当たるよりもこの人の作品に触れた方がよっぽど「正確なところ」が分かるのではないかと最近の私は感じている。古代ギリシャの人々はパーンという存在のことをいたずらに「おそれた」だけだったけど、この物語の作者の人は本気でそれを「知ろうとしている」からである。

nagi1995.hatenablog.com
さて、そのことの上で私がこの歌をめぐって「知らなかった」というのは、この歌が「パニック一般」をテーマにしたものではなく、1986年のイギリスで実際に発生した「パニック」の中から生まれた作品だった、という事実についての話だ。スミスのギタリストのジョニー·マーは、この曲が書かれた背景を以下のように語っている。

'Panic' came about at the time of Chernobyl. Morrissey and myself were listening to a radio report about it. The stories of this shocking disaster comes to an end and then immediately we're off into Wham's 'I'm Your Man.' I remember actually saying, 'What the f*ck has this got to do with people's lives?' We hear about Chernobyl, then, seconds later, we’re expected to be jumping around to “I’m Your Man.” And so, 'Hang the blessed DJ.' I think it was a great lyric, important and applicable to anyone who lives in England.
「パニック」はチェルノブイリ(の原発事故)の時にできた曲なんだ。モリッシーとぼくはラジオでそのニュースを聞いていた。それでショッキングな大惨事の話が一段落したところで、いきなりワム!の「アイム·ユア·マン」が流れ出したんだ。「こんなのが人の命とどういう関係があるんだ?」と本当に声に出して言ったのを覚えてるよ。チェルノブイリのニュースを聞かされて、その何秒か後には「アイム·ユア·マン」で飛び跳ねてろっていうんだぜ。それで「DJを吊るせ」って歌詞になったんだ。偉大な歌詞だったと思うよ。大事なことだと思うし、イギリスで暮らしてるみんなについて言えることだ。

…1987年の日付がついたこのインタビュー記事を読んで、私は絶句してしまった。私と同様知らなかった人も、絶句せずにはいられないはずだと思う。我々の暮らすこの島国では2011年3月以降、この歌に歌われているのと全く同じ状況が、ずーっと続いているわけなのだからである。

この歌は「パニックの恐ろしさ」を歌った歌でもなければ、「パニック」を「ネタ」にして無責任にはしゃぎ回っているようなそういう歌でもない。自分たちは「パニック」とは無縁でありかつその「パニック」を「コントロール」できる立場にあると思い上がっている人間たちに対する、「怒り」をテーマにした歌だったのだ。

パニックとは「不安や恐怖を原因とする混乱した心理状態」のことであると辞書にはあるわけだけど、「不安や恐怖」というものは決して「何の原因もなく」生じるものではない。原発事故においてはそれまで当たり前のように呼吸していた空気が「毒」に変わるのだし、金融恐慌においてはそれまで当たり前のように使われていた貨幣が「紙クズ」に変わるのだ。それまでの経験や「理性」にもとづいた行動が全く意味をなさなくなる状況が現実に作り出されるからこそ、「何をどうしていいか分からない状況」が生じるわけである。決して「不安や恐怖にとらわれた人たち」の「心の弱さ」に原因があるわけではない。そしてそんな風に具体的な「不安や恐怖」と直面することは、大多数の人間にとっては「自分の頭でものを考えること」を促されるきっかけとなることでもあるはずだと言えるだろう。

それにも関わらず「自分たちが世の中を動かしている」とうぬぼれている人間たちというのは、自分たちにだって何をどうすればいいか「わかって」などいるはずがないにも関わらず、「大衆」が自分自身の「不安と恐怖」にもとづいて行動しようとすることそれ自体を、憎悪をもって押さえつけようとする。かれらにとっての最大の「不安と恐怖」とは、「大衆」が「自分の頭でものを考え始めること」それ自体に他ならないからなのである。そのことは自分たちの信用失墜に直結するし、引いては自分たちが支配者の座から引きずり降ろされることにつながる。かくしてかれらは「不安や恐怖」の原因を作り出している「事態」そのものを「なかったこと」にして、正当な「不安と恐怖」を口にする人間の存在自体を「抹殺」することを願望しはじめるに至る。何のことはない。「社会の危機」が顕在化するたびごとに支配者たちの手によって繰り返されるあらゆる種類の「情報操作」は、かれら自身の「パニック」のあらわれに他ならないのだ。

チェルノブイリのニュースを読み上げた直後に「いつもと変わらないポップソング」を「いつもと変わらない調子」で流して「いつもと変わらない日常」を「演出」してみせたBBCとその看板DJの行為は、為政者の観点からするならば「混乱」の中に「秩序」をもたらそうとする行為であり、「パニック」とは対極の冷静かつ賞賛されるべき行為ということになるのだろうが、それに対してモリッシーたちが「怒った」のは当然のことだったのだ。それはあまりにも「人間というものをナメた行為」だからである。かれらは「理性的」に振舞っているつもりでいるのかもしれないが、その態度の大元には、「見たくない現実から目をそらす」という「根本的に非理性的な姿勢」が存在している。それを自覚した上で「自分たちにとって耳触りのいい情報」だけを流し続けるということは、もはや「確信犯的に人を欺く行為」と何も変わらない。

そうした「DJ」(「パニック」を「コントロール」しようとする人間たち)を「吊るせ」と叫ぶことは、理性的な振る舞いとは言えないかもしれないが、少なくとも「人間的な振る舞い」であると私は感じる。ワム!の皆さんやその楽曲には直接には何の罪もないわけであるにしても、そうした音楽を聞いていていい気にはとてもなれない人たちのことまでそうした音の洪水の中に叩き込んで思考能力をマヒさせてしまうような行為は、「暴力」と何ら変わるところがない。「自分の頭でものを考えること」をできなくされた人間に「自分の人生を生きること」は絶対にできないのである。それが「暴力」によって押しつぶされようとしている以上は、こちらも「暴力」に訴えてでも「戦う」以外に「自分の人生を生きる道」はどこにも存在しないと言えるだろう。モリッシーが連呼している歌詞が「エキセントリックな言葉」であるとは、私は決して思わない。

福島第一原発の爆発事故によってもたらされた甚大な被害は「誰にも責任のとりようがない」ぐらいに巨大なものであるとはいえ、あの事故に至るまでそれを推進し続けてきた人間たちの責任というものは、間違いなく存在している。それにも関わらずその人間たちが何らその責任を問われることなく支配者の座に居座り続け、被害を受けて癒えない傷を負わされた人々の側がその人間たちから一方的に「自己責任」を強要され続けるという、何重にも「非理性的な状況」が、今や10年近くに渡って日本を覆い尽くしている。そして「改元」をネタにしたお祭り騒ぎや「東京オリンピック」の強行を通じて、今や為政者たちはそれを完全に「なかったこと」にしてしまおうとしている。そうした行為は、それに加担する人間たちまで含め、本当なら「吊るせ」と言われてもおかしくないほど「罪深いこと」なのだということを、積極的に浮かれ騒いでみせている人たちはこうした昔の歌からも噛みしめるべきではないのだろうか。たとえ今は口に出せなくてもそれだけの怒りと恨みを抱えてこの国で生きている人たちは無数にいるのだし、「世界」はそんなこの国の状況を「あいつらはいつになったら吊るされるのだろう」という眼差しで注視し続けているに違いないのである。

=翻訳をめぐって=

I wonder to myself
Could life ever be sane again?

「sane」は「正気」とか「健全な」といった言葉で訳される言葉だが、「狂気」「病的」などという差別的な言葉でしか訳せない「insane」と「対」になって成立している概念であるため、それ自体が差別的な言い方であると私は思う。「panic」という現象が人間の前に暴き出すのは、「saneな状態」などというものは元々どこにも存在しない幻想にすぎないのだという、「唯物論的現実」に他ならないのではないだろうか。

The Leeds side-streets that you slip down

「きみがずっこけてるリーズの横丁」と訳したが、「slip down」は「スルッと通り抜ける横丁」みたいな感じで訳した方が正しいのかもしれず、そこらへんの感覚はネイティブの人に確認してみないと分からない。

Hopes may rise on the Grasmere

「グラスメア」は、2003年に閉鎖され現在廃炉計画が進められているカンブリア州シースケールの原発施設(「セラフィールド」)から約40キロ東に位置する、湖に囲まれた美しい村の名前。1957年に同所で英国史上最悪の原発事故(ウィンズケール原子炉火災)が発生した際、この村の周辺の森の中で何頭もの羊が死んでいるのが発見されたらしいのだが、事故の実態は英国政府によってひた隠しにされ、それが公開されたのは30年後。すなわちソ連のチェルノブイリ原発事故を受け、この歌が発表された年に至ってようやくのことだったのだという。セラフィールドがもたらした海洋汚染は北欧にまで及んでおり、この歌に出てくる地名はすべて当時において何らかの形で放射線被害の可能性が取り沙汰されていた街の名前なのだと思われる。

Hang the blessed DJ

「blessed DJ」は直訳すると「祝福されたDJ」。「神扱いされているDJ」という言い方は80年代の日本語表現の中ではフツーには使われていなかったと思うけど、まあ意味するところは外していないはずだと思う。

ところで「Hang the DJ」というフレーズに関しては「DJを吊し上げろ」という形で訳されている例が散見されるのだが、「吊し上げ」という日本語が意味しているところは「糾弾して責任を問う」ぐらいの内容であり、相手の命まで奪うようなことは基本的に想定されていないから、むしろ比較的「やさしい対応」であると言える。これに対し英語の「hang」は情け容赦なく「縛り首にする」という意味なので、歌詞が持つ本来のラジカルさを日本語話者の感覚に引き寄せて歪めてしまうことがないよう、注意して翻訳することが必要だと思われる。

私は死刑制度に反対する人間ではあるけれど、独裁的な圧政者や戦争を引き起こした責任者などが民衆の怒りによって「吊るされる」ことは「ありうる」ことだと思うし、また世界の歴史の中ではそうしたことが節目節目で何度も繰り返し起こってきた。有名なのはイタリアのムッソリーニが反ファシズムに立ち上がった民衆の戦いによって文字通り「吊るされた」事例であり、ドイツのヒトラーが自殺という死に方を選んだのは、自らが「同じ末路」をたどることを恐怖したからに他ならない。いずれにしても「世界の常識」からするならば、ファシストの親玉などという存在は「吊るされる」のが「当然」なのである。

最後は日本の天皇の番だ、と世界中が確信していた中で、あにはからんや天皇だけは「吊るされる」こともなく、その孫の代に至るまで自らの地位を継承させることに成功している。それを「おかしい」と思うことなくむしろ「めでたい」と思ったりしている「一般的日本人」の感覚こそ、「世界の常識」に照らすなら相当に「おかしい」のだということは、我々が自覚しておくしかないことだと思う。「おかしい」と思うべきことを「おかしい」と思えないのはそれこそ国家をあげた「洗脳教育」に骨の髄まで屈服させられていることの結果でしかありえないわけなのであって、そんなのは威張って口にできるようなことでは全くない。いずれにしてもこの島国に生を受けた人間は、「天皇制の呪縛」と対決することを抜きにしては一生「自分の頭でものを考えること」さえできないことを宿命づけられているわけで、そうであればこそこのブログでは、その問題にこれからもこだわってゆきたいと思う。

ちなみに「吊るせ」という言い方が日本語表現としてはどうしてしっくり来る感じにならないのかな、ということを考え合わせた時、日本で同じ内容のことを言おうとした場合には「腹を切らせろ」という言い方になるからなのだろうな、ということに思い当たった。実に何と言うか、人を殺すに当たってまで「自分の手を汚すこと」は決してせず、それを相手の「自己責任」にしてしまうのが「日本人の習性」になっているのだなということを、痛感させられてならない。「文化」と言うよりはこのこともまた、天皇制というものを押しつけられ続けているところから生じる感覚なのだと思われる。つくづく、情けない話である。


ユニコーン I am a loser

「Panic attack」というのは「パニックにかられて他人を攻撃すること」ではなく「自分がパニック発作に襲われること」を言う言い方なのだそうで、このことも今回改めて調べてみるまで、私がずっと知らなかった事実だった。ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Released: 1986.7.21.
Key: G