華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

That's Life もしくは「Jorker」を観てきたぜ (1966. Frank Sinatora)


That's Life

That's Life

英語原詞はこちら


That's life (that's life) that's what people say
You're riding high in April
Shot down in May
But I know I'm gonna change that tune
When I'm back on top, back on top in June

それが人生というものさ。
と人々はいつも言うものさ。
4月の今の君は
空高く舞い上がっていても
5月には撃ち落とされるだろう。
でも私はきっと自分の力で
この調子を変えてみせることができる。
トップに返り咲いた時
6月にトップに返り咲いた時には
それがわかるさ。


I said, that's life (that's life) and as funny as it may seem
Some people get their kicks
Stompin' on a dream
But I don't let it, let it get me down
'Cause this fine old world it keeps spinnin' around

それが人生というものだよ。
(それが人生というものだよ)
そしてそれはその見た目と
同じくらいにおかしなものだ。
夢を踏みにじることが
生き甲斐になってしまったような
人たちだっているけれど
私はそんなことはさせない。
そんなことには打ち負かされない。
快調に仕上がったこのおなじみの世界は
今日も回り続けているんだから。


I've been a puppet, a pauper, a pirate
A poet, a pawn and a king
I've been up and down and over and out
And I know one thing
Each time I find myself flat on my face
I pick myself up and get back in the race

私はパペット(指人形)だったこともあるし
ポーパー(貧乏人)だったこともある。
パイレート(海賊)だったこともあれば
ポエット(詩人)にも
ポーン(チェスの歩兵)にも
キング(王者)にもなった。
登ったり下ったりで
スタジオからは以上です。
そして私には分かっている。
地べたに顔をこすりつけるたびに
私は自分を引っ張り上げて
レースの中に引き戻してきたんだ。


That's life (that's life) I tell ya, I can't deny it
I thought of quitting, baby
But my heart just ain't gonna buy it
And if I didn't think it was worth one single try
I'd jump right on a big bird and then I'd fly

それが人生というものだよ。
(それが人生というものだよ)
打ち明けて言うなら
私にもそれは否定できない。
やめることも考えたさベイビー。
でも私の心は
投げ出すことを許してくれないんだ。
少なくとも一回は
試してみる値打ちがあるなんて
いちいち思わずに済むものならば
私はでっかい鳥の背中に飛び乗って
空に舞い上がっているさ。


I've been a puppet, a pauper, a pirate
A poet, a pawn and a king
I've been up and down and over and out
And I know one thing
Each time I find myself layin' flat on my face
I just pick myself up and get back in the race

私はパペット(指人形)だったこともあるし
ポーパー(貧乏人)だったこともある。
パイレート(海賊)だったこともあれば
ポエット(詩人)にも
ポーン(チェスの歩兵)にも
キング(王者)にもなった。
登ったり下ったりで
スタジオからは以上です。
そして私には分かっている。
地べたに顔をこすりつけて
くたばっている自分に気づくたびに
私は自分を引っ張り上げて
レースの中に引き戻してきたんだ。


That's life (that's life) that's life
And I can't deny it
Many times I thought of cuttin' out but my heart won't buy it
But if there's nothing shakin' come here this July
I'm gonna roll myself up in a big ball and die
My, my

それが人生というものだよ。
(それが人生というものだよ)
打ち明けて言うなら
私にもそれは否定できない。
おしまいにすることだって
何度も考えたけど
でも私の心は
投げ出すことを許してくれないんだ。
少なくとも一回は
試してみる値打ちがあるなんて
いちいち思わずに済むものならば
私はでっかい鳥の背中に飛び乗って
空に舞い上がっているさ。
でももし
ゾクゾクさせてくれるようなことが
この6月に起こらないなら
私は自分の体を
くるくるっと巻き上げて
でっかいボールになって
それで死んじまうさね。
やれやれ。



映画「ジョーカー」の話をしている人が私の周りにあまりに多いので、自分でも観に行ってきた。後になってからこの記事を読む人のために付記しておくなら、今年(2019年)の10月4日に日米同時公開されたアメリカ映画で、「バットマン」に出てくる悪役として有名な「ジョーカー」がいかにして「ジョーカー」としてゴッサムシティに登場するに至ったかを描いた、前日譚としてのスピンオフ作品である。

率直な感想として、とてもいい映画だった。

最初の事件が起こった時には「そうだよくやった!」と思ったし、クライマックス的な事件の場面では拍手したい気持ちになっただけでなく本当に拍手してしまった。

そうその銃は自分にではなく絶対に敵に対して向けるべき。そう思ったのだった。

主人公の彼氏は「正しいことしか」していない。私はそう思った。

だったら何が起ころうと何を言われることになろうと自分は最後まで主人公の味方であり続けなければならない。そう思いながらずっと見ていた。

映画館を一歩出たら、主人公に拍手を送った時の自分の気持ちを簡単に忘れてしまうことのできるような、そんな卑怯者にだけは絶対なるまいと強く思わされた。

それ以上のコメントは無用だな。

他のことを言っても評論にしかならないし、評論することはつまるところ、主人公の生き方に敵対することにしかならない。

主人公に対して「言いたいこと」が、なかったわけではない。主には彼氏は一人だけ「殺さなくてもよかったかもしれない人」を殺してしまったのではないかとか、そのあたりのことについてである。けれども主人公が「決起」するに至るまでの間に、相手の話を全然聞きもしないくせに相手を自分の言いなりにだけさせようとする人間たちからどれほど苦しい目に遭わされ続けてきたかということを思うなら、赤の他人の立場にアグラをかいたままブログやらSNSやらの安全圏からそれを「言い逃げ」して終わることが「いいこと」であるとは全く思えない。主人公にそれを「聞いてほしい」と思うなら、まずは自分自身が主人公の立場に立って「戦う」ことが必要だろう。

主人公の話を聞く前に自分が先に口を開くような人間になってしまっては、主人公の「味方」になどなれるはずがないのである。それでも自分は主人公の「味方」でありたいと私が痛切に思わされたのは、つまるところこの映画がそういう「力」を持っていたからなわけであり、引いてはそんな風に観る人間を「変える」力をもった稀有な映画のひとつがこの「ジョーカー」という作品だったのだ、ということが言えると思う。

ちなみにネタバレ的なことを一点だけ書いておくならば、この映画の主人公は「心の病」に苦しめられ、生きるために投薬治療を受けることと精神科のカウンセリングを必要としている「精神病者」であり、別に映画の中でなくても世の中にそういう人は沢山いる。そしてこの主人公の彼氏が映画の中で「攻撃」の対象にしているのは(私はむしろ「反撃」という言葉を使いたいのだが)、彼氏のことを差別した人間たち「だけ」なのであり、私が彼氏の行動を「正しい」と感じた所以はそこに存在している。

それにも関わらず、巷に溢れているこの映画のレビューや「解説」と称する文章が平気で「狂気」という差別語を使って彼氏の生きざまを「片付けて」いることに、私は信じられない思いがする。この映画の一体何を見たのだろうと思う。

この映画を見た人間が何万人いようと、撮った監督や主人公を演じた俳優の意図が何であろうと、「狂気」という言葉を用いてこの映画を「語る」ことはそれ自体が主人公のことを差別する行為に他ならないのであって、彼氏に対する「敵視」「敵対」そのものなのである。「狂気」ではなく「健全」という言葉を使ってこの映画を擁護したつもりになっている人間たちがやっていることも、同じことだ。かれらはかれらで「狂」的なものを憎悪し、主人公のことを同じ立場にある「精神病者」の仲間たちとのつながりから「分断」して「健全な自分たち」の側に取り込むことで「無害化」することを願望しているにすぎないのであって、彼氏のことを初めから差別してかかっている姿勢には、何ら変わるところがない。

いずれにしてもそういう人間たちは、そういうことをやっている時点で映画の中の何人もの登場人物たちと同様に自分たち自身が主人公から「正義の鉄槌」を打ち下ろされて当然の立場に立っているのだということを全く自覚していないか、自覚していたとしてもあれは映画のお話だから本当に自分たちの身にそんなことが起こるはずはないとタカをくくっているかの、どちらかなのだろう。私は映画の中の彼氏と共に、そういう余裕かました差別者たちに対して「目にもの見せてやる」ようなことを、やりたいと思う。断固として「鉄槌の側」に立ちたいと思う。

しかしながらひるがえって考えるなら、「狂気」や「健全」といった差別表現を使うことを抜きにしてはあの映画について「語る」ことさえできない人間がこれだけ存在するという事実は、「人を差別して生きること」が我々の生きる社会においていかに「当然のこと」として通用させられているかということを物語ってもいるわけで、「そうでない生き方」というものは私も含め、誰も「知らない」のがこの2019年の世界の現状であるわけなのである。だからネットを見てもSNSを見ても、実に多くの人がこの映画を観て、苦悩している。主人公にどう感情移入していいか分からないから、苦悩するのである。「健全」でなければならないとされているこの社会にあって「狂気」は「悪」なはずなのに、その「狂気」の側にともすれば「共感」しそうになっている自分自身をどう処理していいか分からないから、「苦悩」することになるわけなのである。

だが、それだけ多くの人々がこの映画を観て「苦悩」しているという事実は、今までの人間社会を支えてきた「価値観」そのものがグラグラに「揺さぶられる」時代を我々が迎えつつあることの証拠でもあるわけなのだ。この映画が実弾の飛び交っている今の香港で他のどこよりも熱烈に受け入れられているという話は、何よりも端的にそのことを示していると私は思う。この映画はそんな風に人間の歴史が「過渡期」に差しかかった21世紀前半を象徴するような作品として、おそらくはこれからの世界史の中で語り継がれてゆくことになるのではないだろうか。そんな気がする。

付言するならこの映画を観て「苦悩」したり「重い気持ち」になったりするのは、人を差別したり抑圧したりしながら生きている側の人間たちの間で「だけ」通用している「一般的な反応」に過ぎないのであって、そういう人たちばかりでないことはそういう感想しか持てなかった人たちこそが、何よりも「知って」おかねばならないことだと思う。差別されたり抑圧されたりしている立場の人たちがあの映画から受け取るのは間違いなく「解放感」であるはずなのである。もちろん「しんどく」なる人もいると思うが、それは自分が主人公と同じ立場になった場合に現実の社会からどんな攻撃が襲いかかってくるかということがリアルに想像できてしまうからこその「しんどさ」「重たさ」なのであって、差別する側の人間が感じ取る「重たさ」とはその内容が全く違っている。映画のある場面で主人公が口にした

悩むと思ってたけど、スカッとした

という言葉を、私は横取りして「自分のもの」にするわけには行かないけれど、それこそ「重たく」受け止めなければならないと思っている。

この映画には、「地下鉄の中で銃が発砲されるシーン」が二回出てくる。一回目の銃弾は自分の身を守ろうとした主人公によってやむにやまれず発射されたものであり、二回目の銃弾は警察によって主人公のことを殺す気満々で発射されたものだ。どちらがより邪悪な銃弾であるかは、「フツー」であるならば考えるまでもない。逃げる相手=自分より弱い相手に向かって、最初から殺意を持って発砲することの方が「悪い」に決まっている。

それなのに「世間の常識」はそれと180度真逆なことになっており、「精神病者」が「銃を持つこと」はそれだけで「殺されても当然」と見なされるぐらいに「危険」で「悪い」ことであると決めつけられていることの一方で、それを相手の事情も知らないくせに問答無用で射殺したり処刑したりしてみせる警察や裁判所の振る舞いは、「正義」であるばかりか「賞賛されるべきこと」であるとさえ見なされている現実がある。このことは我々の生きる社会が「差別の上に成立していること」の、最もグロテスクな表現であると私は思う。人を差別して生きている人間たちは、他の映画で警察が「狂人」を射殺するシーンは「安心」してそれを見ていることができるくせに、この映画で「狂人」が銃を持っているシーンを目の当たりにするとそれだけで「殺さなければ安心できない」くらいに「不安」になるのである。

けれども人間には誰にだって、自分の尊厳を守るために戦う権利=right=正しさが生まれながらに備わっているのだ。自分の命を理不尽に奪われようとしている人間がそれに対して命がけで「反撃」するのは、誰にとっても「当たり前」のことである。その「当たり前」のことを「当たり前」のこととして描き出し、かつその主人公が「悲劇的な最期」を迎えたりすることのない映画は私の知る限りこの映画が初めてで、語弊を恐れず言うならば「正義は勝つ」というのが私がこの映画から受け取った最大の「メッセージ」だった。そしてこの主人公と同じように「戦う」ことを恐れずに生きて行きたいと強く思わされた。それを観た人間にその生き方を変えさせるだけの「衝撃力」をこの映画が備えていることは、この映画が「革命的な映画」であることの紛れもない証左であると思う。

そんな映画が2010年代の終わりというこの時期になって初めて人間の歴史の舞台に登場してくることになったのは、映画を作った人たちやそれを演じた俳優さんたちの手柄ではない。この映画の主人公と同じように理不尽な迫害に苦しめられてきた数え切れないほどの人たちの「声」が、我々の生きる社会において誰にも無視することができないほどの「発言力」を獲得するに至ったことの結果として、この映画ができたのである。(「可視化」などというふざけた言葉をマスコミが使うことは金輪際願い下げにしてもらいたい。今までだって「目に入って」いなかったはずはないにも関わらず一貫してそれを「見ようともしてこなかった」のは一体誰だと言うのか)。いずれ、この映画の主人公の「戦い方」が決して「突飛なもの」ではなく、誰が見ても「当たり前」と感じるのが「当然」になるような時代が、必ず訪れることだろう。その意味でこの映画は私にとって久々に「希望」を感じさせてくれる映画だったと思う。

もとより、我々が今生きているのは「差別の上に成立している社会」であり、そこから「自由に」物を感じたり考えたりすることは、誰にもできない。私にもできない。けれども「狂気」や「健全」といった言葉のフィルターを通してしかこの映画と向き合うことのできない人たちは、まず自分が差別するのをやめることから始めるべきだと思う。「狂気」や「健全」といった言葉を使うことをやめることから始めるべきであり、人間というものはそんな言葉で「説明」がつくぐらいにカンタンに作られている存在ではないのだという現実に裸で向き合い直すことから始めるべきだと思う。それにも関わらず「人を差別することで分かったような気持ちに浸っていられる世界」の内側に安住し続けようとする全ての人間たちの上に、主人公の「正義の鉄槌」は容赦なく打ち下ろされることになるだろう。

私にはその主人公と共に、戦う準備がある。

上に訳出したフランク·シナトラの「That's Life」が、さまざまなシーンで流れるこの映画のテーマ曲になっていた。自分で訳し終えてみてなるほどこの歌が主題歌に選ばれたのにはこういう理由があったのかと納得させられたり発見させられたりしたことがいくつもあったが、それはここで書くべきことではないと思う。映画を観に行った一人一人の皆さんが、自分自身で確かめることにしてほしい。


That's Life

さてまたしても台風が迫っている。上と同じく後からこの記事を読むことになる人たちのために付記するなら、多くの大災害の記憶に埋めつくされた2010年代の日本の歴史の「最後を飾る」ことになるであろう超特大の台風19号というやつが、数時間後に本州を直撃するであろう状況の中でこの記事は書かれている。台風19号といえば私にとっては小学校5年生の時に日本列島を縦断して青森でリンゴを落としまくって行ったあの19号で、それ以来「19号」といえば「台風最強」のイメージがずっとつきまとっていたものなのだけど、その記憶もどうやら「更新」されるべき時がやって来たようだ。24時間たった頃には前回と同じく、ブログで映画の話なんかしていたことが夢のように思えてしまうぐらいに変わり果てた現実の中に放り出されてしまうことになってしまっているのかもしれないが、今回取りあげた曲にちなんで言うならば「それも人生」である。書きたいことは書ける間に、書いておくにしくはない。

私にはまだまだ、翻訳しなければいけない歌がたくさん残っている。ここで死ぬわけにはいかないと思う。生きた心地もしない気持ちで10月12日の朝を迎えているのはほとんどの皆さんが同じことだと思うけど、願わくは元気で再会しましょう。ではまたいずれ。