華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

For a Better Day もしくは為了更好的一天 (2015. Avicii)


For a Better Day

For a Better Day

英語原詞はこちら


Paint on a caution wind
'Neath the bleeding sky
I called your name
There was no one there
And in the cold and snow
I saw your face

えがきなさい。
虫の知らせをはらんだ風の上に。
血のしたたるような空の下で
わたしはあなたの名前を呼んだ。
誰もそこにはいなかった。
そして凍てつく寒さと雪の中
わたしはあなたの顔を見た。


And we sang the song for the little things
Magic call, but the joy you bring
Running it down the line
Wish you could find that love is a fragile thing
Magic call from a pretty thing
Maybe it might be time
For a better day
For a better day

そしてほんの小さな
いろんなことのための歌を
わたしたちは歌った。
魔法の呼びかけ。
でも実際にそれを動かしているのは
あなたの連れてくるよろこびだ。
愛というのはもろくて
壊れやすいものなのだということに
あなたも気づいてくれたらと思う。
とびっきりの何かからの
魔法の呼びかけ。
たぶん今がその時なのだろう。
よりよい明日のための時。
よりよい明日のため。


Stray, from the path of love
In the road of life
I tumble forward
But I going on, I'mma keep it strong
I saw your face

迷子。
愛の小径からはぐれた迷子。
人生の路上で
わたしは前に向かってくずおれる。
でも続けるつもりだ。
くじかれてはいない。
わたしはあなたの顔を見たのだ。


And we sang the song for the little thing
Magic call, but the joy you bring
Running it down the line
Wish you could find that love is a fragile thing
Magic call from a pretty thing
Maybe it might be time
For a better day
For a better day
For a better day
For a better day
For a better day

そしてほんの小さな
いろんなことのための歌を
わたしたちは歌った。
魔法の呼びかけ。
でも実際にそれを動かしているのは
あなたの連れてくるよろこびだ。
愛というのはもろくて
壊れやすいものなのだということに
あなたも気づいてくれたらと思う。
とびっきりの何かからの
魔法の呼びかけ。
たぶん今がその時なのだろう。
よりよい明日のための時。
よりよい明日のため。
よりよい明日のため。

The Nightsnagi1995.hatenablog.com
私より後に生まれ、私より先に死んでしまったアヴィーチーくんというスウェーデンのミュージシャンの楽曲との出会いの経緯については、以前に書いた上の記事の中で詳述している。最近この人が出した最後のスタジオアルバムである「Stories」を聞き直してみて、改めて歌詞をしっかり頭に入れた上で味わってみたい気持ちにとらわれた。それで数日前から、一曲ずつ翻訳作業を進めている。

解釈する姿勢よりは鑑賞する姿勢を大切にしたいと思ったもので、これまで翻訳してきた冒頭の4曲には、注釈や文法解析の類は何もつけていない。やや文法からはみ出した翻訳の仕方をしている箇所もあるけれど、歌の全体像を損なうものではないだろうと判断したからだった。だがこの曲に関しては、そういうわけにも行かないようだ。それというのも、この曲のことを取りあげている他の和訳サイトには事前に大体目を通したのだが、サイトによって書かれている内容が本当にバラバラで、かつそのどれもが「自分の翻訳こそが『正解』だ」と、自信たっぷりに主張してくれているからである。そんな激戦区に「さらに新しい翻訳例」を何のコメントもつけずに放り込んだのでは、歌の意味を正確に知りたいと思って検索している人たちのことを、無用に混乱させることにしかならないだろう。

私自身は、自分の翻訳を「正解」であると胸を張って宣言できるような自信は、正直言って持っていない。ただ、文法的にムリのある翻訳になっていないかどうかということについてだけは、最大限の注意を払っているつもりである。そのことの上で、私がこのブログでやりたいと思っていることは、何も難しいことではない。「外国語で歌われている歌は、ネイティブの人たちの耳にはどんな風に聞こえているのか」ということを日本語を使って再現してみたいという、それだけのことなのだ。歌というものには大抵、二重三重の意味が存在していて、深読みしようとすればいくらでもできることなのだけど、歌詞の言葉を「言葉として」そのまま受け取ることができない限りは、我々はその入り口にすら立つことができない。私がこのブログでやろうとしていることは何よりもまず私自身がその「入り口に立つ」ための翻訳なのであって、それ以上のことはそもそも私の手に負えることではないのである。

上記の内容についてご理解を願った上で、以下、この歌の翻訳にあたり私がいろいろ考えたことを、蛇足ではあるけれど、綴っておくことにしたい。

=翻訳をめぐって=

この曲の解釈がさまざまに割れていることの最大の原因は、この記事の一番上に貼りつけた「衝撃的なPV」なのではないかと思う。PVは、人里離れた場所に停められたトラックと、その前で何かを待っている大勢の成人男性の映像から始まる。そしてトラックから下ろされた何かを、かれらは品定めするような目つきで眺めている。

次の場面では、トウモロコシ畑の中を必死で走っている二人の少女のモノクロ映像が挟まれる。二人は何者かに追われている。

さらにその次の場面では、覆面をした二人の女性が現れて、冒頭シーンに登場したと思しき男性たちを次々と殺害してゆく。一人殺害するたびごとに二人は壁に貼られたターゲットの写真にバツ印をつけてゆくが、その数は無数である。そして殺された男性の死体には必ず「焼印」が押されるのだが、そこにどういう文字が書かれているのかは、この場面では明らかにされない。

最後に出てくるのは、どこかの国の為政者とおぼしき男性である。その男性の暮らす建物の周りは「自由を!」等々と書かれたプラカードを手にした群衆によって埋め尽くされているが、かれはそれを意に介する様子もなく、葉巻をくゆらせている。と、そこへ群衆の中から例の二人の女性が現れてその身体を押さえつけ、背中に焼印を押し、首にロープを縛りつけて容赦なく建物の上から突き落とす。

映像は過去に戻り、二人の女性はかつてその男たちによって「売り買い」と「消費」の対象にされ、命がけで脱走した少女たちの成人した姿だったことが明らかになる。吊るされた為政者の背中に押された烙印の文字が見える。そこには「pedofilia」と書かれている。(「pedofilia」は「小児性愛」を意味する「ペドフィリア」という言葉のスペイン語における綴り方だが、英語では「pedophilia」と綴られる。英語の歌なのになぜスペイン語の綴りが使われているのかは不明だが、あるいは二人が正規の教育を受ける権利を奪われてきたことが、表現されているのかもしれない)

つまりこのPVは、性暴力と人身売買の被害者となった二人の少女の、加害者たちに対する復讐譚であったことが、最後の最後になって明らかにされるわけである。

このPVそれ自体についてもコメントしておくことが必要だと思われるが、私自身は最後まで見終えた時、心がザワザワするのを感じた。少なくとも自分にとっては、見ていて気持ちのよくなるPVではなかった。私にとって大切な人の一人に、幼い頃に壮絶な虐待を受けて育った経験を持っている人がいるのだが、その人は自分がそういう目に遭わされてきたからこそ、同じ苦しみを誰にも味あわせてはならないということで、あらゆる暴力に反対する強い信念を持っている。その人にこのPVを見せたらきっとショックを受けるはずだと思うし、おそらくは体調を崩してしまうのではないかと思う。そういう人が身近にいるから、私の場合はなおさらそう感じたのかもしれない。

けれどもその一方で、虐待の被害者が加害者のことを憎む気持ちは、どんな殺し方で相手のことを殺しても晴らせないぐらいに深くて重いものなのだというさまざまな叫びにも、いろんな手記やウェブサイトの記事などを通じて、私は触れてきている。このPVを見て「救われた気持ち」になるサバイバーの人たちがいたとしても、それは決して不思議でないことだと思う。私を含め、子どもの頃にオトナから虐待された経験を持たない人間に、好きとか嫌いとかそういった言葉でこのPVのことを「評価」していい資格があるとは思えない。そしてこのPVを自ら制作したアヴィーチーという人自身は、虐待された経験を持つ人だったのかそうでなかったのか、私は知らないし、それを詮索しようとすることが正しい態度であるとも思えない。

ただこうした映像作品に「子どもの役者」を「使う」ことは、どう考えても間違っているのではないかと昔から感じている。その子どもたちの一人一人が、人格を持った生きた人間なのである。決して「人形の代わり」ではない。にも関わらずその人たち(とあえて言う)は、自分のやらされていることの「意味」を知らされることがないまま、オトナたちの指示する通りに振舞うことを求められている。たとえコトバで説明されることがあったとしても、自分のやらされた「性に関する演技」の「意味」をその人たちが本当に「わかる」ことができるのは、その人たち自身がオトナになった後のことでしかありえないはずなのだ。だとしたら、たとえその映像作品が「虐待を告発するため」に作られたものであったとしても、それを作っているオトナたちのやっていることそれ自体が「虐待」であるということにしか、なりえないのではないだろうか。

こうした自分の意見が世界中の映像文化や演劇文化のあり方を根本から否定する極論だと思われるなら、私はそれでも構わない。世界中の映像文化や演劇文化が丸ごと滅び去ることになろうとも、「傷つく役割を押しつけられる子どもたち」の数を一人でも減らせるならその方が絶対マシである。子どもはオトナのコマではないし、道具でもない。カネを払ってもらえたからといってその関係が「対等」になることなど、ありえない。オトナが喜んでくれたら子どもにとってはそれほどうれしいことはないわけだから、「自分の意思で」「自発的に」演技に参加している子役の人たちだって、世の中にはいることだろう。て言っか子役の人たちというのはそういう人ばっかりでも、あることだろう。でもだとしたらその人たちは、「ダマされて」いるのである。許せないのはそんな風に子どもの自尊心をくすぐって喜ばせておいて、後からどんなに傷つけても何の責任も取ろうとしないオトナたちのやり口なのだ。とにかくそんなわけで、私は子どもの出てくる映画やテレビや演劇作品というものを、子どもの頃からどうしても好きになれないのである。

…まあ、子どもの頃はそんな風に「子役の出てくるテレビへのむかつき」を主張すると、周りから「自分が出られへんもんやから、ヒガんでるだけと違うん?」とか、言われてたものですけどね。それは当たってることでもあったから当時はグウの音も出なかったものだけど、そういう子どもの気持ちにつけ込もうとするオトナのやり口というのはやっぱり卑劣で許せないものだと、オトナになった今では改めて思っていたりするわけなのです。

それはそれとしまして。

アヴィーチー氏自身は生前、「For a Better Day」という曲と上記のPVについて、以下のようにコメントしていたのだという。

"The promise of a better life often traps families and children into being used as tools for some of the most despicable people on earth,"
"It's an issue about which I hope to start a louder discussion, especially now with the huge number of families on the move from war torn countries looking for safety and shelter."

よりよい生活(a better life)を約束するという言葉は、実にしばしば、地球上で最も卑劣な人間たちの手によって、多くの家族や子どもたちを、自分たちが都合よく利用できる道具に変えてしまうための、ワナとして使われる。
このことは僕がいま声を大にして議論されるべきだと考えている、ひとつの問題なんだ。とりわけ今は途方もない数の家族の人たちが、戦争で引き裂かれた国々から逃れて、安全と屋根のある場所を求めて放浪生活をしてるわけじゃないか。

つまり「For a Better Day (よりよい日のために)」という一見ポジティブなこの歌のタイトルは、実は悪い政治家みたいな人間が、困っている人をダマすために使うフレーズなのだ、ということをアヴィーチー氏は語っていたわけである。このことを論拠に、この歌のことを「前向きな歌」として解釈しようとすることは「間違い」であると断じているサイトも、調べてみるといくつかあった。

しかしながらそういった予備知識を持たずに聞いた場合、この歌はどう考えても「ポジティブな歌」だと感じる方が、「フツー」なのではないかと思う。私自身がこの歌を最初に聞いたときの印象も、「前向きに生きようとしている人の歌」だというものだった。歌詞の中には「甘い約束で人をだます人間」のことを告発する言葉が直接出てくるわけでもないし、まして児童虐待を連想させる言葉なんて一つも出てこない。「For a Better Day」という結びの部分のメロディには多少の「不穏な気配」が感じられないでもないけれど、その終着点に向かって突き進んでゆくメロディはアヴィーチー独特の飛翔感にみなぎっている。この歌から「前向きに生きようというメッセージ」を感じとった人がいたとして、その人が自分の感受性を「間違い」であると指摘されねばならないいわれなど、どこにもないのではないかと私は感じる。

実際、英語圏の歌詞読解サイトである「genius」では、この歌が「恋人たちの未来に対する不安と、それを越えて行こうとする決意」について歌った歌であると解釈されている。

The lover is contemplating leaving their current relationship for a new one, the repetition of “For a better day” is interesting, we could see that is literally thinking about another day, a tomorrow.
恋人(の片方)は、自分たちのそれまでの関係を離れて新しい関係へと進んでゆくことを真剣に考えている。「For a better day」という繰り返しは実に興味深い。それは文字通りの意味での「違った日」「明日」について考えているということだと言えるだろう。

つまるところ、「For a better day」というのは「ポジティブなフレーズ」だと思う方が、英語話者の感覚からしてもやっぱり「フツー」なのである。それをあえて「人をだますために使われる邪悪なフレーズだ」とひっくり返してみせたのは、この歌を作ったアヴィーチーという人自身によるこの歌の「超解釈」なのだという風に考えた方が、この場合はむしろ「自然」なのではないだろうか。

アヴィーチーの作る音楽は、聞いているだけで体が勝手に動き出すようなダンスミュージックである。こういう音楽において「歌詞がしみじみ鑑賞されること」というのは、基本的に少ない。歌詞の言葉が選ばれる基準も、意味内容よりはむしろ「体を揺さぶってくれるようなリズム感を備えているか否か」に重点が置かれていると言えるだろう。だから聞き手は、その曲調がポジティブでさえあれば、自動的にそれを「ポジティブな歌」として受け止める。戦争で人が死のうと差別で人が泣こうとひたすら自己実現のことだけを考えて毎日ジョギングしているような人が、走りながらヘッドホンで聞くのであろう音楽としてこれほどサマになる曲も他にない。「For a better day... For a better day...」という繰り返しは、足の動きにも呼吸のリズムにもピッタリ合っている。アヴィーチーという人自身が、そういう「使い方」をできるように、この歌をこしらえたのである。アヴィーチーという人はそういう音楽を、いくらでも作り出すことのできる人だったのだ。

For a better day」がインターネットを通じて「リーク」されたのは、アルバム「Stories」の発売の前年にあたる2014年のことだったのだという。そのあいだ数え切れないくらいの人が、この曲をダウンロードして歌ったり踊ったり、ジョギングしながら口ずさんだりしていたのだと思う。誰もがこの歌は、「聞くだけで元気の湧いてくる前向きな歌」だと信じて疑っていなかったに違いない。そのイメージをきっかり1年たった2015年に、上のPVを発表することを通して、アヴィーチーは自らひっくり返してみせたわけなのである。「For a better dayというのは邪悪な人間が困っている人をだますために使うフレーズなのだ」と。あたかも美しい言葉で人々のことをだまし続けてきたそうした邪悪な政治家自身が、人々の前で自分のやってきたことの「タネ明かし」をしてみせるかのように。

アヴィーチーという人は何を考えてそういうことをしたのだろうか。私にはわからない。またそれにドキッとしてこの曲で歌ったり踊ったりすることをやめた人がどれくらいいたのかということも、私にはわからない。実際は「大して何も変わらなかった」のではないかということだけは、5年たった現在でも伸び続けているCDの売り上げやYouTubeの再生回数から、推し量ることができるように思うのだけれど。

アヴィーチーという人は、自分が作ったこの歌を「元気が出る前向きな歌」だと信じ込んで愛聴しているリスナーたちのことを、心の中で嘲笑うような強烈なシニシズムの持ち主だったのだろうか。それともそうしたシニシズムの仮面の裏側で、自分自身もできることならポジティブな気持ちで生きて行きたいと切望し続けていた、孤独な人だったのだろうか。私にはわからない。わからないことの上で、その両方がアヴィーチーという人の「本当の姿」だったのではないかという感じがする。

そしてこの人が一昨年に報道された通り本当に「自殺」という形で自分の命を絶たねばならなかったのだとしたら、それはアヴィーチーという人が本当に「苦しんでいた」からで、他に理由はなかったのだろうなと思う。とまれ、それは私の感想である。

いずれにしてもこの歌は、結局のところ「聞く人が聞きたいように聞けばいい」としか言えない歌なのではないかと私は感じる。アヴィーチー氏本人にだって、自分の歌はどういう風に解釈するのが「正解」なのかなどということは、わかっていなかったに違いない。PVへのコメントで示されたシニカルな解釈も、多くの人が受け取るであろうポジティブな解釈も、どちらも排除していないのがこの歌の歌詞なのである。だからそれを日本語に移すにあたっては、そのどちらにも偏ることのない言葉の使い方を選ぶ必要を私は感じた。

以下は、ひとつひとつのフレーズをめぐって。

Paint on a caution wind

最初の「paint」は、単語の位置から見ても歌われ方から見ても明らかに「動詞の命令形」だと思うし、そういう訳し方をしていない翻訳例は誤訳だと思う。

この「paint」について、他所のサイトでは「塗りつぶせ」と翻訳されている例もあったが、その場合は「Paint the caution wind」となるのではないだろうか。「Paint on a caution wind」は「a caution wind の上に paintしろ」と言っている文である。そうである以上、この「paint」は絵的な何かを「描け」と言っているのだと思われる。とはいえ「風の上」に描けというのだから、それはフツーの絵ではありえない。おそらくは夢とか未来とか、そういうものがイメージされた表現なのだと思う。

「caution wind」という言葉は辞書には載っていないが、「caution(警告) wind(風)」なので、とりあえずは「警告を与えるように吹いてくる、不吉な風」なのだろうなという印象を受ける。

そのことの上で英和辞典には、「throw caution to the wind」という慣用句が載っている。これは「自分の警戒心を風の中に投げ捨てる」ということで、転じて「後先を考えずに行動する」という意味の熟語である。「caution」「wind」という単語が並んで出てきた場合、英語話者の人たちが反射的に連想するのはこの言い回しなのではないかと考えられる。

つまりこの最初の一行では、歌い手の「I」から相手の「you」に対して「警戒心を捨てろ」というメッセージが発せられている印象を受けるのである。吹いてくる風は不吉な気配を漂わせているかもしれないが、警戒心は捨てて、その上に自分の見たいものを描いてしまえ。と。余計なことは考えるな、と。それは夢のために頑張っている親友ないし恋人に対する「恐れず進め」という激励であるようにも受け取れるが、「I」がもしも邪悪な人間であった場合、このフレーズは明かに「悪魔の誘惑」である。そんな風にこの歌詞にはのっけから、「二重の意味」が巧みに織り込まれているのだということがうかがえる。

…それにしても最初の一行からこんなに文字数を使っていて、終わるのだろうか。この記事は。ひさしぶりに使ったよ。このフレーズ。

'Neath the bleeding sky
I called your name

「bleeding」は「血を流している」という意味だが、単に「スゴい」という意味でも使われる言葉だとのこと。とはいえやっぱり「bleeding sky」と言われたら、英語話者の人々には「不吉な空」だという印象が浮かぶことだろう。

There was no one there
And in the cold and snow
I saw your face

寒さと雪の中、誰もいないところで、「I」は「you」の顔を見た、と歌われている。げんしゅくな顔をして見つめあう恋人同士の姿みたいなのを私は最初に連想したが、上のPVを見てしまうとこれが「子どもを追いつめた人さらいの台詞」であるかのように、聞こえてこないこともない。また後述するが、それとは逆に「追いつめられた子ども」の視点から歌われている歌詞だとも、解釈できる余地があるように思う。

歌っている人が男性であることもあり、日本語話者の感覚としてはこの歌は「ぼく」から「きみ」に向けて歌われている歌だと考えるのがまずは「フツー」なのではないかと思う。しかしながら「I」や「you」が「子ども」や「人さらい」である可能性まで考慮に入れた場合、「ぼく」や「きみ」といった言葉の使い方はあまりにそぐわない。なので私の試訳では、この歌は「わたし」と「あなた」の歌になった。そのためにぎこちない訳し方になっている面は、致し方のないところだと思っている。

And we sang the song for the little things
Magic call, but the joy you bring
Running it down the line
Wish you could find that love is a fragile thing
Magic call from a pretty thing
Maybe it might be time
For a better day
For a better day

他のところはそれほど難しくないのだけれど、

Magic call, but the joy you bring
Running it down the line

の二行は本当に難しい。何のことをどういう風に言おうとしているのかがさっぱりわからない。

「Magic call」は直訳したけど、「魔法の呼びかけ」である。「魔法の電話」と翻訳されている例もあったが、「I」と「you」とが恋人同士とかそういう関係である限りにおいては、別にそれでも間違いではないと思う。ただしそれが「悪魔の誘惑」的な意味合いの言葉であるとした場合には、「魔法の呼びかけ」でもかなりギリギリな訳し方になる。

「Magic call」がそんな風にポジティブな言葉であるにせよネガティブな言葉であるにせよ、問題はその後に続く単語が「but」であることである。つまり「I」はこの言葉で、「you」の抱える「Magic call」像を打ち消しにかかっているのである。知るかよ、と思う。いや、知るかよ、とか言ってはいけない。

butしかし。しかし何なのかと言うと「the joy you bring」=「あなたの持ってくる幸せ」。おい。動詞がないではないか。幸せがどうしたと言うのだ。

この尻切れマンボウなフレーズを何とかしようと思ったら、無理やりにでも二行目のフレーズとくっつける以外に方法がない。すなわち「あなたの持ってくる幸せ」が「Running it down the line」している、と読むのである。じゃあ、「Running it down the line」とは何なのだ。

「Run」はこの場合、明かに他動詞として使われている。「あなたの持ってくる幸せがitをrunしている」わけである。「down the line」は「ラインに沿って」「まっすぐに」。

「ITをRUNする」って何なのだー‼︎

…落ち着こう。私。とにかくそんな風に分析してみることを通しておぼろげながら見えてきたような気がしたのは、この二行のフレーズが言わんとしているのは

魔法の呼びかけを魔法の呼びかけたらしめ続けるものは、それによってあなたが受け取るところの喜びそれ自体なのだ

的な内容なのではないかということだった。一応日本語にしてみたもののこれ自体が意味不明に感じられるが、これをもうちょっと噛み砕くと

あなたが嬉しいと感じるのは、魔法の呼びかけがそうしてくれたことじゃない。
それを嬉しいと感じるあなたの心が、魔法の呼びかけを魔法の呼びかけに変えるんだ

みたいな感じになる。さらにそれを6歳臼歯で思い切りすりつぶすと、

魔法の呼びかけになんて頼らずに、
自分自身を信じて生きよう!

的なメッセージがここでは歌われているのではないかと推測することが、とりあえずは可能になる。でも、わからない。正直言ってこの部分の翻訳の仕方には全く確信が持てない。

その後に出てくる「Magic call from a pretty thing」というフレーズの「pretty thing」に関しては、「とびっきりの何か」みたいな感じでいいのではないかと思う。本当に自分にとって好ましい何かである可能性もあれば、内側に邪悪さを隠し持った何かである可能性もある。どっちでもいい。疲れてきている。

Stray, from the path of love
In the road of life
I tumble forward
But I going on, I'mma keep it strong
I saw your face

前に出てきた「I saw your face」のところでは感じなかったことだが、「あなたの顔を見た」というこの部分の歌詞を読み直した時、私の脳裏には反射的にPVの中に出てきた「虐待の加害者たちの写真」のイメージが浮かび上がった。そしてその時初めて、この歌の世界とあのPVの世界とが本当に「つながって」いることに、気づかされた気がした。

あの少女たちは自分を虐待した人間たちの顔をしっかりと見て、覚えていたのだ。そしてそのことを生きる力に変えて、一人一人への復讐を果たすために、戦い続けてきたのだ。PVと合わせて聞くとそんな情景も、この歌詞からは浮かび上がってくる。

そしてその一方で、「子供を追いつめた人さらいの視点」から歌われているように感じた最初の「I saw your face」に関しても、実は虐待から逃れた二人の少女が吹雪の中でお互いの顔を見つめあっている情景の描写だったのかもしれないという新たなイメージが浮かんできた。その「見つめあった顔」の記憶もまた、二人の少女にとっては「生きるための力」となり続けてきたひとつの原点だったに違いない。

そんな風に解釈できる限り、この歌は根本的なところではやっぱり「ポジティブな歌」だと思うのだ。二人は復讐を決意したその日からずっと「よりよい明日」のために戦い続けてきたわけだし、最後には自らの手で「よりよい明日」をつかみとることを、果たしたわけなのである。

「For A Better Day」という美しい言葉が、邪悪な人間たちの手に奪われているというのであれば、それを自分たち自身の手に「奪い返して」やればいいだけの話ではないか。

よりよい明日のために。

…きれいにまとめることはできたけど、さすがに今回は疲れたな。

なお、この歌の原文歌詞は、英語圏でもさまざまな「聞き取り方」がなされているらしく、サイトによって掲載されている歌詞の内容が微妙に異なっているのですが、このブログではApple Musicでこの曲を再生した時に表示される歌詞を、直接には参照しました。ではまたいずれ。