華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

万葉集青春ノート 巻第一 (1〜6)

#1Man'yoshuⅠ#2



魯迅の文学の翻訳者として知られる竹内好という人の言葉で、出典元は知らないのだけど「日本では路傍の一木一草にまで天皇制が染みこまされている」というものがある。日本という社会のあり方を根本的に「変える」ことの難しさを語る際、繰り返し引用されてきたフレーズである。そして自分自身を振り返ってみる時、この言葉は「自分という人間」にまで当てはまっていることを、感じずにはいられない。

このブログでは何度も書いてきたことだけど、私は日本社会に残存しているあらゆる差別のオオモトをなしている天皇と天皇制というものが大嫌いだし、あえて言うなら親のカタキだとさえ思っている。私の両親そのものは健在ではあるものの、日本とアジアの歴史において私自身が本当にその思いを引き継いで生きたいと思えるほど尊敬すべき生き方を貫いた人たちというのは、ほとんど例外なく天皇制に抗ったがゆえにその命を奪われている。それなのに、と言うべきなのかそれだからこそ、と言うべきなのか、「天皇制の呪縛」というものはその私自身の身体をも深々と蝕んでおり、口でだけ「反対だ」と叫んでもそれだけでは全然「自由」になれていないのだということを、折に触れて痛感させられずにはいられない。特に「改元」や「代替わり」が云々されているここ最近は、それを毎日のように突きつけられて、息をするのも苦しい状態が続いている。

私という人間を作りあげているものが何かといえば、究極的なところそれは「思い出」なのだと思う。その「思い出」のひとつひとつは、時間の流れと垂直に訪れる「出会い」によって形成されたものであるわけだし、これからの人生でもそうした「出会い」は無数に訪れて私の人生をいろんな方向に変えてゆくに違いないわけではあるのだが、少なくとも「今ある私」というものは、「今までの思い出の集積体」みたいな存在であるにすぎない。その「私という人間の姿」がまた他の人にとっては「その人の思い出の一部」にもなったりしているわけではあるのだろうけれど、「その私」を形作っているものは「私自身の思い出」だけなのである。

その私という人間を私という人間たらしめているところの「かけがえのないなつかしい思い出」のひとつひとつに、「天皇制」はいちいち何らかの形で、絡みついている。それは私が奈良という土地で育った人間だからということも大きいのだろうが、それだけではないのだと思う。かつてこの日本という土地を暴力によって支配し、今も実質的に支配し続けている天皇という存在は、この土地で話されている「ことば」そのものをも、文字通り「支配」していた。その天皇制が終わりにされることがない限り、自分が「今」使っている「この言葉」もまた、永遠に「誰かに支配された状態」から抜け出ることはできないのだということを、私は「自分の思い出」と向き合うたびに、感じるのである。「思い出の世界」というものは文字通り、「ことばで作られた世界」であるからだ。そして「その誰か」が「誰」かといえば、「あの天皇という人間」以外には存在しない。

私がこのブログを始めたのは、第一回目の記事に書いた通り、「意味も分からずに聞いていた外国の歌」のメッセージを誰かが翻訳した日本語の歌詞を通じて丸っきり勘違いした内容で受け取り、あまつさえそれに「感動」していたという自分自身の「恥ずかしい過去」に「決着をつける」ためだった。この「青春に決着をつける」というテーマについては、一年ぐらいたってから書いた別の記事で、改めて下のような形で「まとめて」みたことがある。

(「ミチコオノ日記」の作者の人のように)青春もしくは思春期をテーマにした作品を描き続けている人は、描いて形にすることを通してしか、「自分の中の青春」を「外に追い出す」ことができないのではないかという気がする。

そしてそれは、絵を描く人たちに限ったことではない。何であれ「外に出して形にする」という作業を通してしか、人間「自分の中にあるもの」とは、「向き合う」ことができないのである。そして「外に出されてしまったもの」は、もはや二度と「自分の一部」になることはない。

自分の青春というものに、私はまだ決着をつけることができているわけではないのだけれど、「つく」時には恐らくそういう形で「つく」ことになるのだろうなと、漠然と思っている。何十歳になれば「つく」のにかに関しては、全く想像がつかないのだけど。

そしてその時には恐らく「あふれる熱い涙」がこぼれるのだろうなとも、何となく思っている。

Roaming Sheep もしくは羊をめぐる冒険 (1993. おおたか静流) - 華氏65度の冬

…私の文章はいつも前置きが長い。


万葉集巻第一 上古音とされる音韻での朗読の試み

前回の番外編の記事で私は「万葉集」の上代発音による朗読ということに取り組んでみたわけだが、やっている当初はその作業に没頭しつつも、なぜ自分はムキになってこんなことをやっているのだろうということが、自分自身でも全然わからなかった。むしろ自分のやっていることは「非難されるべきこと」なのではないかとも思えた。「万葉集」などというのは誰がどう見ても「天皇制を賛美するための書物」である。そんな書物と「真面目に時間を割いて」向き合うことは、結果的に「天皇制を強化すること」にしかつながらないのではないだろうか。そんな風に思えてならなかった。

実際、そんな風にしか思えないものだから、私は「万葉集」という書物から実に長い間「距離を置いて」暮らしてきたのである。けれどもそのことには同時に、自分が「万葉集」から「逃げているような感覚」がつきまとっていた。それというのは前回の記事にも書いた通り、10代までの私にとって「世界のすべて」だった奈良盆地という場所が、「万葉集だらけの世界」だったからに他ならない。それに背を向けて「見ないようにする」ということは、自分自身が生きてきた歴史に「フタ」をして「なかったこと」にしてしまおうとするのと同じことだった。そんな風に「逃げた態度」をとりながら言葉の上でだけ「天皇制に反対します」と言ってみたって、実際には何の「力」にもなりはしないのだ。

つまるところは「万葉集のうた」とも「逃げる」のではなく「向き合って決着をつける」時がやってきたということなのだと思う。「万葉集のことば」は様々な形で、私自身の「かけがえのない思い出」と絡みついている。それを「外に出して形にする」ことを抜きにしては、身体に染みついた天皇制の呪縛というものもやっぱり「自分の外」に追い出すことはできないのである。その作業をやり終えた時に、自分に「帰る場所」がなくなったとしても私は構わないし、むしろ「そうなってくれること」を強く願う。この作業は私にとっては「今やらなければならない作業」なのだ。

当初は「万葉集」を「それが作られた時のままの言葉の響き」で読んでみたいということにしか興味がなかったし、それを通じて「作られた当初の万葉集」は「自分が知っていた万葉集」とは丸っきり違っていたのだということを明らかにすることさえできれば、「青春」には「決着」がつくだろうと思っていた。ひとつひとつの「歌の内容」には、一切触れないつもりだった。

けれども朗読を通じていくつもの「なつかしい歌」に再会してみると、その歌の言葉から甦ってくるいくつもの記憶や風景が自分の中に存在していることを、私は思い出さずにいられなかった。その「全部」に「決着」をつけることが必要なのである。そうしなければ私の言葉も私の存在も、天皇制という血塗られた制度の継承を「めでたい」と有り難がれ、という「権力の言葉の洪水」の前に、かき消されてしまうに決まっているのだから。

そんなわけで、動画の中で自分が読みあげた「万葉集」の歌のひとつひとつに「コメント」をつけてゆく作業を、これから開始してゆきたいと思う。「解説」ではなく飽くまで「コメント」である。私が「万葉集」にこだわるのは「万葉集」を有難がるためではない。「万葉集」の世界に絡め取られた自分の思い出を「取り戻す」ためであり、それが叶わぬことならばせめて自分自身の手で「葬送」するためなのだ。自分が初めてザ·バンドの歌を聞いた日からずっと「無限の謎とロマン」を感じ続けていた「華氏65度の冬」という言葉に、「決着」をつけなければならなかったあの日と全く同じようにである。

というわけで、始めてみないとどういう風になるかは分からないけれど、まずは第一首目の雄略天皇の歌から、淡々と始めてゆくことにしたい。




中国の歴史書に登場する「倭王武」、また関東からも九州からも出土している鉄剣の銘文に記載されている「ワカタケル大王」と同一人物であったとされるこの雄略天皇という天皇は、非常に悪逆非道な支配者だったと伝えられている。天皇の支配を正当化するために書かれた「古事記」や「日本書紀」といった書物にさえ「大悪天皇」という通称が記載されているぐらいだから、その「悪さ」は当時においてもごまかしようのないものとして語り伝えられていたのに違いない。自分の政敵となったものは7歳の子どもさえ焼き殺す。自分が好きになった女性に自分より先に彼氏がいたら、激怒して彼氏もろとも焼き殺す。小学生の頃に初めて「古事記」を読んだ時には、自分の先祖にこんなにひどい人間がいたにも関わらずどうして天皇というのは「いばって」これたのだろうということが、不思議で仕方なかったものだった。

この歌に出てくる「娘さん」は、そんな風にみんなから恐れられている暴虐な支配者に「目をつけられて」しまったのである。「恐怖で口もきけなかった」のが実際のところだったのではないだろうか。それで「私は名乗ったのだからそちらも家と名前を教えろ」的な、言葉の上では「友好的なこと」が言われているのだけれど、答え方を間違えたらこの娘さんは殺されるのだし、家族だって皆殺しにされるのである。「おおらかな春の風景を歌った歌」みたいな言葉でこの歌のことを「解説」できる人間というのには、感受性が存在しないのではないかとしか思えない。

その一方で奇妙なことに、「記紀」においてこの天皇は「人間的で愛すべき側面」を持った支配者としても描かれている。葛城山で狩りをした時にはヒトコトヌシという地元の神と出会い、最初は一触即発になるのだけれど結局仲良くなって一緒に酒を飲んだりしているし、また小子部栖軽(ちいさこべのすがる)というスーパーマンみたいな家来を連れていて、このスガルに命令して雷の神を捕まえさせたのはいいのだけれど、実際にスガルが捕まえてきたら怖がって隠れてしまったりしているし。この描かれ方は、「スサノヲ」というどこからどう見ても悪逆非道な「神」が、現在の日本においてもなぜか不思議と「愛されて」続けていることと、似通った現象であるような感じがする。つまりは、どんなに横暴で自分勝手で神をも畏れぬような相手であろうとも、「強い人間」には「惹かれてしまう」傾向というものが、人間にはある、ということなのではないだろうか。考えてみればギリシャ神話の登場人物にも、こういった類型の「英雄」は数多い。

しかしだからと言って「強ければ何をしても許される」というものではない、ということぐらい、人間は大昔から「知って」いたはずなのである。それをどうすることもできないままに歴史は繰り返されて、今に至っても同じことが続いているわけではあるけれど、明日からも続いていいという話には、全然ならない。時間はかかるに違いないのだけれど、人間はこうした「英雄譚」からは「卒業」しなければならないのだと思うし、それに代わる「物語」を自分たち自身の手で作りあげてゆくことが、これからの人間の歴史の「課題」になっているのだと思う。

桜井市の朝倉というところは、初瀬川が大和川になって流れ込む「奈良盆地の東の入口」にあたるところで、そこからは三輪山を「南から」見ることができる。西から見た三輪山はとても「やさしい形」をしているのだけれど、南から見た三輪山は巻向山の山塊とつながって、とても荒々しい外観をしている。昔の私は早起きして出かけてその風景に霧がかかっているのを見るのが大好きだったのだが、こないだ久しぶりに帰ったら「中和幹線」なるものが建設されて、風景と呼べるようなものは消滅していた。「泊瀬朝倉宮」が存在した時代は5世紀後半と言われているから、「万葉集」の時代からは300年近く前であり、当時においても既にこの歌は「伝説」になっていた歌だったのだと思う。





地元民の実感として、天香具山というのはすごく「存在感に乏しい山」である。大和三山の他の二つは電車からも国道からもよく見えて、子どもの頃の私たちは畝傍山を「ポッコリ山ワン」、耳成山を「ポッコリ山ツー」と読んでいたものだったが、香具山はどこにあるのかもよく分かっていなかった。「独立した山」ではなく「他の山塊の一部」になっているから、角度によっては全然目立たないのである。

天香具山は確か、眺めも全然良くなかったと思う。代わりにこの歌を説明する際によく引き合いに出されるのが、明日香の「甘樫丘展望台」から見下ろした時の奈良盆地の風景である。甘樫丘の丘の展望台は何でも昭和天皇ヒロヒトが「国見」を再現するために自動車道つきで整備されたものだったのだそうで、確かに眺めはいいのだが、眺めを良くするために付近の樹木を全部伐採した様子が下から見るとすごく不自然で、まるでマジンガーZの頭みたいなことになっていたのを覚えている。

さてそのことの上で、奈良県には周知の通り、海がない。従って「海原」もなければ、カモメもいない。舒明天皇は一体何を「見た」のだろうか。この歌が「郷土を象徴する歌」だと言われても子どもの頃から全然実感が湧かなかったのは、そこである。おそらくこれは大阪の高津宮で「国見」をしたとされている仁徳天皇の伝説を舒明天皇が「模倣」しただけではないか、という印象を持っているのだけれど、奈良のことを歌にするならせめて「見えた通りを歌にしろ」よと私は感じる。とにかく、他県の皆さんがこの歌の中に「大和の国のイメージ」を重ねていらっしゃるなら、それは情報操作に踊らされているだけというものである。この歌の中には「大和の国の姿」など、1ミリも存在しない。1平方ミリと言うべきか1立方ミリと言うべきか、そこまでは知らないのだけど。

写真は藤原宮跡から見た天香具山。私にとってこの場所に残されているのは、失恋した友人が一晩中さまよっていて警察の職質を受けたところという記憶だけで、他の思い出は特にない。






「中皇命」というのは女性で、天智天皇にとっては妹、天武天皇にとっては姉だった「間人皇女」のことを指しているらしい。その女性が、たぶん自分のところに仕えていた老人に歌を作らせて天皇に献上したというのが、この作品の「前書」の内容になっているのだと思う。

「中弭の音」とは、弓に何もつがえずにただ「弾く」時のビヤーンビヤーンという音を指しているのだそうで、古代ではその音が「魔除け」になるとされていたらしい。折口信夫の「口訳万葉集」では「その音が幻聴のように聞こえてくる」といったような訳し方がされていたけれど、そう思って聞くと何やら不気味な歌である。



この歌は「臨場感」があって、子どもの頃から割と気に入っていたのを覚えている。「万葉集」に最初に出てくる「フツーの短歌」である。後に出てくる柿本人麻呂の「阿騎野の歌」にも、この歌の情景が間違いなく「エコー」しているように思う。たぶん、当時から「よくできた歌」として評判が高かったのだろう。

五条の宇智野というのは、盆地の人間の感覚からするとすごく「遠いところ」だ。東京の人にとっての「八王子の向こう」ぐらいの感覚になると思う。智辯学園のあるところだが、五条の人には悪いけど、他のことはほとんど知らない。なので、書けることもあまりない。

この歌に出てくる「たまきはる」という枕詞に関しては、下記のサイトの方の考察がすごく「ふるっている」ように感じられたので、この場を借りて紹介させてもらっておきたい。

d.hatena.ne.jp




「軍王」という人名にはある本には「いくさのおおきみ」とルビが振られており、ある本には「こにきしのおおきみ」とルビが振られている。どういう人は全然わかっていないらしい。全然わからないのにどうして「こにきし」などという謎な読み方が「わかった」のか、そこらへんは本当にわからない。

「わづきも知らず」の「わづき」がどういう意味なのかということも、よく分かっていないらしい。それを言い出すと、最初から最後までこの歌は「何が言いたいのかよく分からない歌」である。何か、この軍王という人は心に「モヤモヤしたもの」を抱えていて、それをしきりに吐き出そうとしているのだけど、「モヤモヤしたまま」になっているような印象を受ける。「万葉集」って、あるいはこういう歌ばかりなのかもしれないとも思ったが、一巻を通読してみてこんなに「よく分からない歌」も他にないことが分かったので、改めて考え込んでいる次第である。

奈良盆地周辺を舞台にした歌が冒頭から三つ続いた後でいきなり「香川県」に飛ぶのも、唐突だ。なにか理由があるのだろうけれど、そんなことまで考察するのはこのブログでやろうと思っていたことの枠内を超えている。

「心を痛み」というのは「心が痛いので」という意味なのだそうで、こういう「み」の使い方を「ミ語法」と言うらしい。ひとつ知らなかったことを覚えたぞ。



…前の歌で延々と綴られていた「モヤモヤした気持ち」の内容は要約するなら、「奈良で待っている連れ合いが恋しい」ということに「すぎなかった」のだろうか。それはそれで、身も蓋も無さすぎる気がちょっとする。

この歌には確か、むかし瀬戸大橋が開通した時に「瀬戸大橋博覧会」というのがあって、家族で見に行ったことがあるのだけど、その香川県側の「坂出会場」で、出会ったことがあったような記憶がある。香川県で生まれた人は、奈良の私たちが冒頭から二番目の「カモメの歌」を「ありがたいもの」として教え込まれるのと同じように、この歌を「ありがたがること」を押しつけられて育つのかもしれない。しかし、言っちゃあ何だけど、石に刻んでまで有り難がるに値するような歌では、どうしたって、ないと思う。



…私はこの調子で「最後まで」書き続けるしかないのだろうか。最初は「全部の歌」について書くつもりなんて全然なかったし、記憶に強く残っているいくつかの歌についてエピソード的に書ければそれでいいや、と思っていたのだけれど、こうやって書いてくると「全部書くしかない」ような気持ちになってしまいつつある。いいだろうやってやろうではないか。しかし、いっぺんにやると読む人があまりに大変である。大体一回につき一万字までを限度に、この「万葉集青春ノート」はシリーズ化して、最後までやりぬくことにしたいと思う。

そう今決めた。ではまたいずれ。