華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

ロビー·ロバートソン自伝「Testimony」読書ノート #2.

#1 Testimony#3


  • ロビーの母親のドリーさんの若かりし頃の写真。ジミー·ロバートソン氏が自分で彩色したらしい。

「Testimony」の第2章は、アーカンソー州のロニー·ホーキンスのもとで新しい生活を始めたロビー少年に、5週間のカナダツアーに出ることが決まった話が舞い込んできた場面から始まる。ロビーにとってはホークスの一員として故郷に錦を飾ることのできる最初の機会が訪れたということであり、彼の胸は高鳴るが、まだいつクビにされるか分かったものではない。それにロニーから練習しておくように言われたベースは、まだそれほどうまくなっていない。期待と不安が入り交じる。

メンバーの命に等しい重さを持った楽器とあらゆる機材が、1台のトレーラーに詰め込まれ、小さい頃からトラクターの運転でならしたリヴォンが、それを名人芸でくるくると操る。リヴォンの荒っぽい運転に「おいおい、おれは生きてカナダにたどりつきたいんだぜ。ジェームス·ディーンになるのはごめんだぜ」と軽口を叩くロニー。その2人の姿に、ロビーは「アーカンサスのユーモアで結ばれた特別な絆」を見出す。

そして同時に彼の心に、幼い頃の思い出が次々とよみがえってくる。

MY MOTHER, Rosemarie Dolly Chrysler Myke Robertson, was born February 6, 1922, on the Six Nations Indian Reserve of the Grand River in southwestern Ontario, nestled between Lake Ontario to the east, Lake Erie toward the southwest, and the wide, beautiful flow of the Grand River on its northern border. Six Nations was then and still is the largest reserve of its kind in Canada, and the only one on which all six of the Haudenosaunee/Iroquois nations-Mohawk, Cayuga, Onondaga, Oneida,Seneca, and Tuscarora-live together.
私の母親、ローズマリー·ドリー·クライスラー·ミーク·ロバートソンは、1922年2月6日、オンタリオの南西部にあるグランドリバーのシックス·ネイションズのインディアン保留地で生まれた。東をオンタリオ湖、南西をエリー湖に抱かれ、グランド·リバーの広く美しい流れがその境界線を形成している場所だ。シックス·ネイションズは当時、そして現在でも、カナダにある同種の保留地の中で最大のものであり、そしてホデノショニ/イロコイ連邦を形成する6つの集団に属する人々-モホーク、ケイユーガ、オノンダーガ、オウナイダ、セネカ、タスカローラが一緒に暮らしている唯一の場所でもある。

My mother's family was of Mohawk and Cayuga descent-could be some Irish snuck in there too, which she would speak of proudly on occasion. At school on the reserve, it was made perfectly clear to her that this was a white man's country now, and being of native blood was no advantage. It was similar to the Carlisle Indian Industrial School in Pennsylvania, where they would take Indian kids from their homes, cut off their hair, and forbid them to speak their native tongue or practice any of their bloodline traditions. We heard the story of one kid at the Carlisle who was found in the bathroom trying to scrub the Indian off his skin with an iron bristle until he was raw. From a very early age I remember a phrase being quietly passed around among our relatives at Six Nations: "Be proud you are an Indian, but be careful who you tell."
私の母の家はモホークとケイユーガの子孫であり、彼女が時おり誇らしく語っていた話によるならば、アイルランド系の血もいくらか混じっていた。そこが今では完全に白人の土地であり、先住民の血を引いていることは何の得にもならないのだということを、彼女は保留地の学校で教えこまれた。ちょうどペンシルベニア州カーライルのインディアン実業学校でなされていた教育と同様にである。そこではインディアンの子どもたちが家族から引き離され、髪の毛を刈りそろえさせられ、そして自分たちの言葉を話すことや、血族の伝統に従って振る舞うことを、厳重に禁じられていた。私たちはカーライルに行った子どもが、自分の肌から「インディアン」をこすり落とそうとして、金属のブラシで全身が擦りむけるまで体をこすり、バスルームで見つかったという話を聞かされたものだ。シックス·ネイションズの親類たちの間で、いつも密かに交わされていた言葉を私は覚えている。「自分がインディアンであることを誇りに思え。だが、そのことを明らかにする相手には気をつけろ」。



東にオンタリオ湖をのぞむ、グランド·リバーという名前の川の流域。Googleマップでそのあたりの地図を眺めていて、興味深い符合に気づいた。地図中の赤い印の足元を流れてエリー湖に注いでいるのが「グランド·リバー」なのだけど、ちょうどその位置に「カレドニア」という街があるのである。思い出されるのは「カレドニア·ミッション」という歌なのだが、その歌詞の中に結局出てこなかった「カレドニア」という謎の地名は、あるいはロビーのお母さんが生まれ育った場所と何らかの関係を持っているのかもしれない。いないのかもしれない。よく分からない。

ちなみにその南西にある「シムコー」という町はリックの地元、その西の「ロンドン」はガースの地元、その北東にある青い旗の印が、リチャードの地元でありジャスティン·ビーバーを生んだ街でもある「ストラトフォード」である。カナダと言うとものすごく広大なイメージがあるけれど、リヴォンを除くそれぞれのメンバーの出身地は、けっこう、固まっていたことになる。けれどもそうは言ってもやはりカナダは広いのであって、同じ縮尺で日本の私の地元の地図を開いてみると、下のような感じになる。



ものすごくザックリ言うならば、ロンドン-トロント間がだいたい大阪-名古屋間に相当していて、その間に張り巡らされている近鉄沿線の各地に各メンバーの地元がある、というぐらいの距離感だろうか。こんな比較に何の意味がある、と言われてしまえばそれまでだが、私はこういうことを調べるのが無性に好きなのだ。

ロビーのお母さんのローズマリーさんは、15歳の時に母親を喪い、おばさんのいるトロントに移って、そこで働き始めることになる。学校に行くことはあきらめなければならなかったが、その移住は彼女の世界のすべてを変えた。彼女が「日焼けした白人女性」で通用する外見をしていたことも手伝って、ローズマリーさんは数年で街の暮らしにすっかり馴染んだと、原文にはある。

貴金属加工の工場で仕事をしていたローズマリーさんは、ジム·ロバートソンという男性に出会い、惹かれあうようになる。だが時はまさに第二次世界大戦が始まった直後であり、彼氏は徴兵を控えていた。ヨーロッパ戦線に送られたら生きて帰れないかもしれない。そんな中で2人は婚約を交わす。ジムは23歳。彼氏にドリーと呼ばれるようになったローズマリーは…自分の本当の年齢を知らなかった。

幸運にも前線に送られることなく帰還してきたジムと、ドリーは1942年に結婚式をあげる。そしてジムの両親の住むトロントの下町に移り住み、1943年7月5日22時25分、一人の男の子を出産する。

男の子は「Jaime Royal Robertson」と名づけられた。「ローヤル」はドリーの従兄弟の名前からとったミドルネーム。「ジェイミー」の綴りが「Jamie」でなく「Jaime」になっているのは、「Jamie」だと「ジャミー」という発音になりそうな感じがして、それがイヤだったからなのだという。ジム·ロバートソンは、本当なら自分の名前をとってその子を「James」と名づけたかった。母親はその子をジェイミーと呼び、父親はその子をジェイムもしくはジムと呼ぶようになった。この子が後のロビー·ロバートソンである。

…ところで、ザ·バンドの熱心なファンの人は、リヴォン·ヘルムの自伝やWikipediaの記事の中で、以下のような記述を読んだことがあるのではないかと思う。

ローズマリー・クライスラーは、エリー湖の北にあるシックス・ネイションズ・インディアン保護区(←この言い方は、おかしいと思う。原文のまま表記)出身のモホーク・インディアンの美しい娘だった。第二次世界大戦がはじまったあと、彼女はトロントのおばの家で暮らずようになった。そしてクレガマンという男性と知りあい1943年7月、ジェイミー(JAIMEと書いてJAMIEとおなじように読む)・ロバートという息子をもうけた。ジェイミー・ロバート、つまりロビーがのちに語ったところによると、クレガマン氏はプロのカードのギャンブラーだった。クレガマンは、息子がまだ赤んぼうのころ、トロントとナイアガラ・フォールズのあいだのクイーン・エリザベス・ウェイに車を止め、タイヤを交換していたときに殺された。その後、ローズマリーはロバートスン氏と結婚をし、夫婦で宝石加工をする工場で働いてロビーを育てた。
(「ザ·バンド-軌跡」菅野彰子訳)

しかしながらロビーの自伝には、今のところクレガマンなる男性の名前は全く出てこない。そして彼氏はジム·ロバートソン氏のことを一貫して「dad (お父さん)」と呼んでいる。ただし、先に拾い読みしたグラビアページには「Alexander David Klegerman」という名前の男性の写真が載っているので、この先、何らかのエピソードが語られることは、あるのかもしれない。いずれにしてもこういうことは本人が語ってくれることをそのまま聞けばいい話なのであって、赤の他人があれこれ勘ぐるのは完全に悪趣味な話だと思う。もっともリヴォン自身、ロビーから聞いた話を「そのまま書いただけ」では、あるはずなのだけど。

出生のエピソードに続いて語られるのは、ロビーが育ったトロントの下町の一角の原風景の描写である。読んでみると、まだ未訳の代表曲なのだけど「Nothern Lights-Southern Cross」の最後に収録されている「Rags And Bones」の情景そのままで、思わずそのくだりの全体を書き写してしまった。

I grew up surrounded by busy, vibrant neighborhoods alive with immigrant sounds and smells. Some of my very earliest recollections are of rows of storefronts, each one memorable from all the various indelible scents of the neighborhood. The corner drugstore with its medicines, chemicals, and soda fountain mixture. Sweet aromas of pipe smoke from the smoke shop downstairs, proudly displaying Cuban cigars behind glass in the back. A Jewish deli poured out the scent of hot corned beef and dill. The bakery around the corner was my favorite-when you passed by you could almost taste the fresh baked bread and cinnamon pastries. The candy shop, a close runnerup, made its own maple squares, marzipan, and Turkish delight. The shoe repair shop had a leathery, musky, shoe polish odor that impressed my young nostrils. The fish market had its ups and downs, of course, but in its freshest moments the smell of the ocean, lakes, and rivers carried in with the fish was wonderful. Alley cats would sit out front, waiting for a donation. Another gem was the Nuthouse, where they roasted and cooked so many kinds of nuts it was almost impossible to choose which to buy. The fruit and vegetable stand and butcher shop were next door to each other, so poultry and citrus intertwined. At the end of the block the smell of buttery fresh popcorn from the movie theater filled the air. At Honest Ed's giant bargain store over by Bathurst Street they had one section where they kept the denim, an the jeans had this new scent to them. What was that particular smell? You never forgot it.
外の世界から運ばれてきた音と匂い、忙しく活気のある隣人たちに囲まれて、私は育った。私の最も古い思い出のいくつかは、ずらっと並んだいくつもの店、そしてそのひとつひとつが持っていた忘れられない様々な匂いと結びついている。薬や化学製品の匂いが漂い、ソーダ噴水が置いてあった角の薬局。キューバの葉巻を誇らしげにショーウィンドウに飾った階下のタバコ屋からは、甘いパイプの煙の匂いが上がってきた。ユダヤ人の経営する惣菜屋からは、熱々のコンビーフとディル(ハーブの一種)の匂いが立ちのぼっていた。角を回ったところのパン屋は私のお気に入りだった。そこを通る時には焼きたてのパンとシナモン·ペストリーの味が口に入ってくるような気がしたものだ。それと甲乙つけがたかったのが、自前のメイプルスクエアやマージパン、ターキッシュ·ディライトを作っていたキャンディ屋。靴直しの店からは革の匂いや麝香の匂い、独特の靴磨きの匂いが流れてきて、私の幼い鼻腔に強い印象を残した。魚市場の匂いは、もちろんいい時も悪い時もあったが、その売り物が一番新鮮な時間帯には、魚が泳いでいた海や湖や川の匂いまで感じることができて、すばらしかった。街の野良猫たちは横丁の入口に座り込み、自分たちの分け前を待っていた。忘れてはならない宝石は、ナッツ店だ。さまざまなナッツをローストしたり味付けしたりするその香りをかいでいると、何を買えばいいか分からなくなってしまうのが常だった。青果店は肉屋と隣りあっており、そこでは鳥肉の匂いとシトラスの匂いとが絡み合っていた。街区の端では、映画館から漂ってくるバターの利いたポップコーンの香りが空気を満たしていた。バサースト·ストリートに一角を占めていた「正直者のエドのジャイアント·バーゲン·ストア」からは、デニムとジーンズの新しい匂いがいつも流れてきた。その匂いを、一言で何と呼べばいいのだろう?絶対に忘れることのできない匂いだ。

Police on horseback patrolled the back alleys, parks, such as nearby Christie Pits, and main streets too. Rag-and-bone men with horse-pulled wagons roamed the back streets singing out, "Rags, bones,old iron," and the scent of manure played its own part in the mixture of downtown city life. And this was all in one block.
横丁や、クリスティ·ピッツ(トロントにある大きな公園)の周りにあるようないくつもの公園を、馬に乗った警官が巡回していた。大通りもだ。馬にワゴンを引っ張らせた廃品回収業者が、「ぼろきれにガラクタ、鉄くずはございませんかあ」と歌いながら、裏通りを行ったり来たりしていた。そして「肥やしの匂い」が、下町のごちゃ混ぜな暮らしの全体に味つけを施していた。それらのすべてが、ひとつの街区の中にあったのだ。

…何だか私の母親の実家があった日本国大阪市の下町の風景とも重なっていて、親近感をおぼえる。私の記憶の中の国道沿いの商店街では、仏壇屋と魚屋と乾物屋と果物屋と漬物屋とが一列に並んで「それぞれの匂い」を競い合っていた。匂いの記憶というものは一番鮮やかで、絶対に消えないものなんだよな。

それにつけてもこのくだりを読んでみると、「Rags And Bones」に「おんぼろ人生」という邦題がつけられているのは何とひどい翻訳の仕方なのだろうと、改めて思う。「Rags And Bones」というのは文中にもある通り、「廃品回収屋さんの呼び声」なわけなのだけど、それを捕まえて「おんぼろ人生」と表現するなんて、どういう了見なのだろう。それだけでなくあの歌には、この文章のように下町で暮らすさまざまな人々の姿が歌い込まれているわけだが、それは全体が「活気のある生き生きした情景」として描写されているはずなのである。それなのに「おんぼろ人生」という邦題は、あたかもその全体が「おんぼろ」であるかのような情報操作を行なっている。何のためにそんなことをするのだろう。この歌をブログで取りあげるのはもうちょっと「大事な時」までとっておきたいというのが私の気持ちなのだけど、自分で翻訳する時には誰かが勝手にくっつけた「負のイメージ」を吹き飛ばすような「元気な言葉」で翻訳したいものだと、今からいろんなことを考えている。

話がそれた。

自伝の中の時間は、1960年に戻る。ロビーはまだ15歳なので、ステージに出ているところを警察に見つかると、店もバンドも営業停止を食らうことになってしまう。そこでロビーには「口ヒゲを生やせ」という無茶な指令が下される。ヒゲというのは剃れば剃るほど生えるものだ、という怪しげな俗信に従って、ロビーはそれから一日に三回もヒゲを剃らされることになるのだけど、肌が荒れるばかりで、全然オトナには見えてこない。当時の自分は単なる「虐待されたティーンエイジャー」にしか見えていなかっただろうと、ロビーは回想している。

カナダのツアーは快調に滑り出す。ロニーとリヴォンは毎晩ホテルの自室にファンの女性を連れ込んで派手に遊びまくっているが、見た目が完全に子どもなロビーはそういうグルーピーの人たちからも相手にされない。彼の回想は再び過去へと向かう。

「私が初めて音楽の力に打ちのめされた経験は…」という言葉で次の文章は始まっており、この部分も丸ごと翻訳したくて仕方なくなってしまったのだけど、時間がいくらあっても足りないので要約して紹介するにとどめたい。それは彼が8歳の時、母親の実家のあるシックス·ネイションズの居留地での出来事だったのだという。ギターやマンドリン、そして伝統的な打楽器に合わせて叔父やイトコが歌う声に、彼氏はmesmerizedされた(催眠術にかかったように魅了された)とある。

蝉が鳴く夏の午後には、ロングハウスと呼ばれるモホークの集合住居に集められ、そこで年長者から自分たちの歴史にまつわる物語を聞かされた。その声の抑揚、言葉の力強さ、荒々しさ、そしてその中に流れる正義。いつか自分もそんな風に物語を語れる人間になりたいとロビーは思ったのだという。ザ·バンドの歌は、そこから生まれたのだ。

時代は再び1960年に戻る。初めてロニーからベースのソロを弾かせてもらった夜のこと。ロンドンでの日程を終えいよいよトロントに向かう日が来たこと。ハイウェイの彼方に見えてきた故郷の街の夜景。帰ってきたという実感。自分の未来をコントロールできる力は当時の彼にはまだ何一つなかったし、できたことといえば「悪魔のように演奏すること」だけだった。それでもロビーは自分が着実に「なりたかったものになりつつあること」を感じていた。という述懐で、第2章は締めくくられている。

ではまたいずれ。