華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

Across The Universe もしくは帰命頂礼大権現 (1969. The Beatles)



半年にわたって中断したままになっている「トータル·バラライカ·ショー」の特集の再開を予告していたのだけれど、久々に翻訳のリクエストを頂いたので、ご期待に添えるような記事にできるかどうかは心許ないが、全力で取り組んでみることにしてみたい。課題曲は全力を振り絞るにふさわしい大曲、ビートルズの「Across The Universe」である。

その冒頭にどうして手塚治虫の「火の鳥」のイラストが出てくることになるのかといえば、私が小学生の頃に初めて「ユニバース」という英単語に出会ったのが当時ひっきりなしにテレビで流れていた「火の鳥 鳳凰編」の映画のCMを通じてだったからで、いらい「ユニバース」という言葉を聞くたびに私の頭の中には自動的に「火の鳥」の映像が羽ばたき始めることになってしまっているのを、どうすることもできずにいるからなのである。読者の皆さんにとっては100%どうでもいい話に違いないと思うが、そういうことまで含めて自分の歴史に「決着をつける」のがこのブログのテーマとなっているので、しばらくはその「ユニバース」の話に付き合って頂ければと思う。


渡辺典子 火の鳥

You Carry Us On Your Silver Wings
To The Far Reaches Of The Universe
愛したら 火の鳥
時を越えて めぐり逢う

…今になって検索してみて初めて知ったのだけど、こんな歌詞だったのだな。当時の私たちは最後の「ユニバース」以外の部分は意味もわからないまま「いーやいやん、そーのー、集いー」みたいな歌詞をくっつけて学校の帰り道に大合唱していたものだったのだが、実際には英語の部分では

あなたはその銀の翼の上に私たちを乗せて
遠いところへ連れて行ってくれる
宇宙に手が届くようなところへ

的な内容のことが歌われていたということになる。それにつけてもこの歌詞、作詞は阿久悠らしいのだけど、ハッキリ言ってずいぶん「怪しげな英語」で書かれている感じが、今見ると、する。「To The Far」なんてそんな言い方、アリなんだろうか。通じないことはないと思うけど、この文字列を見た英語話者がそれを「文学」であると思ってくれるかどうかは甚だ疑問に思える。まあ、その話はその話でいいや。

それでその歌を通じて「ユニバース」が「宇宙」を意味する英単語であることを習い覚えた私たちは、その響きのカッコよさと意味内容の深遠さに、シビれた。そして何かと言えば「ユニバース!」と絶叫することが、男子生徒たちの間で流行した。具体的には遊びやスポーツの現場で「本気モードに入る時」や「必殺技を繰り出す時」などに、両手を腰の位置で上に向けて握り締め、「ユニバース!」と叫ぶのである。意味や効能を聞くことは、しないでもらいたい。

ところがそんな風に「ユニバース」が流行り出してしばらくすると今度は、英語で「宇宙」は「コスモ」と言う方が「正しい」のではないか?と主張する部分が現れた。家に「聖闘士星矢」の単行本を持っていた連中を中心とする一派である。文字で説明するのは極めて面倒くさいが、聖闘士星矢(「せいんとせいや」と読む)というマンガの登場人物たちはことあるごとに「小宇宙を燃やせ!」「お前の小宇宙を見せてやれ!」等々と絶叫し、その「小宇宙」という単語にはことごとく「コスモ」というルビが振られていたのである。そして主人公たちがひとたび「コスモを燃やす」と、その次の場面では「ペガサス流星拳」や「廬山昇龍波」等々といったものすごいネーミングの必殺技が決まって繰り出されるのだが、マンガのコマに描き出されるのは「技が炸裂し終わって敵が吹っ飛んでゆく場面」ばかりなので、それらの技が実際に「どういう技」であるのかは誰も知ることがないのである。そういうアバウトさは、子どもの側からしてみれば逆に「自由な想像を働かせて技の内容を勝手に考えていい領域」を提供してくれる材料になることなので、車田正美という人がそこまで考えてあのマンガを描いていたのだとしたら、それはなかなかスゴいことだったのではないかと30年後の私は密かに舌を巻いている。

そんでもってそんな風に「対立軸」が発生するとコドモ社会ではどういうことが始まるかといえば、たちまち「ユニバース派とコスモ派の戦い」が開始されるのである。私たちユニバース派は、気がつけば数にして圧倒的な劣勢に立たされていた。「ユニバース!」と叫びながら敵陣深く突入して行った何人もの勇敢な友だちが、あえなく武装解除されて卑劣な洗脳工作を受け、次の瞬間には「コ〜ス〜モ〜〜」とニタニタ笑いを浮かべながらこちらに向かって襲いかかってくる。そんな悪夢のような休み時間が、いくつも私たちの側を通り過ぎて行った。

しっかりしょーや、みんな!
おれらは、ユニバースやんけ!

意気消沈する仲間たちを前にして、私はそう叫んだことを昨日のように覚えている。額を熱くして。誇らしく。

あいつらがなんぼコスモやコスモやちゅーたかて、あんなもんは、「小宇宙」じゃ。おれらは、「大宇宙」やんけ!

…興奮と感動が、波のように広がってゆくのがわかった。「せや…」「おれらは大宇宙なんや…」小さく呟く声が、そこかしこで聞こえ始めた。今にして思えばみんながみんな「何かのマネ」をしていただけだったのだと思うのだけど、それでも一人ひとりの気持ちは、真剣そのものだった。

感極まった誰かがイスから飛び降り、そして絶叫した。

大宇宙じゃあーーーっ!

その声を号令にするかのように、私たちは一斉に雄叫びを上げた。

ユニバァーーーッス!!!

遠くでチャイムが鳴り響いていた。
nagi1995.hatenablog.com
…そしてそのユニバース派とコスモ派との「最後の決戦」がどういう結末を迎えることになったのかということは、遺憾ながら今ではさっぱり覚えていない。おそらくは、こう言っちゃ何だけど、あまりに「どーでもいい思い出」だったからなのだと思う。

けれどもあの「大宇宙じゃーっ!」の場面だけは、妙に鮮明に、私の記憶の中に残り続けていた。そして、元はと言えば私が適当に口走ったことにすぎないわけではあるのだけれど、「コスモ」は「小宇宙」で「ユニバース」は「大宇宙」を意味する言葉なのだと、今の今まで私自身、思い込んでしまっていた。

ところがそれが、違っていたのである。
調べてみたら、違っていたのである。

今回の記事をこんな途方もない大脱線から始めなければならなかったのは、そのことによっている。

まず「ユニバース」に関して言うならば、「ひとつの」を意味するラテン語の接頭辞「ユニ」が「成ったもの」を意味する「バーサス」という言葉にくっついて成立した単語であり、語源的には「ひとつの集合体」的な意味を持っている言葉である。それが転じて「世界の全体」「人類の全体」という意味で使われるようになり、やがて科学の発展を通じ我々の生きる「世界」が「地球の外側」にまで広がっていることが明らかになって以降は「それをも含めた全体」を指す言葉になった。「ユニバーサル(世界のどこででも通用する=普遍的な)」という言葉や「ユニバーシティ(世界の叡智のすべてが結集する場所=大学)」といった言葉はそこから生まれている。そこまで大きなことを言う以上は、大学という場所も試験などという選民思想を振りかざすことなくすべての人に門戸を開いてくれればいいと思うのだが、それはまた別の話である。

一方「コスモ」に関して言うならば、「コスモス」という言葉はあるのだけれど「コスモ」という英単語は実は、存在しない。「コスモ(小宇宙)」の集合体としての、複数形の「コスモス(大宇宙)」という理解の仕方を私自身、していたのだが、この言葉のルーツはギリシャ語の「κόσμος」で、別に複数形ではない。最初から「コスモ」だったのである。古代ギリシャにおける「コスモス」は「カオス」の対義語で、「全体としての調和」や「秩序」を意味する言葉だった。いわば我々の生きる世界の「物質的な全体性」をあらわす言葉が「universe」であり、「観念的な全体性」を表す言葉が「cosmos」であるわけで、そういうものとして英語圏では両者の言葉の「使い分け」がなされてきたのだと考えれば間違いないと思う。もっとも現代の英語の辞書では、「universe=cosmos」と書かれているのが実際のところではあるのだけれど。

その「cosmos」から派生した言い方として、現代の英語では「コスモ」というフレーズが「宇宙的な」「全体的な」的なことが言いたい時の「接頭辞」として用いられるようになっている。だから「コスモクリーナー」とか「コスモ石油」とかいった言い方なら、まあ、アリなのだということになる。けれども「コスモ」が「小宇宙」だなどというのは完全に「聖闘士星矢」を描いた人のデッチあげにすぎなかったわけで、それが分かっていればあの頃の私たちだって、コスモ派の台頭を許すような過ちは犯さずに済んだはずなのである。そうなってさえいれば今の私だってこんな生活は…してただろうな。してなかったはずがないと思う。

ちなみに「宇宙」という「中国語」の語源をたどってみるとこれがまた古く、「荘子」や「淮南子」といった春秋戦国時代に書かれた書物に早くもその用例を見ることができる。6世紀に成立したとされている「千字文」の冒頭には「天地玄黄 宇宙洪荒」という言葉が掲げられており、それはほぼリアルタイムで来日しているはずなので、日本でも飛鳥時代から「宇宙」という言葉は使われていたと考えて間違いないし、事実「日本書紀」にも、またグッと時代が下って「太平記」なんかにも、「宇宙」という言葉は登場する。けれども中国であれ日本であれ、当時の人たちは地球が丸いことさえ基本的には知らなかったわけである。「宇宙」は「時間と空間のすべて」を包括する言葉として、漠然と使われていただけだった。

いずれにしても洋の東西を問わず、人々が実際に「宇宙」というものを知る以前の時代から「宇宙」という言葉が先に存在していたというのは、興味深い事実だと思う。人間の認識構造というものはまず「全体」を大づかみにガバッと把握し、そこから「細部」に向かって探求を進めていくという順番しか、たどれない仕組みになっているということなのだろうな。これをスカした用語を使って言うなら「演繹は得意だけど帰納は苦手」なのが人間の特性であるということになる。けれども「細部」の探求が蓄積されたことの結果として「全体」に対する認識が「丸ごと」覆るようなことも、科学の世界では往々にして起こる。「歴史認識」に関する問題でもそれは同じである。「出来合いの世界」に安住して演繹ばかりを並べることで「わかったつもり」になっている人間たちは、すべからく必然的にその足元をすくわれることになるだろう。このブログも、「探求」を「メシのタネ」にしている学者や専門家が陥りがちなそうした過ちの轍だけは、踏まないように心がけてゆきたいものだと思う。

それでもって今回取りあげる「Across The Universe」は、直訳するならその「宇宙」を「まっすぐに突き抜けて」といった語感のフレーズをタイトルに持つ歌である。上に見たことを踏まえるならば、「universe」は「我々の暮らしている日常的な世界を含んだ宇宙の全体」を意味する単語としてここでは使われていることになる。「日常的な世界」と区別された「外界としての宇宙」のことを表現したい場合には「スペース」という単語が使われるらしいのだが、能書きはそろそろ不要だと思う。以下、試訳になります。


Across The Universe

Across The Universe

英語原詞はこちら


Words are flowing out
Like endless rain into a paper cup
They slither wildly as they slip away across the universe
Pools of sorrow waves of joy
Are drifting through my opened mind
Possessing and caressing me

ことばがあふれだしている。
永遠にやむことのない雨が
紙コップひとつの中に全部降り注いだら
きっとそうなるように。
ことばは荒々しくのたうちながら
てんで勝手に飛び去ってゆく。
宇宙の至るところへと。
決壊寸前のかなしみと
波のように押し寄せるよろこびが
開かれたわたしの心の中に
浮かんでは消えてゆく。
ある時はわたしのことを縛りつけ
またある時はわたしのことを
やさしく愛撫しながら。


Jai Guru Deva, Om
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world

帰命頂礼大権現 嗯
なにものにもわたしの世界を
変えることはできない。
なにものにもわたしの世界を
変えることはできない。


Images of broken light
Which dance before me like a million eyes
They call me on and on across the universe
Thoughts meander like a
Restless wind inside a letter box
They tumble blindly as they make their way across the universe

砕かれた光のイメージが
百万もの瞳のようにキラキラしながら
わたしの前で踊っている。
わたしのことを呼び続けている。
宇宙の至るところから。
郵便ポストの中を吹き荒れる
止まることを知らない風のように
曲がりくねって延びる思考。
見えない目であがくようにしながら
自分の道を切り開いてゆく。
宇宙の至るところへと。


Jai Guru Deva, Om
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world

帰命頂礼大権現 嗯
なにものにもわたしの世界を
変えることはできない。
なにものにもわたしの世界を
変えることはできない。


Sounds of laughter, shades of life
Are ringing through my opened ears
Inciting and inviting me
Limitless undying love
Which shines around me like a million suns
It calls me on and on across the universe

明るい笑い声と
人生の翳りの色調とが
開かれたわたしの耳の中で
鳴り響いている。
わたしのことを駆りたてるように
そしてまた差し招くように。
百万の太陽となって
わたしの周りを照らしているのは
死ぬことのない無限の愛。
わたしのことを呼び続けている。
宇宙の至るところから。


Jai Guru Deva, Om
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world

帰命頂礼大権現 嗯
なにものにもわたしの世界を
変えることはできない。
なにものにもわたしの世界を
変えることはできない。


Jai Guru Deva
Jai Guru Deva
Jai Guru Deva
Jai Guru Deva
Jai Guru Deva

帰命頂礼大権現
帰命頂礼大権現
帰命頂礼大権現



「blindly」という言葉は「視覚障害者」に対する差別表現です。ここでは原文をそのまま転載しました。

=翻訳をめぐって=

「宇宙を横切って」とか「宇宙を通り抜けて」といった感じで訳されることの多い歌なのだが、歌詞の中に描き出されるジョンレノンの言葉や思考の行跡はそれとは裏腹に相当「うにょうにょ」している。一連目に出てくる「slither」は「ヘビがニョロニョロ進むさま」を表現する動詞だし(「ハリーポッター」の悪役の巣窟になっている寮名「スリザリン」はそこから来ている)、二番の歌詞の「meander」は「道や河川が蛇行しながら延びてゆくさま」を言い表した動詞である。手裏剣的に放たれた一筋の言葉が宇宙の一点に向かって飛んでゆく、と言うよりは、とりとめのない言葉や思考が四方八方に溢れ出してアメーバ的に宇宙を覆い尽くしてゆく、みたいなイメージの方が、この歌に描かれている「実際の風景」には近いのかもしれない。

「across」という前置詞の基本的な意味は「対象を十字架的に横切って」「横断して」ということなのだけど、それと同時に「一点から至るところに向かって」あるいは「至るところから一点を目指して」といった意味合いも存在していることが、今回調べてみて改めて確認できた。この歌の「across」は「そっちのacross」なのではないかと思う。ジョンレノンの言葉と思考は「一方向」にだけ向かっているわけではない。「全方向」に向かって「複数形」で放たれている。

さらに「along」だったら「対象に沿って」となるわけだけど、「across」は飽くまでも「対象を突っ切る」イメージである。仮に行く手に山やら海やらの障害物があった場合、「along」だとそれを「迂回して」進むことになるが、「across」は(「うにょうにょ」することはあったにしても)「正面突破」することを自らの信条としている。そうした、敢えて言うなら「暴力とエロスのイメージ」を「across」という前置詞は発散させているわけで、このあたりの言葉の選択は相当意識的に行われているのではないかという感じがする。
nagi1995.hatenablog.com
このブログのモットーは「意訳はしない」ということであり、始めた当初は「文法に忠実な翻訳」を何よりも最優先に心がけていたものだったのだけど、実際のところ世の中には「絵画的な手法」を使って書かれている歌詞というものが相当数存在しており、ジョンレノンの作る歌にはとりわけその傾向が強い。そうした場合、文法的な制約にとらわれてしまうと却ってその歌に描かれている「風景」が分かりにくくなるケースが少なくないので、最近の私は「外国語を使って描かれた歌の風景」を「日本語を使って白紙の上に再現する」ような翻訳の方式に切り替えるようになりつつある。今回の試訳もそんな風に「文法を逸脱した訳し方」をしている部分がずいぶん多いのだが、全部に注釈をつけるのは大変なので割愛させて頂きたい。どうしても納得の行かない部分や疑問に感じられる部分が見つかったなら、コメント欄で指摘してもらえれば幸いです。

さてそのことの上でこの歌をめぐる最大の難問は、

Jai Guru Deva, Om

をどういう日本語で翻訳するか、という点に尽きていると言っても過言ではないのではないかと思う。私の母親が持っていた「青盤」のLPの歌詞カードではこの部分が

エホバの神、音楽の女神、ヒンズー教の導師よ

みたいな言葉で「翻訳」されていたのだが、「ヒンズー教の導師(グル)」はともかく後の部分は全部デタラメである。おそらくその訳詞を書いた人は「Jai」を「Jah」に、「Deva」を「Diva」にそれぞれ自分の頭の中で勝手に「読み変えて」翻訳したと思われるのだけど、そういうのを「華氏65度の冬」と呼ぶのであって、英語を自分で学べる機会に出会うこともできず何十年にもわたってそれを信じ込まされるしかないのが「普通」の状態におかれた大多数のファンの立場からしてみれば、たまったものではない。

今回調べて改めて確認できたところによるならば、このフレーズはその全体が「サンスクリット語」で構成されている。仏教やヒンズー教における礼拝用語として現代でも使用されている古代インドの言葉であり、「般若心経」に出てくる「ぎゃーてぃぎゃーてぃはらぎゃーてぃ」や「さんみゃくさんぼだい」というのと「同じ言葉」である。語義をたどるなら「Jai」=「勝利/栄光」、「Guru」=「指導者」、「Deva」=「神」となり、「神の導師に栄光あれ」みたいな感じの意味になるのだが、日本のいわゆる「信心深い人たち」の大多数が「般若心経」を「意味など考えずに丸暗記している」のと同じく、ジョンレノンもまたヨガの先生から「音だけ」を先に丸暗記させられたのが、実際のところだったのではないかと思う。そもそもこのフレーズはヨガの行者が自分の精神を内側に向かって集中させてゆくために口の中で唱える「マントラ」というやつで、「意味」などは「おまけ」みたいなものでしかない。と言うよりむしろそのマントラがゲシュタルト崩壊を起こすところまで唱え続けることで初めて行者は「意味の世界から解放される感覚」を経験することができるわけなのだから、「意味」などはハッキリ言って「ジャマもの」にすぎないのである。無論、だからと言って「翻訳する必要のない言葉」だとまでは思わないが、「翻訳した意味内容」に逆規定されてこの歌を「解釈」しようとするようなことは、極めてナンセンスなことだと思われる。

一方でそうした「礼拝用語としてのサンスクリット語」は、漢訳仏典の形で非常に古い時代から日本語世界にも移入されている。「南無」というのは「Jai」とほぼ同義の「namo/namas」から来ている言葉だし、「Deva」に関しては「提婆」という漢字に移し替えられて、時には人名としても使用されている。「Guru」に関しては、「薬師如来 (Bhaisajya-guru)」の「師」の字にあたる部分の原語がこの「Guru」になっているらしい。この薬師如来をはじめとする「仏教世界のエライさん」たちが「日本の神」の姿をまとって人間たちの前に現れたとされているのが、各地に残っている「権現信仰」と呼ばれるものの内容である。

そんな風に解析してゆくと、「Jai Guru Deva」というサンスクリットのフレーズは、つまるところ平安時代の俗謡を集めた「梁塵秘抄」という本に出てくる

帰命頂礼大権現
(きみょうちょうらいだいごんげん)

みたいな日本の民間信仰のフレーズとほぼ「同義」であると解釈しても差し支えないのではないかと考えられる。だったら我々にとってもその方が「馴染み深い」し、訳詞に宮沢賢治テイストみたいなものもくっつけることができるしで、とりあえずこのブログではそれで行かせてもらうことにしようという結論に落ち着いた次第である。もとより賛否はあるだろうが、「グル」とか「オーム」とかいった用語をナマで使うと我々世代の人間にはどうしても麻原彰晃のイメージが浮かんでしまい、けったくそが悪いことになるのだ。長い時間をかけて「日本文化の一部」として定着してきた仏教用語をわざわざ「外国の言葉」に置き換え直すようなことをするのは、それこそ「宗教的な目的」でもない限り、ほとんど意味のないことなのではないかと思う。

それともう一点だけ詳しく見ておきたいと思うのは、

Sounds of laughter, shades of life
Are ringing through my opened ears

というフレーズである。「Sounds of laughter」は直訳すると「笑いの音」になるが、英和辞典にはそれがフツーに「明るい笑い声」を表現する言葉として記載されている。ジョンレノンは「声 (voice)」という言葉を使うべきところにあえて「sound (音)」という言葉を使うことで何らかの文学的効果を狙っているのではないかと当初の私は考えたのだったが、それは考えすぎだったということがまずひとつ。

しかしながら「shades of life 」はかなり独特な言い方に思える。「shade」は「陰」や「陰翳」を表す言葉だと辞書にはあったが、同時に「色合い」や「色調」という意味にもなる言葉だとのことだったので、ここでは「生活の陰翳の色調」と翻訳することにした。その「色調」が「見える」のではなく「聞こえる (ringing)」とジョンレノンは歌っているのである。

おそらくここに歌われているのは、「共感覚」と呼ばれる「特殊なものの感じ方」を通して彼氏の感官に映し出された「世界の有様」なのではないかと思われる。「共感覚」というのは例えば「色が聞こえる」とか「音が見える」とか「数の匂いがする」といったように「五感」が互いの境界線を越えて働き始めるようなそういう「ものの感じ方」のことで、例えばピンク·フロイドの初期メンバーだったシド·バレットという人はこの「共感覚」の持ち主だったということが伝えられていたりするのだけれど、そんな風に「感じる力」は実は全ての人間の中に潜在的に備わっているもので、ある種の「危険ドラッグ」を「正しく」使えばその感覚が「解放」される場合があるといったようなことも、話としては聞いている。「色」や「陰翳」が「聞こえる」というのがどういう感覚であるのかということを幸か不幸か私は知らないが、この歌を作った時のジョンレノンには何らかの理由でそれが「わかった」のだろうと考える他にない。なので「色調が聞こえる」というのはちょっと見た感じは矛盾しているように思われるが、私は「素直に」翻訳しただけで決して原文がおかしいわけではないということは、付記しておいた方がいいと思う。


ゴダイゴ 銀河鉄道999

「ユニバース」「コスモス」「スペース」の他に英語には「ギャラクシー」という言葉も存在しており、これは「銀河」を意味している。由来は古代ギリシャ語で「ミルク」を意味した「ガラクトス」という言葉にまで遡ることができるのだそうで、つまりは「天の川」=「ミルキーウェイ」で「ギャラクシー」という意味合いになっていたわけである。何しろそうしたことのひとつひとつを、この歌の翻訳リクエストを頂くことがなければ私は知らないまま生きてゆくことになったであろうことは間違いないと思う。Rさんに心から感謝します。そして納得して頂けましたでしょうか。というわけで次回からは改めて予告通り、「トータル·バラライカ·ショー」を再開してゆくことにしたいと思います。またいずれ。


=楽曲データ=
Released: 1969.12.12.
Key: D♭ (Original key: D)