華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Get Up, Stand Up もしくは自分の正しさのために立ちあがれ (1973. Bob Marley & the Wailers)


Get Up, Stand Up

Get Up, Stand Up

英語原詞はこちら


[Intro: The Wailers]
Get Up, Stand Up,
stand up for your right
Get Up, Stand Up,
stand up for your right
Get Up, Stand Up,
stand up for your right
Get Up, Stand Up,
don't give up the fight

目を覚ませ。
立ちあがれ。
自分の正しさのために立ちあがれ。
目を覚ませ。
立ちあがれ。
たたかうことをあきらめるな。


[Verse 1: Bob Marley]
Preacher man don't tell me heaven is under the earth
I know you don't know what life is really worth
Is not all that glitters in gold and
Half the story has never been told
So now you see the light, aay
Stand up for your right. Come on

説教師のおっさんよ。
天国があるのは墓の下だなんて
教えてくれるな。
あんたには人生の
本当の値打ちってものが
わかってないんだ。
それは黄金の中で
ピカピカしてるもののあいだに
転がってるようなもんじゃない。
そして肝心なのは
聖書の教えが語ろうとしていることは
まだ半分も
語られていないってことなんだ。
ほら、光が見えるだろう。
自分の正しさのために立ちあがるんだ。
行くぞ。


[Chorus: The Wailers and Bob Marley]
Get Up, Stand Up,
stand up for your right
Get Up, Stand Up,
don't give up the fight
Get Up, Stand Up,
stand up for your right
Get Up, Stand Up,
don't give up the fight

目を覚ませ。
立ちあがれ。
自分の正しさのために立ちあがれ。
目を覚ませ。
立ちあがれ。
たたかうことをあきらめるな。


[Verse 2: Bob Marley]
Most people think great God will come from the sky
Take away everything, and make everybody feel high
But if you know what life is worth
You would look for yours on earth
And now you see the light
You stand up for your right, yeah

ほとんどの人たちは
偉大なかみさまってやつは
空からやってくるものだと思ってる。
あらゆるものを引きあげて
みんなのことを
高みに立ったような気持ちに
させてくれるものだって。
でも人生の本当の値打ちってものが
おまえにもわかったら
きっと空じゃなくて地面の上に
目を向けるようになるはずさ。
光が見えるのがわかるだろう。
自分の正しさのために立ちあがるんだ。


[Chorus: The Wailers]
Get Up, Stand Up,
stand up for your right
Get Up, Stand Up,
don't give up the fight

目を覚ませ。
立ちあがれ。
自分の正しさのために立ちあがれ。
目を覚ませ。
立ちあがれ。
たたかうことをあきらめるな。


[Bridge: The Wailers and Bridge]
Get Up, Stand Up.
Life is your right
So we can't give up the fight
Stand up for your right, Lord, Lord
Get Up, Stand Up.
Keep on struggling on
Don't give up the fight

目を覚ませ。
立ちあがれ。
生きることはおまえの権利なんだ。
だからおれたちにはたたかうことを
あきらめることなんてできない。
自分の正しさのために立ちあがれ。
ああ、かみさま。
目を覚ませ。
立ちあがれ。
あらがいつづけるんだ。
たたかうことをあきらめるな。


[Verse 3: Peter Tosh]
We're sick and tired of your ism and schism game
Die and go to heaven in Jesus' name, Lord
We know and we understand
Almighty God is a living man
You can fool some people sometimes
But you can't fool all the people all the time
So now we see the light
(What you gonna do?)
We going to stand up for our right
(Yeah, yeah, yeah)
So you'd better...

イズムやスキズムを振り回す
あんたらのゲームには
吐き気がするほどうんざりしてるんだ。
さっさと死んで天国にでも
行っちまえばいいじゃないか。
ジーザス·クライストの名のもとに。
おれたちは知ってるし
おれたちにはわかってる。
全能の神とはたったひとりの
生きた人間のことなんだ。
誰かのことを時々fool扱いすることなら
できるかもしれないが
全人類のことをこの世の終わりまで
fool扱いすることなんて
できるわけがないだろう。
おれたちには光が見える。
(おまえはどうする?)
おれたちは自分の正しさのために
立ちあがるぞ。


[Chorus: The Wailers]
Get Up, Stand Up,
stand up for your right
Get Up, Stand Up,
don't give up the fight
Get Up, Stand Up,
stand up for your right
Get Up, Stand Up,
don't give up the fight

目を覚ませ。
立ちあがれ。
自分の正しさのために立ちあがれ。
目を覚ませ。
立ちあがれ。
たたかうことをあきらめるな。

  • 写真は2011年の「アラブの春」の際に、エジプト各地に貼り巡らされたポスター

=翻訳をめぐって=

この歌のコーラス部分はほとんどのケースで「権利のために立ちあがれ」と翻訳されているが、私はいわゆる「明治の知識人」たちが「human rights (仏: Droits de l'homme)」という言葉を「支配し指揮する力」としての意味しか持たない「権」の字を用いて日本語に移入したことは「間違い」だったと思っているし、またこの歌に歌われている「right」とは、「義務」の「対価」としてしか保証されない法律用語としての「権利」とは違い、誰に認めてもらえなくても自分自身の力で大地に足をつけて存在することのできるそういう「正しさ」のことを言っている。だからこの歌における「your right」というフレーズの日本語訳には、「あなたの正しさ=自分の正しさ」という直訳的な言葉の方がふさわしいというのが私の見解である。

その上で私も試訳の中で一回だけ「権利」という言葉を使っているけれど、それは「生きることはおまえの正しさなんだ」などという言い方は、さすがにおかしいと感じたからだった。「他人にとっての正しさ」の内容というものは、それこそ「他人」が勝手に決めつけていいことではないだろう。それが正しいか正しくないかを「決める」ことができるのは、あくまで彼(女)の心だけなのであって、他人の立場からできることがあるとすれば「おまえはそうしてもかまわないんだ」と背中を押すことぐらいに限られていると私は思う。「自分を支配し指揮する力を持っているのはおまえ自身なんだ」ということを相手に伝えたい場合には、「権利」という言葉を使うのもそれなりに意味のあることだと言えるだろう。

以上のことは以前に書いた下の記事の中で綴った内容の繰り返しなので、併せて参照されたい。
nagi1995.hatenablog.com
さて、そういうことを書いた端から言うのも何なのだけど、人間には「間違いを犯す権利」というものがあるし、「自分の見たいものを見たいように見る権利」というものもまた存在している。この「権利」は「自由」という言葉と置き換えることも可能だろう。ダメだと言われても間違っていると言われても結局「自分のしたいようにしかできない」のが人間というものなのであって、それを他人がどうこうすることは、基本的にはできない。最後にはその人自身に「変わって」もらうより他に仕方がないわけなのだけど、「変わる」も「変わらない」も含めてそれはやっぱりその人の「自由」なのだとしか、「他人」の立場からは、言いようがない。

だがそうした「主観の世界」の領域の話とは無関係に、「間違い」というものはやはり「間違い」として存在しているわけなのであって、それを認めようとしない人は必ず「現実」からしっぺ返しを食らうことになるだろう。「自分の願望」を「現実に対する認識」とハキ違えてしまうことは、あらゆる人間が一番陥ってしまいがちな「間違い」であり、差別も戦争も突き詰めるならそういうところから起こるのだ。「願望」はあくまで「願望」にすぎないのだということを「わきまえた」上で、どうすればそれを「実現」することができるかを本気で考えるなら、つまるところは誰でも謙虚な気持ちで「現実」と向き合い、「学ぶ」ところから始めて行くより他に仕方がない。

こういうことをなぜ書くのかといえば、この「Get Up, Stand Up」が「宗教批判の歌」であるというものすごい「解説」を、あるところで読んでしまったからなのである。いわくこの歌は、「宗教」や「神」の名のもとに繰り返されてきた搾取、差別、偏見、そして戦争を「超えなくてはならない壁」として明らかにし、西洋型キャピタリズムを軸にした現在の世界を構成する枠組みを揺るがして、本当の「人権や平等、平和」を実現するための次世代へのステップを描き出そうとしたそういう歌なのであると。

私にはその文章を書いた人の気持ちが、ある意味でとてもよく分かる。私だって「宗教」というものが大嫌いだし、搾取や差別や偏見や戦争の存在しない世界が実現されたらどんなに素晴らしいだろう、と日々願いながら暮らしている人間の一人だからである。そんな私や私たちの気持ちをそのまま代弁したような「宗教との決別を呼びかける歌」を、ボブ·マーリーという世界的な有名人が歌っていてくれたのだとしたら、それはどんなにかうれしくて、心強いことだろう。

だが、私やその人の「願望」がどうであろうとも、この歌は「宗教批判」の歌であるどころか、それとは逆にめちゃめちゃ「宗教的な歌」なのである。「宗教批判」に見える部分は、単に「ある一つの宗教」の立場から「別の宗教」のことを批判している言葉であるにすぎない。「本当の人権や平等、平和」に向けたメッセージがここには歌われていると上の文章では書かれているわけだけど、それは「その文章を書いた人にとって大切な価値観」であるにすぎないわけであって、少なくとも歌詞の中には直接にはそうした言葉は一言も書かれていない。それを他人が勝手に「レッテルを書き換える」ようなことをするのは、厳しい言葉を使うなら「捏造」に等しい行為だし、また歌を作った人たちに対して最も「失礼な行為」だと思う。その人が本当に「平等な世界」を目指しているのであれば、他者の権威を自分の主張のために「利用」の対象とするようなことは、それこそ自分の信念そのものを「腐らせる」ことにつながってしまうのではないだろうか。

Almighty God is a living man
全能の神は一人の生きた人間である

という一節は、読みようによっては無神論者のために書かれたフレーズであるように見えても、おかしくはない。そしてそういう内容でこの歌詞に「感動」している人たちも、ネットを見渡す限り決して少なくはない。別のところで見た「全能の神とは生きている人間たちだ」みたいな訳し方は、さすがに文法的に見ておかしいと言わざるを得ないけど(複数形の「men」ではなく単数形の「a man」であるとわざわざ「強調」されているのだから)、その「a man」という言葉に「自分自身」や「自分にとってかけがえのない人」の姿を重ねることは、この歌詞を「フツーの英文」として読む限り、「アリな話」だと思う。私だって初めてこの歌詞を読んだ時には、このフレーズが「吾々は人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ」という水平社宣言の一節と重なるのが感じられて、胸が熱くなるのを覚えたものだったのだ。

だが、「無知な東洋人」がこの歌をそういう内容で聞いていたのだということを知ったなら、歌を作ったボブ·マーリーや共作者のピーター·トッシュは、烈火のごとく「怒った」ことだろう。あるいは「ガッカリ」して、相手にする気もなくしてしまったことだろう。敬虔な「ラスタファリアン」だったかれらにとって、この「a living man」とは、本当に「生きた一人の人間」、すなわち1892年に生まれ、この歌ができた時にはいまだ存命中だったエチオピア帝国の第111代皇帝、ハイレ·セラシエⅠ世以外のことでは、誰のことでもあり得なかったはずからである。

King of Kings, Lord of Lords,
Conquering Lion of the Trive of Judah.
His Imperial Majesty
Haile Selassie Ⅰ! Jah Rastafari!

王の中の王、神の中の神、
ユダの氏族の征服の獅子
皇帝陛下ハイレ·セラシアイ!
ジャー·ラスタファーライ!

歌う前にもインタビューの前にも、この呪文にも似たフレーズを必ず唱えた後でなければ口を開かなかったぐらいに、ボブ·マーリーという人は「宗教的な人」だった。「ラスタ」というのはこのハイレ·セラシエという「生きた一人の人間」のことを「神(Jah)」として崇めることをあらゆることの中心に据えた、ジャマイカ独自の宗教的生活様式のことである。ラスタの人たち自身は「宗教(ism)」という言葉を使われるのを嫌っているらしいけど、私のごとく「神」を持たない人間の立場からしてみれば、「神」を持っている時点でそれはやはり宗教だろうとしか言いようがない。ちなみに「ラス·タファリ」とは「タファリ侯」を意味する、ハイレ·セラシエの皇太子時代からの「称号」だそうである。

ハイレ·セラシエ自身はこの歌が作られた翌年にあたる1974年に起こった革命で帝位を追われ、拘禁先で殺されているのだけれど、ボブ·マーリー自身は1981年に亡くなるその日まで、「Jah Alive!(ジャーは生きている!)」と歌い続けていたのだという。そのボブマーリーの「ジャーへの思い」というものを、「肯定」はできないにしてもせめて「理解」しようと努めること抜きには、彼氏のことはやっぱり、「語れない」のではないかと思う。「他の神ではなくジャーを信じろ」ということが、この歌に関して言うならば、そこに込められた最大の「メッセージ」なのだ。それを「異教徒」が勝手に「ねじ曲げる」ようなことをしては、いけないと思う。

この歌の場合、「ジャーを信じろ」という部分さえなければこんなに「いい歌」は他にないと思えてしまうような歌であるだけに、私にとっては特にそうなのである。
nagi1995.hatenablog.com
「ラスタ」に対する私の立場については、以前に書いた上の記事の中でざっと触れたことがあるが、この歌に込められているメッセージの内容を「正しく」受け止めるためにも、最低限のことは「知って」おかねばならないと思う。



「ラスタ」の歴史の出発点に位置しているのは、1887年にジャマイカで生まれた国際的黒人解放運動の指導者、マーカス·ガーヴェイという人の存在である。この人は「黒人が少数派である国では決して白人と同等の権利を獲得できない」という信念のもとに、「白人の支配を受けない独自の文化と文明を持った、自立的な黒人国家」をアフリカに建設することを構想し、南北アメリカをはじめ世界中に散在している黒人の同胞たちに「アフリカに帰れ」と訴えるキャンペーンを展開した。1920年代の運動の最盛期には、彼の支持者は世界各国に600万人を数えたという。

1927年のある日曜日、ガーヴェイはジャマイカのキングストンの教会で

Look to Africa
when a black king shall be crowned,
for the day of deliverance is at hand

アフリカを見よ。
黒人の王が戴冠される時が来る。
解放の日は近い。

という演説を行なったとされており、この言葉がジャマイカの人々の間には「予言」として記憶されることになった。(もっともこの演説自体、記録はどこにも残されていないので、当初から「伝説」の一部になっている)。そしてそれから3年後の1930年、旧約聖書に登場するソロモン王とシバの女王の直系の子孫とされているハイレ·セラシエⅠ世がエチオピアで皇帝に即位したというニュースが飛び込んできたことから、ガーヴェイの信奉者たちの間には「予言が現実になった」という興奮が一挙に拡大した。

それ以前の段階からアメリカやカリブ海諸国の黒人社会では、旧約聖書に記述された「歴史」を黒人の立場から読み直し、そこに自分たちの「ルーツ」を求めようとする運動が広がっていたのだが、その文脈において「エチオピア」というのは単なる「アフリカの一角の地名」ではなく「アフリカ全土を指す言葉」であり、「自分たち全ての黒人がいずれ帰還するべき故郷」の名称に他ならなかった。その「故郷の地」「約束の地」に、「ガーヴェイの予言」通りに「黒人の王」が誕生したのである。宗教的なエネルギーから当時の運動を支えていた人々は、この王こそが「自分たち自身の王」であり、「全世界の黒人の希望となるべき王」に違いない、という「期待」を抱いたのだという。

さらにガーヴェイ主義の説教師たちは新約聖書の中に

「泣くな、視よ、ユダの族の獅子・ダビデの萌蘖、すでに勝を得てその七つの封印とを開き得るなり」
-ヨハネによる黙示録5-5

という記述を見つけ出し、ラス·タファリ= ハイレ·セラシエⅠ世こそはここに予言されている救世主に違いない、という主張を熱烈に展開した。こうしてハイレ·セラシエの即位と時を同じくして、彼氏のことを「神」と同一視する「ラスタファリアン」と呼ばれる人々の集団が、ジャマイカに誕生することになったのだという。ただしその人々はジャマイカ社会においてはその後一貫して迫害を受けることになった「少数派」であり、ジャマイカ中の人々が「ラスタ」になったわけではない。現在でもラスタの人々の数は、ジャマイカの総人口の5〜10%にとどまっているらしい。それでも大した数だといえば、大した数なのたけど。

ラスタの人々は自分たちのことを旧約聖書に記録されている「イスラエル12支族」の子孫であると信じており、かつ何世代にもわたって「故郷のアフリカ」から引き離されて「異郷のジャマイカ」で暮らしている自分たちの境遇を、かつて祖先にあたるイスラエルの民が半世紀にわたって異民族の支配下におかれた「バビロン捕囚」の時代になぞらえている。ラスタの人々が何と戦い何に抵抗することを呼びかけているのかといえば、この「バビロン」に対してに他ならない。「バビロン」とはすなわち自分たちを故郷の地から引き剥がした「白人の文明」であり、その上に建設された「西欧資本主義社会」であり、かつ自分たち自身のことを「異郷」に縛りつけ続けている「ジャマイカという国家」そのものであり、つまるところは「自分たちのことを抑圧するすべての存在」のことを指す言葉になっている。この「バビロン」を打倒して「ザイオン」=アフリカの地へと帰還し、「ジャー」=ラス·タファリのもとで幸せに暮らすこと。それが「ラスタファリ運動」の究極的な「目標」であり、ラスタの人々にとっては「生きる目的」を形成する価値観の源泉となっている、という理解で、とりあえずは間違いないと思う。

  • ちなみに最近読んだボブ·マーリーの伝記の中で、彼氏がまだ小学生だった時、学校で同級生から殴られたらしいという話をお母さんが伝え聞き、殴った子どもを説教してやろうと思って学校に乗り込んだところ、そのお母さんの姿を見て子どもたちが「バビロンが来たぞ!」と叫んで一斉に逃げ出した、というエピソードが書かれていたのを見て、「バビロン」というのはそういう風に使う言葉なのか、とすごく新鮮に納得できた気がした。ラスタの人であってもなくても、「自分たちを抑圧する存在」の総称として「バビロン」はジャマイカ社会で極めて日常的に使われている言葉なのであり、その対象には「アメリカ帝国主義」から「友だちのお母さん」に至るまでのあらゆる存在が含まれているわけなのである。

その他、ラスタの人たちには、旧約聖書の教えに従って髪を切らずに「ドレッド」にしているとか、自然食品しか食べないとか、ガンジャ=マリファナを吸って瞑想にふけることに聖なる価値を見出しているとかいった、対外的にも知られているさまざまな「生活スタイル」が存在しているわけだが、一番重要なのはそれが「黒人のための宗教」であり、「黒人が黒人として黒人の故郷であるアフリカに帰還し黒人の王のもとで生きる」ことを目的とした思想運動であるということに他ならない。従って我々黄色人種には、その「スタイル」を真似することぐらいはできたとしても、その「目的」をラスタの人たちと「分かち合う」ことは、初めから「不可能」なことになっているのである。我々は「黒人ではない」のだから。

「他者を他者として理解する」ということは、つまるところ「自分が何ものであるかを明らかにすること」を通してしか可能にならないことであると私は思う。

男性で黄色人種で日本人で天理教の家で生まれてしかしながら自分自身では『神』というものを積極的に信じる気持ちには一度もなれないままオトナになって、差別と戦争というものを何より憎んでいて、それを廃絶するためには世界中の人間はいずれ『人類』の名のもとにひとつにならねばならないし、そのためには『人類』は『宗教』というものから一刻も早く『卒業』しなければならないということを現在では自分の信念にしているところの一人の人間

として私はラスタの人たちと向き合う以外にないのだし、ラスタの人たちにも私のことを「そういう人間」として「理解」してもらう以外にないわけなのである。上に並べた私の「信念」の後半部分は、ラスタの人たちの掲げる「信念」と確実に「衝突」する。とりわけ私は天皇制というものを絶対に許せないと思っているし、それを許せないと思う内容において、「一人の生きた人間」のことを「神」として「崇拝」の対象とするようなことは、地球が裂けても認めるわけには行かないと思っている。

それでも私はラスタの人たちと「共生」することを拒否したいとは思わない。言っとくけど私は「似たような思想体系」であってもシオニストとは絶対に「共生」したいと思わないし、同じ日本の土の上に暮らしている人間同士であっても、右翼や天皇主義者と「同じ天を戴くこと」は断固として願い下げである。けれどもラスタの人たち(だけではない)を抑圧している「バビロン」は、私にとっても「敵」なのだ。立場は違っても「共に」力を合わせてそれを打ち倒すことができたなら、私(たち)とラスタの人たちの間に「同じひとつの未来」を築きあげてゆくことは、必ず可能になるはずだと思う。

この歌のコーラス部分が「ジャーのために立ちあがれ」ではなく「自分の正しさのために立ちあがれ」となっているのは、ボブ·マーリーの方でも同じように「ラスタでない聞き手」のことを「配慮」してくれていることのあらわれなのではないか、という感じが私はちょっぴりしている。ボブ·マーリーという人はジャマイカ国内のことだけでなく「世界の未来」に目を向けていた「特異なラスタ」の一人だったということが、前掲の伝記には繰り返し書かれていた。「自分の正しさのために立ちあがれ」と歌った場合、自分とは違った立場の人間のことまで「立ち上がらせて」しまう可能性があることを、彼氏は確実に「理解」していたことだろう。けれども白人の中からでも黄色人種の中からでも自分たちと共に「バビロン」に反旗を翻す人間が現れるならそれはそれで素晴らしいことだと思っていたから、彼氏はヨーロッパにでも日本にでもどこにでも行って歌っていたのだと思う。

そして何より「バビロンの側の人間」が「自分の正しさ」を振りかざして彼氏に敵対してくるようなことがあったなら、彼氏の側には即座にそれを「叩き潰してやる」という自信と決意が存在していたはずなのである。だからこそ彼氏には、この歌をこの歌詞で「堂々と」歌うことができていたのに違いない。そのメッセージをしっかりと受け止めて、私自身も「自分の正しさ」のために戦ってゆきたいものだと思うし、それが「ボブ·マーリーの正しさ」と「ぶつかる」ようなことがあったとしたら、その時にはやっぱり「ボブマーリーとも戦う」以外にないのだと思う。この歌は「そうしてくれて構わない」と言っている歌なのだと、個人的には受け止めている。

だからこそ「全能の神は一人の生きた人間だ」という歌詞に関しては、それをラスタでない人間が自分に都合よくねじ曲げて解釈するようなことをしては、いけないのである。それが「ハイレ·セラシエⅠ世」という具体的な「生きた人間」のことを指しているという事実を真っ直ぐに受け止めた上で、ボブ·マーリーに対して「それは間違っていると思う」という「こちらの正しさ」を正面からぶつけてやる以外にないのである。ボブ·マーリー自身にとってもそこは「一番ゆずれないところ」であることだろう。「話し合い」で「決着」がつくようなことには多分ならないし、おそらくは「対話」それ自体が成立しないようなことになるだろう。それでもそうした「ぶつかり合い」は、他者との間に本当に「共に生きる未来」を築きあげてゆくためには、避けて通れないことだと私は思う。「人間」を「神」と認めるようなことは私にはできないけれど、私は断じて「バビロンの側」の人間ではないということなら、「伝える」ことは必ずできるはずなのだ。そんな風にして「共に生きることのできる根拠」を自ら作り出してゆくことをしない限り、違った人間同士が「共に生きる」ということはいつまで経っても絵空事のまま終わってしまうことになるだろう。

そういうものとして、私は今後ともこの曲と向き合い続けてゆきたいと思っているし、聞き続けてゆきたいと思っている。


Get Up, Stand Up

2017年の夏はブルースブラザーズの夏、2018年の夏はラストワルツの夏だったわけだが、この2019年の夏はさしずめ私にとっては「レゲエの夏」だったと言うことができると思う。「ジャー」の連呼があまりに耐えられなくて今までずっと敬遠してきたボブ·マーリーの伝記をはじめ、いくつかの関連図書にも、初めてまともに目を通すことができた。このブログを始めてから一貫して取り組んできた「他者を他者として理解するための努力」が、一定実を結んできたことのあらわれなのではないかという感じがしている。だから今回の記事には、ちょっとした「節目感」があった。9月に入っていっぺんに涼しくなってしまったが、機会があればこれからはレゲエの曲も、今まで以上に積極的に取りあげてゆくことにしたいと思う。ではまたいずれ。


=楽曲データ=
Released: 1973.4.
Key: B♭