華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

万葉集青春ノート 巻第二 (挽歌)

万葉集青春ノート

はじめたきっかけ
…上古音とされる音韻での朗読の試み
巻第一 (1〜6)
…万葉集に対する複雑な感情についてなど
巻第一 (6〜24)
…額田王のこと、三山歌のことなど
巻第一 (25〜44)
…柿本人麻呂登場
巻第一 (45〜49)
…阿騎野の「かぎろひを観る会」のこと
巻第一 (50〜84)
…高野原という場所のことなど
巻第二 相聞 (85〜140)
…身分や階級と恋愛の関係についてなど


万葉集巻第二(挽歌) 上古音とされる音韻での朗読の試み

「挽歌」とは「死を悲しむ歌」のこと。もともとは中国で「棺を乗せた車を挽く(ひく)」時に歌われた歌を「挽歌」と呼んだらしいのだけど、「万葉集」では「人の死」に向けられた歌が全般的に「挽歌」に分類されており、冒頭の有馬皇子の歌や終盤の柿本人麻呂の歌のように「死にゆく自分自身の思い」を綴った歌もここに収録されている。私が初めてこの「挽歌」という言葉に出会ったのはご多聞にもれず北原ミレイさんの「石狩挽歌」を通じてだったわけだが、あの歌は石狩湾でニシンが獲れまくって小樽の街が栄えに栄えていた「二度と戻らない幸せな時代」を悼む気持ちが込められた歌だったという意味において「挽歌」だったわけなのだな。


石狩挽歌

身分の高い人間も低い人間も、死んでしまえば同じことであり、「万葉集」の「挽歌」の項目には時代や貧富の差を超越した普遍的な「悲しみの感情」が歌われている、みたいな解説をよく目にすることがあるのだけれど、そんなのはウソばっかりである。人間の社会に存在するあらゆる不平等さの中で、死んだ時の扱われ方ぐらい不平等なものは他にない。

それはまあ、死んだ人間は死んでるわけだし、その死者に対する「不平等な扱い方」は全部「生きている人間」のやることではあるわけだが、特権階級の人間たちというのは、自分たちの間から出た死者をも特権的に扱い続けることを通してこそ、自分たちの特権的な地位が維持できるのだということを知り抜いているから、死者の扱い方には特別な「こだわり」を見せるのだ。「万葉集」の時代には既に過去の習慣になっていたことだとはいえ、ヤマト政権の初期の時代には大王の勢威を示すためにその生前から巨大な古墳を造営することが何代にもわたって繰り返されていたわけだし、それが死んだら大勢の人が「殉死」を強制された。平等な人間の命に「価値の優劣」を作り出すために他の人間の命の数が「価値の指標」に使われたわけであって、人間の歴史が作り出したあらゆる慣習の中でもこれほどおぞましいものは他になかったと思う。

一方で兵役や都の造営のために遠い東国や九州から駆り出された人々は、その道中で行き倒れになったとしても埋葬さえ受けることなく放置されていたわけだし、さらにその死骸に近寄ったら「ケガれる」みたいなことさえ言われていたわけだ。「万葉集」には「行路死人」のことを扱った歌がいくつかあるが、その多くは「それを見てしまった自分からケガレを払うため」の「呪術的な作法」として詠まれた歌であるにすぎないし、死者に対して比較的「同情的」な視線を示しているものにしても、結局は「身分の高い人間」から「低い人間」に向けられた客観的な感情が綴られただけの歌であるにすぎない。それはそうだろうと思う。行き倒れになった人を見て「もしこの人が自分だったら」みたいなところにまで感情移入を進めてしまったら、その歌人は自分が「上流階級」の人間であることはもとより、身分制度の存在そのものまで「否定」しなければならないことになってしまう。下記はそうした歌の中で一番最初に出てくる、この巻所収の柿本人麻呂の歌。もっともこの歌に関しては、瀬戸内海の小島に流刑にされた人麻呂が、そこで死んでいた「先輩」の姿を目にした際の感興を綴った歌ではないかという説もあるらしい。






現代の社会において人間の命がいかに「不平等」に扱われているかを一番痛感させられるのも、多くは死にまつわる現場である。大会社の社長が死んだ際などには、一台何万円もする花輪がたった数時間飾られるだけのために所狭しと斎場に並び、その下に大書された名前のひとつひとつが、自分が故人といかに深い関係を持った人間だったかをやかましく自己主張している。戒名や礼式には「最高級」のものが選ばれ、故人の人間としての「値打ち」も残された人間の「悲しみの深さ」も、つまるところは厳密に金額の多寡に換算されることになる。折悪しく同じ日にその隣で葬式をやる羽目になってしまった貧乏人の家族などは、本当なら何も恥じる必要などないはずなのに、隣と同じような葬式の出せない自分たちが「親不孝」で「人でなし」であるかのような気持ちに苛まれてしまう。集まった人たちがどれだけ「心から」悲しんでいたとしても、まるで「お前たちの涙には『値打ち』がない」と言われているようなものだ。そういうやるせない葬式の現場には割と何度も立ち会ってきたもので、「立派な葬礼」やら「立派な墓石」やらといったものにはそれだけで生理的な反発を覚えてしまうようなところが私にはある。

この「万葉集」巻第二においても、登場する死者たちは完全に「不平等」に扱われているし、いわばその不平等さを「作り出すこと」を目的としてこの歌集は編纂されていると言っても過言ではない。巻第二の挽歌群において圧倒的な「特権待遇」を受けているのは、天武天皇と持統天皇の息子であり、この子を皇太子とするために母親の持統天皇はライバル視されていた大津皇子に謀反の嫌疑をかけて謀殺するという行為にまで手を染めたにも関わらず、その甲斐もなく母親よりも先に病死してしまった「日並皇子」こと草壁皇子という人である。この人の死に際しては、故人を「神」と称える柿本人麻呂の長々しい長歌に続いて、一年間にわたる殯(もがり)の期間に側近だった人々が詠んだとされている「悲しみの歌」が延々23首も収録されており、こんな扱いを受けている死者は「万葉集」においては他に例を見ない。本人は天皇になれないまま死んだとはいえ、その子どもはそれぞれ文武天皇、元正天皇となり、さらにその孫は聖武天皇、ひ孫は孝謙/称徳天皇と、奈良時代に権勢をふるった諸天皇はことごとくこの人の血統に属していたので、特別な上にも特別な扱いをしておかねば「示しがつかない」といったような「政治的忖度」が、あるいは働いていたのかもしれない。それにつけても、「悲しみの歌」というのもあんまりクドいと、本当に単なる「べんちゃら」にしか思えなくなってくるものである。前世紀の天皇が死んだ時がそうだったように、近代化されたマスコミがそのあらゆるネットワークを駆使して何も変わらない「べんちゃら合戦」を繰り広げるさまを、近い将来我々はもう一度見せつけられるより他ないことになっているようだ。日本で暮らしている限りそこから「逃げる」ことは誰にもできない。逃げることができないならせめて私は自分の書く文章を「戦い」の一助にして行きたいと思う。

また持統天皇のもとで太政大臣を務めた高市皇子という人の死にあたっては、柿本人麻呂が「万葉集」4500余首の中で最も長大な150句にわたる挽歌を寄せており、その中では壬申の乱における故人の軍功が朗々と詠いあげられていたりするのだが、その高市皇子の「大活躍」によって殺された敵軍の人々の一人ひとりにも、本当ならば同じくらいの長さの「挽歌」をどれだけ作ってみたところで追いつかないぐらいの豊かでかけがえのない「人生」が存在したに違いないのである。血なまぐさい戦争の勝者となったことを通して権力者の座についた人間の「遺徳」など、聞かされるだにうそ寒い気持ちしか私には湧いてこない。第二次大戦前の教育制度においてはこうした歌を仰々しく取りあげることで「天皇のために死ぬ」ことを子どもたちの思想に叩き込むことが盛んに行われたようだが、現代に生きる人間にとってこの手の歌はおよそ「鑑賞」にたえうるものではないと思う。それにわざとらしく「感動」してみせたりする人間の「利害」は、恐らくは別なところに存在しているのである。なお、万葉集の1 〜2巻を通じて「戦争にまつわる歌」はこの一首のみであり、壬申の乱を除けば戦争らしい戦争がほとんど起こらなかった時代背景も関係しているのだろうが、それだけにこの歌に「特別扱い」が与えられていることには、私はいっそう不気味な印象を受ける。













とはいえ「万葉集」を単なる「べんちゃら歌集」として切って捨てる気にもなれないのは、権力者たちの策謀によって政治的に抹殺され、場合によってはその存在さえ「消されて」しまっていたかもしれない人々の「肉声」をも後世に伝えてくれている点である。しかしながらこのことは「万葉集」の編者が「政治的に公平」だったとかそういうことを意味しているわけでは全くなく、むしろ「万葉集」の編者自身が政治的に「そういう立ち位置」に立っていたということを物語っているにすぎない。つまり「万葉集」を編纂した人(々)は古代における天皇制権力の中枢部分にいたと言うよりは、むしろそこから疎外され、場合によっては迫害される立場にあった人(々)であったことが想像されるわけで、その点が平安期以降のいわゆる「勅撰和歌集」とはハッキリ様相を異にしている。このことから「万葉集」の編者はどんな人物だったかということをめぐる論争が昔から絶えないわけではあるが、ここではあまり深入りしないことにしておく。広い意味ではかれらもまた「天皇制の犠牲者」だったかもしれないが、別にかれらは「天皇制に反対した人々」だったわけではなく「天皇になりたかったけどなれなかった人々」にすぎないわけで、別に私の仲間ではない。いずれにしても天皇制というものが日本に存在する限り、別に「皇室」の内側に限ったことでなく、こうした「悲劇」は繰り返し形を変えて発生し続けるに違いないわけではあるけれど、天皇制という制度そのものから迫害を受けている人間の立場からするならば、そんなのは「悲劇」のうちにも入らないことだと私は思う。




巻第二の冒頭に収録されているのは中大兄皇子にハメられて殺された孝徳天皇の息子の有間皇子という人の辞世の歌で、この人の殺され方というのはとてもザンないものだった。ある時、斉明天皇と中大兄皇子の一行が白浜温泉に旅行に出かけ、有間皇子が留守居をしていたところ、蘇我赤兄という者が近づいて「しかし言うたらアレですけど、斉明天皇の政治ちゅーもんは、なってないですなあ」的なことを言ったのだという。それで同じことを考えていた有間皇子もうれしくなって、「せやねん。まあ俺がどっかで何とかしたらなアカン思てんねんけどな」的なことを、多少気が大きくなって、言ってしまったのだという。そしたら数日後の夜、皇子の家は蘇我赤兄の軍勢に包囲されていた。「謀反の嫌疑が明らかになったので、白浜温泉に連行して中大兄皇子に直々に詮議してもらう」と言うのだった。つまり、中大兄と蘇我赤兄は最初から「デキていた」わけである。口は災いのモンマルトルの丘。こうした罠には、本当に気をつけなければならないものだと思う。

大和から見て白浜温泉の手前にあたる現和歌山県みなべ町の岩代というところには、昔から旅ゆく人がその枝を結んで道中の安全を祈る「結び松」というものがあった。有間皇子は白浜温泉に行けばもはや生きては大和に帰れないことを分かった上で、その松の枝を結んだ。その時に詠んだとされているのが上の歌である。それにつけても、谷山浩子さんの「テングサの歌」でこの世の終わりの場所みたいな感じに描かれていた「岩代」が、そんな昔から人間の「死」と切っても切り離せないイメージと結びつけられた歌枕になっていたとは、前にも書いたけど驚きの再発見だった。


テングサの歌





上の三首は同様に、持統天皇から「謀反の嫌疑」をデッチあげられて殺された大津皇子の姉の大伯皇女という人が、伊勢の斎宮の任を解かれて明日香に戻り、弟の遺体と対面した時に詠んだとされている歌、またその遺体が二上山の雄岳に埋葬された際のものと伝えられている歌である。何と言うかこのお姉さんは、とても気丈な人だったのだと思う。二首目なんか、完全に「八つ当たりの歌」になっている。「わざわざ伊勢から何日もかけて何のために明日香まで帰ってきたんやウチは。弟に会えるわけでもないのに。馬を疲れさしただけやないか!」...この完全に「やり場のない感情」が吐露されている点に、美辞麗句で飾られた他のいろんな歌には見られないような「本当の悲しみ」がにじみ出ているような感じが私はする。


朗読 「死者の書」 1/20

三首目はとても有名な歌で、折口信夫はここから着想を得て「死者の書」というとても独特な小説を書いている。私にとっても思い入れが深いのは、二上山というのがとりわけ自分にとっていろいろな思い出と結びついた場所だからである。いろいろ書こうと思ったけれど書ききれないので、やめておこう。ちなみに「二上山」の古典作品での読みは「ふたかみやま」だけど、現在の奈良県では誰もが「にじょうざん」と呼んでいて、駅の名前もそうなっている。









最後に紹介するのは柿本人麻呂が自らの死にのぞんで詠んだとされている歌と、その妻や関係者が後から詠んだとされている挽歌群。全然関係のない話から始めさせてもらうのだけど、遠い昔、「探偵ナイトスクープ」が始まって間もない頃。当時は槍魔栗三助という芸名を使っていた生瀬勝久や嘉門達夫が探偵をやっていたその頃に、「道頓堀川に沈められたカーネル·サンダース人形を見つけ出そう」という回があった。私が小学一年生だった1985年、阪神タイガースが21年ぶりに優勝したことで大阪の街は今でも伝説として語り継がれるような空前のお祭り騒ぎに沸き返り、以来何かあるごとにヤンチャな人らが戎橋の上から道頓堀川に飛び込むという「伝統」はこの時から開始されているわけなのだけど、その際、人間のみならず傍に立っていたケンタッキー·フライドチキンのカーネル·サンダース人形までが、「バースに似ている」ということで群衆に担ぎ出されて川に放り込まれるということが、実際に起こったらしい。以来阪神が何年にも渡って最下位を低迷し続けているのは、そのケンタッキーの人形の「呪い」に違いないから、引き上げて供養してほしい、というのが番組への依頼の内容だった。

当時の探偵局長だった上岡龍太郎は「それは大いにありうることだから何としても見つけ出すように」と探偵たちに檄を飛ばし、その割には後になってこの世には心霊現象などというものは存在しないにも関わらず番組に霊能力者を出すのはけしからんみたいなことを言って途中退席したりとかしていたからこの人の考えていたことというのはいまだによく分からないのだけど、その際に上岡龍太郎が「論拠」として振り回していたのが、「万葉集」の「人麻呂挽歌群」には無実の罪を着せられて水死刑にされた柿本人麻呂の怨念が込められている、という新説の記載された梅原猛の「水底の歌」という本だったのである。梅原猛といえば、「法隆寺は聖徳太子の怨霊鎮護のために建てられた呪われた寺だ」と主張する「隠された十字架」という本で、当時においては小学生の間でも何となく名前が知られているぐらいに有名な人だった。まあ、私たちの間でそれが知られていたのは、その法隆寺が実際に割と近所にあって、その「呪い」を実際に見に行こうみたいなことが子どものレジャーとして成立する環境だったからということにすぎなかったかもしれないのだけど。それで梅原猛という人は他にも「呪いの本」を書いていたのかと興味を持ち、図書館まで行って「水底の歌」を借りてきたことを覚えている。けれどもさすがにその当時は、理解できなかった。

そのことを今になって思い出し、「水底の歌」という本を数十年ぶりに読み返してみたのだけれど、デタラメとは言わないにしてもまあ、ものすごい本だった。話はまず「人麻呂最期の地」と伝えられている「鴨山」がどこにあったのかということの考証から始まっているのだが、梅原猛はそこでのっけから、「鴨山」の所在地を現在の島根県邑智郡美郷町湯抱に比定した斎藤茂吉という歌人の「感受性の乏しさ」を、口を極めて罵っている。曰く、歌に込められた切実な気持ちを全然理解していないとか、夫に先立たれる女の気持ちを全然理解していないとか、美郷町湯抱ではその歌の調べが作り出す世界と全然ビジュアル的にフューチャーしないとか、つまるところ「勝手なこと」を言っているようにしか私には全然思えないのだった。「女というものは愛する男が死んだ時には、例えどんな姿になっていようともその側にすがりつきに行きたいと思うものだ。依羅娘子の歌はそういう状況下において詠まれたものだと読むべきで、夫が死んだというのに遠く離れたところで歌だけ詠んでいるような女がどこにいる」みたいな「論拠」で梅原猛は斎藤茂吉のことを「攻撃」しているわけなのだが、「まともな感受性」の持ち主であればどうしてそんなことを「男」から説教されねばならないのだという反発を感じるのが「普通」なのではないだろうか。私も男であるわけだけど。

その上で梅原猛は、「万葉集と曇りない目で向き合うことからこんなにも恐ろしい結論が導き出されてしまうとは私自身、できることなら信じたくない」みたいなことを言って一人で盛りあがりながら「歌聖と讃えられる柿本人麻呂は藤原不比等の陰謀によって日本海に沈められた悲劇の政治的敗者だった」という「結論」へと突き進んで行くのだが、そんなのはいろんな国の歴史を見渡してみても大して「珍しい話」でもないし、何をそんなに盛り上がれるのかがよく分からない。「鴨山」や「石川」がどこであれ柿本人麻呂の生前の位が正何位であれ正直「どうでもいい」という感想しか私には湧いてこなかったし、読後に一番残った気持ちは、上に挙げた五首の歌はそんなに何百ページもの本を書いての考察に値するほど「大した歌」なのか?ということでしかなかった。その「感受性の乏しさ」を今は亡き梅原猛からナジられることになったとしても、それはそれでやっぱり「どうでもいい」としか思えない。あんな人間から人の感受性を云々されねばならない謂れなど、少なくとも私の側には存在しない。

梅原猛がそんな風に泣いたり叫んだり胸を叩いたりしていることの一方で、伊藤博という万葉学者は上の「人麻呂挽歌群」は実際に人麻呂の死に際して作られたものではなく、一種の「芝居の台本」みたいな形で作られたフィクションだったのではないか、という説を展開している。前回出てきた「石見相聞歌」のウケが宮廷内であまりに高かったもので、みんなが「人麻呂と依羅娘子の物語」の「続き」を知りたがり、結局人麻呂は「歌物語」の中で「自分を殺す」ハメになってしまったのではないか、というのである。(そういうものとして理解するならば、上の歌の作者が「人麻呂本人」である必要さえなくなってくる)。歌というものはいったん言葉になってしまえば、「みんなのもの」になるわけだ。宮廷の宴が盛り上がった際には誰もが人麻呂になりきって、依羅娘子になりきって、上の挽歌群を「台詞」にしながら「悲劇の別れ」のシーンを「実演」することが、一種の「宴会芸」として成立していたのではないかというのが上の説のあらましで、それが正しいか間違っているかの判断は措くにしても、私にはとても新鮮で面白く感じられる見方だった。だって、これらの歌が「そういう歌」だったのだとした場合、「この歌は実際に愛する男を失った女でなければ絶対に作れない歌だ」とか言って血涙を流していた梅原猛の「感受性」というのは一体何だったのだろうという話になるからである。同じ「学者」の目を通してみても、歌の受け止められ方にはこれだけの違いがある。まあ少なくとも「万葉集」の歌に関しては、「この歌の解釈はこうでなければならない」と言えるぐらいの「こだわり」は、私の中にはない。要は「自分から遠い世界の話」だからなのだろうな。

ただ一点だけ引っかかっているのは、「水底の歌」を読み返して気づかされたことだが、私自身の「けっこう大げさな文体」も、今にして思えば昔わからないなりに背伸びして読んでいた梅原猛みたいな学者の文体から、いまだに「影響を受けている」のではないかということである。これは実に恥ずかしいことだし、面白くないことだ。気づかされたのを機会に改めてゆきたいと思う。改められれば。ではまたいずれ。