華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

ロビー·ロバートソン自伝「Testimony」読書ノート #17〜20

#13〜16 Testimony#21

  • モントリオールの街を歩くロビーの結婚相手のドミニクさん

17章から20章までは、ディランとのワールドツアーを終えてからメンバーが揃ってウッドストックに移住し、「ザ·バンド」としてのデビューアルバム「ミュージック·フロム·ビッグ·ピンク」の発表にこぎつけるまでの時期に充てられている。たぶん、この頃がロビーという人の人生で一番「幸せな季節」だったのだろうなということが、行間のあちこちから伝わってくる。何よりこの時期から結婚相手のドミニクさんと一緒に暮らし始めたということが、この人にとっては、大きかったようである。

第17章

アメリカに戻ってきたロビー、ニューヨークに遊びに来たローリングストーンズのブライアン·ジョーンズと連れ立ってジョン·ハモンドJrのライブを見に出かけ、そこで「ジミー·ジョーンズ」という名前のとんでもないギタリストと出会う。その後しばらくロビーはこのギタリストとツルんで、歌作りのことだとかチューニングを外さないギターの弦の張り方のコツだとかについていろんなことを語り明かすのだが、この「ジミー·ジョーンズ」の本名が「ヘンドリックス」だったことは、2人の会話を最後まで読むまで私には全然わからなかった。心憎い書き方をしてくれるものだ。

その後、財布をなくしてその中にドミニクさんの電話番号が入っていて大いに困った話、ディランの「Blonde On Blonde」のミキシングを手伝った話などが続く。前者については「知るか」という感じなのだが、「どうでもいい」と切り捨てる気にもなれないので一応メモしておく。

ウッドストックのディランの家でしばらく過ごした時の話。この当時のディランにはソ連ツアーの計画もあったらしい。さらにニューヨークに戻って、アルバート·グロスマンからカーリー·サイモンを紹介された話。目まぐるしくて目まいがしてくる。

PPMのピーター·ヤーロウが作っていた「You Are What You Eat」という映画のサントラのために、タイニィ·ティムという名前のストリートミュージシャンと共演した話。この人の名前を私は今まで全然知らなかったのだけど、動画やAppleミュージックをチェックしてみると、ロビーが綴っている通りの驚異的な才能の持ち主だったことが、伝わってきた。それにつけても、本を通じて初めて名前を知ったミュージシャンの曲を居ながらにして好きなだけ試聴できるのだから、大した時代になったものだ。

その土産話を持ってアンディ·ウォーホルを訪問したロビーは、今度はアンディに連れられてニューヨークに滞在中のサルバドール·ダリに会いに行く。さらにブライス·マーデンという名前の若い画家とのエピソード。「1966年夏のアートシーン」の全てを、ロビーはこの章に描き出そうとしている感じがする。

66年7月末、ディランがバイクの事故で首を痛め、メディアに一切姿を見せなくなる。この時期、ロビーはリックをオンタリオ州シムコーの実家に送って行った帰りに、母親の故郷にあたるシックス·ネイションズの先住民居留地を、おそらくホークスと一緒に旅に出て以来、初めてだったのだろう。クルマで訪れている。そして幼い頃の自分が初めてGのコードの弾き方を覚えたグランド·リバーの岸辺に座り込む。そのギターにはカウボーイの絵が描いてあったけれど、弾き方を教えてくれたのは(その「カウボーイ」から常に迫害される立場にあった)先住民の同胞だった。

なつかしいおじさんやおばさんたちと一緒に過ごした家を前にして、ロビーは「僕だよ、ジェイムだよ、帰ってきたよ」と飛び込んで行きたい衝動に駆られるが、結局「帰る」ことなくその地を後にする。帰るなら本当の成功を手にするか、もっと有名になってからだ。みんなが自分のことを誇りに思ってくれるように。このシーンはザ·バンドのデビューに至るまでのこの自伝におけるひとつのクライマックスをなしている感じがして、私にとっては最も印象的な場面だった。

ニューヨークのホテル暮らしでは、練習場所を探すのもままならない。ドミニクさんと一緒に暮らし始めたロビーには、邪魔をされない場所がほしい。アルバート·グロスマンに相談してみたところ、ウッドストックで適当な場所を探してみてはどうかとアドバイスされ、ロビーはハタと膝を打つ。(全く余談ながら、私がこの「はたと膝を打つ」という表現に初めて出会ったのは子どもの頃に読んだ豊臣秀吉の伝記を通じてだったのだが、そのとき私の脳裏に浮かんだのはまず「旗」に一撃を食らわしそれからおもむろに自分の膝を叩く秀吉の姿だった)。当時ウッドストックに住んでいたディランもそのアイデアに賛同してくれて、ロビーはみんなが一堂に会し音楽や笑いを交し合える「クラブハウス」の構想に夢中になる。やがてリックが「いい場所を見つけた」というニュースを持って、みんなが溜まり場にしていたディランの家の一角に飛び込んでくる。「ビッグ·ピンク」である。

その家には「地下室」があるらしいという情報が、ロビーの胸を躍らせる。そこでなら、レコーディングができるじゃないか。エンジニアに見てもらったところ、そこの録音環境は「最悪」だとのことだったが、それすらロビーには「いいニュース」に聞こえたと書かれている。彼はとにかく「あらゆる常識やルールを打ち破る、新しいこと」がやりたかったのだ。

第18章

独り身のメンバーたちは「ビッグ·ピンク」で共同生活を始め、ロビーとドミニクさんはそこから数マイル離れた場所に新居を構える。毎朝リックがリチャードがクルマで迎えに来て、ビッグ·ピンクに「出勤」するのがロビーの日課になる。やがてそれにはディランも加わるようになり、ビッグ·ピンクでの連日の会合とセッションは数ヶ月にわたって続けられる。この時期、ディランは自分のタイプライターをビッグ·ピンクに置きっぱなしにして曲作りに励んでいたとのことであり、その描写はディランのファンの人には極めて興味深いものだと思われる。

リヴォンの自伝には、発表されているザ·バンドのほとんどすべての楽曲について、一言ずつかそれ以上のコメントが書かれているのだけれど、ロビーも同じことをやってくれていて、私にとってはそれが一番うれしかった点だった。もとより、そうした情報は今後ひとつひとつの翻訳記事を書く時に活かせばいいことであって、この「読書ノート」では今後いちいち取りあげない。ちなみにこのロビーの自伝に出てくる最初のザ·バンドの楽曲は、ビッグ·ピンクでの共同生活が始まって間もなく書きあげられたという「Caredonia Mission」であり、私が予測した通りロビーが幼少期を過ごしたシックス·ネイションズ先住民居留地に程近い街の名前にちなんだ曲名だったことが分かって、うれしかった。またリチャードとロビーの最初の共作曲として名前が上がっていたのが、私が世界で一番美しい歌だと信じてやまない「Katie's Been Gone」であり、この曲のことがますます好きになった。

クリエイティブな毎日を送るかれらの姿を目の当たりにしたディランのプロデューサーのアルバート·グロスマンは、ホークスを大手レコード会社からデビューさせることをようやく真剣に考え始める。いよいよかれらの「musical journey (音楽の旅路)」が、軌道に乗り始めた。

「リヴォンを探して呼び戻そう」という話になる。「その仕事はおれにやらせてくれ」と、リックは「演説」をぶったらしい。リヴォンに連絡をつけるのは自分がやるのが一番自然だろうとロビーは思っていたけれど、その熱意に押されてリックに一任することにしたと本文にはある。「感動すべき部分」なのかもしれないけど、何となくここでのロビーの語り口は「政治家的」な感じがする。

間もなくリヴォンと連絡がつき、メンバーの一人一人が「リー」ことリヴォンと電話で言葉を交わす。ここは文句なしに、感動的な部分だ。数日後、スーツケースを片手に南部から戻ってきたリヴォンが、ビッグ·ピンクに暖かく迎え入れられる。そのリヴォンの帰還を待ちわびる気持ちの中で書かれたのが、アーカンソー州ヘレナの通りの名前を冠した「Yazoo Street Scandal」だったというのは、私にとって新鮮な情報だった。

ビッグ·ピンクでの賑やかな毎日の描写と並行して、ドミニクさんとのプライベートな生活の様子も語られる。面白いのはアルバート·グロスマン夫人から譲り受けた二匹の子猫が17匹に増えてしまい、ドミニクさんが留守の時にはロビーがそのみんなにミルクをやらねばならなかったというエピソードなのだが、その最初の二匹が「calico kitten (三毛猫)」だったという下りに、何となく「日本とのつながり」を感じてしまった。また彼氏がこのころ夢中になっていたという映画のリストに「Yojimbo」や「The Seven Samurai」といった名前が出てくるのにも、不思議な感じを覚えた。そうした全てが、彼氏の曲作りに大きな影響を及ぼしたと書かれている。そしてその中でもとりわけ、ルイス·ブニュエルの映画の影響を強く受けて書かれたのが、「The Weight」という曲だったのだという。

アルバート·グロスマンがロサンゼルスのキャピトル·レコードと契約の話をつけ、プロデューサーにジョン·サイモンを迎え、いよいよデビューに向けての話が動き始める。行く手は順風満帆だ。

その他、バングラデシュからやってきた「the Bauls of Bengal」というグループとセッションした話、当時のディランがストーカー的なファンの出没にいかに神経をすり減らせていたかという話、ビッグ·ピンクに詩人のアレン·ギンズバーグが遊びに来た話など、とにかくこの18章は盛り沢山である。ちなみに、ディランの自伝に出てくるロビーの「シーンをどうする発言」は、時期的に考えると間違いなくこの頃だったはずなのだが、それに関する記述は、ロビーの自伝には一切見当たらなかった。

第19章

「ミュージック·フロム·ビッグ·ピンク」の録音風景。あの音がどんな風にして作り出されたのかということについて、最近50周年記念のデラックス·エディション版が発売された関係もあり、ものすごく精緻に分析した記事を、別のところで目にする機会があった。私には専門的なことは何も分からないけれど、今回このロビーの自伝を読んで初めて知ったのは、メンバーの一人一人が仕切りの入ったブースでヘッドホンをつけて演奏させられる従来の録音スタイルを拒否し、「お互いの顔が見えるように」マイクや機材を並べ直して録音されたのがあのアルバムだった、という事実である。それが一番大切なことだったのだろうな、と思う。

バンド名をどうするか問題」もこの章で出てくる。リチャードが「マシュマロ·オーバーコーツ」や「チョコレート·サブウェイ」を主張したというエピソードは映画「ラストワルツ」やリヴォンの自伝にも綴られている通りなのだが、他に「The Royal Canadians Except for Levon (最高のカナダ人たちリヴォンを除く)」という案もあったという記述には、声を出して笑ってしまった。何か、昔、千原兄弟の新しいコンビ名を考えようという大喜利のお題で、弟が出してきたのが「千原浩史とエトセトラ」だったのを、何となく思い出してしまった。またリヴォンがこだわっていたという「クラッカーズ(南部の貧乏白人ズ)」は、積極的に反対するメンバーはいなかったらしいが、「カナダにクラッカーズなんているのだろうか」というのが他のメンバーの正直な気持ちだったという記述には、なるほどそういうものかという気持ちにさせられた。で、まあ、最終的にザ·バンドで行こうということに決めたのは、やっぱりロビーだったみたいである。他のメンバーに無断でそう決めたとは、どこにも書かれていないのだけど。

ニューヨークのA&Rスタジオで7曲分のレコーディングを終わらせた時点で、冬がやって来てウッドストックは雪に包まれてしまう。(この下りで、ビッグ·ピンクに通じる道の名前が「Pine Road (松の木の道)」と呼ばれていたという記述があり、私の目はそこに釘付けになった。「Whispering Pines」という曲はそこから生まれたのではないだろうか)。これでは仕事に出るのもままならないということで、残りの曲はカリフォルニアのスタジオで録音することになる。いちいちスケールのでかい話である。

録音が終わり、アルバート·グロスマンの家で試聴会が開かれ、アセテート盤を聞き終えたボブ·ディランは「You did it, man, you did it (やったな、おい、やったな)」と激賞してくれる。ロビーとメンバーたちにとっては、彼からのこの賛辞が一番うれしかったらしい。

第20章

「ミュージック·フロム·ビッグ·ピンク」発売に至るまでのエピソード。この頃は本当にロビーの人生において、一番輝いていた時期だったのだろうなと改めて思う。自伝はあと7章分しか残されていないのに、「ビッグ·ピンク」関係の話だけで4章分も使ってしまっている。ここからはおそらく、とんでもない駆け足で話が進んで行くのだろうな。

そして時を同じくして、ロビーとドミニクさんはウッドストックの教会で結婚式をあげる。このくだりに関しては、いろいろ書くほどのこともないと思う。ではまたいずれ。