華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

万葉集青春ノート 巻第二(相聞)

万葉集青春ノート

はじめたきっかけ
…上古音とされる音韻での朗読の試み
巻第一 (1〜6)
…万葉集に対する複雑な感情についてなど
巻第一 (6〜24)
…額田王のこと、三山歌のことなど
巻第一 (25〜44)
…柿本人麻呂登場
巻第一 (45〜49)
…阿騎野の「かぎろひを観る会」のこと
巻第一 (50〜84)
…高野原という場所のことなど


万葉集巻第二(相聞) 上古音とされる音韻での朗読の試み

「万葉集」に収録されている歌群は、文字通りいろいろな歌を雑多に集めた「雑歌」、男女の恋のやりとりを中心に集めた「相聞」、死者を悼む歌を集めた「挽歌」の三種に大別されており、今回取りあげる巻第二の前半部分には「相聞」の歌が集中的に収められている。天皇制を賛美する内容の歌で埋め尽くされた感のある巻第一と比べるなら、いくぶん「罪のない」内容になっていると言えないこともないのかもしれないが、それでもやっぱり全然イノセントなものであるとも、言えないのではないかと思う。貴族の手によって編まれた貴族のための歌集である「万葉集」の世界で主役を張っているのは、ひっきょう「身分差別を前提とした上での恋愛」であるにすぎない。そんな「恋愛」はその時点で「対等」なものではありえないわけだし、「純粋」なものであるとも言えないと思う。

とりわけこの巻第二に収録されているのは、ことごとくが「誰から誰に送られた歌」であるかという個人情報を明記した上での「公開の恋の歌」である。自分(たち)の恋愛を「公開」の対象にしようというこの感覚自体、現代に生きる我々からしてみれば相当に「ありえない」ものなのではないかと思う。自分が若い頃に勢いにまかせて書いた誰かへのラブレターがまかり間違って他の誰かに読まれるようなことになったら、私だったら死ぬと思うし、それが本になって不特定多数の目にまで触れるような事態になったら、もっと死ぬだろう。けれどもこの万葉集巻第二の「相聞歌」の作者たちの多くは、自分が恋したその相手に見せる(聞いてもらう)ためと言うよりむしろ、「他の第三者に見せる(聞かせる)」ことを前提とした上で「恋の歌」を作ってみせているような気配が感じられる。

思うにこれは「古代人の感覚」と言うよりも、自分たちのことを「他の人間よりも身分が上」だと思い込んでいる人間たちのあいだに時代や国境を越えて普遍的に存在している「一般人とは違った感覚」なのではないか、という気がする。こうした階級に所属している人間たちにとって、恋愛というのは当事者同士のためのものであるよりも先に、他の誰かに見せつけて自分(たち)の優位性を誇示するための「ステータス」なのである。身分制度を前提するなら、男性にとってはその男性社会の価値観に照らして「美しい」とされている女性を「自分のもの」にすることが「ステータス」になるわけだし、女性の側からするならば地位や身分の高い男性を「自分のもの」にすることが「ステータス」になるわけだ。そこにおいては「愛を手にする」ことが「権力を手にすること」とイコールになっているし、逆に言うなら「権力」がなければ「愛」も成立しないという関係になっている。そこで交わされる「愛」の内容そのものが、「相手の人間性」に向けられた愛ではなく「自分の社会的ステータス」に向けられた「愛」にしかなっていないからである。



という中臣鎌足の歌で「無邪気に」うたわれている「愛」などは、以前の記事でも触れたことがあるけれど、その最たるものだと言えるだろう。

nagi1995.hatenablog.com
そしてそういう風に考えてみるなら、「そういう恋愛」しかできない人間たちというのは、現代社会にも掃いて捨てるほど存在している。「人間が平等であること」を謳い文句にしたフランスとアメリカの革命を原点として世界を覆い尽くすに至った現代の資本主義社会もまた、それが資本主義であり続ける限りにおいては、「形を変えた身分社会」でしかありえないからである。「制度」としての「身分」は撤廃されても(天皇制を残存させている日本社会はいまだ「そこまですら」行っていないわけだが)そこには依然として「階級」というものが存在している。しかしながらいかに「社会がそうなっている」からといえ、「そういう恋愛しかできないこと」というのは、私に言わせるなら明らかに「不幸なこと」なのである。そしてそれを「不幸」であると「感じることのできる」世界中の人々の存在こそが、逆説的に言うならば人類の未来というものに「希望」を投げかけてくれているのだと言えるだろう。今の社会が昔と比べて曲がりなりにも「良く」なっているのは、世界の至るところで数えきれないくらいの人たちがそうした自分たちの「不幸」をハネ返すために、戦い続けてきてくれたことの「おかげ」に他ならないのだ。そしてそのことは、これからだって同じであるに違いない。

「人間的な欲求」が「制度」と衝突する時そこには必然的に「戦い」が発生するのであり、そうした「自由のための戦い」はそれぞれの時代における「制約のあり方」に規定されつつも、それこそ人間の歴史において普遍的に存在し続けてきた。そういった「時代を越えたきらめき」を感じさせてくれる歌というものは、「万葉集」みたいな歌集の中においても、数は少ないとはいえやはり圧倒的な存在感を放ち続けている。



という但馬皇女の作と伝えられる歌は、そうした歌のひとつだと言えるだろう。この歌が作られた背景事情というのはけっこう複雑で、まず但馬皇女というのは天武天皇の娘であり、その人が同じく天武天皇の息子である異母きょうだいの高市皇子のもとに嫁がされていた。ところがこの但馬皇女が同じく天武天皇の息子であり自分とも高市皇子とも母親を異にする穂積皇子と密通していたことが明らかになり、高市皇子の方が穂積皇子より地位も年齢も上だったもので、世間は騒然となった。(逆だったら多分、騒然とはならなかったのだと思う。こういったスキャンダルというのはそもそもからして「不条理」なものなのである)。それで、天武天皇の皇后でありその死後に自ら即位した持統天皇は、騒ぎを収めるために穂積皇子を飛鳥から滋賀県の山寺に移してしまう決定をくだした。(ちなみに持統天皇という人は上の三人の誰の母親にもあたらない。どれだけ複雑な人間関係なのだろう)。その天皇の処置と、世間からの好奇の視線に対し、但馬皇女が公然と叩きつけたとされているのが、上の歌なのである。

人言を繁み言痛み」の「み」は「〜ので」という意味であり、「人の噂がやかましくて仕方ないので」ということだ。「おのが世に」とは「自分の人生において」とも読めるし「自分の知っている世界において」とも読める。そこにおいて「いまだ渡られたことのない川」を「」に渡るということが言われている。「朝」という言葉に込められているイメージは水の冷たさや行く手の厳しさであると同時に、「自分の手で全てを新しく始め直す」という決然たる心情だろう。つまるところこの人は、因習や世間の目というものが自分に敵対するならば、自分はたった一人になってもその歴史を変えてやるし、その世界を変えてやる、ということを「宣言」しているわけである。「公開の恋歌」という「形式」は、ここにおいては明らかに積極的な意味を持っている。

まあ、言ってしまうならこの人にこういう歌が書けたのは自分が「天皇の娘」であって「恋愛ぐらいのこと」では誰からも処罰される恐れがないという「強み」があったからこそ可能だったのだということになるのだろうし、またこの人が本当に高市皇子の宮殿を抜け出して大和川や木津川を裸足で渡って近江まで穂積皇子を追いかけてゆくことができたかといえば、できなかったに違いない。もとよりする気もなかったことだろう。けれども「そこまですることになったとしても」自分の気持ちが変わることはない、ということを口さがない世間に向かって言い切っている姿というものは、やはり大したものだと思う。そしてこんな風に「負けない人の姿」というものは、それを目のあたりにする人間の胸に時代を越えて「希望」を与えてくれるものだと言えるだろう。

それにつけても、こうした歌が「純粋な輝き」を放つことができるのは、古代の身分制度のもとで「恋愛」と「結婚」とがハッキリ「別なもの」とされていたことの結果でもあるわけで、それがイコールであることが前提とされている現代社会においては、「不倫」という行為が持つ意味もまた変わってくる。この歌において「カッコの悪い立場」に立たされている高市皇子は、「バツの悪い思い」はしたかもしれないし「怒り」もしたかもしれないが、但馬皇女のこの歌によって「傷つく」ことはなかったのではないかと思う。恋愛感情ではなく双方の利害関係によってしか成立していないような結婚生活である以上、そこには「裏切られる前提」自体が存在していないからである。けれどもどんな形であれ「恋愛感情」を出発点とした結婚生活である限りは、それが破壊される際には必ず「裏切り」が発生するわけだし、「裏切る側」がそれを「なかったこと」にして「恋愛の美しさ」だけを謳歌してみせるようなことは、決してホメられた話ではないと思う。「不倫は文化だ」と言ってみせた芸能人がいたけれど、それが古代の社会で持っていた意味と現代の社会で持っている意味とは、明らかに「同じではない」のである。だからこれと全く同じような内容の歌は、これからの社会においてはもはや作られることはないのだと思うし、また作られる必要もないのだと思う。外国の小説なんかを読んでみても、この歌のようなスタイルにおける「恋愛悲劇」は、少なくとも19世紀までは世界中に偏在していたようである。けれども21世紀を生きる我々が直面している「恋の問題」は、明らかに「それとは違った問題」なのだ。だから、言っちゃあ何だが「参考になるもの」は過去の歴史の中には全く存在していないわけなのであって、本当に「納得できる答え」というものは結局のところ、現代を生きる我々自身が我々自身の手で築き上げてゆく以外にないものなのだと思う。無理やりなまとめ方になってしまったな。





万葉集巻第二の「相聞」の部は、「石見相聞歌」と呼ばれる一連の有名な柿本人麻呂の歌群によって締めくくられている。現在の島根県西部に赴任していた人麻呂が大和に戻る際、「現地妻」にしていた依羅娘子(よさみのをとめ)という人との別れを惜しんで作った歌だとされているのだが、「現地妻」などという人を見下した言い方が現在においても「通用」する日本語になっているということ自体、現代の日本社会においても千数百年前と何ら変わらない形での女性差別が存在し続けていることのあらわれに他ならないわけで、歌の作られた前提自体、どうも私には受け入れ難い。それにそんなに別れるのが辛いというのなら、一緒に大和に帰るか自分が石見に残るかすればいいのである。それなのに「置いて帰った」というのは、結局相手の人よりも「都でのステータス」の方が、人麻呂にとって「大切」だったということなのだろう。全く「共感」してやりたい気持ちになれない歌だと思う。余談ながら第二次大戦中の日本における「戦時歌謡」には、まるでこの歌を地で行くように「満州」や南洋諸島に置いてきた「現地妻」への「思い」を歌った軍人目線の「いい気な歌」がそれこそ山のように存在しているのだが、そうした「いい気な感傷」の対極に「従軍慰安婦」制度が存在していたのだという歴史を突きつけられてみると、本当に「おぞましい」という感想しか私には湧いてこない。外国でしたい放題をやらかした日本の男どもがそんな風に「人麻呂気分」に浸ることで自分たちの振る舞いを美化していたのだとしたら、やはり「万葉集」というのは世界史上でも稀に見るほどに罪深い役割を果たした書物だと言わざるを得ないと思う。

それにつけても奈良県で育った人間の感覚からしてみれば、島根県というのはありえないほど「遠いところ」である。高校の卒業旅行で一回だけ行ったことがあるのだが、青春18きっぷのタラタラした旅だと、鉄道を使っても江津までたどり着くまでに二日かかった。昨年廃線になった「三江線」で広島県の三次から三時間かけて日本海に出たのだったが、距離の長さだけでなくそこに至るまでの中国山地の山深さもまた、忘れられない。奈良盆地には桜井市に「出雲」、三宅町に「石見」という地名が今でも残っていて、それぞれ山陰地方の旧国名との関わりが語られていたりするのだが、馬だってまだそんなに沢山はいなかったような時代からあんなに遠い国と「行き来」があったのかと思うと気が遠くなるような感じがする。出雲地方にはヤマト王権と対抗できるぐらいの王権がかつて存在していたらしいが、あんなに離れたところにあるクニ同士でもお互いを「そっとしておく」ことはできなかったのだろうかと思うと、それを「そっと」しておくことのできなかった昔の支配者たちの執念みたいなものに、ぞっとさせられるような気持ちを感じる。どうも、うまい文章になってくれないな。

「よしゑやし」という「かけ声」みたいなこの歌の特徴的なフレーズは「よしんば=もしも〜だとしても」的な意味なのだと解説書にはあるが、本によっていろいろ解釈が違っている。歌の構成としては、人麻呂がこれから後にする石見国の海辺の風景というものが冒頭でザッと俯瞰されており、その海の中で海藻がゆらゆら揺れている情景がクローズアップされたところから何となく「えろい連想」が働きだして、その「えろい思い出」と相まって置き去りにして行く彼女への未練みたいなものがドドっと吐き出される、みたいな感じになっていて、「翻訳された言葉」でそれを再現することは難しいけれど、当時の観客(聴衆?)はその語り口に相当にドラマチックなものを感じていたのだと思うし、またえろい想像を掻き立てられる興奮みたいなものも味わっていたのではないかと思われる。伊藤博という学者の人は「万葉集釈注」という本の中で、人麻呂という人は一種の「歌俳優」として宮廷人たちの前で自分の経験をそんな風に「上演」してみせていたのではないかという想像を巡らせているのだが、当時における「歌のありかた」に対する思いの馳せ方としては、なかなかリアルな線を突いているのではないかという感じがする。何より奈良というところには、海がない。だからこの歌の冒頭部分における長々とした「海の風景」の描写には、歌う方も聞く方も相当に「エキゾチックな情緒」を掻き立てられていたのではないかということが想像される。




その後の日本文学の歴史に大きく影響を与えていると思われるのは、何と言っても最後の「靡けこの山」というフレーズだろう。山を越えてしまうと、置いてきた彼女の姿も、彼女と暮らした石見の国の風景も、もはや二度と見ることができなくなってしまう。何と不条理なことだ。山よ何をそんなところに立ちふさがってくれているのだ。どくかしゃがむかしろ、という風に山に向かって「命令」しているのがこのフレーズなのである。どだいそれは、無茶な話だ。けれどもそんな風に「ちっぽけな人間」が「巨大な大自然」に向かって「命令」してみせるスタイルというものは、例えば二百年後に書かれた有名な「古今和歌集」仮名序の

力をも入れずしてあめつちを動かし
目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ
男女の仲をもやはらげ
猛きもののふの心をも慰むるは歌なり

という冒頭部分に明らかに引き継がれているのを我々は感じるし、また新しくは恋人を病気で失った星飛雄馬が

もう青春などいらん、終われ!

と絶叫してみせる「巨人の星」の1シーンみたいなところにまで、「エコー」し続けているということが言えるだろう。けれどもそれは「日本文学の誇るべき伝統」みたいな感じで持ち上げるには余りに「滑稽」な内容であると私は感じるし、日本という国家が「言霊のさきわう国」と形容されている内容がそうした文脈においてのことなのだとすれば、恥ずかしいぐらいに夜郎自大な自己満足にすぎないではないかと私は思う。つまるところ私は、こうした「うた」というものを全く好きになれない。それを言うためだけにこれだけの文字数を使わされる羽目になってしまったこと自体、極めてけったくその悪いことだと感じている。



「万葉集青春ノート」と銘打っておきつつ、今回は自分自身の個人的な思い出にまつわるエピソードをほとんど書くことができなかったが、それは多分自分の周りが「万葉集だらけ」だった子ども時代において、「相聞の部」に収められている「恋の歌」というのは一番「縁遠いもの」に感じられていたということによるのだと思う。歌の内容でなく「出てくる人名」に喚起される思い出があるとするならば、「なつかしい」のは巻第二の冒頭の歌に出てくる「磐之媛命」の名前である。



上の写真は気分の悪いことに防衛省のウェブサイトからコピーしてきたものなのだが、現在の奈良市においてはこんな風に平城宮跡の北側の「佐紀盾列古墳群」の中心部に当たる部分に航空自衛隊の基地が居座っており、その北側に広がっているのが私の高校のあった「高の原」のニュータウンだ。そして画面左上に見える森に囲まれた古墳が「磐之媛陵」と呼ばれる仁徳天皇の皇后の陵墓参考地であり、ここに隣接する一帯が私の子どもの頃には市営のキャンプ場になっていた。だもんで小学生の頃から地域の子ども会の飯盒炊爨や何かで何度となくこの場所には通ったし、高校生になってからはしょっちゅう寄り道して時間をつぶす場所になっていた。とにかく、静かなところなのだ。

小学生の頃には、この古墳の池にはライギョという恐ろしい魚がいて子どもの指など平気で食いちぎってしまうから決して近寄ってはならないということが言われていたのだが、そう言われるとそれがどんな魚か見に行きたくなるのが子どもの心理というものである。それで友だちとこっそり出かけていって濁った水面をじーっと見つめていたことが何度かあるのだが、結局「ライギョ」の姿を実際に拝めたことは一度もなかった。なので「磐之媛命」という文字列を目にするたびに反射的に私の脳裏に浮かぶのは、古事記や日本書紀の神話的なエピソードではなく、今でもやはり「まだ見ぬライギョのイメージ」になっている。

またこの古墳の周りには「陪冢」と呼ばれる土まんじゅうのような小さな古墳がいくつも点在しており、それは濠の中の古墳の主が死んだ際に殉死させられた人たちの墓なのだと聞かされていた。手塚治虫の「火の鳥」ヤマト編などを通じてかつての日本にそうした風習が存在したことの意味を再確認させられていったのはしばらく後の話になるのだが、いずれにしても古代における天皇の一族というのがそれほどまでに「恐ろしい存在」だったというイメージを刻みつけられたのは、そのとき感じた衝撃によるところが大きいのだと思う。そういった「死者の気配」が濃厚に立ち込める磐之媛命陵墓参考地は、小さい頃は友だちと一緒でないと怖くて近寄れない場所だったが、思春期ごろになるとだんだん「自分だけの秘密の場所」みたいな位置づけに変わって行った。別に「自分の土地」でも何でもないのだが、少なくとも当時の奈良市において私の「同類」はどこにもいなかったのだと思われる。何年にもわたってずいぶんしょっちゅうウロウロしていたものだったけど、あの古墳の周辺ではおよそ「人に会う」ということがほとんどなかった。

記紀神話において磐之媛命という人は女神ヘラのごとくに「しっと深い女性」として描かれているのだが、それは夫の仁徳天皇を主役的に描かねばならないという編集者の側の理由によっているわけで、客観的には「夫の浮気に泣かされ続けた女性」と書かれるべきところなのだと思う。「古事記」には仁徳天皇の浮気関係の話だけで三つものエピソードが掲載されており、どこが「仁徳天皇」なのだという感じである。しかもこの男その過程で人まで殺してるし。「万葉集」においては既に数百年前の伝説の中の人物となっていたであろうこの磐之媛命の「そんな夫であっても自分は待ち続けよう」という「健気なイメージ」の歌が掲載されているわけなのだが、周知のように仁徳天皇の陵墓参考地が存在しているのは奈良から電車を乗り換えて一時間もかかる大阪府堺市である。磐之媛命という人は結局死ぬまで、そして死んでからもずっと「放ったらかし」にされ続けたのではないかという印象を拭えない。名前しか残っていないような人だったならその事実もいつかは歴史の中に埋もれてしまったことだろうが、あんなに巨大な墓が生駒山地の両側に離れて存在し続けている以上、かれらの「冷え切った夫婦仲」は誰の目にも隠しようのない事実として「晒しもの」になり続ける他にないわけである。それを「世界遺産」なんかにしてしまって、果たしていいものなのだろうか。オトナの気持ちが分かるようになってきたこの年頃を迎えてみると、磐之媛命陵墓参考地のあたりに立ち込めていたあの「ひっそりとした妖しい気配」にも「別の意味」が込められていたのではないかといったようなことを、感じずにいられない気持ちにさせられてしまう。ちなみに「相聞」というのは「双方の歌」が存在することによって初めて成立する概念であるはずなのだが、磐之媛命に関して言えば「万葉集」に登場するのは彼女の側から歌われた歌のみであり、仁徳天皇の名前は一切登場しない。

何だかなあ。

ではまたいずれ。