華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Bankrobber もしくはそれで自由になったのかい (1980. The Clash) ※


Bankrobber

Bankrobber

英語原詞はこちら


My daddy was a bank robber
But he never hurt nobody
He just loved to live that way
And he loved to steal your money

親父は銀行強盗だった。
でも誰も傷つけたことはない。
親父は単に
そんな風に生きるのが好きだったんだ。
あんたらみたいな連中から
カネを掠めてやるのが好きだったんだな。


Some is rich, and some is poor
That's the way the world is
But I don't believe in lying back
Sayin' how bad your luck is

金持ちがいれば貧乏人がいる。
それが世の中ってもんだろう。
でも大の字になって空を見上げて
自分のツキのなさを嘆いてるような
そんな生き方なんて
おれはありえないと思ってる。


So we came to jazz it up
We never loved a shovel
Break your back to earn your pay
An' don't forget to grovel

だからおれたちは
派手に元気よくやらかすことにしたんだ。
スコップなんておれたちには
絶対好きになれないね。
せいぜい腰でも痛めながら
自分の給料をせっせと稼いでたらいいよ。
卑屈に這いつくばることも忘れずに。


My daddy was a bank robber
But he never hurt nobody
He just loved to live that way
And he loved to steal your money

親父は銀行強盗だった。
でも誰も傷つけたことはない。
親父は単に
そんな風に生きるのが好きだったんだ。
あんたらみたいな連中から
カネを掠めてやるのが好きだったんだな。


The old man spoke up in a bar
Said I never been in prison
A lifetime serving one machine
Is ten times worse than prison

バーで得意げに喋ってる
じいさんがいたよ。
おれは監獄に行くようなことだけは
したことがないんだって。
一生おなじ機械の
奴隷になってるような人生なんて
監獄より10倍ひどいと思うけどね。


Imagine if all the boys in jail
Could get out now together
Whadda you think they'd want to say to us?
While we was being clever

いま刑務所に入ってる連中がだよ。
みんないっぺんに出てきたとしてさ。
やつらはおれたちに
何て言いたいと思ってると思う?
カシコく立ち回ってきたつもりの
おれたちに向かってさ。


Someday you'll meet your rocking chair
'Cause that's where we're spinning
There's no point to want to comb your hair
When it's grey and thinning

そのうちあんたもロッキンチェアーの
お世話になることになるだろう。
おれたちはそこに向かって
キリキリ舞いしてるわけだからね。
誰かに髪をとかしてもらいたいと思っても
たぶんもう誰もいなくなってるよ。
あんたの髪が白くなって
薄くなった頃にはね。


My daddy was a bank robber
But he never hurt nobody
He just loved to live that way
And he loved to steal your money

親父は銀行強盗だった。
でも誰も傷つけたことはない。
親父は単に
そんな風に生きるのが好きだったんだ。
あんたらみたいな連中から
カネを掠めてやるのが好きだったんだな。


So we came to jazz it up
We never loved a shovel
Break your back to earn your pay
An' don't forget to grovel

だからおれたちは
派手に元気よくやらかすことにしたんだ。
スコップなんておれたちには
絶対好きになれないね。
せいぜい腰でも痛めながら
自分の給料をせっせと稼いでたらいいよ。
卑屈に這いつくばることも忘れずに。


Hey
な。

Get away, get away, get away, get away, get away, get away, get away
逃げろー逃げろー逃げろー逃げろー
逃げろー逃げろー逃げろー


My daddy was a bank robber
But he never hurt nobody
He just loved to live that way
And he loved to steal your money

親父は銀行強盗だった。
でも誰も傷つけたことはない。
親父は単に
そんな風に生きるのが好きだったんだ。
あんたらみたいな連中から
カネを掠めてやるのが好きだったんだな。


Run rabbit run
Strike out boys, for the hills
I can find that hole in the wall
And I know that they never will

ウサギよお逃げ。
丘に向かって走れ兄ちゃんたち。
あの「壁の穴」を
おれには見つけ出すことができる。
やつらにはそれができない。
おれはわかってる。

=翻訳をめぐって=

ジョー·ストラマーの父親は「外交官」だった。全然「銀行強盗」ではない。この歌は飽くまで彼氏が「理想とする生き方」を歌った曲として、鑑賞すべき作品なのだと思う。

でも、「本当にそうだったのだろうか」というモヤモヤした印象も、同時に昔から感じている。

この歌が「テーマ」としているのは、人生における「選択」である。と言っていいと思う。ひとつは、「世の中のルール」に従って人に頭を下げながら、他人のために働かされる「奴隷」のような生き方で「静かに」人生を送ること。もうひとつは「世の中のルール」を屁とも思わず、「自分の力と才覚」で他人を従わせ、「アウトロー」的な人生を突き進むこと。多くの人にとってこの「選択」は、人生の極めて早い段階で、「他に選びようのないような形」で突きつけられる。

けれどもジョー·ストラマーという人は、それをいくらでも「選べる立場」にあったはずなのである。そういう人がこういう歌を作るというのは、どうなんだろう。という疑問を、ずっと昔から感じ続けている。

ちなみに「アウトロー」の道を選択したとしてそれで「やって行ける」人間がどれだけいるかという問題はさておき、「どちらを選んでも自由」みたいな形であらかじめそうした選択肢が「与えられて」いるのは、今の社会においては「男性だけ」なのである。女性に「与えられて」いる選択肢の幅というのは、もとより私も男性なので我と我が身で知っているわけではないのだが、男性よりも遥かに狭い。従ってそうした社会にあって「自由に」生きようとする女性が「自分の力で」切り開かねばならない領域というのは、男性よりも遥かに多い。

そうした意味では、この歌の主人公は「自分の力だけを信じて生きている」みたいな顔してイキっているわけではあるけれど、実際には「自分の力」など関係なく、「社会」によってあらかじめ与えられた「特権」にアグラをかいているだけではないか、と言わざるを得ない。それこそ、彼氏みたいな人間が一番大嫌いであろうところの「金持ちの家で何不自由なく育った上層階級の人間たち」と同じようにである。私が今ひとつこの歌に「共感」したい気持ちになれない理由は、そういうところにあるような気がする。

ミュージシャンという「カタギでない生き方」を選んだ彼氏には、自分が人からさげすまれる「アウトロー」であるという感覚が、おそらく実際にあったのだと思う。一方で彼氏の父親は「外交官」という「エリート」ではあったわけだけど、彼氏の目にはその生き方が「奴隷」のようにしか見えていなかった面が、やはりあったのだと思う。官僚などというのはそれこそ「制度の奴隷」であって、「自分の意思」を持つことが「許されて」いる領域など、ほとんどないのだから。自分より立場の弱い人間に威張り散らす時だけは別として。

そうした「葛藤」から、「自分の選んだ生き方は間違っていないんだ」ということを「確認」するためにも、彼氏にはこうした歌を作ることが「必要」だったのだろうな、と私は勝手に想像しているのだけれど、それにしたって、こんな「確認」の仕方でいいのだろうか、と思わずにはいられない。だって、自分より惨めな(ように見える)他の誰かのことを引き合いに出して、「俺はあいつとは違う」と思うことで自分が何ものかであることを「確認」しようだなんて、最低ではないか。それこそ、差別主義者のやり口ではないか。

We never loved a shovel (スコップなんか大嫌いだった)」という言葉で、そのスコップ一丁で生活を立てているブルーカラーの人たちの生き方をかれらは嘲笑し、さげすんでいる。語弊はあるかもしれないけれど、「好きな人」なんて、いないだろう。スコップで穴を掘るのもたまになら新鮮で楽しいかもしれないけど、毎日それを仕事としてやらされるのを「楽しい」と思える人なんて、いないだろう。けれどもそれを「さげすむ」なんて話が、あるだろうか。その人たちのやっていることを「自分たちにはできない」と感じているのなら、そこはむしろ「敬意」を持つべきところではないのだろうか。「せいぜい卑屈に這いつくばってろ(grovel)」みたいな「罵倒」まで、彼氏は「カタギの労働者」に対して浴びせかけているわけだが、相手が心からそうしたくてそうしているとでも、彼氏は本当に思っているのだろうか。

一方で後段には「刑務所帰りの人間」のことをさげすんでみせることで、同じように自分が何ものかであることを「確認」したくて仕方のない「老人」が登場する。こういう、人の痛みが分からないことを「誇り」にさえ感じているようなどうしようもない「市民」というのは、私の周りにもウンザリするほどいる。そういうのがむかつくのも、よく分かる。「会社や工場の奴隷になってるより10倍マシ」とか、自分が同じ立場になったとしたら、確かに言い返してやりたいと思わないでもない。

けれども「さげすみあって」いてどうするつもりなのだ、と私は思うのである。元はといえば「同じような境遇」に生まれて、それぞれ別の生き方を選んだというだけの「違い」なのではないのだろうか。確かに「法律を守って暮らしていることを自慢したがる市民」というのは、「アウトロー」になる道を選ぶ人間よりは「ちょっとだけ上の階層」の人間であることが多く、その「ちょっとの違い」にしがみついていたい気持ちが強いために、世の中でも最も強固なタイプの差別意識を持っている場合が少なくない。けれども大きく見れば、社会において「勝ち組」になることもできず、カネや権力を持っている人間たちからいつも口惜しい思いをさせられている「仲間」と言うべき「境遇」なのではないのだろうか。それが「いがみ合わされて」いたのでは、それこそ差別や貧困や戦争の大元を作り出している存在と言うべき、権力者たちの思う壷というものではないのだろうか。

要するに、その「権力」というものと正面から立ち向かうこともしないで何が「自由」で「パンク」で「アウトロー」で「反逆精神」なのだ、ということを私は言いたいわけなのだ。それを、ジョー·ストラマーともあろう人までが、相手の側の「分断戦略」にたやすく乗せられて、「あいつらと俺とは違う」などという唾棄すべき差別思想で自分を慰撫することに、「満足」を見出してしまっている。情けないとしか言いようがない。

なげかわしい。

なげかわシーサイドホテル本日開業である。

なげかわシーサイドホテルの絵を描いてくれる人を募集して後でこのスペースに貼りつけておきたいと思う。

自分のことを書くならば、結構いろんな経験をしてきたもので、刑務所で暮らした経験を持っている人なんて周りにいくらでもいたし、私自身が割としっかりした看板を掲げたヤクザ組織から「勧誘」を受けたこともある。まだ顔が半分コドモだった頃のことだけど、「お前のオトコっぷりが気に入った」的なことを言われたのだった。私は一応「男女差別はアカン」ということをアタマでは分かっているつもりの人間ではあるのだけれど、それでもそういうことを言われるとやっぱり「うれしく」なってしまうところがあるものなのだ。(それを今では真剣に「怖い」と感じている)。そしてそのころ垣間見た「アウトローの世界」というものには、確かに「カタギの世界」と比べて「魅力的」に感じられる部分というものが、多々あった。

まずヤクザの世界の人たちというのは、「自分の身内」に対しては信じられないぐらいやさしい。本当の親でも自分のことをこれほど愛してくれたことがあっただろうかと思えてしまうくらいに、ヤクザの世界の人たちというのは情が濃い。自分がどんなに貧乏をしていても、「若い衆」が腹を減らしていれば最大限に「うまいもの」を食わせてくれようとするし、汚れた格好をしていれば最大限に「パリッとした服」を買ってくれようとする。そして約束は必ず守る。そういう風に「大切に」されていると、自分も他の仲間のことを「大切に」しなければならないという気持ちに、おのずとなるものだ。

その代わり、「自分の身内」以外の人間のことは、ハッキリ言って「人間」だとさえ思っていない。だましてもいいと思っているし、脅してもいいと思っているし、場合によっては殺してもいいと思っている。そしてそうした「自分の身内」以外の人間から奪う/たかる/巻き上げる/だましとることを通してつまるところヤクザというのは「生計」を立てているのだし、そうして人から奪ったカネで「身内」に「ぜいたく」をさせてやることが「オトコの甲斐性」であると心得ている人間たちの集団であるわけなのだ。

そんなカネで「ぜいたく」がしたいとは思わない、と言いきれたならカッコいいのだが、「ぜいたくをさせてやりたい」という相手の気持ちそれ自体はどうしても「ありがたく」感じられてしまうところがある。「愛情」というのはそれが「排他的」なものであればあるほど、受け手は自分が「大切にされている」ことを感じて「うれしく」なってしまう性格のものであるからだ。「逆らえない義理」というのはそんな風にして形成されてゆく。そうなると自分自身もまた、「身内以外の人間」のことは「人間」とすら思わない生き方というものを、「ルール」として受け入れる以外になくなってゆく。

それはできない、と私は思った。

あと、「徹底的に実力本位の世界」であるというのも、本当である。何しろ「強い者は正しい」というのが「唯一のルール」に等しい世界なのだから、強ければ強いほど圧倒的な「自由」が手に入る。そこにおいて生まれや育ちや過去の経歴は一切問われない。

その代わり、「弱い人間」や「負けた人間」の扱われ方というのは、ボロクソである。それこそ、生まれから育ちから身体的特徴まで、ありとあらゆる要素をあげつらって人格を否定される。「ヤクザは差別しない」などというのは大ウソで、ヤクザほど人間を差別する価値観に貫かれた人間集団を私は他に知らない。被差別の出自を持つ人ももちろんたくさんいるけれど、その人がその世界において「差別されない」のは飽くまで「力」を持っている限りにおいてのことにすぎない。そして性差別に関しては、どうしようもないほどひどいとしか言いようがない。どうひどいかということを書くこともためらわれてしまうほどに、ひどいとしか言いようがない。何しろ「お前はオトコではない」という言葉が最大の人格否定として「通用」する世界なのである。後は推して知るべしと言う他にない。

総じて「アウトロー」の世界に「自由」や「平等」が存在するかといえば、そんなものはない、と言うしかないと思う。「カタギの世界」とは「違った形」の「掟」や「支配」や権力構造が存在しているだけであり、それに「反逆」を企てた人間は一層凄惨な制裁を受ける。「一匹狼」的な人であればあるほど、そういうことに「気を使う」ことなしには生きて行けない。それでも「他に選択肢がなかったから」その生き方を選んだ、という人たちがあの世界においては大半なのであり、「気ままに暮らしているアウトロー」なんてどこにもいないと私は思う。そしてそうした「アウトローの世界」の最大の「顧客」は、「カタギの世界の権力者」たちに他ならないのである。

「親父は銀行強盗で、しかも誰も傷つけなかった」とこの歌は歌っているわけだが、そんなアウトローがいるものか、と私は思う。「自分の身内を傷つけないだけで精一杯」の生き方しかできないのがアウトローというものだし、そのために「傷つけたくもない人間を傷つけてしまった」経験を持たない人はほとんどいない。そして多くの人はそれを「自分自身の傷」として、抱えながら生きている。こんな歌は、アウトローというもののことを本当には何も知らない人間が、ロマンチックな想像だけで作ったのだろうな、としか思えない。「現役」の人が聞いたら、もっとそう思うだろう。もっともそういう「夢みたいなこと」を歌っているからこそ、「自分のテーマソング」にしたがるような人が現れかねないことも想像されるわけで、いろんな意味で「始末に負えない歌」だと私は思うな。


ANN news

香港ではとうとう、ヤクザがデモ隊を襲撃し始めた。日本でも昔から、何度となく繰り返されてきた光景だ。「白シャツの覆面集団」は、見ればほとんどが10代か20代の顔をしている。私はかれらのことを「悲しいやつら」だと思う。かれらだって最初は「自由」や「反逆」を求める気持ち、場合によっては「正義感」から「その世界」に足を踏み込んだのに違いないはずなのに、結局は「権力者の番犬」としての役割を嬉嬉として引き受け、しかも表情から察するにそのことに「間違った誇り」まで感じるに至っている。

かれらにはかれらなりの「理由」や「生き方」がある。それを「反社会的勢力」だの、甚だしくは「反社」だのといった蔑称でさげすむ側の人間にだけは、私はなりたいと思わない。

けれどもかれらが「間違っている」ということは、かれらが選んだ世界の「掟」に従って「教えて」やることができない限り、かれらにとっては絶対に「受け入れられない」ことであるだろう。

デモ隊は10倍にしてやり返せ、と私は心で念を送っている。


岡林信康 それで自由になったのかい

…「翻訳をめぐって」が全然「翻訳をめぐって」にならなかったのだけど、最後の「壁の穴」云々という歌詞について触れておくならば、あれは「明日に向かって撃て」という映画にでてきた「壁の穴盗賊団」という実在の銀行強盗グループをモチーフにしたフレーズなのだという。「雨にぬれても」というPJトーマスの名曲が使われていた映画だ。あれもいい曲だったな。そのうち取りあげたい。

意味するところは、今は追われるウサギのように無力でも、その「穴」に身を潜めて時を待ち、いつかは強くなって暴れてやれ、ということなのだと思う。

弱いままで何がいけないんだ!

と、私としては言い続ける他にない。

本当を言うと今はまだそれを「心から」言えているようには、自分でも思えない。私自身、口ではそう言えても「感性」の領域では、「自分だけの強さ」みたいなものを無意識に求めてしまっている面が、どうしてもあると思う。

けれどもそれを本当に「心から」言えるようになった人間の中にしか、「本当の強さ」というのは宿らないものなのだということを、私は自分が出会ってきたいろんな人たちの姿から、教えられてきた。

自分もそうなって行きたいと思っている。

ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Released: 1980.8.8.
Key: G