華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

【番外編】「万葉集」を上古音とされている音韻で朗読してみる試み、開始

Man'yoshuⅠ#1



日本語は私の翼であると同時に、私の牢獄である。

「日本語でなら」私はどんなことでも言葉にして表現することができる。けれどもその一方で「日本語でしか」ものを考えることができないし、もっと言うなら「感じること」さえできない。

五感を通じて自分にもたらされる外界の情報、音や匂いや味や肌触り等々は必ずしも「言語化」された状態で自分の中に入ってくるわけではないし、受け取る側の自分自身、そのすべてをいちいち「言語化」して対象化しているわけでもない。それにも関わらずそうした情報の全ては「日本語で」私たちの中に入ってくる。と言うよりも私たち自身がそれを無意識に日本語で「受け止めて」いると言った方が、正確なのかもしれない。具体的には自分の身体を傷つけられた時、我々は「ouch」ではなく「いたい」と「感じる」のだし、強い日差しに照りつけられた時には「hot」ではなく「あつい」と「感じる」のである。成長してからどんなに沢山の言語を習い覚えたとしても、生まれてから一番最初の他者との触れ合いの中で形成されたそうした「感じ方」の核の部分というのは、変わるものではない。このことは日本語以外の言葉が話されている「外の世界」に触れる機会が増えれば増えるほど、強く実感させられることである。

「強い日差しにさらされている状態」を「あつい」という言葉に「置き換える」のは、最も原初的な形態における「翻訳」であると言っていいだろう。その「翻訳」を我々は全く「無意識に」おこなうのだし、もっと言うなら「無意識の中でしか」おこなうことができないのだ。「意識する」ということは、言い換えるならその「意識された対象」を「自分のコントロールのもとに置く」行為である。大部分の人間活動はその「意識された領域」で行なわれているにも関わらず、すべての活動の原点に存在している「感じる」という活動は、「意識することができない」のだ。自分のコントロールが一切及ばない領域で、「強い日差し」という「情報」は「あつい」という「言葉」へと「変換」され、「翻訳」された形で「自分の中から」湧きあがってくる。言葉というものは、少なくとも「自分の言葉」というものは、そんな風にして「生まれて」くるのだとしか言いようがない。それは蝶々の幼虫が、さなぎの中で一旦「液体」になってから成虫へと生まれ変わるのと同じくらいに「不思議なこと」だ。

そして私は「自分の言葉」という言葉を不用意に使ったが、「自分だけの言葉」などというものは本来的にはどこにも存在しないはずなのである。言葉というものは「通じる相手」がいてこその「言葉」であるからだ。日本語というものは日本語を話す全ての人にとっての「共有財産」であるわけだし、もともと日本語を知らない人でも学習すればそれを使えるようになるという性格を持ったものである以上、本質的には人種や国境を問わずすべての人に対して開かれた「共有財産」となっている。だから「言葉のあり方」そのものを「自分の思い通りに」作り変えようとするようなことは、誰にもできない。たとえ「支配者」であってもである。そんな風に「誰かの心の中」からではなく「人間と人間との関係の中」からしか生まれてくることのできない「言葉」というものは、一体もともとはどんな風にして生まれてきたものだったのだろうか。考えたって安直に答えの出ることではないけれど、これほど「考え甲斐のあること」は私にとって他にない。

人間は自分の母親を選んで生まれてくることができないのと同じように、自分の母語もまた選ぶことができない。日本語を喋る両親のもとに生まれてきてしまった以上、私には一生日本語でしかものを考えることができないし、日本語を通してしか世界を感じることができないことを運命づけられている。このことを私はもちろん、基本的には両親からの「かけがえのない贈り物」であると思っているのだけれど、同時にそれは「呪い」でもある。「一生抜け出すことのできない牢獄」が、生まれ落ちた時点で既に私の周りには「言語世界」という形で築き上げられてしまっていたということなのだ。もとよりそれは私に限らず、世界のどんな場所でどんな言語のもとに生まれた人にとっても言えることではあるのだろうけれど。

本だったかテレビだったかは忘れたが、生まれてから最初に覚えた言語が日本語だった人は親の人種や民族に関わらず「虫の鳴き声を美しいと思う感覚」を身につけるのだけど、それ以外の大部分の言語のもとに育った人は例え親が民族的には「日本人」であったとしても、虫の声を「雑音」としてしか感じることができない、といったような話を聞いたことがある。私は決して「日本語ってスゴい」的な話をしたいのではなく、言いたいことはその逆だ。言語というものはそんな風にして、人間の感受性そのものをも、いまだ解明しつくされてはいないような形で「支配」してしまう性格を持っているということが問題なのである。虫の声が美しく聞こえるということはもちろん「すばらしいこと」だし、私だってツクツクボウシやマツムシの声が聞こえてくると「うれしく」なる。しかしむしろ重要なのは、日本語を話さない大部分の人にとってそれが「雑音」でしかなく、無理やり聞かされても「苦痛」にしか思えないものなのだということを「知る」ことだろう。他者を支配したり抑圧したりすることは、いつもそんな風に「自分の感じ方」を他者に対して押しつけようとする形で行なわれるものなのだ。

虫の声を美しく感じることのできる自分たちは「優れて」いる、それを理解できない人間は「野蛮」だ、といったようなナルシスティックな思い上がりの上に、過去の他民族の人たちに対する侵略や植民地支配というものは間違いなく正当化されていったのだし、その鼻持ちならない感覚は現代の日本語世界の住人たちの間にも実に色濃く引き継がれている。ある方面への感受性が「開かれて」いるということは、同時に別の方面に向けては「閉ざされて」いるということでもあるはずなのだ。虫の声に対する感受性は「敏感」な我々も、他の言語世界に生きる人々から見れば呆れるほど「鈍感」な側面を無数に有しているに違いない。その「鈍感さ」が最もグロテスクな形で表現されたのが、例えば南京大虐殺であり、また植民地支配の対象とした地域の人々から「言語を奪ったこと」だったと私は思っているのだけれど、そういったことを二度と繰り返さないためには、ありきたりな表現ながら日本語世界に生きる自分たちとその外の世界で生きる人たちとの「違い」を知ることが、まずは必要だろう。そしてその「違い」を知るということを抜きにしては、我々は「自分自身を知る」ということの入口にさえ、永遠に立つことができないはずなのである。

長い長い前置きになったが、そんなわけで私は「日本語とは何か」という問題に、外国の歌の翻訳と同じくらい興味がある。「うたを翻訳すること」は私にとっては「他者の感じ方を学ぶこと」であり、「自分と他者との違いを知ること」で、そこに「感動と発見」が存在する。一方で「日本語とは何か」という問題はより直接に「自分とは何か」をめぐる問題と結びついており、調べてゆくとそこにも「感動と発見」が存在する。日本語がどこから生まれてどこに向かおうとしているのかという問題は、私(たち)にとっては自分(たち)自身がどこから来てどこに向かおうとしている存在であるのかということと、ひとつの問題をなしている。だから私は「日本語の歴史」を知りたいと思う。私たちが今使っている「この言葉」は、どんな風にして生まれ、また形作られてきたものだったのだろうか。

nagi1995.hatenablog.com
以前に書いたこの記事は、それについて何かが分かるのではないかと期待して、見事に裏切られた経験のひとつを綴ったものだった。「縄文時代の言葉を再現した」と称するこの歌の歌詞は、調べてみた結果、日本語というものを「日本人の私有財産」であると勘違いしている人間が頭の中でデッチあげた願望の産物にすぎないことが私にはハッキリしたし、「古代の言葉を再現する」という一見ロマンチックなその試みが、実質的には「天皇制の信奉者」が「自分たちの祖先の言葉」を古代の東北の人々に「押しつける」という、「他者から言葉を奪う」行為の延長にしかなっていないこともまた明らかになった。それが「侵略行為」に他ならないという自覚は、かつてアジア各地への侵略を実際にその手で行った日本人たちがそうであったのと同様、この歌を「作詞」した学者の中には全く存在していなかったに違いないのだけれど。

しかしながら「古代の言葉を再現する」という研究や試みには、「真面目なもの」も存在している。録音技術のなかった時代に話されていた言葉がどんな言葉であったかということなど、究極的には「わからない」としか言いようのない話ではあるのだが、少なくとも「文字の時代を迎えて以降の言葉」であるならば、そこから発音やアクセントが聞こえてくるわけではやはりないにせよ、書かれたものを手がかりに推測してゆくことも、ある程度なら可能になる。

例えば、有名な話だが、1516年に発行された日本最初のなぞなぞ集とされている「後奈良院御撰何曾」には

母には二度あひたれども父には一度もあはず
くちびる

という「なぞなぞ」が載っている。「母には二回会ったが父には一度も会わなかった(ものなーに)」というのが「問題」であり、「くちびる」というのがその「答え」である。書かれているのはそれだけで、なぜ答えが「くちびる」になるのかということは、長い間誰にも分からなかったのだという。

それに「答え」を与えたのが、「広辞苑」の編纂者として有名な新村出氏だった。「母」は「ハハ」という現代日本語の発音では「唇を合わせなくても」発音できるが、室町時代の言葉では「唇を合わせなければ」発音できなかったのではないか、と氏は考えたのである。そこから、少なくとも当時の日本語における「母」の発音は「ファファ」もしくは「ファワ」、さらに遡るなら「パパ」と発音されていた時代さえあったのではないかと推測することも、可能になる。

…ただし、この新村氏の解釈も「仮説」にすぎないということは、この情報過多な現代、むしろ意外なほど知られていない。本居内遠という幕末の学者が書いた「後奈良院御撰何曾之解」という論文では、上のなぞなぞが「上下の二枚の歯(歯々)は常に唇に接触しているが、自分の唇で自分の乳首(父)をくわえることはできないから」という風に「解説」されている。こっちが「正解」だった可能性も、ないではないのである。もしそうだったとしたら、新村博士の「大発見」は一体何だったという話になるのだろうか。付け加えて言うならば、現在ネットで調べてみると、このなぞなぞの出典が「平安時代」と書かれているサイトが非常に多い。「後奈良院御撰何曾」は室町時代の本なので、時代が500年もズレており、うっかりそれを信じると大変な勘違いにつながることになる。あまりに情報がありすぎると本当に必要な情報は必ずその中に「埋もれて」しまうことになるので、注意が必要だと思う。

とはいえ、室町時代の西日本で使われていた言葉の「ハヒフヘホ」が「ファフィフフェフォ」であったらしいことは、16世紀の日本を訪れたポルトガルの宣教師たちが記録しているハ行の言葉が全て「F」の文字で書き写されていることからも「実証」されている。そこから遡って、「上代」と呼ばれる奈良時代以前の時代においては「ハヒフヘホ」が「パピプペポ」だった時期も間違いなく存在していたらしいことは、いちいち資料を挙げることは略すけど、今ではほぼ定説になっているのだという。こうしたことを調べるのは、とても面白い。

そしてこうした実証的な研究成果というものは、「現代の日本語」を「美しい言葉」であり「美しい日本の伝統文化」であると信じ込んでやまない一部の自己陶酔的な人間たちを、「動揺」させる力を持っている。なぜならハ行の音が全部「パピプペポ」で発音される「日本語」などというものは、「今の日本語」を基準にして考えるなら少しも「美しくない」からである。しかしながらかれらの願望が何であれ、「本当の歴史と伝統」が「パピプペポ」の側に存在しているのは疑いのないことなのだ。こんな風に「底の浅い作り話」を「解体」してしまう力を持った「科学的なアプローチ」というものが、私は大好きである。

昔の日本列島で話されていた言葉-私はそれを「昔の日本語」とは敢えて言わない。日本列島の全域が「日本という国家」に組み込まれるようになったのは本質的には「明治」以降のことだ-が「今の日本語」と全く違っていたことを示す証左は、それだけではない。飛鳥時代から奈良時代にかけての多くの「うた」を集めた「万葉集」という和歌集は、「かな文字」の存在しなかった時代における唯一の「話し言葉の資料集成」と言うべきものであり、周知のごとくその原文は「万葉仮名」と呼ばれる「漢字の音を借りて日本の言葉を表記する」方法で書かれている。そしてその「音を表記するための漢字の使い方」に、「現在の日本語からは理解することのできない使い分けの法則」が存在することに、実は江戸時代から多くの学者が気づいていた。

たとえば「神」という言葉の「み」を書き表すためには「微」「味」「身」など様々な漢字が使われているのだが、「三」「見」「美」などの漢字は使われていない。一方で同じ「カミ」でも「上」という言葉を書き表す場合には、「三」「見」「美」等々の漢字だけが使われていて、「微」「味」「身」などの文字は使われていない。このことから、上代の言葉においては二種類の「ミ」が存在していたのではないかと推測することが可能になる。

そしてそのように調べてゆくと、そのような「使い分け」がなされているのは現代日本語における

キヒミ ケヘメ コソトノヨロ

「古事記」の時代には「モ」の使い分けも存在したことが知られている。また「ギビ ゲベ ゴゾド」の「濁音」にも同様の「使い分け」が存在する。

の十二文字であり、これらの音がイ段とエ段とオ段に集中していることから、昔の「アイウエオ」の「イエオ」の段には「今のイエオ」の他に「我々の知らないイエオ」が存在していた可能性が浮かび上がってくる。このように「二種類の発音があった音」を、橋本進吉という言語学者は万葉仮名の使い分けをもとに「甲類」「乙類」に分類し、例えば「神のミ」は「乙類ミ」、「上のミ」は「甲類ミ」と呼ぶといったような呼称が、言語学者の間では定着している。

ただし、それなら「甲類のミ」はどんな音で発音されており「乙類のミ」はどんな音で発音されていたのだろうかといったような「我々の一番知りたいこと」は、「想像すること」しかできない。何せ録音技術のなかった時代のことなのである。さまざまな学説は存在するが、いずれも推測の域を出るものではない。

何にしても万葉集という「誰でも知っている歌集」には、現代では「誰にも正確な読み方が分からない文字」で書かれた領域がそんなにも大量に存在していたということなのだ。そのことは果たしてどれだけ「知られて」いることなのだろうか。

奈良という土地で育った私の周りは、物心ついた時から「万葉集だらけ」だった。学校の行き帰りに目にする風景にせよ何にせよ、およそ視界に入ってくる山や川や地形の中で「万葉集」にうたわれていないものはひとつとしてなかったし、駅や路傍や畑の真ん中みたいなところにまで、昔の誰かの作った「万葉歌碑」がそこらじゅうにゴロゴロしていた。「万葉集」を通読したような経験は、子どもの頃にはもちろんなかったけれど、「万葉集」は常にそんな形で自分の身近なところに存在していたし、ともすればそれが「自分の一部」になっているような感覚さえ、当時の私は持っていたように思う。

そんな私が上述したような「上代特殊仮名遣」の存在を知ったのはオトナになってからのことだったのだが、初めて知った時には自分がそれまでに抱いていた「万葉集」に対するイメージが丸ごと崩れ去ってゆくような衝撃を味わったものだった。自分がそれまで「知っていた」と思っていた世界のことを実は何も「知らなかった」のだということを、事実をもって突きつけられることになったのである。

「神」のカミと「上」のカミとが「違うカミ」だったというのは、それだけでも「どえらい話」だ。20世紀初頭の小学生たちは、天皇というのは「神」であり「神」というのは「人の上たる存在」だから「神」なのであって、「お上」はすなわち「神」なのだ、といったような説教を叩き込まれて育ったのだということを私は聞き及んでいる。ところがその天皇を褒め称える内容の歌ばかりで全編が構成されている「万葉集」という書物において、「神」と「上」とは「何の関係もない別の言葉」だったのである。要は「神=上=天皇」などというのは、後世の人間がこじつけでデッチあげた作り話にすぎなかったのだ。その一点を暴き出したということのみにおいても、現代を生きる日本語話者にとって「上代特殊仮名遣の発見」が持つ意味は、重大だと思う。

調べれば他にもそうした例はいくらでも出てくるに違いないのだし、私が知らないだけで学者の世界では既にそういった膨大な研究が蓄積されているにも違いないわけではあるのだが、「日本語をめぐる問題」であるにも関わらずそうした学者の世界と「一般的な日本語話者」の世界には「線」が引かれており、我々が学校教育において教わる「万葉集」は「かな交じりの後世の日本語」に「翻訳」された内容の「万葉集」になっていて、そこでは原典においては厳密に行われている「文字の使い方の区別」が「消されて」いる。万葉仮名の原文も一応併記されてはいるけれど、その使い方に「今の日本語とは違った法則性」があったことは、義務教育では全く教えられない。これは「万葉集」の「改竄」と言うべき問題なのではないだろうか。「子どもには難しい」ということもあるだろうが、実際には「オトナにも分からないこと」が一方的に子どもたちに「日本の伝統」として押しつけられているのである。「伝統」とは言うけれど実はその内実はオトナたちにだって何も分かってはいないのだということを、「正直に」伝えることの方がよっぽど重要だろう。

それにつけても、実際にそれが作られた当時の「万葉集」の歌というものは、「本当は」どのような響きや旋律を持った「うた」だったのだろうか。このことは私が「上代特殊仮名遣」なるものを知る前の子ども時代から、ずっと知りたいと思ってきたことだった。声に出して読むこともやったし、私的にメロディをつけてみることもやった。何のかんの言っても、自分が生まれ育った世界のあらゆる思い出と直結している「万葉集」は、自分にとって特別なものだったということなのだと思う。けれども「上代特殊仮名遣」などというものが存在していたことを知って以降は、自分のやってきたそうした全てが「デタラメで滑稽な試み」にしか思えなくなった。「昔の人の言葉」を口ずさんでみることでかつての私は「昔の人の気持ち」に迫ることができるような気持ちに浸っていたものだったけど、自分が口ずさんでいたその「言葉」は実際には「昔の人の喋っていた言葉」とは似ても似つかない、「現代人の自己満足のための想像の産物」に過ぎなかったのである。そして「神」と「上」では意味だけでなく音まで違うといったような「全く新しい前提」のもとにイチから原文で読み直してみるには「万葉集」4500首はあまりに膨大であり、専門家でない自分にはそんなことはおよそ不可能だとしか思えなかった。

世の中の「万葉集」の研究者の多くは、歴史的に「言葉の意味」を探ることには熱心だったけど「言葉の響き」を探ることには不熱心だったのではないかと思わざるを得ない。もちろん熱心な人もいただろうけど、そういった人たちの研究成果は書店で簡単に手に入るような所には置かれていない。つまりは「需要がない」のである。「万葉集」はさまざまな形で刊行されているけれど、歌に使われている文字の発音が「甲類」か「乙類」かということについてまで注釈をつけてくれているような解説書は、私の知る限りどこからも出版されていない。知りたいと思ったら「自分で調べるしかない」のが現状なのだ。とても素人に手の出せることだとは思えない。

そんなこんなで「万葉集」の世界からはすっかり遠ざかっていたのだけれど、最近になってそれにもう一度向き合ってみようと思えるキッカケを与えてくれたのは、やはり「ネットの力」だった。一昔前の書店や図書館では滅多なことでは出会えなかった「万葉仮名の一覧表」が、今のネット世界ではずいぶん使いやすい形で整備されている。何より極めつけは、アメリカのヴァージニア大学の図書館が「万葉集」や「源氏物語」を初めとした日本の主要な古典文学作品の全文検索システムを公開していることを知ったことだ。これを使えば、例えば現代日本語で「かみ」と書き表される文字列に何通りの書き分け方が存在したかといったような、昔の学者が一生がかりで調べあげても追いつかなかったような難問にも一瞬で答えを出すことが可能になる。

etext.virginia.edu
このシステムを使って、自分の知っていたいろんな歌のどの部分が「甲類」の音を持っていてどの部分が「乙類」の音を持っていたのかということを検証してゆく作業は、始めてみると下手なネットゲームよりよっぽど面白かった。何せ、「予想外の結果」が次々に出てくるのである。たとえば「木」という漢字が持つ音は「乙類キ」だが、「椿」という言葉の末尾の「キ」は「甲類キ」なのだ。してみると「ツバキのキ」は「木のキ」とは「違うキ」だったことになるわけで、「ツバキ」の語源は「つば木」ではなかった可能性が高くなる。そういったことを知れば知るほど、「現代語との音の違い」を実際に声に出して確かめてみたいという気持ちを私は抑えきれなくなっていった。そんなこんなで試作してみたのが、下の動画である。


万葉集巻第一 上古音とされる音韻での朗読の試み

「万葉集」を上代発音で朗読する動画の試みは、別に私が初めてではない。(ただし人工音声でなく人間の声で一巻の全体を通読するという試みは、前例がないかもしれない)。私がこの動画を作った目的は、第一義的には「自分自身の学習のため」だ。遠い昔の言葉においてどんな場面で「甲類」の音が使われ「乙類」の音が使われていたのかといったようなことは、実際に声に出してみることを抜きにして決して「体得」できるものではないし、またその「使い分け方」が現代の日本語においてはどんな形で継承されているのか、あるいは完全に消滅しているのかといったようなことも、実感するのが難しい。そのことの上で「ロマン」もちょっぴり含まれていることを否定はしないが、何しろ「本当のところは誰にも分からない」のである。「これが奈良時代の日本で話されていた通りの発音だ」といったような触れ込みで売り出すような厚顔無恥なことは私にはできない。観る人には飽くまで「想像をめぐらす手がかり」として鑑賞して頂ければ幸いに思う。試作にあたっての「凡例」は、以下の通り。

母音について

  • いわゆる「八母音説に準拠する。
  • 甲類イ段、エ段、オ段の発音は現代日本語と同じだったと仮定。
  • 乙類の母音については仮にイ段を「wi」、エ段を「we」、オ段を「ö」で発音。

子音について

  • 現代日本語のサ行の音は「tsa/tsi/tsu/tse/tso/tsö」で発音。
  • 現代日本語のハ行の音は「pa/pi/pwi/pu/pe/pwe/po」で発音。
  • 現代日本語の「ち/つ」「ぢ/づ」はそれぞれ「ti/tu」「di/du」で発音。

節回しについて

これも音声資料が残されていない以上、確かなことは何も言えないわけだが、「歌」である以上それが声に出して詠まれる時には必ず何らかの「メロディ」あるいは「節回し」が存在したはずなのである。抑揚のない声でボソボソ「音読」されるだけだったとは到底思えない。

ただ、短歌の世界のことはあまり知らないが、近現代にまで継承されている「決まった節回し」というのは、どうも存在していないようである。youtubeでは与謝野晶子斎藤茂吉折口信夫といった様々な歌人による自作の短歌の朗読の音源が公開されているが、誰もかれも「好き勝手な詠み方」をしている。「詩吟」的な詠みあげ方をする人も最近は少なくないようだが、あれはもともと「漢詩を朗誦する時」の歌い方だし、歴史を遡れるのもせいぜい幕末ぐらいまでで、大して古いものでもない。何より右翼チックなところが、個人的には全く受け入れられない。

「決まった節回し」が存在していない以上、シロートの私たちだって「好き勝手な節回し」で朗読してもどこからも文句は出ないはずだ。結局子どもの頃、正月に祖母の家で百人一首をやる時に毎年読み上げ担当だった親戚のおばさんの節回しというのが私にとっては一番「自然な詠み方」として記憶されているので、自分の動画ではその節回しを「援用」する形をとっている。見方によってはそれが一番「特徴的な部分」になっているかもしれない。


テストパターンとして最初に朗読した鹿鳴集(会津八一)

今回のこの「企画」を思い立ってから実際に動画の作成に漕ぎ着けるまでにはおおよそ三ヶ月を要したが、その間に準備作業を積み重ねる中でつくづく実感させられたのは、「うたを翻訳すること」というこのブログのテーマと「日本語の歴史を探求すること」とは文字通り「ふたつでひとつの課題」をなしているという事実だった。「うたを翻訳する作業」は「自分の言葉」を通して「他者の世界」と「自分の世界」との間に引かれた境界線を無化してゆこうとする試みであるわけだが、「日本語の歴史を探求する作業」はそれとは逆に「自分の言葉」だと思っていたものを自分自身から切り離し、異化してゆこうとする試みに他ならないのである。方向性を正反対にするこの二つの作業が目的とするところはどちらも同じこと、即ち「世界を知り、それを通して自分自身を知ること」に帰着する。そのことを通して初めて私はより「自由な人間」へと変わってゆくことができるのであり、また自分の周りに築かれた「言語の牢獄」は別のやり方では決して解体することができない。

「万葉集」という書物は内容的に見るならば「ろくでもない書物」である。全編はひたすら天皇や貴族に対する忖度、おもねり、美辞麗句で満たされており、「それしか書かれていない」と言っても過言ではない。8世紀という時代において、文字というものは完全に「支配階級の私有財産」でしかありえなかったし、またかれらはそれを「自分たちだけ」のために「使って」いたわけだ。その「あるがままの姿」を暴き出してゆくことは、日本語というという言語を「天皇制の呪縛」から解き放つ積極的な意義を持つ作業であると私は信じる。今回のこの企画の時期が天皇の代替わり行事の強行と重なったことは全くの偶然だが、この作業は私にとっては「自分なりの抵抗」の一環に他ならない。何が「令和」だ。言葉も歴史も、天皇の一族が「私物」にしていいようなものでは断じてありえないのである。その「奪われた言葉と歴史」を日本語社会に生きる全ての成員の手へと「奪い返してゆく」ために、私は「日本語」を「武器」に変えて、今後とも闘いぬいてゆきたいと感じている。

総じて今回開始したこの新たな企画は、私がこのブログを開設して以来一環して最大のテーマとしてきた「自分の青春に決着をつける作業」の一環である。願わくは「万葉集」全20巻の最後の一首に至るまで貫徹し、自分自身を「日本語の牢獄」から、「天皇制の呪縛」から、「解き放って」ゆくための契機としたいと考えている。ではまたいずれ。