華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

駈込み訴え もしくは650曲目を迎えて (1940. 太宰治)



…えぐい絵だな。イエスを裏切った後、罪の意識に耐えかねて自ら死を選んだユダの絵だとのことである。

このブログでは外国語で書かれた歌を50曲翻訳するたびごとに、日本語で書かれた曲を一曲ずつ取りあげて感想や思い出を綴ってゆくというのが慣習になっているのだけれど、650曲目にあたる今回に関しては、翻訳と並んで私のもう一つのライフワークとなっている朗読の分野においてとんでもないミラクルと出会えてしまったもので、そのことを興奮気味に報告させて頂きたい。歌と小説とは違うかもしれないけれど、日本語の世界で育ってきた私にとってある種の日本語表現は「音楽」そのものとしての響きを纏っているし、また他人の書いた作品を朗読するということは究極的には「翻訳」と何も変わらない内容をはらんだ活動なのである。といったようなブログとしての体裁を整えるための理屈もそれはそれで重要だし、別のところで何度か書いてきたこともあるのだが、今回はとりあえずそういう細かい話は、いいと思う。以前このブログで集中的に取りあげてきたミュージカル「ジーザス·クライスト·スーパースター」の楽曲群をバックで鳴らしながら、太宰治の「駈込み訴え」を声に出して音読してみるということ。別にそれ自体は大して独創的な発想だとも思わないし、私以外にも思いついた人はいっぱいいたはずだと思うのだが、自分でそれを実際にやってみたところ、ビックリするようなことが次々に起こりだしたのだった。ぜひ、それぞれの楽曲についての翻訳記事と照らし合わせながら、下の動画を再生してみて頂ければと思う。


朗読 駈込み訴えft.JCS
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録音は、文庫本1ページを読むのにかかる時間から大雑把に計算して「JCS」の楽曲群から適当に曲を選び、左手に握った携帯電話で「流しっぱ」にしてそれに負けない声で朗読するという、極めて原始的なやり方で行なった。

読み方それ自体は、言ってしまえば気合と根性だけの問題なので、どうとでもなるのである。選んだ曲がそれぞれの場面にばっちりハマっていることも、そういう選び方をしたのだから当然ではある。

けれどもそれぞれの曲の演奏時間が場面転換とピッタリ重なって終わるのは、奇跡にしか思えなかった。
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ミュージカル「JCS」の劈頭を飾るユダの「ジーィザァース!」というシャウトに合わせて、「もぉーしあげます!」という太宰治の本文に入ってゆく冒頭部分に関しては、まあ計算通りの効果が挙げられたと言える。

けれども、その後に起こったことは全部計算外だった。そして後はひたすら、「曲の流れが読み方を教えてくれる」みたいな感じになった。

ちなみに動画にあげたのは「練習なしの一発録り」のやつなのだけど、曲の長さが合っている以上は「誰にでも何度でも」再現可能な朗読であるということになる。

そこが、すごいと思う。

以下、朗読の最中に次々と起こったミラクルについて、紹介させてもらいたいと思います。

=ミラクルその1=

最初の部分、イエスに当たり散らすユダの絶叫調の独唱が、「私はあの人を美しいと思っている」という文の直前でピタッと止まった。読みながらゾクッとした。

=ミラクルその2=

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ユダにとっての「イエスとの唯一の美しい思い出」が語られる部分で流れるこの曲も、それが破れる瞬間にピタッと終わる。曲名の直訳は「全てはオーライ」である。怖いぐらい、できすぎている。
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その後に流れるのが「私はどうやってあの人を愛したらいいか分からない」という曲であることも、まあこれは自分で事前に選んだのだからミラクルなことではないのだけど、聞く人には知っといてもらいたい。

=ミラクルその3=

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「あの人だってまだ若いのだしそれはまあ無理もないと言えるのかもしれぬけれど」というフレーズを人生最高速の早口でしかも東京アクセントでどうして噛まずに言えたのか自分でも不思議だったのだが、多分この曲の力だったのだと思う。

=ミラクルその4=

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「ダビデの子にホザナ/誉むべきかな/主の御名によりて」という太宰治の本文中の歌の文字数が、「ほーざなへいざな」と完全にシンクロしていた。そのミラクルがなければ、この朗読企画は成立しなかった。

=ミラクルその5=

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この曲の2回目のコーラスが流れ出した時、本当にユダの気持ちが分かった気がしたし、ユダが乗り移って来たような感じがした。そしてユダという人を本当に健気でかわいそうな人だと思った。ちなみにJCSの中ではこの曲が一番好き。

=ミラクルその6=

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「スーパースター」の冒頭に流れるファンファーレが「ユダの口にパンが押し込まれる場面」と重なったのは出たとこ勝負の完全な偶然だったのだが、「あの場面にはそういう意味があったのか!」ということをその偶然から教えられた気がしてならなかった。

=ミラクルその7=

「スーパースター」でユダの独唱が始まって以降の部分は全部ミラクル。でも一番奇跡だと思ったのは「小鳥の声がうるさい」の部分でユダの独唱がピタッと女声コーラスに切り替わったこと。時代は前後するわけだけど、太宰治もあれをイメージして書いたのではないかとしか思えない。

=ミラクルその8=

「楽しい」「いい気持ち」という部分の「言い方」は、何でああいう言い方ができたのか自分でも全然分からない。20世紀の近畿地方で言葉を身につけた私にとっては、一度も使ったことのなかった言い方だった。

…直前に「おそ松さん」のパチンコをやっていた影響だったのだろうか。

=ミラクルその9=

「金がほしくて訴え出たんじゃないんだ!」の部分で、今までの人生で一番大きな声が出た。とにかくこの朗読では、「自分が自分の限界を超える体験」を何度も味合わされた。

=ミラクルその10=

本文をちょうど3行分ぐらい残して音楽が終わったのだけど、そのあと無音の中で朗読を続けていた自分の声に天然のエコーがかかっていた。三方を崖に囲まれた休耕田というこの上ない場所を見つけたのでこんなこっ恥ずかしいことがやれたのだが、そんな効果まであるとは思わなかった

…読み終えてしばらく私は実は天才だったのではないかという感覚に包まれていたのだったが、落ち着いて考えるならそれは実はそういうことではなく、「目の前の世界や歴史上で起こったことの全てが寄ってたかって無力な自分の味方になってくれていることが実感できる感覚」というものだったのではなかったかというように思う。

朗読を聞いてくださった方から「ユダの最後の名乗りで、自分の意志で自分の足で吃立しようとする強い気持ちが感じられるような気がしてそこに救いがあるような気がします」というコメントを頂いたのだが、確かに私が読んだ「駆け込み訴え」の中のユダは、最後のシーンでは不思議に「堂々として」いる。(そのままユダが「敵は本能寺にあり!」とか言い出しそうな気がした、というコメントも高岡ヨシさんから頂いた)。しかしながらそれは完全に音楽のカというもので、無音で読んでたら最後の「へっへ」は絶対一番卑屈な読み方で読んでいたと思うし、また太宰治自身も多分そうしたイメージで書いていたのではないかと思う。いずれにしてもそれは「やろうと思ってやれたこと」では全然なかった。

そんなこんなで最近は、改めて朗読の面白さに目覚めてしまっている。2020年に入って以来、このブログの更新が途絶えがちになっていることも、半分くらいはそれが理由なのである。とはいえ、私にとってはそれもまた「青春に決着をつける作業」の一環であり、これらの試みがいずれはこのブログでやろうとしていることとリンクしてくることもあるのではないかと考えている。ご無沙汰のお詫びを兼ねて、このかん朗読した再生リストのいくつかを紹介させておいてもらいたい。

むっちゃむかつく人間失格

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自分がこの作品にいかにむかついているかということを表現するためにあえて声に出して読むという、「朗読を通じた文芸批評」の試みとして。サムネイルのイラストは葉踏舎のマリノさんに描きおろして頂きました。

町田康「告白」

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関西方言で書かれた文芸作品の最高峰を「音で聞きたい」という自分自身の欲求をエネルギー源として。

中島らも「バンド·オブ·ザ·ナイト」

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自分が十代の頃に一番好きだった作家の作品を、好きだと言い切れない年齢になってから改めて読み返してみたい欲求に駆られて。

上野瞭「ちょんまげ子守唄」

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子どもの頃に読んで最も衝撃を受けた話を、その頃の自分と同じ年頃の人たちにも何らかの形で届けることができないかという気持ちを込めて。

いずれはそれぞれの作品の一つ一つについて、記事を改めて語れる機会も作ってゆければと考えている。今までブログで取りあげてきた何百曲という楽曲同様、これら日本語で書かれたいくつもの文芸作品によっても、私という人間は形づくられている。

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現在取り組んでいるのは稲垣足穂の「一千一秒物語」で、この作品に収録されている全七十編の掌話にすべて挿絵をつけるという葉踏舎のマリノさんの挑戦とのコラボレーションである。それぞれの話の世界に合ったBGMを見つけてゆくための過程で、いろんな楽曲と「出会い直す」ような感覚を、私自身、味わっている。そんなわけで当面はこのブログで取り上げる楽曲の傾向も、この朗読作業とリンクする形で決まってゆくことになると思う。

ではまたいずれ。